はてなキーワード: 新年会とは
本誌は野田氏周辺を取材する過程で、かつて京都市にあった暴力団「昌山組」の元組長への接触に成功。説得により、裁判所に提出する陳述書の作成と、証人として法廷に立つことに同意を得たのである。
元組長によれば、「昌山組」は1999年に元組幹部の刺殺事件が起き、組長自らが逮捕され懲役7年の実刑判決を受けたのを機に解散。組が雲散霧消したため、
いわば盃を交わした“親子”が再会を果たしたのは、今年2月のこと。東京地裁803号法廷で行われた証人尋問で、元組長と文信氏は顔を合わせたのだ。
「おう、久しぶりやな」
まず法廷では裁判長の前で証人らが横一線に立ち、“良心に従って真実を述べる”旨を宣誓する。その際、文信氏は、証人として呼ばれた本誌記者を挟み、元組長と並んだ。すかさず元組長は文信氏をにらみつけると、
「おう、久しぶりやな。懐かしいのぉ」
「お前、よう来れたな」
などと声をかけた。ところが、文信氏は元組長に目もくれず無言を貫いた。そんな彼は、尋問で暴力団組員であったかを問われても、
「(元組長には)会ったことはありません」
と答え、自らの過去には一切口を噤(つぐ)んだのだ。
だが、これに続いて証言台に立った元組長は、京都にあった家で文信氏と盃を交わすまでのいきさつから、組のベンツを運転させていたことや、「事始め」と称する新年会で毎回顔を合わせていたことなど、現役当時の具体的なエピソードを交えて証言したのである。
民事裁判でも、証人が法廷での宣誓を破って偽りを述べれば「偽証罪」に問われる。そのリスクを承知の上で法廷に立った元組長の発言を重視した裁判所は、文信氏の隠された経歴を認めるに至ったわけだ。
本誌は野田氏周辺を取材する過程で、かつて京都市にあった暴力団「昌山組」の元組長への接触に成功。説得により、裁判所に提出する陳述書の作成と、証人として法廷に立つことに同意を得たのである。
元組長によれば、「昌山組」は1999年に元組幹部の刺殺事件が起き、組長自らが逮捕され懲役7年の実刑判決を受けたのを機に解散。組が雲散霧消したため、都合10年ほど組員として在籍していた文信氏も、堅気(かたぎ)の世界に戻っていったという。
いわば盃を交わした“親子”が再会を果たしたのは、今年2月のこと。東京地裁803号法廷で行われた証人尋問で、元組長と文信氏は顔を合わせたのだ。
「おう、久しぶりやな」
まず法廷では裁判長の前で証人らが横一線に立ち、“良心に従って真実を述べる”旨を宣誓する。その際、文信氏は、証人として呼ばれた本誌記者を挟み、元組長と並んだ。すかさず元組長は文信氏をにらみつけると、
「おう、久しぶりやな。懐かしいのぉ」
「お前、よう来れたな」
などと声をかけた。ところが、文信氏は元組長に目もくれず無言を貫いた。そんな彼は、尋問で暴力団組員であったかを問われても、
「(元組長には)会ったことはありません」
と答え、自らの過去には一切口を噤(つぐ)んだのだ。
だが、これに続いて証言台に立った元組長は、京都にあった家で文信氏と盃を交わすまでのいきさつから、組のベンツを運転させていたことや、「事始め」と称する新年会で毎回顔を合わせていたことなど、現役当時の具体的なエピソードを交えて証言したのである。
民事裁判でも、証人が法廷での宣誓を破って偽りを述べれば「偽証罪」に問われる。そのリスクを承知の上で法廷に立った元組長の発言を重視した裁判所は、文信氏の隠された経歴を認めるに至ったわけだ。
今年、32歳腐女子になったので何か書いてみたくて独りで紅白を見ながらこれを書いている。
そんな土地で私は生まれ、進学・就職し、今もこの街に住んでいる。
就職し実家を出た頃から、同人イベントにサークル参加し本を作るようになった。
初めて行ったイベントで、同じ作品やCPが好きな人たちと実際に会って喋ることができて、本当に感動した。楽しかった。
学生時代、それなりに部活をしたり、サークルに入ってみたり、人と関わるように頑張ってきたが、いつでも楽しくなかったのだ。オタクであることは隠していたので、とにかく話題に困った。
