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2012-12-06

エヴァQ

にわかからかもなんだけど、それにしてもQはよくわからなかった。

映像は申し分なく綺麗で圧倒された。凝ってて、きれい。

演出も中二を極めていて非常によかった。どきどきわくわくした。

ストーリーなんだけど、たぶんなんかすごいものがあるとおもうんだけど、よくわからなってきて、途中で寝てしまった。

TV版を見た時、わかりやすい中二感やキャッチーな部分と、よくわかんないけど凝ってるのはわかる謎の中二部分の組み合わせに惹かれて好きだった。

新劇場版は例えばアスカの幼さやヤンデレとかキャッチーな部分がなくなったりして、もともと個人的には残念だった。

Twitterの絶賛ツイみると、旧劇との対比をふまえてQは非常に秀逸とかあって、もうエヴァのことを通りすがりのお客さんとして楽しんでるだけじゃダメレベルでわかってないと楽しめない空気だった。

自分も旧劇見たり、TV版を一気見とかじゃなくてちゃんと細かく見たらわかるようになるのだろうか。

2012-12-01

ヱヴァ:Q見てきた

 技術的にはなるほど失敗作だけど、いったん完結したはずのエヴァなんかを持ち出して何をやるのかという新劇場版の企画意図みたいなものはやっとわかってきた。要は破滅的な結末だった旧劇EoEを「アスカルート」(アスカED)とした場合、「レイルート」をやりたいってことだよね、これ。

 果たしてそのレイEDが「トゥルーエンド」になるのかどうか。

 それとももう一周あるのだろうか。

2012-11-25

アンチエンターテイメントとしてのヱヴァQ

<はじめに>

ヱヴァQ面白く無かった人の中には、どうしてそれが面白く無かったのか、

どうしてあんなに面白く無かったものをありがたがる人がいるのか、を理解できない人もいるかと思います

(理解した上で嫌悪感を感じる人は本説明の対象外です)

そうした人達に向けてヱヴァQおよび旧作エヴァンゲリオン面白さと面白く無さを説明してみます

ただし、これは「説明」なのであって、ヱヴァQはだから面白いよねという「説得」ではありません。

理解できたからといってヱヴァQ面白くなるわけではありません。


<要約>

ヱヴァQアンチorメタエンターテイメント的な構造=「期待を裏切られる楽しみ」を持っている。

(ここでいう「期待」とは「謎の提示→解決」「話のフリ→オチ」「主人公の苦難→成長」という、従来のエンターテイメントが持つ構造である)

「期待を裏切られたこと」が受け入れられない人は当然つまらなく感じるし、裏切られる楽しみを感じた人は楽しめただけの話。


ヱヴァQ面白くなさのパターン

1.アニメの絵、動き、音楽が嫌い。

 これについては説明できません。「そう感じる」のだから仕方が無いありません。

 ただ、他アニメに比べて単純にクオリティが低かったかどうかで言えばそんなことは無かったのではないでしょうか。

 

