はてなキーワード: エゴイズムとは
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短歌の結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。
多くの人は短歌と俳句が同じ短詩型文学であるから、短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。
なぜなら、両者は表現のアプローチが正反対だからだ。短歌は風景と言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである。
短歌を詠むということは、言葉に情念を圧縮するということだ。穂村弘は短歌を爆弾に喩えたが、自分の情念を読み手の心奥深くに埋め込もうとするために、言葉の選定や配列に独自性をもたせていく。風景すらも歌人にとっては情念の道具に過ぎない。日本語に己の爪痕を残してやろう。世界は我が情念を表すために存在するとでも言わんばかりの自意識過剰さでもって詠むのが短歌というものだ。己の全情念を31字にすべて押し込めようとするエゴイズムこそ短歌というものの醍醐味である。誤解を恐れずに言えば優れた歌人とは己の日常を糧にした自意識の純粋培養物なのである。
それに対して俳句を作るということは、言葉で風景をカットする行為だ。17字というフレームの中に厳選した風景の要素を置いていく。私は風景から要素を抽出するための機械でしかない。俳句にとって情念はノイズでしかないのである。
このような対比で見ると、短歌を詠む人が17字は気持ちを込めるのに少なすぎる、となぜ思いがちなのかが分かるだろう。字数云々ではなく、根本的にその容器は、あなたの情念をしまうところではないのです。高級フランス料理の小さなお皿にニンニクましましラーメンを入れようとする無理な行為なんですよ。俳句を作るなら、あなたが後生大事に抱えているその情念は捨てましょう。わかりましたか?
そうは言っても短歌人はやめられない。短歌を苦しみ抜いて詠んだきたのだから、この情念は捨てられない。世界中から笑われようとも俺はこの17文字に俺の心情を詰め込んでみせる。31文字でできて17文字でできないことはないっ。ここに俺の私の僕のアイデンティティがかかっている。
という具合に短歌は人に冷静さを失わせ、言葉を発するときに自意識を手放すことができなくさせる。そしてどんどん俳句の精神から遠ざかっていくのである。だから短歌を詠めば詠むほど、俳句は作れなくなる。
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一茶の句は反例にならない。
https://anond.hatelabo.jp/20240506233546
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https://anond.hatelabo.jp/20240508195326
俳句に情念は込められないという主張について、上の増田より鮮やかな反例を挙げていただいた。俳句への理解を深める契機をいただけたことに感謝する。
追記:
いっぱい見てくれてありがとう。
もちろん、事実も真実も今俺がどこでどんな暮らしてるかも全く知らないくせに、書いてもないことを妄想や憶測や曲解や邪推で補完して膨らまして、
俺を批判したり同情したり憐憫したりアドバイスしたりしてくれたブクマカたちにも、ありがとう。
それを無意識のうちにやっている人も、自覚的にやってる人も、いるなと思いながら目を通した。
でもまあ、それはいいんだよ。
それが欲しくて増田に書いたし、
俺は生きてるから。
俺の言動の意図がねじまがった形で波及して、求めてもいない影響をどこかやだれかに及ぼしてしまって、
俺自身が誤解されたり損害をうけたりすることがあっても、
俺は生きてるから。
死者にそれをやるのは卑怯だよね。だって死者は、裁判で訴えることも言い返すことも説明することも訂正することも弁明することも謝罪することも、できない。
死者は憐憫してほしいのか称賛してほしいのか忘れてほしいのか助けてほしいのか居なかったことにしてほしいのかも、もう確かめるすべもない。
自死について、テロ行為と書いたことで苦しませた人は本当にごめんね。
漫画家さんの自殺はテロ行為だなんて言うつもりはなかったんだよ。
自殺者の自死をテロ行為にしないために、生きてる人が気をつけるべきことがあるんだって話をしたかったの。