田舎だからだろうか。「漫画は読むよ、ナルト読んだことあるし」「アニメは見るよ、ワンピース面白いよね」という程度の人は周りにいたが、イラストや漫画を描く、二次創作を読む、まして書くようなひとは皆無だった。オタクの友達が、もっと言うなら腐女子の友達が心から欲しかった。
そんな人生を送ってきたので、初めて参加した同人イベントのアフターは心底楽しかった。初めて飲み会で「まだ帰りたくないな」と思った。
(つまり、それまではどんな飲み会でも、いつでも「早く帰りたい」と思っていた。友人だけの集まりでも、だ。みんな私を仲間に入れて誘ってくれる、紛れもないいい人たちなのだが、いかんせん私とは好きなものや興味のあるものが違ったのだ)
本を出すのも勿論楽しかったのだが、何よりアフターが楽しかった。地方住みながら年に5~6回は参加して毎回新刊を出していた。一回のイベントで、ペーパーとは別に複数冊出すこともよくあった。
イベント前日に上京してフォロワーさんたちと遊び、イベント当日ももちろんアフター。次に参加するイベントや、出す本のネタのことを話して、スケブを描きあったりして、終電まで遊んで、夜はホテルで厳選戦利品を読みながらお疲れ様ツイート。楽しかった。本当に。心から。
東京は地元に無いものが沢山ある。街はギラギラキラキラしている。そんなところで、美味しいものを食べて、好きなものの話を、同じものが好きな人たちと語り合う。たまらなく楽しかった。
幸いなことに、発刊した本はそれなりに手にとってもらえたので、本の印刷代と交通費はギリギリ賄えていた(宿代やイベント参加費などの雑費がはみ出るくらい)。なので趣味として、金銭面では無理なく続けられた。続けられてしまった。
収入が無くなっては困るので勿論仕事は変わらず続けたが、それ以外。
例えば職場の飲み会、イベント、地元の友人からの誘い、親戚付き合い、そういうものは可能な限り避けて、原稿をするか、アニメを見るか、フォロワーさんとスカイプで萌え語りするようになった。だってリアルは同人イベントよりつまらなかったから。
あの頃の感覚として、私のリアル、つまり同人イベントに参加していない日常の時間は「同人イベントまでやり過ごすだけの時間」になっていた。
イベントから帰る飛行機の中で、次のイベントは8月か、はやく8月にならないかなあ、と考えている。
同人イベントがメインパートで、地元での日常は一刻も早く過ぎてほしい繋ぎパート。そういう感覚。
職場ではすっかり付き合いの悪い人間となり、歓送迎会とかの大きな飲み会以外ははじめから誘われなくなった。
地元の友人ともみるみる疎遠になっていった。ちょうどメールからラインへの過渡期だったのだが、私はそんなこんなでグループラインはおろか、ラインの連絡先交換もあまりしていなかった。
私が知らないうちに友人たちはどんどん結婚したり出産したりしていた。私以外はちゃんとお祝いしてたらしい。ごめんなさい。
わくわくしていたし、充実していた。
差し入れでいただいた東京のお洒落なお茶を飲みながら原稿したりアニメ見たりするのが至福の時間だった。
喪女ゆえ結婚は縁が無さそうだけど、仕事はあるし家もあるし同人友達がたくさんいて毎日楽しい。私はこういう生き方でいいんだ、と思っていた。
そしてコロナ媧がやってきた。
感染者数が落ち着いた時期に開催されても、アフターなんてする雰囲気じゃないし、勿論するべきでもない。
何より上京してコロナを持ち帰ったらと思うと、とても参加はできなかった。
別に二次創作はイベントが無くたってできる。家にいればアニメも見られるし漫画も読める。
でも、人と会うことは無くなった。
素直に寂しい。
いつもクリスマスに開催されるオンリーイベントに参加して、アフターでみんなとケーキ食べていたけど、今年は家でコンビニのケーキを食べた。
一方で、アフターしていたみんなは、コロナ媧でも誰かしらとは会ったり話したりご飯を食べたりしているようだった。
つまりリアルの(同人と関係ない)ごく身近な友達とか、家族とか、配偶者とか、職場の繋がりとか、そういうものである。