2.ストーリーが嫌い、よく分からなかった。

 本説明は、こちらに関する説明になります


メタorアンチミステリとしてのエヴァ群>

 通常、お話には各文章毎に意味があり、お話世界の設定を示し、物語が流れ、オチがつきます

 これが普通の「エンターテイメント」です。たとえばミステリを例にとってみましょう。

 まず小説世界の設定が示されます。その示し方、というのは作者が見せたい示し方「ある視点からみた小説世界」です。

 その世界には「謎」がありますクライマックスで作者は別方向から視点を持ち込んだり、

 視点の位置を変更することによって「謎の解決」をはかります。これがミステリです。

 旧エヴァンゲリオンと新ヱヴァンゲリヲンには様々なエンターテイメント要素「純文学的」「SF的」「ミステリ的」な楽しみが入っています

 本論ではミステリとしての切り口からエヴァ群およびエヴァQを読み解きます

1.ミステリ歴史

  エヴァには謎がちりばめられています南極で4体いた巨人は何なのか、槍とは何なのか、人類保管計画とは・・・etc

  通常のミステリエンターテイメントではこれらの謎には一応の説明=オチがつきます

  謎と回答がセットで用意されていることがミステリエンターテイメントの条件なのです。

  謎に対する回答が論理的でないことはミステリエンターテイメントでは批判対象になります

  では、謎に対して論理的な回答が用意されていればいいのでしょうか。答えは否です。

  当たり前すぎる謎への回答は「つまらない、面白く無い、想定の範囲内」としてまた批判対象になるのです。

  ミステリエンターテイメント歴史はこの矛盾した期待「筋道が通っているのに予想を外す」に応えた歴史でした。

  エンターテイナーは密室を作り、アリバイをでっちあげ、人物を交換し、天狗の鼻の上でナイフを滑らせたのです。

  しかし、読者には読書体験が蓄積されます。「密室もの」「アリバイもの」「島田荘司のいつもの」などのように予想は外れにくくなります

  ミステリ系が広まることがミステリ系の楽しみを成り立ちにくくするのです。ここでエンターテイナーはさらに頑張りました。

  密室ものと見せかけかけた人物入れ替え(トリックトリックとして使う)や、

  文章を意図的に誤読させることで謎でないと感じていたもの最後に謎であったと提示する(叙述トリック)などです。

 「読者の読書体験込み」の謎(トリックを知っている読者への謎)を作ったのですね。

  しかしかし、それすらも読者の読書体験に織り込まれてしまます。「ああ、これは叙述トリックもの」だね、という風に。

  こうしてミステリエンターテイメントパターンは全て出尽くしたように見えました。あとは各作家文章力/味付けだけの世界になったように思えました。

  しかしかし、そうではありませんでした。ミステリエンターテイナー原理主義者が考えた最後兵器最後の謎、それがアンチorメタミステリです。

  アンチミステリメタミステリとは何か?それはミステリエンターテイメントの条件「謎には回答がセットで用意されている」という想定、

  「これはミステリだろ、という読者の読書体験を裏切る」ミステリのことです。(読者体験を念頭に=メタ、解決の放棄アンチ)

