はてなキーワード: うまいとは
NTRはよく見るけど、逆ってなんか珍しいなと思って 販売ページに行って試し読みをしたんだけど、そしたらめっちゃ脳がぶっ壊れた
逆NTRモノとしては多分ソフトなもので、彼女自身が逆NTRに興味があって経験豊富な女の子にお願いしたらうますぎて彼氏がめちゃくちゃ快楽堕ちするみたいなやつ
既に脳に80%のダメージを追ってしまったので買ってはいなくてラストまでは見てないけどレビューみた感じ多分彼女を裏切ったりはしていないと思う多分
いやこんなのの逆パターンがずいぶん前から流行ってるってマジ?
もう心臓つぶれそうだったわ彼氏くんがちゃんと彼女のこと好きなのがマジで辛すぎるでもえっちがうまい女の子に快楽まぜまぜにさせられながら連絡先交換申請されたら受けちゃうんだああああ…
めっちゃエロかったけどこんなのめっちゃ気合入れないと読めないでしょ世のNTRモノ好きな男たちはなんというか、定期的な発散のためにこんな心臓とか脳にダメージを与えるマスターベーションをしているの?
エロいのはわかるわかるけど別にマゾならもうちょっと他にあるじゃんなんか女王様にペットにされるやつのほうが心安らかにできるでしょ
彼氏(彼女)がちゃんと好き同士っていうのがガチでつらい ここで嫌がる振りして内心ノリノリの浮気とか即落ちだったらふーんあっそで終わってた
やめてくれ彼氏の人落ちないでくれでもこんなに明らかに彼女との行為とで全然違うもんどうしたらいいんだよ脳が破壊されるってこういうこと?
増田がめいろまの優生思想を肯定しているわけではないのはわかるが、
日本の選手が強くなったり、最近の子達が美形でダンスや勉強もうまいというの、あれ日本で80年代以後は見合いが激減したのが原因かもな。能力がない、金がない、不細工は結婚できなくなって、優秀な人間だけが自然選別で結婚して子供を産むようになった。多分これ結構あたってると思うんだよ
ある快挙を無理やり優生学的な原因で説明しようとするのはモロに優生思想でしょ。例えば日本のスポーツ選手が強くなり、オリンピックで優れた成績を残せるようになったのにお見合いの激減など効いているはずもない。はてな民からしたらめいろまなんか真に受けるなよといいそうだが、最近こういうなんでもお手軽に優生学的な理由を求めようとする人間が増えている気がするので真面目に反論しておく。
これはズバリ森喜朗のおかげ…もといtotoのおかげである。森喜朗もJリーグも好きではないが、今日の国際大会での日本勢の活躍の一因は間違いなくこのスポーツ予算にある。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14462004.html
totoの売上からは"毎年"200億くらいの予算がスポーツ振興に安定的に投下されるようになっている。メジャースポーツからしたら大した額に見えないかもしれないが、これにより従来個人の趣味の域を出ずスポンサーもつかなかったマイナースポーツへも強化予算が割り振られるようになった。パリオリンピックでの躍進目覚ましいフェンシングの分析をしたものが以下のツイートである。
Sato Josuke (Jose Sato)
@soccer_kozou013
いつの頃からかは不明なのですが、味の素トレーニングセンターに作られた広い練習場で定期的に候補選手の強化合宿が開かれていたり、学生の選手で将来有望だとみなされた選手のトレセンが頻繁に行われています。太田雄貴さんの活躍によりそれにさらに拍車がかかった印象です。
一昔前なら、フェンシングのようなマイナースポーツ(失敬)の国立トレーニングセンターなど想像もできなかっただろう。ちなみにスケボーも2017年からJOCに加盟しているのでそれなりの予算が出されていると思う(たぶん)。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/images/3980a.gif
こんな感じになっており、言うまでもなく90年代からの増加は女性選手のおかげであることは明らか。日本の男女平等は完全には程遠いが、宗教や経済的理由により女性がまともにスポーツをできない国はまだまだ多く、それらの国々に比べればまだマシであるおかげと言える。
80年代からお見合いが減ったといえ、今のスポーツ選手はその世代の子供にあたり、たかだか1世代しか経過していない。そのような少ない世代での効果などたかがしれている。さらにお見合いがなくなった80年代の価値観で言えば、男性の魅力は経済力という時代なのでスポーツ能力とは全く関係がない。スポーツができてモテるのはせいぜい中学生までくらいのものだろう。
品種改良をしようとするのなら優れた形質を持つもの同士を交配し、さらにその子孫もその形質で選抜しつつ交配を繰り返さなければならない。たかだか1世代経済力で選抜したところでスポーツ能力など上がりようもないのだ。(「最近の東大生は選抜されているから美男美女が増えた」というのも同レベルの寝言だろう)
人の意見に毀誉褒貶があるのは当然なので、反論したいわけではないですが、誤解は解いておきたいので追記します。
これはその通りで私の言葉足らずでした。ああいうのは優生思想そのものではなく、優生信仰とか優生信者とか優生陰謀論とかそういうのが正しいですね。
これもそのとおりです。増田は別に遺伝要素や環境が引き継がれる要素まで否定するつもりはないです。優生学にも科学的な要素はあると思っています。ただそんなにね、1,2世代ゆるふわな身体能力と関連性の薄いセレクションしたくらいで身体能力上がるわけ無いだろ!安直に優生思想で説明するな!遺伝学なめるな!と言いたかっただけです。