みんなは同人以外にも繋がりを持って、居場所を持って、日常というリアルパートも真面目にこなしてきたのだ。おそらく。
私にはそれがない。
私は孤独だ。
同人イベントが無くなれば、私は誰とも会うことはないのだ。共にご飯を食べるひとは誰もいない。
今年、ちょっと病気が見つかって入院・手術したのだが、仮にコロナ媧でなかったとしても、私の見舞いに来るひとはいなかっただろう。入退院時に付き添ってくれたのは、唯一残った「リアル」の繋がり、両親だった。
仕事の細かい悩みとか、最近気になり出した老後の不安とかも同人友達にはなかなか話せない。
そういうことなのだ。
よく仕事以外にも、趣味などの居場所を作りましょう、と言う話を聞く。
私はそういう話を聞くたび、「私には全く関係ないな、仕事以外無いひとはかわいそうだな」とか思っていた。趣味が充実していたから。
むしろ同人なんていうのは、よく考えれば仕事より脆い繋がりだ。ジャンル移動とか、急な解釈違いや冷め、地雷とか、諸々あるのだから。
もちろんきっかけは同人で、そこから生涯の親友になるケースもあるんだろうけど、それはよくある話、というわけじゃない気がする。
最近はコロナの感染者数も減ってきて、同人イベントも活気を取り戻しつつある。冬コミもめでたく開催された。私も来年は参加したいな、と思っている。アフターが難しくてもイベント参加はしたい。推しCPが、絵を描くのが、二次創作が、本を作るのが好きなのは本当だから。
でも、(縁起でもないが)また別の疫病が流行るとか、災害とか、世界には何があるかわからない。
そもそも私が同人を、アニメを、漫画を、ずっと変わらず楽しめる保証もない。
同人以外を捨てる生き方はやめたほうがよさそうだな、と私は思った。
だから来年は(書いているうちに、もう今年になってしまったが)リアルの日常も、もう少し真面目にこなしてみようと思う。大事にしようと思う。
少なくとも、結婚おめでとうと言えてない地元の友達にはラインを送ろう。年賀状ラインを兼ねて。お詫びも添えて。許されるならお祝いもしたいけど、今さらって感じかな。ラインギフトとかなら相手も気軽に受け取れるのかな。
職場では人数分散して新年会すると言ってたから、それも誘ってもらえたなら参加してみよう。今さら参加してきたらみんな引くかな。少なくとも手術入院のとき休暇とか色々便宜をはかってくれた上司、私がいない分フォローしてくれたみんなには丁寧にお礼を言おう。
という、これまでの振り返りと今年の抱負であった。
おわり
新年会があるさ。たぶん。
集合して早々買い出しに出かけた。
すると参加者に一人よほど食いたいのかやたらと野菜をアピールしてくる奴がいる。
野菜なんかいらないんだけど否定するのもかわいそうだし困っていると
かごにあれこれ放り込み始めた。こいつ本当にこんなに食うのか?
買い出しを終えて久々に集まった友人と話に花を咲かせていると
さっきの野菜野郎が慌ただしく肉を焼く準備を始めてる。よっぽど腹をすかせているのか。
しょうがないので話を中断して準備に入るがやれ肉に合わせてタレがどうの塩コショウがどうのと
うるさいことこの上ない。普通に焼いてタレ付けて食べるだけでいいのに。
ともかくひと段落して再び話を再開して盛り上がっていると
会社の新年会じゃあるまいしそんなことする必要ないだろう。飲みたきゃ勝手に飲み始めればいいのに。
しょうがないので付き合う。めんどくせえ。
肉を焼き始めると野菜野郎はあれだけ買い込んだ野菜には大して手を付けず普通に肉食ってやがる。
そういえば、
すっかり忘れていたけど新年会。
延期延期になってるのよね。
いつ新年会が開催されるのか謎だけど、
もうこのまま桜を見る会にしたら!?って皮肉たっぷりに言いたいぐらいだけど、
お花見シーズンの頃には解除になるのかなーって
一人焼き鳥屋さんも串に刺さった焼けた鶏肉を豪快にキメることも一体何時私の焼き鳥ドリームは叶うのかしら?って心配になるわ。
飲食店行けなさすぎて、
任の天の堂を
私も売上に貢献していたのかと思うと、
そろそろ確定申告も秒で今年は終わらせる勢いの私なのよ。
昨年の私とは違うところをとくとご覧あれ!