  ミステリ的に提示された謎は解決、されません。貼られた伏線には何らかの意図があり、背景には脈絡が流れているにも関わらず永遠にそれが明かさないのです。

  読者は怒りました。怒り狂いました。こんな本は狂っていると騒ぎ、壁に本を投げつけ壁に穴をあけ、火を付けてさつまいもを焼いたのです。

  ただ、一部の読者は壁にめり込んだ本を再度開き、焦げた本を再度繋ぎ合わせ始めました。

  何故か?永遠に解決されない謎がとても魅力的に思えてきたのです。

  アンチorメタミステリがただの問答無用の「裏切り」だったとしたら、それはミステリでもなんでもありませんでした。

  しかしかしかし!アンチorメタミステリはきちんと「ミステリ」でした。何故か?提示されない、収束しないだけで、回答らしきものは「読めた」からです。

  作者はデタラメに謎を配置したわけではなかったのです。

  謎の配置には意味がありました。完全に繋がっていない謎同士、明かされずぶち切れた伏線から、かすかな破線のような真実の輪郭はかろうじて読めたのです。

  一部の読者たちは途切れた伏線をつなぎ、明かされない謎を照らし合わせました。そうしてできた回答は一つではありません。

  読者の数だけ答えがありました。いや、読者が考える度に回答が産まれました。

  作者の意図は完全にトレースあるいはサルベージできない(ようにつくられている)ため、当然のことでした。

  本を拾いあげた読者たちは各々、自分の回答について話合いを始めました。そうしてまた、新しい回答群が産まれたのです。


2.旧エヴァ歴史メタorアンチミステリ

  エヴァにはたくさんの「読みかた(視聴の視点)」があります

  それは他のアニメにも言えることかもしれません。ですがエヴァは思いつく限り全部入り、ぐらいの要素が入っているのです。

  SFとしてのエヴァ純文学としてのエヴァミステリとしてのエヴァキャラ萌えとしてのエヴァ

  それぞれが本格的に作られており、それらが複合的に絡み合うことで色々な読みを許す懐の深いアニメです。

  当時、それら本格的な要素を持つアニメとしてエヴァはそれなりに期待されました。

  TV放映の途中まで庵野監督は概ねそれに応えていたといっていいでしょう。

  しかし、最終的には庵野監督視聴者の期待をことごとく裏切ります

  TVエヴァでは最終二話にはエヴァほとんど登場せず、伏線は回収されず、ただ主人公が救われたという心象風景けが提示されます

  旧映画版。今度こそ、と期待されたものを再び庵野監督裏切りました。

  復活したヒロインは次の瞬間無惨に食われ、主人公最後最後まで成長らしきものをせず、謎らしきもの回答は完全には示されませんでした。

  たくさんの視聴者失望・・・しませんでした。これこそがエヴァだと叫び、糞だ糞だと拍手喝采褒め讃えたのです。

  エヴァいかに糞でその糞が何を描いていたのかについて各々語り始めました。

  何故か?視聴者は「裏切られることを予期していた」からなのです。

  TV版最終二話でなされた裏切り庵野監督が持つオタクへの自己嫌悪から発生したと言われるファーストインパクト

  これはうんこでした。ただただ庵野監督うんこをしたかった。とてもうんこがしたかったことが原因で産まれた巨大なうんこでした。

  しかし、これが偶然にもアンチエンターテイメントアンチミステリの形式を踏んでしまうことになります

  「開示される予定だった真実が巨大な庵野うんこによって適度に隠される」ことで良質なアンチミステリとなってしまったのです。

  デリヘル・ガイナックス♪で嬢呼んだらいきなり罵られた挙げ句勝手に帰ってしまったんだけど、そういうプレイだと思えば良質だったみたいな感じです。

  この放置プレイが評判を呼び、放置プレイマニアがこぞって映画館に行ったのですから、文句の出ようがありません。

  いや、息子のわがまま映画館に連れてこられた私の家族など、一部、可哀想な人たちがいたことは事実です。歴史の裏にはいつも悲しみがあります


3.新劇場版ヱヴァメタorアンチミステリ

  作家は挑戦をせずにはいられない生き物です。

  庵野監督10年くらいたったから、そろそろうんこ溜まってきたし、うんこしよう。するなら、前回よりもおっきいのを、だ。と考えました。

  巨大うんこのために作られたより巨大な謎、セカンドインパクト、それが新劇場版ヱヴァQでした。

  序、破は伏線でした。庵野監督は旧エヴァ制作/公開体験を、そして視聴者の視聴体験を利用します。

  つまりメタミステリとしてのヱヴァ「第一の裏切り=お、これ、前と違ってまっとうなアニメじゃん!」です。

  旧劇では糞が半分読まれていました。

  旧劇を超えるためには、序、破、でエヴァが糞で謎を隠す形式のミステリである視聴体験を払拭する必要があったのです。

  普通の糞好きに普通に映画館にきてもらっても、もう、庵野監督は満足できない。

  訓練された糞好きでも楽しめる、よりアクロバティクなうんこを魅せるとともに、

  中年男性うんこを放り出したとこをみたこともない女子高生うんこの素晴らしさを伝える、という庵野監督の願い–––––––人類補完計画

  この発動を目的として作られたため、序、破は精巧に綿密にまっとうなエンターテイメントをしていました。

  そして、ヱヴァQ。やってしまいました。満を持して登場した監督ヴンダー希望に糞を放り出す12使途(ネタばれ)として登場。

  観客を糞塗れにします。

  君の言っていることはほとんど意味が分からないよカヲル君、それどころか肝心なことは何一つ言わないよシンジ君以外のみんな。

  これが第二の裏切り

  一人じゃないんだ、と思ってたら「孤独でしたー」

  前に進めたんだ、と思っていたら「進めてませんでしたー」

  槍でやり直せると思ったら「やり直せませんでしたー」

  です。

  この、完全なる王道エンターテイメント期待への「裏切り」。

  救われるべきものが救われないアンチエンターテイメント、開示されるべき謎がほったらかしのアンチミステリこそがヱヴァQなのです。

  つまらないのは当然なのです。まっとうな反応なのです。面白いとみせかけて面白く無く作ったのですから面白いけが無い。当然のことです。

  ただ、「期待を裏切るという形式のエンターテイメント面白さを期待されたら、最終的には<面白いことを裏切る>しかない」んです。

  一度は必ず「面白く無いという面白さ」へ行き着いてしまものなんです。これはもう、ある程度しょうがない。

  問題は次回作シン・エヴァンゲリオン劇場版に持ち越されました。

  ここできちんと伏線が回収される!と見せかけて回収されない!謎が開示される!と見せかけて開示されない!のか、どうかは分かりません。

  アンチ構造最終回だったとしても、ある程度、おぼろげながら真実が見える形には仕上げてくるのではないでしょうか、というのが僕の予想です。



4.インターネット世代メタorアンチミステリ

  最後に、ミステリの形式とネット社会について述べておきます

  ある一つの解を持つミステリは、ネット社会においては瞬時に消費されます

  AはBだったんだ!以上!という情報は急速に読者や読者ですらない人間に行き渡ります

  「なあんだ、Aは結局Bだったのね。あーあれね。昔あったA=B型カテゴリのやつね」というふうに。

  物語の延命をはかろうと思うとメタorアンチミステリの形式をとらざるをえないのです。

  読者が謎と真実について語り合うことで新たな謎が生まれ、語りが語りを呼ぶことで物語はかろうじて生きながらえるのです。

  だから、今は普通エンターテイメントにもアンチ的要素は含まれます

  ある物語できちんとオチがつくものの、別の読者を引きつける開示されない大きな謎がシリーズを繋ぐとみえる、などベタな展開ですね。

  ちょうど、TVゲームネットゲームになったことにそれは少し似ているかもしれません。

  ゲーム攻略のものではなく、攻略について語り合い、次アップデートへの期待について語り合うメタな楽しみ。

  ラスボスを倒しても終わらないその営みこそがネットゲーム醍醐味です。

  エヴァンゲリオン、一体、どうなってしまうんでしょうね、楽しみですね。

  こちらからは以上です。

2012-11-24

ヱヴァンゲリヲン疾走する。情弱は追いつけない。

音楽評論家宇野功芳に「メータ(注:インド出身指揮者)のブルックナーなど聴くほうがわるい、知らなかったとは言ってほしくない」という言葉がある。

その言葉にならうのであれば、本作を過剰に批判する側にも、称揚する側にも、「ヱヴァンゲリヲンはそういうものなのだ。知らなかったとは言ってほしくない」の言葉を添えたい。

「Q」はアップデートされた「エヴァであるから「旧作の狂気が帰ってきた」と称揚する評は間違っている。「意味がわからない、映画としての書法をなしていない」との評価も間違っている。

見る側を常に裏切るのが「エヴァなのだ

庵野新劇場版を作る前の宣言文でいった。

「この 12年間エヴァより新しいアニメはなかった」と。

その言葉伊達ではなかったと、冒頭シーンで感じないものがいればそれは不感症なのだ

あの冒頭シーンを見てこの作品を全否定するその神経が分からない。

そう、まずはヴィジュアルの評価から入ろう。

状況の分からない空間戦闘からノーチラス号の発艦シーンまでの息詰まる緊張感と圧倒的なヴィジュアルにため息をつかないものがいるとすれば、それはブーレースの演奏するマーラーを前に「精緻にすぎる」などと見当外れの批判をする童貞ラヲタのようなものだ。

