はてなキーワード: 中絶とは
これとか元増田についてるブコメとかさあ、「お前しらばっくれるんじゃねえよ」って話なんだけどさあ。
んなこと言ったら、ガイジが将来描いた絵がなんたらアートとかいって、ヨーロッパあたりの金持ちがこぞって買い求めるようになる可能性だって、全くのゼロではないはずですよね?
(まあ、アートは普通の人でも生きてる間は鳴かず飛ばずだったのが死んだ後から評価されたり、そうかと思えば最近じゃ差別がどうとか言われていきなりぶっ壊されたりするような、そういう世界ですが)
本当にそれがあり得ないかどうかは、それこそガイジを一人残らずきちんと育ててみなきゃわからないし、現実にはそうしないので、我々はガイジの可能性について正確な観測ができません。
わからないはずなのに、中絶はフツーにやっちゃうの、あれいったいどうしてなんでしょうねぇ?
中絶に関して言えば、私は別に宗教右派とかじゃないんで、禁止とかそういうことを主張したいわけではないです。
原因が障害でも貧困でも、単に「子育てが嫌だから」とかでも、やりたきゃどんどんやればよろしい。
「万能なものさし」なんかないはずなのに、我々はあたかもそれがあるかのように行動している。残念ながらこれが現実です。
「何が優れているかなんてわからないじゃないか!」と言いながらも、今の価値観に合わせてきちんと値踏みはしているし、今あるものが簡単に変わるとも思ってない。
そこをいちいち疑ってかかっていたら、この殺伐とした現代でまともに生きられないからです。
だいたい、将来何がトップメタになるかなんて全然わからなくても、中絶なんかは理屈をつけて肯定してしまう。
気に入らない奴を偉そうに批判する時だけ、いろんな理屈がまあポンポン飛び出すんですけど、結局あなた方はその理屈を頭ん中じゃ全然信じてないんです。
理屈なんかどうでもよくて、単に「誰がやるか」という、主体の問題でしかない。
要するに、お前らは優生思想を否定どころか思い切り内面化していて、たぶんある程度自覚もしている。
だから自分やお友達が何かやる時だけは正当化したいし、その結果何が起きても知ったこっちゃない。
障害者が断種されたり、殺されたりした時には大げさに騒ぐけど、子孫を残せないこと自体はどうでもいいと思っちゃってるし、そもそも中絶されて生きられないことにだって何の疑問も持ちゃしない。
優生思想を振り回すのはナチスや日本みたいな悪い国家と、どっかの犯罪者みたいな奴だけで、私たちは何も悪くないもん!
もう、本当に、これだけなんです。
生まれる前に中絶できればよかったものを、生まれた後から殺しちゃったらいけませんよね。それって優生思想ですよねえええええ!!
空しいとか思わねえんだろうか。
これね、ホームレスなんかと一緒なんですよ。
「劣った」形質はその辺のホームレスみたいに思ってて、直接ドラスティックに手を下そうとする奴がいたらポリコレ点稼ぎで声高に非難するけど、当事者を救おうとも思わなければ関わろうとも思わない。
別にその形質や多様性を有り難がってるわけでもないし、なんかあった時にそいつらがなろう系小説ばりに大逆転かましてハーレムじゃあなんて、せいぜいエロ同人の世界の話としか考えていない。
口先だけでタテマエ並べても、現実にそれが起こるなんて全然想定してないんです。
単に「私の知らないところでひっそりくたばってください(淘汰されてください)」というだけ。
たまにホームレスが殺される事件が起きると、障害者の時と同じように大騒ぎする人たちがいますよね。
いかにも殺した奴に対して「俺はこんなに怒ってるんだぞ!」と叫ぶがごとく猛アピールし、「命の価値は平等だ!」などと普段言ってもないようなことをここぞとばかりに宣い、ついでに社会にも好き放題モノ申してますが、あれも大嘘。
彼らがムカついているのは、自分のそういう願望を邪魔されたからです。
「忘れていたかったものを思い出させた」「見ないでいたかったものをわざわざ見せやがった」ことに対して、あんな怒ってるだけなんです。
だから殺した奴はもちろん憎いけど、それを伝えるマスコミも憎いし、もちろん殺されたホームレスだってみんな憎い。
ただのエンガチョ!