今年は自信満々に満面の笑みを浮かべながら
とりあえず経費を今期はたくさん使ってしまったので、
そんな日経聴いてる?って雰囲気を漂わせられる用語100選のポケット版の小さな冊子を辞書のように鞄に忍ばせておけば、
日経新聞読んでなくても、
へーって涼しい顔できるってもんよ。
世の中の処世術よ。
戦場カメラマンの渡部陽一さんがもっと早くしゃべって欲しいぐらいに安全な胸ポケットに被弾!
でも大丈夫!
100人乗っても大丈夫!って手を大きく広げている物置でお馴染みのイナバの社長かと思ったら
私もそろそろマグロの解体ショーを間近で見なくちゃって思うのよ。
何度も何度も言うけど、
師匠についている弟子の名前が「たくみ」だったらややこしいやないかーい!って思わず
「たくみ」と「きわみ」だったら
お師匠さん見せてやれ!
極みの匠の技を!!!ってどっちが実演したらいいのかお弟子さん2人顔を見合わせて、
いまの言い方じゃおまえじゃね?って
混乱しまくるわよ。
鮪の尻尾の切り口を見て中の赤身の善し悪しを判断するってところは
でもあれって競り落としたお金の経費って実質広告費なのかしら?とも思うから、
あれは絶対に食費に回しちゃったら
エンゲル係数が爆上がりじゃない。
もうご家庭でお気軽に美味しい鮪が!鮪が!って
そこで初めて合点がいったってワケ。
今度あなたも鮪を食す機会があったら、
率直に美味しいなってことだけを感じて欲しいのよ。
そう普通が一番よ。
だからせっかく鮪の新鮮な切り身が手に入って
それを鮪ステーキにしても
って1回まではいいけど、
2回は言ったらダメだかんね!
せっかく新鮮な鮪を焼くなんて!とか言わないの。
焼肉がとっても楽しみなのよ!
マグロ!ご期待下さい!
うふふ。
あ!そっかそこで日経用語ポケット辞典で調べればいいんだ!って
載ってなかったけど。
やんないけど、
マグロマグロのはなしをしていたらマグロの口になっちゃうわね。
まあ関係ないけど
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
緊急事態宣言を出しても出さなくても年末年始には一定の活動が行われる。クリスマス、忘年会、新年会、帰省、成人式など。どうしたってこの時期は他の時期よりも感染する可能性の高いイベントが多い。そして通常の生活に戻って自粛しはじめるのは遅くとも成人の日以降だ。ならば中旬までは新規感染者数の増加が続くのは避けられないがそこで一旦止まる。よって緊急事態宣言を出すなら1月に入って1週間を過ぎた頃にすれば期間中に自粛の影響で数字の増加が止まる。
こうして自然にできてしまうカーブを活かさない手はない。そこを境に数字が減れば宣言による成果が印象づけられる。
一方で積極的疫学調査も感染増加に対応しきれなくなる前に方針を変えなければならない。規模縮小による数字の減少も見込める。しかし下旬までは我慢してもらう。
「それは家族を危険にさらしても行かなきゃいけないものなのか」
題名と一行目のとおり、私はとある理由で東京にいかなければなりません。
てか行ってきました。
遠征にいってはいけない理由は、持病持ちの親と介護職で働く家族がいること。たしかに一理ある。
だが一番の理由は「コロナになったら近所にバレるのが怖い」からです。
私の地方はまだ比較的数が少ないので夕方のニュースでどこ住みの何歳代で下手したら職業までさらされる。
田舎の情報網はすごい。ニュースに出た次の日にはどこのだれか特定される。
家族はそれが怖いのだ。そうなったら家に落書きされていたずら電話がきて家族は会社をクビになる。(本当です)
コロナでしんどいとかより社会的に殺されることのほうが怖いから感染のリスクを冒してまで東京に行くのかと聞いてくる。
自己責任だけど家族と同居してたら自己だけでは片づけられないんですね。一人暮らししたい…。
全国各地からお客が来る環境。コロナ禍でもあまり変わらずむしろGOTOのせいで(あえてせいという)客足は増えた気さえします。
「私は北海道から」「大阪から来たの」「九州から来たけど雪すごいね」