圧倒的な美しさ、スタイリッシュさ、その疾走にはに頭を垂れるしかない。涙は追いつけない。

参照される古今東西映像作品の断片に庵野の美意識が振るわれ、結晶として屹立するその様はベルント・アロイス・ツィンマーマン音楽を思わせる。

ネットにもビジュアルに対する批判は少ない。

あるとすれば、脚本、演出による。

しかし、どれも的外れものに過ぎない。

いくつか代表的なものあげてみよう。面倒なので3点に絞る。

1.いみがわからない

私も意味がわからなかった。もう自己パロディしか思えないほどのとっちらかった謎、伏線、設定に呆然とする気持ちはわからないでもない。

しかし、こうした要素は「わからない」ことも含めて、自らを「サービス業者」と規定する庵野の「サービス」であり、そのインタビューにもあるように「酒のツマミ」として楽しむべきものなのだ。すでに2ちゃんには解釈をめぐりいくつもの「名解釈」が登場している。そこにエヴァ本質はないのでその解釈論争の成立自体「そういうもんだ」と楽しむのが正解だ。「しらなかったとは言ってほしくない」

だいたい、我々が生きているこの世界自体、意味がわからないだろう。

2.登場人物の行動に整合性がない

そうだろうか。ある程度登場人物のおかれた状況に寄り添って、「補完」すれば整合性は保たれてはいいか?たとえば「破」で「行きなさいシンジくん」と煽ったミサトが「Q」で別人のように冷淡だというのも「ミサトの14年間の辛苦」といったもの忖度すればあながち整合性がとれないわけでもない。

だいたい、我々が生きているこの世界の人物自体、行動に整合性がないだろう。

3.リアリティにかける

ゲンドウと冬月の「二人のネルフ」はどんな金で動いてるんだとか、吹きっさらしのグランドピアノがなんであんなに綺麗なんだよ普通さびるだろとか、まぁ分からないでもない。

しかし、エヴァとは「私小説なのだプライベートフィルムにおいて、美意識表現される「わたくし」の前に「世界」のリアリティはある程度犠牲になるのだ。

つーか、あの廃墟、ぐっとくるじゃん。それでいいんだよ。

だいたい、我々が生きているこの世界の自体、リアリティがないだろう。

同様に依存症にも似た称揚にも目が当てられない。

4.狂ったエヴァが帰ってきた。俺たちのエヴァだ。

どこ見てんのかね。この「狂気」は完全に「作った狂気」だ。綺麗にまとまりすぎているし、旧劇場版アドリブ奏法のようなどこに行くのかわからない狂気ではなく、計算された狂気だ。

「序」と「破」をいったんたたき壊すための仕掛けであり、旧劇場版の「狂気」に魅せられて未だに90年代から一歩も動けていないものへの「釣り針」だ。

から、この「狂気」に「狂喜」するものは救いようがない。

この作品は「シン」へのかけ橋である以上、注意すべき点は以下の3点に絞られる

・旧劇場版とほぼ同じ立ち位置にいる「無限に後退していくシンジ」をQで再度設定しながら、決定的に違うのは旧劇場版シンジの周りにはダメな大人と壊れたアスカしかいなかったのに、新劇では導き手としてのアスカとマリが設定されていること。

・旧劇場版で「鬱シンジ」を否定し、「序」、「破」で設定した、ポジティブな「シンジさん」(セカイよりもポカ波を選んだシンジ)も「Q」で全否定したこと。

・露悪的な破壊の中で、通奏低音のように「やり直し」「成長と大人になること」「社会とつながること」を流していること。

上記を踏まえると、庵野<旧劇場版で引導を渡したはずの「エヴァ」に依存するヲタク>をもう一回、別のアプローチ説教しようとしているように見えて仕方ない。ヒントは同時上映された「巨神兵東京に現る」に流れていたようにも思える。

我々は上記3点の「伏線」に「シン」でどうオトシマエが付けられるのかを見守るべきであり、やはりつまらぬ結論ではあるが、それまで判断を留保すべきなのだ

つーか、こういう厨二病全壊な文章をかかせるエヴァさいこうって話ですよ。

2012-11-20

俺の東浩紀がこんなにヱヴァンゲリヲンQを否定するわけがない

ヱヴァンゲリヲンのQをみた。東信者である俺は村上裕一×坂上秋成×さやわかによるQ最速座談会ももちろん聞いたし、風花でのあずまんと坂上村ustも見たし、はるしにゃんとあずまんtwitterでの絡みもチェックしたし、文学フリマでのQの感想を言いたくて仕方ない空気もしっかり感じた。相変わらず、文学フリマは「東浩紀不在の存在感」しかなかった。

さてQの感想はというと最初は「あれ?もう終わりか」というあっさり感。やけにシンジカヲルいちゃついてんな、くらいが印象的だったのと、短いのもあってまるでTV版を見ているような感覚だった。劇場は満員で、上映が終わった後の観客の態度もなんだかしっくりきてなく見える。ロフトイベントに出る直前のQを見たあずまん感想が「僕には退屈だった」というのもあり、まあこんなものなのかと大して感動もないまま家に帰る。

