はてなキーワード: 安全基準とは
(5/31追記。下記の泉田とのやりとりは申請書の話で正しかったようだ。安全協定とは別であっても、両方で基準を守らないと路線継承とは言えないという批判は成り立つ)
少し頭の体操に付き合ってほしい。正直私も事態が呑み込めず困惑しているので、・下記の協定と申請書の関係を含め・うのみにしないでほしい。
本日、東京電力廣瀬社長が県庁を訪れ、放射性物質を放出する原子炉のベントについて地元自治体の了解なしに行えるということを米山知事が認めたという報道がNHK・朝日・日テレ・フジ等のローカルニュースでなされた。
…ように見えており、ツイッター等で混乱があるが、ベントに住民同意が不可欠という安全協定を修正したというのではなく、
国の原子力規制委員会申請書の合格を得るため、ベントについての記述を国に提出する申請書から削除したことに了承を得に来たというものである。
https://this.kiji.is/242114489435570181?c=39546741839462401
これについてhttp://www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/1033797391.html NHKニュースによれば
と知事は答えた。つまり規制委と東電の間の過程でいきなり新潟県に了承を持ち掛けられたので、「県からは口出しは出来ない」という表現になったということのようだ。
しかし、県内テレビではNHK・民放ともにフィルターベントの事前地元了承を巡る安全協定での泉田裕彦・前知事と廣瀬氏の激しい応酬が報じられており、この両文書の本質的違いは触れられていない。
放射性汚泥の県外処理についても特にBSN新潟放送が不公平な報道をすでに行っている。
元々うさん臭さや信頼の無さにおいて、米山と東電と新潟日報を始めとする新潟県域メディアに違いはない。従ってあっさりと再稼働を容認したことも県内報道からすると考えられるのだが、県としては意見をまだ定めていないだという情報もある。
NHKは「詳しくお伝えします」と毎度言ってきたが、こうした不信感全般が利用されていてもおかしくはない。
もちろん、法律・行政制度面で、このときの対応に瑕疵があり再稼働の突破口が開けてしまったのかもしれない。
県外メディアの報道精度で、この話の全容が解る。そういう異様な空間だということを改めて伝えておきたい。
もっとも、規制委の判断のみしか歯止めがないような地域を新潟県が見放した、という裏取りのためならば、これは申請書であってもあってはならない回答である。
放射性汚泥に関しても泉田は東電が引き取るべきという立場であり、要するに絶対的な被曝基準が心の内で存在していたのだが、米山は(岩手県・福島県民からの非難もあったせいか)安全と認める他県で処理してもらうという結論になったようだ。
この点で安全基準を具体的に考えず、政治力学に頼るという在り方に危うさがないのか。安全協定の修正がなかったとしてもここが難所だ。
私は虫が怖い。
当然触りたくないし写真も見たくない。
芋虫毛虫に関しちゃこうしてタイピングするだけでぞわぞわするし、文字を見ただけでも心拍数が上がる。
虫遭遇率が低いというだけで東京に住んでいるし、虫を幻覚で見たくないからという理由で酒も薬も全く興味が沸かない。
理由なんて無い。とにかく怖い。姿を見ると正気を失う。死骸すら片付けられない。葉が生い茂ってる木の下は走って通り過ぎる。
学生時代は理科の教科書が怖くて仕方がなかった。小学生の頃は理科の虫のページを持って何人もの男子に追いかけられた。
好きな漫画に虫が出たら読むのをやめるしか無かったし、ポケモンだってキャタピーがおぞましくてプレイがしんどかった。
虫遭遇率を下げてくれるコンクリートジャングルと農薬は最高だ。無農薬野菜なんて恐ろしくて触れない。
こんなんでも小さい頃は田舎に住んでいた。その頃から虫が駄目だった。そこかしこに虫が溢れる外は恐怖の空間でしか無かった。
かと言って田舎なので室内でも安心出来なかった。遭遇する度にぎゃーぎゃー泣いてうるさかったと親は言う。
とにかく筋金入りなのだ。
種類なんて勿論関係無い。私は虫に対して平等だ。ゴキブリも蝉もカブトムシも蝶々も蛍も全て等しく恐ろしい。
えー?蝶々も?!じゃねぇよ。どこからどう見たって虫だろうが。むしろ大丈夫な要素ねぇよ。
どっちかって言うとゴキブリNGでカブトムシOKな方が意味解んねぇよ。言う程造形違うか?