俺んとこで言えば、俺は、妹のせいで母が壊れたと思うべきではなかったし、壊れた母から悪影響を受けるべきでないし、母にも妹のためにこそ壊れないでほしかった。
だってこれが成立すると、あの自殺が俺たち家族にとってテロ行為とも呼べるシロモノになってしまうじゃない、って話をしたかったの。
こういう現実が、こういう思想で自殺にメリットを感じる価値観と地続きと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20230715095602
妻子を気に掛けたくれた人もありがとう。
俺の妻から苦しみを聞かされたわけでもない、なんなら妻の顔も名前もしらないのに、妻の気持ちを代弁してくれた人も、ありがとう。
これ以上自殺の呪い(と言い換えます。テロは強すぎたね)の悪影響をひろげないために、妻と子供には、より誠実に向き合って、より大切にしていこうと、あらためて強く思いました。
人の心なんて、生きてようと死んでようと、絵にかいて見せることも形づくって触れさせることもできない、言葉を尽くしても伝わらない、どうやっても想像の域を出ないものだから、切ないね。
無意識のうちに、自分の妄想や憶測を、事実と同列に取り扱ってしまう人は、「人とは自分が見たいように物事を見てしまう生き物だ」ということ知ってほしいな。知ってて損はないし上手く使えば得になる。なんなら知らないと損してしまうこともある。
追記ここまで
妹はいわゆる境界性パーソナリティ障害っぽいところがあって、思春期はまあ大変だった。
気に入らないことや思い通りにならないことがあれば、ヒステリーやリスカやハンストで家族を萎縮させる。
妹以外の家族、俺と父と母は割りと温厚というか事なかれ主義というか淡白だったものだから、
とにかく言うことを聞く。「これして」「あれちょうだい」全てその通りに。
勉強は中の下、外では外交的でないまでもヒスも起こさず我慢だけしてるから、人付き合いは良好でなくても不穏でもなくて、
つまり社会生活に不具合がなかったから、幼いうちに医療にかかることがなかったのは心残りだ。
俺たち家族はほっとした。実家の環境が合わなかっただけで、家族以外との生活には問題ないんだ。
あの子は変な子でも変わった子でもなかったんだ、と。
妹が嫁いでまもなく、俺も結婚し、2世帯住宅を建て、両親を呼んだ。
実家は取り壊した。妹がヒステリーを起こしたときの痕跡が生々しくのこる実家は、みんなにとって黒歴史だった。
妹が壁に書き込み続けた呪詛の言葉。蹴ったり殴ったりして開けられたいくつもの穴。食器を投げつけた傷。包丁が刺さったあと。拭いても拭いても落ちない血痕。
リノベーションするにも、業者のひとに見せるのすら憚られたから。
今思えば、何て書いてあったのか、あの子の心の叫びを知っておけばよかったな。
旦那さんは、気さくで温厚でいい人だ。嫁の実家なんて気を使うだろうに。
俺ら家族に対して不穏な態度を隠しもしない妹に不満をみせることもない。
一晩泊まって、翌朝になっても客室から出てこない妹とは対象的に、旦那さんは一人早くに起きてきて、朝食の支度を手伝い、妹抜きで朝食を囲んだ。
今思うと、もしかして欠陥品かもしれない妹を押し付けた俺ら家族と、もしかして欠陥品に今現在虐げられる暮らしをしているかもしれない旦那さんと、何も知らない俺の嫁さんで、なんとも言えない緊張感はあったかもしれない。
妹にとって、自分の実家とは言えないが自分の両親と兄が暮らすこの家は、居心地がイイとはいえないだろうが、
自分の親族の家に来ているというのに朝になっても起きてこない妹に、何も言わないし様子も聞かない俺たちは、旦那さんの目にはどう映ったんだろうな。
嫁いで何年経っても、妹に子供はできなかった。
なにかの機会で、旦那さんのご両親と俺と俺の嫁と俺の両親で一緒に食事をした際、
先方のご両親からそのことに触れられたが、俺の両親はなんとも煮えきらない反応をして、話題を変えた。
この頃には俺の嫁も、俺の妹の不穏な雰囲気を察していたかもしれないな。
妹が嫁いで8年くらいの頃かな。
「妹が離婚する」って。
妹から電話があって、そう言ってたって。もちろんいつものヒステリーからくるヤケクソの話ではなく、その電話で旦那さんとも話して、「直接ご挨拶をさせていただきたいのと、離婚届の署名をおねがいしたいので、伺わせてください。この度は誠に申し訳ありません」って感じの話だったらしい。
俺たちは困った。嫁いでからずっと妹は働いてなかったはず。
もう30になるという歳で、職務経験もないあの子が、今すぐどこかで働き口をみつけて、住むところをみつけて、一人暮らしをして、ってできるのか?