悪いのは大したこと言ってない安原健太をアホみたいに持ち上げたはてなのバカフェミなのだが
そのせいで、非モテが多いはてなの中では安原健太というのは憎悪の対象となってしまった。
はてなのバカフェミは叩く方でも駄目だが持ち上げる方でもろくでもないものを担ぎ上げて迷惑をかける。
安原健太はそこまで褒められるべき人間でもないし責められるべき人間でもない。
はてなは狂っている。
そもそもはてなブックマークには安原健太みたいな男はたくさんいる。たとえばこれ。
https://b.hatena.ne.jp/turnriv01/
turnriv01 2021/03/14
turnriv01 2021/03/14
中絶でも足りなくて、障害や発達に問題があれば出産後も自由に母親の意思だけで子供を手放せるようにすべきだと思う。女の人生は家族のためにあるんじゃない。
turnriv01 2021/02/25
誰が子供産んだと思ってるんだ。母親の姓に決まっている。家庭における子供と財産は女性の所有物 / 男は金と労力だけ持ってくればいい。出せないなら追い出して政府がヘルパーやシッター、経済支援を。
口調だけ優しくしたら安原健太になる。
選択的夫婦別姓の導入が進まないのは、これがイデオロギー闘争になってしまっているからである。
選択的夫婦別姓は、伝統的なイエや専業主婦家庭が減少し、同時に夫婦で共通の姓を持つことの合理性が減少し、他方で不合理性が増えたことが最も大きな理由である。妻が文字通りの「家内」で、家族を代表して家の固定電話に出る時代には、同姓は確かに合理的だったが、こうした風景はもはや既に過去のものになりつつある。選択的夫婦別姓に否定的な女性の国会議員たちも、当たり前のように戸籍と仕事で名前を使い分けている。夫婦同姓の強制が、現実の社会生活にとっては不便で不合理なものでしかないことは、保守派にとっても自明なのである。
それにも関わらず、保守派が選択的夫婦別姓に強行に反対するのは、これが純粋にイデオロギー的な問題であることを意味している。保守派が家族のありかたにこだわるのは当然として、離婚、中絶、育児、介護、性別分業など、様々なより重要と思われる論点がある中で、日本では強制的夫婦同姓を守ることが保守派の生命線になってしまっている。つまり、保守派がなぜ夫婦同姓に異常なまでに固執するのかと言えば、敵対する左派・リベラル派が従来の家族モデルを批判する文脈で別姓を推進しようとしている(ように見える)から、というのが根本的な理由である。
夫婦別姓問題をイデオロギー闘争にしてしまったのは、リベラル派にも少なからず責任がある。世論とくに若い世代は夫婦別姓の容認に傾いているが、それは人の生き方や価値観への押し付けや介入を嫌がるようになっていることが大きい。なので、伝統的な家族規範に対する批判の声をあまり強めてしまうと、それも若い世代には「特定の価値観の押し付け」に映ってしまうことになる。夫婦別姓推進派には、「頭の古い政治家は退場しろ」という声が多いが、選択的夫婦別姓に賛成する若い世代の多くは、そういう攻撃的な物言いを生理的に嫌っている。なので、野党やリベラル知識人への積極的な支持は大して広がらない。
選択的夫婦別姓の賛成派は数こそ多いが、伝統的家族観を積極的に解体したいという左派・リベラル派の思いとは逆に、大部分は「価値観の押し付けを嫌う」「強制的同姓は日本だけ」というきわめて消極的なものなので、組織されておらず政治的には強くはない。対して反対派は、これが保守の生命線であるとして、死に物狂いの姿勢を見せている。日本会議のような強固なイデオロギー組織が草の根の運動を展開している。
菅政権も選択的夫婦別姓に消極的になっている。民主党政権に象徴されるように、政権内の「内輪揉め」は支持率を激減させる。自民党内の選択的夫婦別姓への反対勢力は、政治生命を失ってでも反対するというほどカルト化してしまっている。だから無理に進めれば、このカルト化した反対勢力が騒ぎ出すことになり、「菅首相はリーダーシップがない」という印象を与えてしまうことは確実である。とくに支持率が低迷している現在は、もう絶対に手が出せなくなってしまったと言っていいだろう。