客は口々にどこから来たか簡単に教えてくれるがそのたびに自分のソウルジェムは濁っていく。
なぜこの人たちは自由に全国を行き来しているのに私はどこにも行けないのか。
そもそもこの人たちと普段から接している私はもはや東京行ったとか行ってないとか関係なくリスキーなはずだけど
でも私は行きたい。
そのミュージカルがどんなに私の心を救ってくれたかは話せば長くなるので割愛するんですが、
某歌詞の「何のために生まれて~…」のとおり何のために生きているのかわらない。
どーーーしても生で見たい。
親には友人宅で新年会をする。そのまま泊まると言って出ました(新年会はいいんかい)
久しぶりの新幹線、東京駅で食べたお寿司がおいしかった…昼からビールも飲みました。昼間っから外で飲めるって最高です。
会場に向かう電車の中隣を見れば同じ会場に向かうであろうお姉さんのバッグに推しのグッズ。
電車内にどんどん増えるオタク。会場最寄りの駅で降りて前の人についていく感覚。ついていけば会場につくだろうという謎の安心感。
おしゃれしたお姉様方。推しのコーデや持ってるグッズの色。もう最高でした。
これだけで東京に来てよかったと感動すら覚えました。
公演はとにもかくにも最高でした(語彙力)
演者さんの生の歌声。腹の底に響くビブラート。配信じゃわからなかった生じゃないと味わえなかったたくさんの感動がありました。
ずっと泣いてました。こんなに素晴らしいパフォーマンスに自分は拍手しか返せるものがないのが歯がゆい。
公演が終わった後、駅に行く道すがら満足感で免疫力爆上がりで何も怖いものはありませんでした。
やっぱり来てよかった。もし遠征しなかったら一生後悔したと思う。
私の行為はまったくもって褒められたものじゃないとわかってます。反対されてるのを押し切ってまでやったことはいけないことだとは思ってます。
でもどうしても行きたかった。見たかった。リスクを冒してまで見る価値があるのか。答えはもちろんイエスです。
幸い遠征から帰って1週間以上たちましたが家族ともども症状はありません。
このことは墓場まで持ってくつもりです。
また、遠征に行くにあたり自分の健康状態はすこぶる良好でした。
あと今回、遠征に行くにあたりSNSでも私が遠征に行くことは一切誰にも言ってません。
本当は会場で写真撮ったり感想をつぶやいたりしたかったし現地の友人にも会いたかったけど我慢しました。
フォロワーさんが現地で見ますと写真を挙げてるの見ると羨ましかったですが最悪の場合どこからバレるかわからないので。
でもどうしても遠征行ったよと言いたくてここに書きました。王様の耳のように言わないと気が済まなかっただけなので遠征を推奨するわけではありません。
読み直しても自己中でめちゃくちゃ自分勝手でほんとひどい内容だなと思います。
タイトル通り。
そこそこ金を出し、自主的宣伝活動もして、普段映画館に行かない両親を動員し、ブルーレイとDVDを自腹購入し、少しの見返りを受け取り、映画の内容に納得できなかった。
クラウドファンディング形式だった。出資額としてはそこそこ上位に入る。
エンディングクレジットに名前が出たが、金額順および申込順で並んでると思われる中、割と目立つぐらいの位置だった。
上映直前にクラウドファンディング参加者による宣伝活動をお願いされ、名刺大の宣伝カードをあちこちに配った。
取引先や、とある新年会で同席した市議会議員先生なんかにまで配った。
製作元とは別にクラウドファンディング参加者が自主製作したチラシも自分から手を挙げて譲り受け、行きつけの飲み屋に置いてもらったり自分の店に貼ったりした。
公開から2日目に高齢の両親を連れて行った。母が映画途中で少し具合が悪くなりかけた。
慣れない2時間座りっぱなしに付き合わせてしまった自分の不手際を後悔した。
自分の分としては付き合いのつもりでブルーレイだけ購入するつもりだった。
祖母が西の出で、大叔父の出征のとき呉まで歩いて付き添ったことを聞いていたので、祖母にも見せようかと思いDVDを購入した。
ただ後述するように自分が映画内容に必ずしも納得していないことと、作中の効果音などがかなり過激なのもあり、悩んだあげく放置し、結局、見せないうちに祖母が他界して終わった。