もしくは、こちらに帰ってきても生家はない以上、ここに住むのか?
俺には子供が二人できていた。
言葉にはしなかったけど、妹との暮らしは、子どもたちには悪影響ではないかと思ってしまっていたことは、忘れていない。
仮にそれが一時的に出てしまったのだとしても、時間が経てば解決する。
離婚なんてしなくても済むはずだ。
母はその晩、妹に電話をかけた。
離婚したとして、どうやって暮らしていくのか?現実的に難しい問題がいくつかあることを妹に話していた。
だから、もう少し頑張ってみたらどうか?とも。
今思えば、いつでも帰ってきておいで、って、言ってやるべきだったかなあ。
妹はまもなく首を吊った。3日間意識不明をさまよったのち、死亡となった。
俺は妻に子供を任せ、両親を連れて嫁ぎ先へ飛んだ。
旦那さんの憔悴ぶりは見ていてとても可哀想で、なにより申し訳なかった。
俺は仕事が有るのと、妻に幼い子供2人押し付けてるのも気に掛かかるものだから、両親を残して通夜だけでお暇した。
旦那さんは別れ際に、「僕のせいで、申し訳ありません」と言ってくれた。
この時点で俺は、妹の亡骸を見てもなお、妹が死んだ事実よりずっと、俺の妹がこの人やこの人の家族に迷惑をかけてしまったということのほうが胸を占めていた。
そう言って別れた。旦那さんは泣いていた。
俺は本当に浅ましかった。
あのまま妹を俺の家に受け入れていれば、妹は俺の家を破壊したかもしれないし、俺の家で首を吊ったかもしれない。
そう思うと、妹が、意識不明から復帰することがなくてよかったし、すべて旦那さんがケツ持ちしてくれてよかった気がする。
そもそも妹が嫁いだとき俺は、「これで妹に縛られた人生から開放される」「死ぬまで妹の面倒見てくれる人ができてよかった」そういう気持ちではなかったか。
旦那さんは、こんなかたちではあるが、妹が死ぬまで面倒見てくれて、汚れ仕事をすべて請け負ってくれた恩人。
旦那さんの未来は、もしかしてこのことのせいで暗く閉ざされてしまうこともあるかもしれないけど、俺たちは、旦那さんのせいにして、何ら変わらない日々を送れるんだ。
はやくこの地を離れたい。
そういう気持ちでいた。
あれから2年が経った。
1周忌は仕事を言い訳に行かなかった。妻も両親も旦那さんも、俺に何も言わなかった。
今月、妹の3回忌があった。そのため久しぶりに嫁ぎ先を訪れた。
曇天でいまにも降り出しそうな空模様のなか、お経を聞いた。
そんなに多くの法要に顔を出した経験が有るわけではないのだが、よく見るのは、故人の配偶者が存命の場合は、故人と配偶者の馴れ初めや思い出なんかを坊さんが語ってくれたりして、参列者でほっこりして、故人を悼んで…なんてするイメージだった。
そういうのは無かった。離婚が決まっていたからなのか、自殺だからなのか。もしくは、旦那さんに新しい女でもいるのかな。見覚えのない女性の参列者を見かけると、そんなことを考えたり考えなかったりした。
法要のあとは、旦那さんと妹が暮らした家に伺って、形見分けをしてもらってから、両親を伴って帰路についた。
旦那さんと妹が暮らした家は、記憶の奥底に閉じ込め蓋をし忘れたことにしていた、実家を思い出すようだった。刃物や食器を投擲することによってついたであろう傷は、しずかに床や壁にこびりついていた。
2年間の月日が流れる中で、妹の嫌悪を感じる点も、忌まわしさを感じる点も、憎悪を感じる点も、あまり思い出せなくなっていく。
思い出を美化しているらしく、生前は良い思い出とは思っていなかった記憶さえ、なんだか温かい感情を伴って思い出されることすら有る。
だから、本当の妹は、ここに書いているよりもずっと酷い人間だったかもしれない。
記憶の美化は故人の美化で、それは後悔を呼んだ。
幼い頃から妹に手を焼く度に忌まわしく思ったし、
脅しによって周囲の人間を思い通りに操ろうとする様を本気で憎んだときもあったよ。
だけど、俺から見たら「気に入らないこと」「思い通りにならないこと」で感情を爆発させる妹だったけど、