避けていたネット上の色んなネタバレ感想をチェックしているうちに、Qは旧エヴァを見ている人間ほど思う所が強く、新劇場版から入った人間ほど低評価、という傾向にあるようだ。低評価の人間に多く共通しているのは「ミサトさん達ひどい」だ。シンジ共感している人が多い。確かにミサトはレイを助けるシンジ背中を押したくせにあれだけシンジ嫌悪感を見せるのはひどい。他のヴンダーメンバーも気持ち悪いくらいシンジを否定している。そりゃサードインパクト引き起こした張本人を前に友好的になれってのは無理な話かもしれないが、シンジだって使徒止めたしニアサード引き起こしたのはマークシックスなんちゃうん…あとシンジエヴァにさえ乗らなければフォースインパクト起きないんだからちょっとは優しくしとけよ。自分だけ14年置き去りにされて(28)や(43)にあんだけきつくあたられたらそりゃネルフ側に行くわ…と突っ込み出したら切りがないが、14年という年月の間に明かされてない事が多いのでどうとでも解釈できる。ミサトさんヴンダー立ち上げるまでに色々あったんだろうし43なら更年期障害とかあるかもしれんし、部下の前で弱い所も見せれんかったのかもしれん。

ひと通りネット上の感想を見た後で坂上村さやわかQ座談会も聞く。三人とも旧エヴァからのファンで、Qにかなりの衝撃を受けた直後から感想が生々しくて実に良かった。彼ら的にはQは決して高評価でなく、エヴァを見続けている人間として胸をえぐられた気持ちになり、傷つきつつも、座談会を通して次作のシンエヴァを待つ気持ちにようやくなれたということらしい。しかし他の低評価の人たちに比べたら随分高評価だと言える。聞いていて庵野信者とはこういうものか、と納得できた。

その後続けて風花のあずまん上村ustをみる。こちらはゼロ年代風景が再びといった面子で東クラスタ的には涎が止まらない。重要なのは坂上がtwitter上で思想地図β2の震災特集号の巻頭言に大して上から目線感想をし、あずまんがカジュアル破門をし、その後坂上が宇野常寛陣営に下った後の初の二人の対面という構図だろう。

http://togetter.com/li/183399

人間関係においても時間という薬は効き目が抜群で、あずまんと坂上もあのカジュアル破門の一件から一転して普通に話している。しかしどこかギスギスしている所は否めない。坂上の立場としてはとても難しい。宇野との関係がある以上あずまん必要以上に交流したら立場として面倒くさくなるのは明白だ。それでもこのustで坂上が冗舌なのはだって信者からであるあずまん尊敬して、でもあずまんの強烈すぎる人格性に耐えられなくて逃げて、それでもあずまんが諦めきれないのだ。俺がustの一連の坂上の発言から読み取ったのは「俺を認めてくれあずまん!」というメッセージに尽きる。でもあずまんはもう坂上に大して興味がないしQにも興味がないのだ。坂上が言うQの解釈というのはあずまんにとって遊びでしかない。ゼロ年代的な言葉遊び辟易した彼からしたら坂上の仕事は頑張っているとは言えても世界を変えるまでには至らない、とるにたらないものだろう。それでも坂上の仕事あずまんの影響下にあるもので、「よく出来た劣化コピー」のような、あずまんから見たら愛憎交じるアンビバレントな思いもあるだろう。だから彼はゲンロンカフェの話を持ちかけた。これは坂上にとって良い話なので、当然受けるだろう。これは同時にあずまんから宇野に対する牽制でもある。仮面ライダーの話をした点からも明らかだ。坂上の「仮面ライダーなら村上さんも語れますしね…」と力なく呟いたのが印象的だ。そこは明らかに宇野名前が出るはずなのに、出なかった。出せなかったのだ。まったくもってめんどうくさい話である

あずまんはなぜQに感動しなかったのか。彼と坂上および村上の間で共通している見解としては「庵野が旧エヴァのような事を再びQでやった」である。破で宮崎駿押井守に負けるとも劣らぬクオリティの高いエンターテイメント提供した庵野が、敢えてそれをぶち壊すような所にシビれ、憧れたのが坂上であるが、あずまんはそこに反応しなかった。いや、一定の評価はした。そんなことをしてしま庵野さんは誠実な作家だし、評価されるべきではある、と。しかし、旧エヴァのようなことをして、それで出てきたものがこれだった、それだけの話だと。つまりあずまん庵野が破で得た物を失う覚悟で旧エヴァ的な事を再びやろうとしたQを理解している。坂上と見解は一緒なのだ。その上で退屈だったと評しているのだ。ここでのあずまんのQに対する低評価は謎だ。新規のエヴァファンが破のようなエンタメを期待してQでがっかりするのとはわけが違う。旧エヴァからのファンが庵野の再暴走困惑されながらもさながら90年代の頃のように「それも庵野の手の平の上で踊っているにすぎない」と自覚しながらも難解な解釈を並べ悦に浸る様子とも違う。旧エヴァからのファンでもあるあずまんはすべてをわかっている上でQを評価していないのだ。そこには坂上と同等かそれ以上のエヴァに対する愛がある。愛がある上での諦め。庵野さんはこの程度だった、という残念感。それはなんなのか。あずまん純粋に作品から狂気が感じられなかったとも言っている。一方で坂上は破を見せつけた上でこんなことをしてしまう(旧エヴァからのファンに大して14年時間を飛ばすという暴挙を突きつけてしまう等)庵野さんからはやっぱり狂気を感じた、と村上さやわか座談会で述べている。坂上が感じたこの狂気ゼロ年代である。あの作品があったから感じられる庵野さんの狂気、という文脈ありきの話である。これは言ってしまえば島宇宙内での狂気カタルシスだ。座談会でも述べられていたが、Qは海外で評価される可能性は限りなく低いだろう。ガラパゴス化したエヴァファンの間で熱狂的に批判され、評価され、むさぼられるのは目に見えている。あずまんが興味があるのは世界を変えるレベルのことなのだ。Qによってその可能性を落とされたエヴァに対して興味が薄くなっているのも無理はない。彼がエヴァで興味のあることとしたらそれによって動員できる人員、客および金と若い芽くらいだろう。シンエヴァによって変わる可能性も否めないが、現時点ではわからない。