何回かハガキが届いた。クラウドファンディング出資者として自分の受け取った「特別な報酬」としてはそれだけになる。あとはクレジットでの記名。
本来なら映画スタッフの集まりや試写会に参加できる権利があったのだが、メールアドレス登録時に自分の不手際があり、運営から来た問い合わせをこちらで対応しきれなかったのもあって、一回も参加していない。
かなり充実した内容と聞いているので、参加してさえいればクラウドファンディング額に十分に見合う内容だったと思う。
これは難しい。
原作はそれなりに優れている、という評価だったが、自分の好みと合致しているとは言えず、また、内容的に扱いが難しいことも知っていた。
映画監督は優れた表現者であると考えていたが、同時に自分の好みに完全に合致してないことも知っていた。
そのうえで、クラウドファンディングという形式による協力に興味があったのもあり、好みを度外視すれば十分に充実した内容になると判断して出資参加した。
結果、出来上がったものを見た感想としては、十分なクオリティ、水準以上の作品だったが、自分がすんなりと受け取れるものではなかった。
自分が納得しきれないという結果は、心のどこかで想定はしていた。予期しつつ自分が決めたこととして受け止めていた。つもりだった。
映画は自分が当初に想定していたどころではない大ヒットとなり、マスメディアでも取り上げられ、半ばブーム化した。
オンライン上で語られる評価はほぼ誉める一辺倒と言っていい流れになった。
それどころか「さきの悲惨な戦争を語る際の新しいフォーマット」にすらなってしまった。
これが辛かった。
ブーム化し、評価が定型化し、扱い方も定型的となり、当然ながら映画内容からもズレていったし、原作内容からはもっとズレていったと感じた。
原作はほとんど何も情報が入ってこない地方の主婦という極めて限定された視界と、作品に投入される高密度の情報量の間に生じる緊張を元手に作品を動かしていた。
映画化された際、高密度の情報量のほうはボリュームアップが半端ないことになったが、一方で視点の限定が担っていた圧力や緊張感についてはだいぶ緩んでいると感じていた。そのバランスの崩れが自分は気になった。
映画がブーム化し誰もが語る段階になり、ほとんど朝の連続テレビ小説と同じジャンルになったなと感じた。朝ドラ主演女優を声優に据える演出がそういう読解を促したのも否定できない。
そして朝ドラジャンルとして受け入れられた形で「戦争を語るフォーマット」という役割を与えられていった。
超高密度の情報はジャンル朝ドラの枠組みと切り離されてアクセスされるとっかかりを失い、単なる後景になった。
もともと原作の時点で、自分の好みとしては全肯定しかねていた。気が付けば、それすら形骸化していた。
「司会進行の増田です。皆さん聞こえておりますでしょうか。コロナ禍の影響で例年通りにオフ会はできないので、Zoomでリモート新年会という運びとなりましたが、皆さんお酒やお食事の準備はできてますか?」
「🌈死のコロナビーーーーム🌈」
「増田リモート新年会で遺憾念使途ー森田素間(回文)。今日はミックスサンドにしました」
「寿司だあああ!🍣 出前で寿司を注文したぞ! それに、リモートとはいえギャルと寿司が食えるなんて最高だ🍣」
「でもキモくて金のないおっさんと一緒に寿司を食べるのはいやなんですねわかります」
「わたくしはとんかつをテイクアウトしましたわ! 家で食べるとんかつもうまそうですわ!」
「[ゲーム日記]1月16日 ○ご飯 朝:なし。昼:サラダ。海鮮丼。」
「でもキモくて金のないおっさんにはクンニしてくれないんですねわかります」
「そうだね。うんちだね。💩」
「ミソジニー」
「昨年はブルマーについて考察をしたが、今年はスク水やレオタードについても調査する予定である」
「パンティー」
「今日はプレミアムフライデーではありません」
「再投稿は甘え」
「なんで2回書くねん。なんで2回書くねん」
「記を書」
「やっぱり寿司は最高だ!🍣」