第一これも?あれも?って妥協点探してどうするの?どれも怖い。とにかく全部嫌って言ってるでしょ。日本語通じないの?
虫の方が怖がってるよなんて事もよく言われる。だから?という感想しか浮かばない。
あっちがこっちを恐れているからどうした?それで何が改善する?
とって食うわけじゃないんだからともよく言われる。だから怖がるなと。
ジェットコースターだって安全基準はクリアしてるのに怖いだろ。恐怖は理屈じゃないんだよ。
田舎に行けば慣れるよって言うけどなんで慣れなきゃいけないの?
田舎育ちだって言ってんの聞こえなかった事にしてんじゃねぇよ。耳鼻科紹介してやろうか?
嫌な物は嫌。それを避けて生きていくじゃダメなの?
別に改善したくて言ってるんじゃねぇよ。伝える必要があると思ったから伝えただけだよ。
そのうち気にならなくなるからキャンプ行こうよじゃねぇよ。てめぇとは二度と関わらないからな。
子供が出来たらどうするの?それ私に聞いていいの夫だけじゃない?お前に関係無くない?
なんで親族でも友達でもないただ仕事で繋がりがあるだけのお前にそんな事言われなきゃなんないの?
ついでに言うとどうもしねぇよ。勉強嫌いな奴でも子供作るし料理嫌いな奴だって子供作るだろ。
虫が嫌いだから子供諦める?子宮から抗議の生理痛が来てもおかしくないほどアホすぎる結論だろ。
私もダメなの!!って言ってくるそこのバカ女。お前が一番の敵だ。
お前みたいに自己アピールのために虫嫌い装う奴のせいでこっちまで迷惑してんだよ。
たいしてダメでもないのにギャーギャーギャーギャー騒ぎやがって。
腹から声出してんじゃねぇよ。余裕あり過ぎだろ。こちとら腰抜かしそうで声なんか出ねぇよ。
でも悲鳴あげなかったら意外と平気じゃんってお前は眼科が必要か?
とにかく虫嫌いは受け入れられない。驚くほど受け入れられない。
いくら主張しても信じられない。皆駄目だからと言われ、聞かなかった事にされる。
それならまだいい方で、何故か改善させようとお節介を焼かれる事も多い。
アレルギーを好き嫌いと勘違いし食べさせようとして来るお節介ババアのごとく出没する。
聞いてもいないのにあぁしたら治るこうしたら治ると主張してくる。
それを受け入れなければ出来てもいない子供を引き合いに出されて糾弾される。
虫はどこにでも出没する。
家の中でも外でも関係無い。出る時は出る。
東京には虫が居ないと言うが、蝶々もハエもカブトムシもゴキブリも居るし、なんなら蛍だって居る。
私はその陰に日々怯えている。道端を転がる枯葉を虫と見間違えて心臓が止まりそうになるなんて事は日常茶飯事だ。
そういう時私の体は全身の筋肉が硬直して、他の音が聞こえなくなるほど自分の鼓動が大きく聞こえるようになる。
当然呼吸も乱れる。元の状態に戻るのに3~5分はかかる。全身に力が入るせいかどっと疲れる。
勘違いしないで欲しいが私は虫に滅んでほしいとか皆殺しにしたいなどと言う気持ちは抱いていない。
私だって義務教育を受けているのだから彼等が生態系に必要な事は解っている。
どちらかというと滅ぶべきは私だ。
ただ、出来る事ならば生息スペースを完全に分断したい。勿論できない事は解っているから口には出さない。
もしもこれを読んでくれる人が居たならば、他人が怖いと言った事を安易に克服させようとしたりしないでほしい。
恐怖は理屈では解決できない。本人にも理解できない圧倒的な恐怖が体を支配するのだ。
世の中の恐怖症は高所や閉所だけではない。
最近のカーナビは高性能だ。音声対話ができるAI、ミキが積まれていて、どこに行きたいか、どんな場所を探したいか、訊いてみたらすぐに答えてくれる。GPSを使ったゲームにも連動してて、今いるところの近くにまだ行ったことのないポイントがあると教えてくれたりもする。ドライブレコーダーにも対応している。
僕はミキと会話をするのが好きで、休みの日はほとんどドライブをしている。
「はい、リストアップしました。オススメはオコーネルダイニングです。ここから約1キロ先にあります」
「ありがとう、じゃあそこへ案内してくれ」
そう言ってミキはカーナビの画面にルートを表示し、案内を始めてくれる。