大量に書いてしまったが、この二つの座談会ustを見ることで俺個人では感じれなかった旧エヴァ時代からの熱いファンの解釈を知ることができた。それが何よりの収穫だ。みんなも罵倒ながら見るといいんじゃないかな。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm19379597

http://www.ustream.tv/recorded/27145006

2010-09-11

http://anond.hatelabo.jp/20100911030700

漏れも人と「一緒に見ましょう」と約束したので、

スカイ・クロラ」と「エヴァンゲリオン 新劇場版 破」を見てない。

でも漏れ場合新幹線で会いに行けば見れる。

あなたの場合はきっと、自分ではもうどうしようもない理由で見れない。

それ考えると、ポポ哀しい。

いつか思い出を和やかな気持ちで笑いながら、

ソラニンDVD見る日が来るはず。

2010-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20100606005351

たぶんそれだったらウケなかったと思う。ウジウジした内面世界最終回まで持っていけない。

良くも悪くもTV版のあの最後は話題性とか想像を膨らませるために必要だったと思う。

 

そのときのモヤモヤッとした感覚を上手く利用して旧劇場版作った後に

昇華して「強くてニューゲーム」状態の新劇場版を作ったから再度ウケてるのでは。

2010-05-28

http://anond.hatelabo.jp/20100528164652

えーっといまいち言いたいことがわかんないんだけど、もしかして俺が新劇場版のあまりの凄さに嫉妬しているとかそういうことですか?

読解力なさすぎにも程があるでしょ。エヴァすげーエヴァすげーって一人で叫んでてください

http://anond.hatelabo.jp/20100528160615

新劇場版面白さはエヴァでやる王道アニメ的なもので、旧劇場版地上波で納得いかなかった感情や想いをシンプルに遂げさせてくれるっていうそこらへんにあると思うんです。

劇場版地上波でものすごく納得がいったというあなたのようなひとは楽しめないのかもしれません。

あと、言えるのはあなたはもうアニメに飽きてるのかもしれない。最近おもしろかったアニメはなんですか?

破のかんそー。。

なんかエヴァってダサくなったなって思った。

感性が古いのかな。これが年をとったってことか?高校生くらいなら楽しめるんだろうか。

でも、ネット有名人感想まとめとかなんか読んでたらみんな子どもみたいな感想で驚いた。なんでだろう、すごいのはすごいけど・・・

劇場版と比べてしまうせいなのだろうか。

あっちのほうは、絵的にすごいだけじゃなく、ちゃんとマッチしていて、少数の粗とか嫌な部分を許せるくらいの勢いだったんだけど、

こっちのほうって、なんか・・・勢いだけ無駄にあって、ひたすら「おらおら!すごいだろ新劇場版は!驚けやおらおら!」って感じで、気色悪いっつーか何こいつら?って思っちゃった。

序を見た時に、なーんか絵が綺麗になっただけなんだなーと思ってあまり感動しなかった。でも、見るとやっぱり絵は綺麗だし、一応しっかりとしてはいるから見れる。見たいと思う。

でもこっちは・・絵と勢いだけでゴリ押ししただけっていうか。感想見ても、デザインが~作画が~って感じで。

これって狙ってんのかなぁ。庵野信者だったら、狙っているに違いないって思えるけど、俺には「リメイクってやっぱうまくいかないわぁ。ちょっと狙って外した感を盛り込んで目くらまししちゃおう」って感じにしか見えない。

バリバリ外してるっていうか。マリとか・・何あれ。坂本真綾って聞いた時驚いたけど、それ以上になんでこの役引き受けちゃったんだろうかわいそうにって気持ちが。

うざいキャラをウザい感じで表現して何がしたいんだよっていう。浮きまくってるし。なんかすごいこんちきしょーみたいな感じで頑張ってるのに全然伝わってこないや。

まずね、マリがしゃべるだけで寒い。もうしゃべんなどっかいけって感じで。にゃ、とか狙っているにしても狙って外した感狙っているにしてもどっちにしてもありえない。

本当に、旧劇場版新劇場版って同じ人がやってんの?って思ったくらい。センスなさすぎ。ていうか、やめとけばよかったんだよね。やっぱ。

庵野さんの自説すごい好きだったんだよ。庵野エヴァっていうのがなんでこうもすごかったかって言ったら、やっぱレベルが高くて感情移入も出来るってところにあった。

それが、そういう要素をなんか全部なくして、薄めて、新キャラとか作って、映像美と勢いとよくわからんショボイセンスで再構築して「これが新しいエヴァです」って、笑わなきゃいけないところ?