選択的夫婦別姓導入は、立憲民主党中心の政権が成立でもしなければ絶望的に不可能である。つまりほぼ絶望と言っていい。
(追記)
福島瑞穂は、夫婦別姓問題をイデオロギー化してしまった元凶だと思っているので、いつまでもこの人を先頭に立たせてはいけないと思う。夫婦別姓を望む当事者も、必ずしもフェミニストではないのはもちろん、伝統的家族規範が好きとか嫌いとか、そんなことを問題にしているわけではない。多くは、通名と戸籍でバラバラな現状を変えてすっきりさせて欲しいというだけであり、あるいは、生まれた姓にこだわりや愛着があるとか、両親の姓を失いたくないといった、より保守的な理由による賛成派も多い。
夫婦別姓のような、それで特に何かがよくなるわけでもないイデオロギーの問題より、シングルマザーや中高年独身女性の貧困問題とか、もっと泥臭い問題のほうでアピールすべきじゃないだろうか。既にやっていると言われるだろうけど。
人を殺してはいけないという単純な概念ですら万人が納得する説明がないのに、中絶の理由に万人が納得する説明なんて意味不明なことを持ち出すのはガイジオブガイジすぎる。
不妊だと思っていた人が自然妊娠した、というとなんだか幸せそうな話のようだが、全くそういう話ではない。幸せな話を求めて来た人には申し訳ない。
冷静に考えて自分の面倒すらまともに見ることのできない私が子供を育てることなどできるはずがないので、人工妊娠中絶という選択肢しかなかった。
でも、そのときは冷静になれなかった。なんと言ったって自分の腹の中にまだ不完全ながらも人間がいるのだ。冷静になれるわけがない。
不妊の定義は、1年間通常の性交を行っても自然に妊娠しないことらしいので、これまで1年以上自然妊娠しなかった自分は定義上不妊になる。
自分には不妊である自覚をもつ十分な理由があったので、それをさして不思議に思わなかったし、避妊をすることはなかった。
子供を授かりたいと考える人、授かりたくないと考える人、両方がいると思う。どちらの考えも理解できる。
自分は両親のことを尊敬しているし、生んでもらえてよかったと思っている。でも自分が我が子を幸せにできる自信はない。
自分の血の繋がった子供というものに対するぼんやりとした憧れと、それに付随するあまりに重すぎる責任を天秤にかけ、自分にはそれを選択することができないと思っていた。
だから、自分の体が妊娠できない体だと感じたときも、悩むことがひとつ減ったくらいにしか感じなかった。前々から薄々感じていたので悲壮感もなかった。
そんな自分が妊娠したことはやはり何度考えても実感が湧かない。
今でも夢だったのではないかと思うくらいだが、体の痛みが夢ではないと訴えてくる。
結局今回のことがまぐれで自分の体は不妊なのか、あるいは妊娠できる体になったのかすらわからない。
もし今回のことが奇跡だったとしたら、いつか中絶したことを後悔する日が来るのかもしれない。
結論から言うと、悩むまもなく中絶手術を行ったので、もう私の体の中に生命はない。体の痛みも日に日に薄れていく。
今はそれが、辛い。
手術までの時間は短く、ただただつわりと闘い続ける日々だったし、手術も一瞬で終わったから、むしろ術後の今になって大きすぎる感情が押し寄せてくる。
人工妊娠中絶による身体的・精神的負担なんていう話を、よく聞く話、大変そう、くらいの気持ちで他人事に眺めていた過去の自分への憎しみの気持ちでいっぱいだ。
本当にこれでよかったのか、誰かに相談するべきではなかったのか、どうしてこんなことになったんだ、考えが甘すぎたのではないか、これから自分はどんな顔をして生きていけばいいんだ……
まだ、このことは誰にも伝えられていない。
それが苦しすぎてなのか恥ずかしくてなのか情けなくてなのか、自分でもわからない。
薄れていく体の痛みに相反して、心の痛みは日に日に増していくようだ。
今は、あの耐え難かった痛みすら恋しい。
いつか、誰かにこのことを伝える日が来るのだろうか。
あるいは、新しい命を授かる日が来るのだろうか。
今はどちらも想像できない。
今はただ、溢れて止まない感情を、ここに置いておかせてほしい。