理論的には、特定集団を隔離して交配と選択を繰り返せば一定の形質をもった新たな品種を生み出せる、というのは育種学的に見れば当然の話だし、あるいは大集団でゆるい選択を長いあいだ続けることによって平均値を緩やかに変えていく、みたいな可能性はあり得ます。例えば木村資生博士はこの後者の可能性を提案しています。
という問題があって、具体的には2番めの点については木村先生はほぼ自明に賢いものを優遇しようと提案されていますが、目下の少子化で消滅がほぼ確定しつつある日本を見ると賢い人間よりマイルドヤンキーみたいな方が優れた形質なのでは無いかという気もします。家畜の場合「肉が多い方が良い」「産卵個数が多い」など具体的に目標を決めることができますが、人間の場合望ましい形質というのはそんなに簡単には決められないでしょう。(ただ木村先生の活躍された時代は少子化ではなく人口爆発が懸念されていた時代である、ということは背景にあります)
3点目もこれに関連していて、例えば「外見が優れている」価値観の中身などはすぐに変わり得るということです。平安美人は今の美人とかけ離れている…などと持ち出さなくても、イケメンの定義でも昭和と令和では全然違うという現実があります。石原裕次郎や高倉健は今の時代では顔の濃いおっさんフェイスだし、今風の顎が細く中性的なK-POPアイドル的容貌は昭和の時代では気持ち悪いカマホモ野郎扱いでしょう。高々30年(=1.5世代)程度あれば人の価値観はあっさり変わってしまうものなのです。
結局の所「優生学」にも科学的な部分はあるがその部分は「育種学」と呼ばれるものであり、このあたりの関係は「脳科学」と「脳神経学」みたいなものではないかと思っています。
今日毛色のいい客ばっかりくる高級住宅街と商業地区の間にあるショッピング施設のトイレに入ったら、便座の後部に前の人がウォシュレットを使ったであろう水しぶきが多量に残っていた
うわって思ったんだけど、もう鍵かけたあとだったしちょっと混んでたし、放置して出たら扉の外で待っててすぐ次入る人に自分がこれやったと思われるのが嫌で、仕方なく備え付けの便座クリーナーとトイレットペーパーを厚く巻いたので飛沫に触れないよう何回も掃除して流して、さらに便座を拭いてから服も便座につかないように処理してから中腰で用たして自分の用のあとの掃除も同様にしてからアルコールシートで手拭いて個室を出、トイレの手洗いで念入りに手を洗ってよく拭いてさらにアルコール消毒してからトイレを後にした
ちょっと潔癖の気があるし悲観的だし、こういうのが嫌だからなるべく外でトイレに入らないようにしてるのにたまに入ったらこれ最悪
お祝いの食事のあとに嫌な目に遭った
そのあとも家に帰るまでに何回か手を洗って、帰ってからもすぐ肘まで洗って、夕食を作る前にもいつもどおり執拗に洗ってから調理したんだけどなんか不安
女子トイレで後部に水しぶきがかかるウォシュレットを使うということは確実に大の方をしているわけでさ…なんかウィルスか菌がしつこく手に残ってたら嫌だなって思っちゃった、しかも疲れてたからそのこと忘れてさらに今日に限って指輪したまま家族が食べる生野菜料理作ってしまった……都度指輪の外側内側まで念入りに洗ってからやってるから多分大丈夫だと思うんだけど、後悔と不安が止まらん
ていうか女でこれやるかよ?みたいな気持ちなんだけど、これもらしさの押しつけにはいるかな?
ここいらに住んでる品が良くておしゃれで清潔そうなお客さんたち、あの中の誰かがこの気にしなさでこの仕打ちか……みたいな気分にもなるし
夏休み中で子供も多かったし、有名な神社と動物園の最寄り駅直結の施設だからいまは外外国人観光客も多くてもしかしたら子供さんかトイレの衛生観念の違う国の人かもしれないけど、よりによってお祝いの日にこれに当たる自分の残念さ
それまでは今日いい日だなと思ってたのに
ごはん終わったあとになって後悔
以前流水りんこという人の漫画で、外トイレのノズルがおぞましいことになってた体験談を読んで以来(それ以前も使ってなかったけど)外のウォシュレット絶対使うまいとかたく誓って使ったことはない
という不安とお願いの吐き出しどした
札幌で、徒歩圏に駅と日々の買い物をできる場所があるなら、自家用車が無くても生活は可能だとは思う。
ただ、3点、補足したい気がした。
「ある方が便利」なのは当たり前だけど、その差は東京・大阪等よりも大きい。
良い町医者、うまい食べ物屋、会社帰りや週末に行きたくなるような場所などが、鉄道ではアクセスできない場所に普通にある。
あと、道外から友人が来たら乗せたいこともあるだろうし、地元の友人と遊ぶときは普通に車で移動する前提になる。
冬、積雪なり凍結なりした路面は歩きづらく、自転車もお勧めはできない。
そうでない土地なら歩いていく距離でも、北海道では車に乗りたくなる。
小学校でも授業をしている程度の雪なのに、西日本出身の自分の上司が「今日は休み」と判断したことが何度かあった。
移動の感覚が周りの人とずれていると、公私ともに支障が生じる可能性はあると思う。
なお、関係あるか無いか分からないけど、以上は道外から20代で移住した元ペーパードライバーの意見。
また、蛇足かもしれないけど、自分は北海道から道外に引っ越したとき、引っ越す時点で車を処分したことを後悔した。
「引っ越して、しばらく使ってから、処分するべきだった」という後悔。
元増田も、引っ越してしばらくは(現状で自家用車があっても無くても)今のままで暮らしてみても良いのでは。
■追記
この文章は、元増田の内容から判断して、北海道に住んだ経験の無い人が札幌駅の徒歩圏に住む、ということを前提に書いている。