妹にとっては、きっとそれが何より辛くて苦しくて助けてほしいことだったんだよなあ。
今でこそ、境界性パーソナリティ障害っぽい、だなんて偉そうにラベルを貼れるけど、あの頃は、そんな妹自身が抱える暗闇について、目を向けることすら無かった。
分かりにくかったけど、きっと助けてほしかったんだろうな。
妹を大切にする暇もなく、妹より大切なものをいくつも持ってしまって、さいごまで蔑ろにしてしまったかな。
あの頃俺がつらかったのも事実だし、
そして、この2年の月日で、母はどんどんおかしくなった。
母をまもるため、母を大切にするため、俺はこの家を建てたのだけど、母はいま妹ばかりだ。
俺が妙な助言をしてしまったせいで、母は妹にあんな電話をしてしまって、だから妹は死んでしまって、だから母は壊れてしまったのかなあ。
妹がヒステリーを起こして母を殴るたびに、母に刃物を突きつけるたびに、俺は母をかばったものだけど、母はそれももう忘れてしまったのかなあ。
俺が生きていても、母にとって意味はないのかなあ。
俺の子どもたち、母にとっては孫であるこの子達も、母の大切な一人娘が死んでしまったことの前では、無価値なのかなあ。
父は、もともと目が見えない人だったが、母がおかしくなってから、認知症も進行したように思う。
ハンディキャップが有る父。妹に攻撃される母。人格障害っぽい妹。
俺も、頑張りすぎたのかな、幼い頃から、妹の兄でありながら、妹の父のかわりや、母の夫のかわり、あらゆる自分を演じようと、無理をし過ぎたかな。
こんな俺が、妻や子どもたちを大切にできているのかな。
いろんなことが複雑に絡み合って俺たちはここにいるんだなあって最近よく思う。
最初は、「妹が自殺したのは、配偶者である夫とのいさかいのせい」と思い込もうとしていた。本質はどうあれ、そのほうが俺の人生にとって都合が良かったから。
だが、壊れてゆく両親という現実や、美化される自分の記憶とともに、その自己暗示も、維持ができなくなってきて、自責の念が強くなってきたと思う。
それと同時に、なぜか新しく故人である妹への憎しみが湧いた。
俺たちを苦しめる原因って結局すべて妹だ。感情を削ぎ落として考えたらそうだ。
そして母への怒りを感じた。
俺は子供だったし、母は大人だった。夫が盲目だからって、俺に頼り切りでなく、大人として責任を果たしてほしかったよ。
妹が死んだ途端、被害者ぶるのはやめてくれ。
あの子を病院にかからせることができたのは、あの頃はあなただけだったじゃないか。
俺に負債をおしつけて、それで今更被害者面なんて、浅ましいと思わないのか。
色んな感情が渦を巻く。
妹はこんなふうに壊れる俺たちが見たかったのだろう。
妹を厄介払いするように嫁にやって、妹以外で結託している俺たちに、自分の重要性を知らしめたかったのではないか?
他人を変えるために、死というウルトラCを用いて、インパクトを与える。
他人というのは、俺らだったかもしれないし、旦那さんだったかもしれないけど。
まんまと呪われた母は、そして呪われた母に巻き込まれて変わらざるを得なかった俺や父は、
妹の思うつぼだということだ。
でも、妹はそんなやつじゃないとも思うんだ。
本当に逃げたかっただけだ。
俺たち家族からも、旦那さんからも、厄介者扱いされていると感じてしまう現実から。
見捨てられる恐怖から。
もちろん俺たちだってそんな、あからさまに厄介者扱いなんてしなかったよ。でも繊細で傷つきやすいあの子は、なにかを受け取ってしまったかもしれないじゃないか。
そんな弱い子でもない。
あいつは、内面にそういうマグマをかかえつつも、無難に人付き合いができる賢い子でもあったよ。
怒りっぽく、傷つきやすく、繊細で、家に帰れば人の悪口ばかりだが、本人の前ではおくびにも出さない。そういうしたたかな子だった。
自殺だって、彼女が彼女なりに選択をしたことだ。良し悪しはべつにして、彼女の中にそれなりの正義があったに違いない。
同情がほしいなんてそんな浅ましい理由で、こんな愚かな真似をするわけがない。