いやあのさ。エヴァってそもそも、絵だけじゃないんだって。絵だけだったら絵だけで全然ダメロボットアニメいくらでもあるでしょ。

庵野さん自身が言ってるように、全てのキャラ自分の分身だったからこそのリアリティなわけで、そこを再構築して庵野から引き離してちゃんとした物語っぽくして、一体何がしたいのと。

なんか、相当金かかってるんだろうけど、金かけて道楽したかっただけ?リメイクって大体失敗するっていう法則めいたものがあるような気がするんだけど、リメイクすべきなのは失敗した作品だよね。

成功した作品をリメイクして何がしたいんだと。劣化させて道楽で作って「これが新しいエヴァです」ってか?恥ずかしいよ。恥ずかしすぎ。

童謡だの翼をくださいだの、笑う気も起きなかった。終始鳥肌立ちっぱなし。キモすぎて。

絶対さ、これクラシックの代わりに童謡流したらどうなるんだろうって考えでやったんだろ。本気でありえないから。本気で合ってない。合ってないとか通り越して嘔吐するレベル

クラシックはやっちゃったからじゃあ次はそうじゃないものを、っていう視点にならざるを得ないからリメイクダメなんだよ。どれだけクラシックが合っていたのか理解しているはずなのに。

リメイクだから同じような雰囲気にするわけにはいかん、って感じで次々よくわからんアイディアを詰め込んで自爆してんじゃん。何やってんだよ。

別に新しいエヴァみたいわけじゃないんだ。

エヴァなんてもう完結してるし、そのあと出たエヴァ2で公式設定で裏の裏まで見せられて「あ、エヴァってこの程度だったんだ」って失望したクチだし。

結局一部の人たちが主張していた「謎っぽく装飾して人気が出ただけのアニメ」だったんだよ。ただ、レベルが高かったり、感情移入しやすいように監督の魂がキャラの中に入っていたから、大ヒットしたというだけ。

設定そのものは何の面白みもない、しょぼーいものだった。それをいまさら、しかもその設定を再構築(?)して、あれがやりたかったのかよ。

めちゃくちゃ大体的に宣伝とかしてるけど、こっそりやる類のものだろあのレベルじゃ。

あ、あと全体的に声優がおわっとる。シンジ君とかミサトさんとかリツコさんとかあの辺。声出てないし、苦しい演技とか声でなくて苦しがってるじゃん。すいません笑っちゃった。もう無理だったんだよ。一瞬のきらめきっていうもんがあって、そういうきらめき(シンジ君やミサトさんのあのどうしようもない迫力)をフィルム(旧劇場版)に残せただけでも超ラッキーだったのに、よもや二匹目のドジョウを狙うとは。声優さん哀れすぎ

でも、ネット調べて同じような意見としては自分で記事を消しちゃった岡田さんくらいしかいなかったのが色々とショックだった。それ以外の人達、あんな褒めるほどのものか?それとも、ビジュアル面だけ見てすげーすげーって言う程度の映画に俺が肩入れしすぎなのか?

