はてなキーワード: 反証可能性とは
学問というのは「自らを批判し、更新し続けることで半永久的に衰退しない権威を維持するもの」だからね。
学問は必然的に権威になるものだし、また権威でなくてはならない。そうでなければ学問は学問としての価値(すなわち批判する価値)を失う。
まあ、フェミニズムというものの(大衆から見た)権威が最近落ちぶれつつあるんじゃないの?とは思う。「自らを批判し、更新し続けること」の部分がなかなか見えてこないからね。
心理学とかも(氾濫するトンデモ本のせいで)大衆から見るとアレなんだけど、大学で授業を受けるとまず「科学とは何か?」「反証可能性とは?」とか基本的なことからじっくりやるみたいだね。それはやっぱり権威を権威たらしめるために必要な儀式なんだろうと思う。フェミニズムも授業受けると印象違うのかな。
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初めに。
この記事はアリアナグランデさんがほんのちょっとだけの馬鹿の書き込みのせいで日本を嫌いになってしまった騒動をみて、書いたものです。
はっきり言おう。日本人論にはエビデンス、つまり証拠や証明がなされているものは皆無であると。
日本人論には「日本人スゴイ」のようなポジティブなものも、「日本人ダメ」のようなネガティブなものもあるが、どれも証拠が出されたことはない。
あるとするなら、日本人論を書く人の身近な経験、ネットの書き込み(※参照)ぐらい。反証可能性はまったくない。
※ネット炎上の研究という本にもあるが、炎上に関わっている人は千人に一人だという。ツイッターで実際書き込んでいる人は全体の四分の1、四千万もある日本語のアカウントのうち一千万しか書き込んでいなく、それの千分の一、つまりたった一万のアカウント、それも統計学的に抽出したのではなく恣意的に出して『日本人は陰湿だ』というのがいかに滑稽かわかるだろう。もちろんたった一人の行動でもって「日本人スゴイ」というのも滑稽極まりないものだ。
話を戻すと、日本人論はまったく証拠がない。だからどの本も読むに値しない。
じゃあどうすればいいのかと言うと、「ありのままの自分を愛せ」としか言いようがない。
日本人論を展開したり信じている人にある傾向に「ありのままの自分を愛していない」ということが挙げられる。
そういうと「お前も証拠のない言説を説いているじゃないか」と思うだろう。
だけど、これは極めて強い傾向だ。「日本人スゴイ」は論じなくてもわかるだろう。
「日本人ダメ」は実は裏テーマに「日本人ダメと説いている自分すごい」がある。
もし純粋に「日本人ダメ」と説いているなら、「じゃあ、どうすれば克服できるか?解決できるか?」ということが書かれているだろう。(超入門 失敗の本質・空気の研究 は見事に筆者が考えた解決策を紹介し、読者に希望を与えている)
しかし、大半の「日本人ダメ」本にはそういうことは書いていない。嘆いておしまい、なのだ。
そうするとなぜこんな本を書くのかという疑問が現れる。
そして僕は考えて一つの答えにたどり着いた。
「日本人ダメ」を書いている人は、その『日本人』に自分が含まれていなくて、「日本人ダメだと気付いて指摘している自分カッコいい」と優越感に浸っているからだ、と。
気づいた瞬間、スッキリするとともにこう感じた。あぁ、あの人たちは自分を愛していないんだな、と。
自分を愛し、信じていないから、日本人すごいに走ったり、少しの知識を使って日本人ダメを論じることで優越感に浸っているんだなと。
今この記事を見ている人(特に日本人云々と言っている人)に言いたい。
そうじゃなくて、自分の幸せを見つけた方がきっと気持ちにも余裕ができて、より客観的に日本人を見ることができますよという意見を述べこの匿名記事を終えたいと思う。
なお、アリアナグランデさんには、是非ともいろんなことを書き込んだバカどもを告訴してほしいと思う。きっとほんの数人しかいないのだから。
例えば、声優にセクハラでしかないリプライを送るのをやめましょう。
自分ではやっていなくても、そういうリプライを見て面白がるのをやめましょう。
そういう人たちがすべてではない、むしろそういう人たちは少ないと信じている。
あまりにも当然だからこそ、改めて批判をする人がいないのかもしれない。
でも、ちゃんと批判をしないで、そういう行為を許容していると思われるのであればそれは困る。
最近のフェミニスト(を自称する人たち)の萌え絵批判は、多くの感情論を含んでいて、反証可能性が担保できないような、議論とは呼べない内容も多い。
彼が本当に「議論を避けて、罵倒だけをしていた」ならそれもありうるかもしれないけど
現実には彼は「罵倒メインだけど、たまに思いつきで議論らしきものをふっかけて、知識不足で逆にボコボコにされる」ことを繰り返してたんよ
だから長く付き合ってきた人ほど、彼の学歴と実際に見た議論レベルとの乖離に戸惑っている
たとえば彼は「論理学には詳しい」と自称しておきながら、命題と述語の区別がついておらず