だから、外野に過ぎない俺等が勝手にあれやこれや憶測や妄想をして、勝手に因果関係を見出して、勝手に怒ったり悲しんだり憐憫したりするのは、彼女に失礼ではないか、とも思う。
とにかく。
自殺って本当に良くないな。嫌でも思い出すし、
外野が勝手に悲劇のエッセンスに利用してるのを見ると、自分のことのように腹が立つ。
にしてもだ、自殺って脳天気なバカどもが考えてるよりずっとずっと地獄だよ。
自分のクソデカ感情をシェアしたくなる気持ちはわかるけど、自死遺族からしたら、それすらもノイズだったりするかもよ。
発信することは、真意が売名でも承認欲求でも吐き出しでも追悼でも救済でも擁護でもなんでも、ノイズになりうるし、エゴイズムだと思う。
しらんけど。ありがたく思う人もいるかもしれんけど。
フィクションじゃないんだよ。病死や事故死や老衰とは話が違うんだよ。故人の何を知っているんだ。
自殺するようなことがなきゃ、書かれなかったであろう伸びなかったであろう記事をいくつも見たよ。
自死によって世界が変わるのは、良く変わっても悪く変わっても、なんだかテロリズムを感じて気色悪いんだ。
生きてようと死んでようと、その人間が行ってきた善行も悪行も変わらないから、本質的には同じなのに。
俺は芸能人や有名人が自殺しても勝手な憶測は書かないようにしているし、因果関係も見出さないし、責任追及もしない。憐憫もしない。
死者が物言わないからって、単なる憶測がでかい面をしていい理由にはならない。
本気で愛してんなら、自殺と絡めず書いてくれ。だし、死ぬ前に書いてやれ。愛だけ叫んでろよ。
正直宮﨑駿というアニメーターのお遊び以前に、今まで日本国内に刺激を与えた数々のジブリ産アニメ映画そのものが見たかった。
宮崎駿のアニメは日本に限らず、世界中ほとんどの人は一度も鑑賞もしくジブリというスタジオの名を聞いたことがある。
この時代の人間が持っている心象風景、時代精神は宮崎駿を語らずにいられない。現代のロックソングは、ビートルズという背景があるから発展して来たのと同じだ。
というか、宮崎駿作るのがアニメだけではなく、幼少期の「見る」冒険である。幼い頃に、みんなはもものけの壮大な自然に神秘を感じ、千と千尋のトンネルから冒険心を育つ。ラピュタで男女の純愛に目覚め、トトロで友愛を知った。
ジブリの映画が存在しているだけで、確実に世界はある程度優しさが増えた。
ところが、君生きはなんだろうか?
君たちはどう生きるかという思想の強いタイトルを挙げながら、ただただ今までの作品の二番煎じのように、主人公は自由意志がなく、ひたすら母を求める。その母への愛情ははっきり言って共感しにくい、特に若い世代に関しては、エディプスコンプレックス的な描写あるいは哲学思想は、陳腐以外他ならない。
宮﨑駿の独りよがり、彼だけにしかわからないエディプスコンプレックス、徹底的なエゴイズムだったことは明白であり、宮﨑駿という人間へさほど関心を持たない人々にとっては、どうでもいい話。どうでもいい映画なのだ。
それでもこの映画を深いとか、教養が要るとかと漠然と代弁してくれるものがいるが、こいつらは夢から目覚めたくない人たちである。
この作品は深淵であり、洞察しようと近いたら何もない闇に堕ちてしまう。宮﨑駿が長年に渡り、隠して来たニヒリズムそのものの固まり。
エヴァの卒業式みたいなスッキリした気分にはなれず、捨てきれずに残った元カノのメモリアル的な存在だった。風立ちぬで終止符を打ってくれるとダンディではあるが、君生きで〆るのが、無敵の人の無差別テロかストーカーの未練ダラダラみたいで気持ち悪い。
一昨日映画見に行ったのに、未だにこの不快さが取り除けない、あと褒める人がいることを見てさらに陰鬱な気分になってしまう。
とりあえず最後の最後に無差別テロをやってしまう宮﨑駿は、所詮人間だった。
追伸
こういうセリフ吐いたらまず間違いなく
って問いを突きつけられるんだけども、その覚悟はできてる?
他者に寛容を求めるとき、自分もまたおなじ物差しを持つことを求められているっていう現実は理解できる?