「すいすいすいようび~ 今年も頑張りましょう!」
コロナが始まってからそろそろ一年ぐらい。そろそろ自粛したくなくなってきた。
頭では自粛しないとと分かってるけど、感情的に、もう嫌になってる。
本当は、尾身会長とか菅首相に聞かなきゃいけないんだよね。日本医師会とか岩田教授とかでも良いのかもしれないけど、知り合いにそんな人いない。
けど、なぜかここには医者がいて、如何に医療現場が大変か語っているから、ここで聞けば少しは可能性があるかなと思って書いてみる。
気軽に人とご飯に行かないようになった。赤ちゃんがいる人は誘わないし、よく行く人とも回数はかなり減った。
忘年会や新年会もないし、歓迎会や退職パーティみたいなのも無し。
普段会ってない人と会わないべきだと思うから、学生時代の友人とは会わない。懐かしい人と会っても、軽くお茶して終わり。
「30歳記念で何をすべきか」みたいな話で盛り上がった時に、先輩に言われた「10万越えの風俗行った」って話が気に入ってたから、俺も30記念に超高級店いってみたいなと思ってたけど、誕生日過ぎてもまだ行ってない。
こういうのって、一つ一つは我慢できるし、無ければ無いで「まぁ、しゃーない」って簡単に諦められる程度の小さな楽しみだよね。
だけど、それを一年ずっと我慢しててると、「あれ、最後に楽しかったのっていつだっけ」ってなる
で、「結局、何のために自粛してるんだっけ」って最近思うようになった。
老人が自粛するのはわかるんだよ。症状重いからさ。でも、俺は罹っても問題ないんだよ。どうせ無症状でしょ。まぁ、運が悪ければ人工呼吸になるのかもしれないけど、それは相当運が悪かったって諦められる。
菅首相も「若い人は軽いけど、大切な人のために罹らないようにして」って言ってたし、他の医者も同じような感じだよね。
俺は大切な人と会わないんだから、問題ないよね。大切な人がいるような人とは飲まないし。
でもさ、菅首相も自制しろっていうし、今日なんて岩田教授が「成人式行くな」って言ってるよね。
で、その誰かはどうやって俺に返してくれるの?
もしかしたら、「病院が大変になったら、お前も医者にいけないんだぞ」っていう人がいるかもしれないけど、ここ10年でまともに病院行ったのなんて健康診断か歯医者ぐらいだから。
若い、俺みたいに罹っても問題ない人間が、自分を犠牲にして誰かを助けてる。
その犠牲に対する見返りが無いよね。そろそろもう自制心だけで我慢するのが嫌になった。
それなのにさ、最近よく聞く「なぜ民間病院は協力的でないのか」みたいなやつの理由が、赤字になるからとか、重症になった時のリスクが怖いからっていうよね。
この人もそう。https://anond.hatelabo.jp/20210109182629
でもさ、俺は個人的な利益よりも公共の利益を優先してるんだよね。
医師会の会長とかも「他人のために」みたいなこと言ってたよね。
なのに、自分たちは個人的な利益を追っちゃうんだ?俺が我慢してるのバカみたいじゃない?
もしかして、「俺たちは利益がないと動かない理性的な人間だけど、大多数は感情論で動くバカ」みたいに思われてる?
しかも、俺みたいな人に感謝してる人って見たことないんだよね。
「自分を犠牲にした協力に感謝します」みたいなこと誰か言ってる?「自分勝手な若者が」って言葉ばっかりじゃない?
今日も「成人式に行くやつは自分で状況判断できないガキ。大人なんだから自制しろ」って岩田教授がブログに書いてたけど、こんなのしかなくない?
今まで散々我慢してきて、更に一生の思い出を我慢しろっていう。大切な人のために。
俺だったら、徹夜で飲んで、両親に会わないでそのまま家に帰るね。
実家住みだっていうなら、親と会わないように、親が自制すればよくない?
でも、実際には「若い奴は自制できないんだからそういう場に行くな。大人になってそんなこともできないのか」みたいに後ろ指を指されてるんだよね。
それか、良い話を持ってこない?「これをしてくれれば、もっと得ですよ」って。
言うことを聞けっていう交渉はおかしいよね。大人どころか、対等な人間扱として扱ってないよね?