ミキに勧められて行ったレストランは確かに美味しかった。口コミの評価で案内してくれたんだから、外れようがない。
そして車に戻ると、僕はまたミキに訊く。
「そのレアモンスの星いくつ?」
「6個です」
僕はこの適度に話ができて、余分なことは言わないミキが好きだ。
ミキとはずいぶんいろんなところに行った。県内で走っていない主要道路はないし、隣県のメジャーな観光地も制覇している。ただ、ミキと一緒に走り出してからもう10年近く経ち、メンテナンスのために寄るディーラーでは、そろそろ車の買い替えを勧められはじめた。
けれども、僕にはそれはいい気がしなかった。夜、パーキングで一休みしている時に、なんとはなしにミキに話しかけてみた。
「僕と君との付き合いはだいぶ長いね」
「君とはいろんなところに行ったよ。夏の湘南海岸とか覚えてる?」
「7年前に行ったところですね。太陽の光を浴びた海が綺麗でした」
「見えてたの?そうか、ドライブレコーダーの記録か」
「はい」
「草津温泉に行ったのは?」
「3年前の冬ですね。道路が凍っていて、だいぶ慎重に運転されていたことを覚えています」
「たくさんありますね。一番遠出した時で、300キロほどでしたか」
「あの時は楽しかった」
「はい」
「ところで、車の買い替えが近いんだ」
「それは妥当だと思います。寿命の過ぎた車に乗り続けるのは危険です」
「で、新しい車は安全のために新規格のカーナビを積むことが法で義務付けられてる」
「はい」
その言葉に、僕はついカッとなった。
「安全!?ミキは今でも十分安全だよ!それなのにジャンクになっていいの?!」
結局、ミキはただのAIなのだ。今までのドライブはみんな、僕の一人相撲だったわけだ。
それがわかって、僕はミキに興味をなくした。
新しい車の新しいAIは、常にネットワークのバックアップがあり、どの車に対してもネットワーク越しに同じAIが対応するらしい。それに、運転もほぼ自動でやってくれるそうだ。そうすることで、渋滞や事故などを未然に防ぐことができるようになるらしい。
きっと僕はこの新しい車が気に入らない。そんな予感がある。けれども、今のままミキと同じ車には乗っていられない。だから、車は買い替えることにした。
そうして納車の日。僕は10年選手の車に乗ると、ミキにディーラーへと案内するように言った。そして一言。「今日でお別れだ」
そう言っても、ミキの反応は返ってこなかった。
新車の納車と同時に車を下取りに出す。僕はミキに何も言わずに車を降りた。そうしてディーラーのメカニックが僕の車に乗り込み、奥のドックへとゆっくり車を進めていく。
でも、ミキを乗せた車がドックの陰に隠れる時、ブレーキランプが光った。1回、2回、3回、4回、5回。なんだか、普通のブレーキとは違う気がした。
「それは多分、愛してるのサインですよ」
「え?」
「そういうラブソングがあるんです。いーなー、私も恋したいなー」
ここ数日の都内の道は案の定どこもクソひどい状況だった。
なんの理由もなくクラクションを鳴らす人間なんて基地外くらいなものなの。
ってことはクラクション鳴らされて切れてる人間は、基地外に切れてる痛い人間か、鳴らされてる理由があるのに逆ギレしてる人間ってことに他ならない。
「右折信号の2~3秒が待てねぇのかよ」「車線変更に鳴らすなよ」「法定速度守ってるのに鳴らすなよ」
これ、運転が下手な人間の常套句ね。ついでに言うと、事故をおこす人間のほとんどがこういうこと言う人間。
右折信号で曲がらない車にクラクション鳴らすのは、何も自分が曲がりたいからじゃないの。
自分より後ろにいる曲がれないかもしれない人のために鳴らすのだよ。
曲がれる人にとってみれば2~3秒でも、その信号で曲がれなかった人には数分になるから。
それで無理な右折して事故でも起こされたらそんな夢見の悪い話ないからね。
かと言って一番後ろの車が鳴らしても誰に鳴らしたかわからんだろ。
だから2台目の車は、自分の役割だと知っているから鳴らすんだよ。
それに切れるとか何?バカなの?なんで教えてくれてありがとうって言えないの?どんだけ身勝手なの?