増田の自衛隊が異常者を許容しろというのを拡大すると、増田が兵隊であったとき、「隣に異常者が居て、それが鉄砲を持っていることを許容する」と宣言していることにほかならないのだけど。
他者に寛容を求めるというエゴイズム、極めて冷酷かつ卑劣な態度にも少しは思いを致して欲しいところ。
増田の中にも厳然と「これはコストとして負担し合うにしても流石に割に合わない」というラインが有ることを突きつけられることに思いを致して欲しいところ。
カッコつけられるからと安易に博愛主義者を気取るなよ。リベラルみたいな末路を迎えるぞ。
*追記*
ごめんね。
「チ。」が如何に優れていたのかを改めて感じた。
悪いけどこれが俺の第一印象だ。
チ。の主人公は嫌な奴だ。聡明で物分りが良いいが故に他人を見下しがちだが、同時に自分の頭で納得したものに対して半端な曲げ方をしない暑苦しいエゴイズムを持っている男だ。合理的に嘘を付いて暮らしてきたくせに、合理的でないと分かった上で自分には嘘をつけないと人生を直感に捧げてしまう。物語の主人公として求められるある種の異常さを納得感のある形で作り上げている。ぶっちゃけ漫画のキャラクターなんて多少嫌な奴であっても、行動に納得が出来れば許されてしまう。むしろ変に良い奴すぎると読者が期待するような善行を常に取らなければいけない縛りが邪魔になる。嫌な奴かどうかよりも、行動に納得ができるかが重要なのだ。
アナトミアの主人公は良い奴だ。だがそれだけで終わっている。医学に対する熱意は善人だから現状を変えたいと思っているというただそれだけで終わりだ。善人のテンプレートだ。薄い。奥行きがない。癖がなさ過ぎて自分で物語が動かせないから、ダ・ヴィンチに付き従うだけの従者のようになってしまっている。
もう一人の主人公としてのダ・ヴィンチだが……こちらもよくある「奇行の目立つ天才」というキャラクターのテンプレートそのまますぎる。この漫画のダ・ヴィンチにしか出せないものがないんだ。強いて個性をあげるならBLムーブを乱発することだが、それもまたBLのテンプレをなぞるばかりで個性が見えてこない。
総じてキャラクターに個性がなく、同時に行動に対して信念が見えてこない。描きたい物語とBL的な見せ場の都合ばかりが優先されてしまっていて、作品全体に流れる登場人物の精神エネルギーを全く感じ取れない。
既製品の台本をそのまま読み上げているだけの学芸会のような、どう転がっているのかが分かりきった物語を棒読みで再生するだけの光景は実に退屈だ。
扱っている題材は珍しいが、それ以外の強みがない。
娯楽漫画のキモはキャラクターだ。キャラクターの内面にある感情の機微だ。恋愛漫画で描かれているのはキスや告白そのものではなく、その瞬間に湧き上がる感情であり、そこに至るまでの気持ちの流れだ。バトル漫画の頭脳戦が盛り上がるのは、知恵を絞ってこの状況を打破しようとする生存本能や執念にこそ共感するからだ。題材は本質ではない。
もちろん、勉強についての漫画であるなら題材こそが本質になることはある。たとえばマンガでわかる◯◯なんかだと、キャラクターの内面の動きなんてものは実際には重要ではなく、題材となるものが実際に用いられるシチュエーション等を上手く想定させてくれればよい。(最近読んだ菊水電子のマンガでわかる 直流安定化電源を例として貼っておきます。オタクはこういうの好きそうだよね https://kikusui.co.jp/comics/)
この漫画は解剖学の歴史を学ぶための勉強漫画なのか?それとも物語を楽しむ娯楽漫画なのか?おそらくは娯楽漫画の方だろう。それならばもっとキャラクターを描かなければいけない。テンプレBLムーブをする変人×善人のお医者さんごっこを求めている読者はBL本コーナーに来る客であり、この漫画の想定読者は違うんじゃないのか?
なにも「海が走るエンドロールからすべての顧客を引っ剥がしてこのマン1位取ります!」程の気合を入れろとまでは言わないが、自分がどういった相手に向けて漫画を描きたいのかはちゃんと想定した方がいい。
テンプレBLイチャイチャ漫画を書きたくて解剖学を題材にしただけだとしても、それならもっと解剖学というシチュエーションを助平な妄想へと昇華させていくべきだ。中途半端なものを出して生き残れる時代ではないぞ。
大人向けの開架室や閲覧室をアホみたいにガラス張りにする必要はなかろ?という話では?