でも、しなきゃいけないとも思ってるからさ、誰か利益を教えてよ。
俺だってしたいんだから。でも、止めちゃえば?っていう悪魔のささやきが止まらない。
天使のささやきを、だれかしてくれよ。
-------
追記:
朝起きたらものすごい数の反応があった。
これ書いてる間に増えた分は読めないけど、それ以外ははてブも含めて全部読んだよ。
みんなの考えを教えてくれてありがとう。俺を止めたいって色々な理由を教えてくれてうれしいよ。
俺の考えを言う前にまずはそこに感謝したい。
で、
色々な反応を見て感じたのは「やっぱ利益無いんだな」っていう感想だった。
まず、「お前が思うより後遺症が大変だよ」っていう人多いけど、菅首相とか医者の偉い人が「若者には被害が少ないです」って言ってるのに、なんで「被害が多いよ」って諭してくるのかわからないわ。
どこ情報?っていうか偉い人はそれ込みで被害が少ないっていってるんじゃないのかな。
俺は偉い人のいうことのほうが信頼できると思うよ。
だから、上で書いたように、俺はコロナを凄くやばいと思ってない。
そりゃ、リスクはあるけど、交通事故が怖いから車運転しないとか、落ちたらやばいから飛行機に乗らない、とか考える性格じゃないから。
それは利益じゃないんだ。
あと、「利益でしか動けないなんて、倫理観が欠如している」みたいな言われ方には、悲しくなったよ。
しかも、そういうなら、まず民間病院に言ってくれよ。「医者は損してでも市民を助けろよ。お前らが規制産業として市場の圧力を受けないで利益を得られているのは公共のためなんだぞ」って。
医者が個人的な利益をとるのに、俺は個人的な利益をとろうと考えることすら許されないのかよ。
そりゃ、おかしいよ。
色々見てたら、選挙権以外に政治とか高齢者と交渉する力ができたんだなって思った。
「若者を優先した施策をとってくれたら、行動減らしてやるよ」って言ったら日本動かせそうだよね。
それはうれしいなぁ。そのために積極的に動くっていう動機付けは悪くないな。
あと、「お前もう30だぞ」っていう言葉は意図とは逆に刺さったわ。
俺、30超えたんだな。一昨年は、30やばいなって話してたけど、マジで30越えのやばさの自覚無く超えてた。
もちろん、「30超えても変わらねーよ」っていう話は聞いてたけど、そんなレベルじゃない。びっくりしたわ。
このまま自粛が5年続いて35超えてたら、やばいなって思った。
そうならないためには、今、行動しないとダメなんだよな。
今やりたいことをやろうと思う。年取ってから後悔したくないから。
ただ、紹介されたカミュのペストって本は面白そうだから、それ読んでから外出るわ。
なんか、自分の期待とは逆に動いたし、多くの人の期待とも逆に動いちゃったから申し訳ないな。
でも、決めたわ。
裏切っちゃったけど、色々教えてくれてありがとうね。この感謝は本物だから、礼は言わせてくれ。
-------
追記2:
正直に話そう。
リモートで働くようになり、急激に楽になった。
自粛が嫌になる順番で言えばレイトマジョリティやラガードに分類される性格だろう。
初期から「なぜこんなことをしなければならないのか」と考えていた。
そして、「なぜ医療のために」とか「政治家の食事が例外なのであれば、私の欲望も例外扱いしてよいのでは」と考えるようになった。
そうして、息抜きをしてきたつもりでも、本当にきつくなったので、このような記事を書いた。
文から見える性格や自己に関する記述は偽りであるが、思考する内容は真実である。
twitterを見ると、この記事への7割以上は好意的な反応であったように思う。
当然、批判もあった。
この記事を批判的に見たのならば、twitterで「医療に協力したら何が返ってくるの」と検索してほしい。
そして、恐らく、3連休に外出した多くの人々は、私よりも早く、自分で考えて「自粛をしない」と決断した人々だ。
そんな彼らをただ批判するのは止めてほしい。
この記事では、被害の少ない若者に損が偏っているという話を書いた。
もちろん、誰もが損している。
しかし、メリットも感じず「なぜ自粛を」と考えている人がいる。
対して、誰かを救うために「他の人にも自粛してほしい」と考えている人もいる。
そんな両者が交渉するならば、メリットのない人間に対してメリットを提示する必要がある。
だが、無かった。
自分が何を差し出すでもなく、まるで自分が絶対であるかのように振る舞い、罵倒した。
「自分のことしか考えない愚か者だ」、「まともな大人の思考ではない」と言う者すらいた。
資本主義をはじめ、自分の欲を中心に思考する態度は極めて普及している。
誰かに協力してほしいのであれば、相手に得をさせるべきではないのか。
せめて、相手と自分のデメリットの不均衡を解消する努力をすべきではないだろうか。
せめて、感謝を示してはどうか。
それが相手に届いている実感はないだろうし、実際に1円の価値も相手に届かないだろう。
だが、「回りまわって利益になる」と説得するならば、ためらう理由にはならない。
そのような行動すらなく、自身の正義を相手に押し付けることは圧政である。
味方の多い思想であれば強硬な方法でも成果を上げられるが、支持者が減れば効力を失う。
他の方法を考えることを切に願う。