「"Aする"の否定は"Aしない"ではないぞ低能w」という恥ずかしいミスをしても最後まで間違いを認めないほどだった
また彼は偽科学批判をやっつけたいという動機から「科学とは何か(科学哲学)」の議論を始めたこともあったが、
どんな入門書にも必ず書いてある「反証可能性」という概念をどう扱うかまったく考えていなかった。そもそも知らなかったように見えた
(これは古典的な概念なので、賛成しても批判してもそれぞれに理論は組み立てられる。科学の権威を崩したいならこのテーマをスルーすることはありえない)
「ネトウヨが登場し始めた頃、連中の垂れ流すデマやヘイトスピーチを『あいつらなど放っておけばいい』『荒らしはスルー』と放置した結果、ここまでレイシズムが横行する事態を招いてしまった」…。
こういう言説を、至る所でよく見るようになった。
自分も始めのうちはそういうものかと思っていたが、最近はどうも「そういう言説自体がフェイクなんじゃね?」という気がして仕方がない。
端的に言えば、「後付け結果論」「今の基準や感覚で当時を裁いている」という感じがしてしまうし、表立ってこれに対して「そんなことはない」と反論する声が見られないのも、何か異様だ。
かつて自分の知人に、反戦市民運動系のサイトを運営している人がいた。
当時はイラク戦争の頃だったが、彼のサイトにもよくネトウヨが掲示板を荒らしにきていたようで、彼は「まーたウヨクが荒らしに来ているよ、困ったもんだ」とぼやきながら、かなりきつい調子で1つ1つ反論していた。
また、自分が当時よく読んでいた多くのリベラル・左派系ブログでも、コメント欄を荒らしに来るネトウヨに対して、放置などせず丁寧に逐一反論している管理人が多かった。
(中には放置しているブログもあったが、あくまでも管理人の方針が「賛同的なものも含めてコメントには一切反応しない」というものだったためだと思う)
卑近な例だが、こうしたことを思い出すと、少なくともこの人たちはネトウヨに対して「荒らしはスルー」などせず、きっちり対峙・反論していたわけで、そういう行為を「なかったこと」にしてしまうのは、やはり乱暴な議論なんじゃないか。
そう思うと、「ネトウヨのデマを放置した結果、レイシズムの横行を招いてしまった」と主張している人々は、どうにも主語が曖昧だし、自分からすれば、「で、あなたはその時どうしていたのですか?」と言いたくなる。
先日もあるジャーナリストが、「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置したから」と主張しているのを見かけた。
「ネトウヨがここまで広まったのは、左派リベラルが彼らを放置したから」
という仮説がもし成り立つとすれば、逆に、
「左派リベラルがネトウヨを放置せず適切に対処した結果、ネトウヨの抑え込みに成功した」
というケースがあってもいいはずだが、そんな国はどれほどあるのだろう、と自分は思う。
世界を見渡すと、日本より左派リベラルに力があるとされる国々ですら、デマやヘイトスピーチを平然と言ってのける指導者や政党が勝利したり、日本ほどひどくはないかも知れないがヘイトスピーチやヘイトデモ、ヘイトクライムが横行したり、強弱の差はあれ「抑え込んでいる」とは言いがたい国が多い。
こういう状況を見て、「ネトウヨのヘイトスピーチを放置せず適切に対処していれば、ここまで横行することはなかったろう」と結論づけてしまうのは、どれほど正しいことなのだろうか。
かなり前、「戦争を起こした奴よりも、戦争を止めようとして止められなかった奴の方が、皆に責められ裁かれる時代が来るのかねぇ」と書いたことがあるが、「ネトウヨを放置したせいで…」という言説がここまで広まっている現状を見ると、もうそうなる下地はできているんだな、と思う。
戦争が起こるのは、戦争を止めようとした者が弱すぎて止められないせいなのか?
戦争を起こした者よりも、戦争を止めようとしたが弱すぎて止められなかった者の方が、より厳しく責められなくてはならないのか?
「戦争」を「ヘイトスピーチ」「差別」に置き換えると、完全に同じ問題になる。
そう考えると、「ネトウヨのデマを放置したせいでここまでレイシズムが広まってしまった(?)」ことよりも、「『ネトウヨのデマを放置したせいでここまでレイシズムが広まった』という言説が、多くの反レイシストの間に広まってしまった」という現実の方が、危ないというか後々響くんじゃないか、と思う。
(2020.1.14 加筆修正した)
ホッテントリにあったhttp://mubou.seesaa.net/s/article/453600893.htmlを読んだ感想です。
正直に言って、私にはこの著者及びブコメの皆さんは、科学万能主義に侵されているように感じました。
反証可能性の下りはまあいいんですが、気持ち悪いのはこの部分です。
一人、あるいは仲間内だけで勝手に「正しい」と言っていることよりも、皆で「正しいかな?正しいかな?」と議論され続けられているものの方が信頼できる。多分当たり前のことですよね?