2~3秒待てねぇのかよとか、恥ずかしいセリフよく言えたもんだよな。
車線変更で鳴らされるのは、事故に繋がるような危険な車線変更だから。
運転には流れというものが会って、それを無理に止めようとすることは危険なことなの。
皆がプラス10キロで走ってるとしてその中に法定速度の車があったら、それはつまり時速10キロで走る車の中に止まってる車があるってこと。
流れてれば危険がないのに、そこに法定速度の車があることが危険の原因になってるんだよ。
自分で自分の安全を確かめず人が用意した安全基準鵜呑みにしすぎ。
国に基準基準って叫んでおいて、自分からは身を守ろうとしないの。
ドライバーが最も大切にしなくてはいけないことって何か知ってる?
この言葉の意味がわからないならすぐに運転をやめて免許を返した方がいい。
交通インフラやタクシーつかったほうが結果的に割安になる。遅かれ早かれ事故を起こすのはこれを理解できていない人間だから。
「事故を起こさないための安全に対する配慮」は、もちろん大切なことだけど一番に大切なことではない。
なぜなら、事故の原因の大半は、流れを無視した(もしくは全く読めない)人間による自分勝手な行動だからだ。
もっとわかりやすく言うと、事故を起こさないように慎重な運転をすることが、事故の原因になってるっていうことだよ!
さっきも言った通り、流れができている中で流れに反する行動をとることは=リスクなの。
慎重になりすぎて交差点で何度も踏むブレーキ、予測できないようなタイミングでする車線変更、流れができあがってる中で頑なに守ろうとする法定速度。
あなたがどう考えていようが、これは危険な行為であるし、身勝手な行為でしかない。
事実、事故の大半は周囲の流れを無視した行動によるものなのだから。
そこには正義も悪もなく、ただ単純に”流れに沿わなかった”という事実しかないんだよ。
これを見てふざけるなって思う人は、本当に車の運転をやめたほうがいい。
「自分の権利だ!」って行使することは、それこそが自己中心的な考えに他ならないからだ。
こんな書き方をされても一理あると耳を傾けるくらいの気持ちでないと、ハンドルを握るには危険が多すぎる。
なぜなら、免許とは運転が許されるライセンスではなく、取得すれば責任の全てを負わされる契約書のようなものだからだ。
運転の習熟度関係なく、初心者も熟練ドライバーも、誰もが平等に裁かれるのが免許というシステムなの。
安全な運転方法をやさしく教えてくれる人間なんて皆無な世界の中で、たとえ鳴らされたクラクション一つからも、次に安全な行動を取れるように学ぶ姿勢がなければ、その人間は遅かれ早かれ加害者であり被害者になってしまう。
皆が理解している通り、車というシステムは多くの歪んだ矛盾の上に成り立っているからね。
こればかりはいくら国に制度を求めても解決しない問題であり、その社会の中で身を守るには、自分が思う安全を押し付けるのではなくて今目の前の流れの中で一番に安全な行動を選択することが何よりも大切なんだよ。
事故で人の命を奪ってしまうということは、加害者になると同時に被害者になるということでもある。
誰よりも安全に配慮していることだけをプライドのようにハンドルを握っていたわたしの父ようには、誰ひとりとして絶対になって欲しくない。