人の数だけ批判する理由があるんだから子供向け開架室で子供が本を雑に触って本が痛むという批判と大人向け開架室がガラス張りになってるせいで紫外線で本が痛むという批判を十把一絡げに扱う事がおかしいよね。
「本が痛むから開架室を見た目優先でガラス張りにするな」という批判と「本が痛むから子供に雑に本を触らせるな」という一見似たような批判が寄せられた時に後者への反論を根拠に「本が痛むのは仕方ない」と言っても「じゃあ紫外線で本が痛むのは何が仕方ないの?」という問いには何も答えられてないじゃん。
子供を盾にして「おしゃれな空間で本を読みたい。そのために本が傷んでも仕方ない。また買えばいい」というのはちょっとエゴイズム強すぎじゃないですかね?
そういう風に詳細つきで「切り口を変えるとエゴイズムにも見える」て言うのと「出産は親のエゴだとは思う」て言うのとは全然違うやんけ。
悪気・煽る気が無いなら言葉の使い方を考えなさいよ。
Youtubeを見ていると「実現しよう 煙のない社会を」というフィリップモリスの広告を頻繁に見かける。これは、あの広告が個人的に嫌いという話である。
メモを発展させて書き殴ったものなので、丁寧に構造を組み立てておらず、読みづらいかも知れない。あしからず。
さて、僕は煙草が嫌いだ。
どちらかと言えば、世論は喫煙に不寛容になっているようだが、僕の嫌煙は同調や順応の結果ではない。身内の喫煙者がタバコを吸うとき、必ずと言っていいほど苛立っていたことが原因である。
僕にとってタバコの紫煙は、常に叱咤と対呈示される理不尽の象徴であった。条件反射的にタバコに不快感と無力感を持つようになったため、街頭で煙に曝露されると、たちまち疲れてしまう。
幸い、他には何の不自由もなく育てられたが、それだけにタバコの煙には敏感になった。
こういった経緯で、喫煙者を一人一人鈍器で殴って絶滅させたいと思ったことすらある人間が、フィリップモリスの広告に反感を覚えるのは、意味が分からない説得だからである。
広告では、日本のどこかと思しき佳景に煙がかかっている様子を映し出し、まず「日本は美しい」と評価する。そして次の瞬間、その煙が晴れることで、煙がなければ日本はさらに美しくなると主張し「実現しよう、煙のない社会を」と締めくくる.......
さも日本の自然がタバコの煙によって脅かされているような描写であるが、そんなことはない。現状、吸殻の方が大きく影響している。あれほどの粉塵濃度はまずあり得ないし、あったとしたら先に酸性雨で美しい自然がズタズタになっていそうなものである。
あんなに人の少なさそうな場所で、あれほどの煙が滞留しているのなら、日本は世界一のヘビースモーカー国家に違いない。化石賞なんか貰ってる場合ではない。
実際、新宿西口のクソデカ喫煙所の方が圧倒的に煙に覆われているはずだが、広告で示されていたほどの粉塵濃度はなく、景色が隠されることなどはあり得ない。このことは、田舎生まれ田舎育ち田舎在住の僕ですら経験的に知っている。
人跡未踏ではないにしろ、あのような辺鄙な土地に新宿西口以上の喫煙者が集うはずがない。愛煙家コミュニティの喫煙バーベキューパーティーでも厳しそうな感じがある。
視覚情報を手がかりに訴えるのだとしても、少なくとも煙では事実に反するから、無理があるように思う。
個人的には、やるなら吸殻の方がいいんじゃないかと思う。生態系が壊れるから無視はできないし、生き物の死骸で同じようなことが出来るから...
ともあれ、分かりやすさのために、視覚情報に訴えることを企図ことまでは良かったが、方法として煙を使ったことで、やむ無くでっち上げた嘘であるように見える。
広告である以上、わざとらしいことには目を瞑るとしても、関連のない部分を関連しているように見せること、あるいは事実と異なることをでっち上げることは、色々とまずいように思う。
法律には詳しくないが、これはなんちゃら表示法とかに触法しないんだろうか?