その辺のことが分かっている人であれば、間違っても「科学は万能である」とか「科学は絶対である」なんてことは言えない筈なんです。逆に、「万能も絶対も存在しないから、その時点でなるべく妥当だといえることを「正しい」と考えようね」というのが科学、という風に言ってもいいかも知れません。まあこれも随分ざっくりした話なんですが。
残念ながら、科学というのは「何かが正しい」と結論付けるものではないし、ましてや判断基準に「仲間内での正しさ」のような曖昧模糊とした概念が入る余地はありません。
科学的な手続きというのは、全て統計に基づいたものであるべきです。すなわち、ある命題Aが真である確率を統計的に与えるのが科学です。実際には、95%信頼区間や、nσで議論されることも多いですが。(もちろん数学や論理学は違いますけど、観測に基づく科学、という意味です。)
おそらく、普通の人が「科学的事実」といって想像するのは、原子や分子があることだったり、あるいはバファリンを飲むと頭痛に効くことだったりするかもしれません。それらのstatementが極めて真であるように思われるのは、様々な測定により、統計的に非常に高い確率(おそらく、少なくとも前者に関しては99.999…9%と、9が10の1000乗個以上続くような確率よりも下手したら大きいと思います)が保証されているからです。
しかし、新しい学説に関してはこのような確率は保障されません。例えば太陽系外惑星が存在するかとかタミフルを飲んで異常行動するか、というようなstatementに対する真偽の確率は、もっとずっと低くなります。
で、だからこそニセ科学がはびこるわけです。彼らの正しくなさは、科学的にはそんなに高いわけではないのです。(99%以上の精度を持ったことを人体に対して言うには、誤差のコントロールがかなり大変だと思います。門外漢なので詳しくないですが…)まともな科学者は、ニセ科学を間違っているとは断言できないわけです。
(まあ正直いえば、ニセ科学とはされていませんが、「納豆が体にいい!」みたいなのもわりかし同じようなレベルの話だとは思います。)
ということで、私の感想をまとめると、
・そもそも、「科学的に正しい」という概念はない。それは科学万能主義です。
・観測事実に対し、何かが絶対に正しいと断言できるのはニセ科学者だけ。
です。
(この手の、「科学の解釈」みたいな記事を見るにつけ、◯◯界隈で、『絶対に✕✕である』と断言している先生方の影響で、間違った科学観が広まっているのを危惧しています。)
しかし側室制度がないのは男系男子を残すのに圧倒的に不利だよな。
天皇制は皇位を男系男子によるものとし、どうせ女性差別をしているのだから、
この際、側室制度を復活させるべきだと思ういやまじで。さもなくば、女系天皇を認めるべきでしょう。
男系男子の皇統維持は、「世俗の理解(欧米の価値観と言っても同じこと)」を根拠に、側室制度をなくした時点で詰んでいるんですよ。
「側室制度をなくしたことが原因で、男系男子の皇統維持が難しくなった」
であれば、
もしくは、
「世俗の理解を根拠としたことが間違っていたので、側室制度を復活させる」
どちらかに、一つでしょう。 - q.e.d.
竹田某の家系から天皇を輩出する可能性を除外し、かつ、天皇制の下で皇位の安定性を「保証」せよとまで言うのなら、
上記のような解答になる。
えーと、私が元増田です。他の人も書いてるけど反証可能性と実証可能性を取り違えていると思いますね。
まず相対論の反証可能性については2つの意味があります。まず数理モデルとして破たんしていないかどうかという問題。これについては反証可能性があります。これに関して反証可能性の低い理論は確実に相手にされないでしょうね。
そして実験によって実証できるかどうかという問題。仮に相対論が未来永劫、実証できないものだったとしたら相対論が物理学として認められるかどうかは極めて怪しいでしょう。理論を発表した時点で実証可能かどうかと実証を志向することは別問題です。
現状、実証可能性が難しい理論を提唱することは物理学者にとってリスクの高いことだし、それこそ普通の物理学者はできるだけ回避しようと思うのは当然だと思いますが。
コペンハーゲン解釈が哲学的な問いを回避しているということについては確かに賛否あるとは思うが(それこそ解釈の問題が介入する)、明確に間違っていると論じられるものではないのは明らかで、むしろなんで明確に間違っていると断じることができるのか問いたい。ちなみにここで哲学的といっているのは科学的実在論の話です。
あと、アインシュタインは「普通の」物理学者ではないという文脈で話しているのに、普通の物理学者が考えないのにアインシュタインがそう考えるのはおかしいといわれても困ります。