また、煙が晴れる瞬間に、本来の写真から彩度を上げている部分も気になる。いや何してんの?
加工によって、あるがままの日本の自然の美しさを否定していることについては、何とも思わないのだろうか?「日本は美しい」のでは?
あれでは「煙がなければ更に」ではなくて「加工をすれば更に」ではないか。当たり前すぎる。
こういうわけで、最初見た時からこの広告が嫌いだ。こんな空虚な説得で、一体なにがしたいんだろうと常々思っている。
あれで人生を数秒無駄にするのが腹立たしくなったことがきっかけで、僕はBraveをインストールした。最高。
ここからボルテージを上げてブチ切れようと思ったが、これ以上言っても仕方ないし、徹夜の作業明けで眠いのでやめておく。
代わりといっては何だが、動画を見る度にメモしていたことをまとめたものを以下に箇条書きで示しておく。苛立ちを共有したいだけで、深い意味はない。
・は?
・見窄らしい詭弁
・蛮勇と蒙昧のハーモニー
余談
こういう分かりやすさにそのまま乗ってしまう人がいるのが一番怖いなあ...と思っている。
何かを疑い続けることをやめた人は、適当な詭弁を弄する輩に賛同し、極端な判断をしてしまう。それは信じることではなくて、無批判に受け入れることだ。字義通り、センスがない。
今のところ、喫煙者は高額納税者として、きちんとその義務を果たしている。権利を奪うにしても、論理的な事由がなければ、それは圧政になる。こんなことで奪おうと思うべきじゃない。
僕はタバコが本当に嫌いだが、ここだけはしっかりしてえなあ...とマジで思った。考えるきっかけをくれたことは感謝すべきなのかも知れない。
まだまだ自分の中の「子供」を抑えきれないという自覚はあるものの、妻と子を想うこの感覚が幼い頃に自分が見ていた親父なのかと最近理解できるようになってきた。
あぁなるほど、これが保守的になる、頑固になる、理解のない大人となるって感覚なのか。
それと同時に愛や恋を理解した気になっていた10代20代の自分が凄く恥ずかしいものに思えてくる。当時に戻れるのならば「まだまだだぞ」と言ってやりたいが、これもそう言えば親父や年上の上司、先輩から言われ口うるさいなと流していたような気もする。
あぁなるほど、あれは青臭い自分自身の過去へ向かって言ってたのか。
いまウクライナの情報が耳へ入るたび同じ父親が戦場へ立つことの意味と覚悟に共感し、胸が締め付けられる思いだ。
同じ立場なら1分1秒でも妻と子へ銃弾が届くのを遅らせるため戦場に立つという選択をするだろう。遅らせればもしかしたら運良く銃弾が止むかもしれないしと。
敵兵にも父親が居るだろう妻と子が居るだろう。
でもそんなこと知ったこっちゃない。極限まで自身のエゴイズムの発露、自分を含め誰かを犠牲にしてでも妻と子だけは生かす、国なんかどうでも良い、妻と子だけはどうにか守るんだとエゴを通すために従軍する。なんて身勝手なんだろうか。
エゴを通す父親の頑固さとは救いがたいものがある。
救われなくたって良いという開き直りすらしていて、ウクライナの父親たちは従軍しているんだろう。わかるわかってしまう。
恋人が出来ても結婚してもこんな感情を知ることはなかった。
なんなら子供が生まれた直後ですらまだこんな感情は持っていなかった。
結婚当初よりも妻は老けて、生まれたときよりも子は成長した。
そして年々大きくなる自分の中の夫や父親という属性。男はいくつになっても変わらないと言うが、そんなのは嘘だ。
父親の先輩方へ言いたい「みなさん心の中の“コレ”を隠してますね?」と。若いうちはまったく気付きませんでした。
そして「確かに“コレ”は人前では見せちゃいけない。下手をすると人を殺すものだ」と同意したく思います。
愛は光り輝くもの、もしくはドス黒いもの、そんな理解じゃ浅すぎました。
愛は献身、もしくは欲望、そんな理解じゃ浅すぎました。
これを心の中に押し留めて、普通に生活している父親の先輩方に頭が下がる思いです。
未経験では、気付くまでは、何を言っても伝わらないものだと若造へ伝えてこなかったのはこういうことなのですね。
私も自制しつつ精進していく所存です。