2010-03-23

アトピーエヴァタイトルにたとえてみた

第壱話    痒み、襲来

第弐話    見知らぬ、薬

第参話    とどかない、背中

第四話    皮膚科、逃げ出した後

第伍話    ステ、使用したむこうに

第六話    決戦、乾燥敏感肌

第七話    医師の造りしもの

第八話    キンカン、来日

第九話    瞬間、汗疹、重ねて

第拾話    半身浴ダイバー

第拾壱話   静止した、鏡の前で

第拾弐話   漢方価値

第拾参話   雑菌、侵入

第拾四話   キュレル、保湿の座

第拾伍話   乾燥と軟膏

第拾六話   死に至る病、そして

第拾七話   四人目の同病者

第拾八話   治療法の選択を

第拾九話   男の戰い

第弐拾話   皮膚のかたち、人のかたち

第弐拾壱話 廃人誕生

第弐拾弐話 せめて、人間らしく

第弐拾参話 涙

第弐拾四話 最後の投薬

第弐拾伍話 終わる通院

第弐拾六話 世界の中心で脱ステを叫んだけもの

劇場版    ステ新生

劇場版    Atp/リバウンドを、君

新劇場版   序 YOU ARE (NOT) ATOPY

新劇場版   破 YOU CAN (NOT)ADVANCE ATOPY

2009-07-10

僕の心には響かなかった

岡田斗司夫のゼネラル・プロダクツより

ttp://okada.otaden.jp/e47507.html

僕の心には響かなかった

2009年07月09日

エヴァンゲリヲン新劇場版:破」を見てきました。画面的には文句なし。圧倒されました。

でも、正直イマイチでした。なんか「エヴァのファンが総力を挙げて作ったオマージュフィルム」を見たみたいな感じ。

「凄いけど、別に今さらエヴァ作らなくてもいいんじゃないの?」と思っちゃった。

僕はもともと、TV版のガンダムを見た後で劇場版ガンダムを見ても「あ、なんだ同じ事やってるんだ」と思うような人間だから、特にそう思うのかもしれない。

でも、あんなに凄い映像を作れるんだから、もっと新しいことやって欲しいなぁ。

ネット感想を見る限り、すごく評判は良いみたい。みんなやっぱり「エヴァ」が見たかったんだね。

僕にとってはTV版でシンジレイもすごく「いい終わりかた」をしてるから、たとえストーリーは多少違えど、同じドラマリメイクだったら別に欲しくない。

そういう人間は最初から劇場に行くべきじゃなかったのかもね。

う~ん、失敗


引用おわり

2009-07-06

エヴァ破、あるいはエヴァ

リメイクとかパラレルワールドとかいろいろ言ってるけど、要するに新劇場版エヴァって、「2巡目」の世界なんでしょ。

アニメ版と旧劇場版が「ひぐらしのなく頃に」だとしたら、新劇場版は「ひぐらしのなく頃に解」なんだと思う。

1巡目を踏まえた2巡目だから、レナや圭一は発狂せず、沙都子は虐待から救われ、羽入は実体化したわけだ。もちろん実体化したのはマリ。

メンバー唯一以前のループ記憶を保っている梨花ことカヲルが、Qでどれだけ主体的に動いてくれるかが、ループを抜け出すためのネブカドネザルの鍵だと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20090705233319

新劇場版の企画が出た段階では、みんな懐疑的だったと思うよ。

実際「まだ搾り取る気ですかwwwwww」みたいな反応が多かったし、自分も見に行く気まったく無かった。

…んだけど、実際公開日になって、「今の技術力で作ったエヴァもちょっと見てみたいし、まあ期待せずに

見てみるかー」とふと思いついてなんとなく見に行ったんだよ。

でもいざ見終わって劇場出る時には「うわーここ違うしあそこも違う、ていうかもしかして○○なんじゃね?」

とか友達と興奮して話しこんでて、自分は意外なほどまだエヴァ好きだったんだと思った。

旧版を熱心に追いかけてたファンは、騙されて振り回されるのがすごく楽しかったんじゃないかと思う。

そんで今、またあの振り回されるのが楽しいって感覚自分の中に見つけて、懐かしくて嬉しくなって

振り回されてる。そんな感じなんじゃないかな。

騙されてもいいんですよ。楽しく騙されるんならね。

2009-07-05

そもそも入学さえしてないよお前は

http://anond.hatelabo.jp/20090705010148

『序』をつまらないとかいう人間が、「卒業できてない」わけないだろ。

つっか、お前は最初から入学さえしてなかったんだよ、俺にいわせりゃ。

テレビ版の画コンテ、レイアウト原画が12年後のCG満載の映像に作り替えても

そのまま素材として使えることの凄さとか、

テレビ版第3使徒戦が新劇場版第4使徒戦になって、古さを全く感じさせないのにはマジで心が震えたね)

テレビ版六話までのストーリーラインの中に、テレビ版のまとめ(逃げ出しそうになる→這い上がるという19話でも見られる構図、

電車内の心理描写)など、テレビ版の要素をまとめ、さらに脱セカイ系や脱謎解きといった、テレビ版から切り離したいメッセージを示し。

そういうメッセージを一切無視して単に退屈だったというなら、そもそもテレビ版を単にブームに浮かれて

上っ面の消費しかしてなかったんじゃねえの。

エヴァを捨てたんじゃなくて捨てられたんだな

ヱヴァンゲリオン新劇場版、序を観たときは、そのあまりのつまらなさに驚愕した。

全く心に響くものも残るものもなく、「ああ頑張って絵を描いてるなー」としか思えないまま映画が終わった。

トランスフォーマーよりも空虚な気持ちで観ていた気がする。

で、その時は「あ、俺はエヴァ卒業したんだな」となんとなく思ってた。

でも、破を観たら、やっぱり面白くないんだけど、それは「俺だけが卒業出来てなかった」んだと気付いた。

みんなエヴァなんてとっくに卒業していて、いやあシンジ君成長したねえ嬉しいよ、と余裕な態度で観ていることに驚愕した。

お前ら、いつの間に卒業したんだよ?

っつーか、最初から俺だけが卒業してなかったのか?

 

ま、だからといってこうなるともう今更卒業する気なんてのも起こらないし、今後エヴァがこっちの方向に行くならまあそれはそれで俺がどうこう言うことでもなく、今後は「いやあ俺はテレビ版と旧劇場版以外あんま好きじゃないんだよね、ああでも作画は新劇場版のがいいよね」と偏屈なオタクとして生きていくだけなんだが。

2009-07-02

ヱヴァンゲリヲン「破」

EVANGELION2.0感想

ネタバレ

既に結末は二回描かれている。そして数多の二次創作によって様々なEVAが描かれ、消費されている。

この作品シンジ成長物語でしかないのであれば、シンジは描かれる度に、「物語」に翻弄され、何度も何度も身を削られ、苦痛に顔を歪まされ、辛い思いをさせられ、凌辱され、蔑まされる。それはあたかも2000年以上も磔にされ続けている「彼」のようである。

「破」はその無限円環に続く原罪からシンジを救う物語であった。

10年前、シンジは全てを失い、その代償として、ここにいても良い理由を見つけた。失ったものは余りに大きく、観る者には不快感絶望を与えた。庵野は観客からも全てを奪い去っていった。

TV版も劇場版も、共に「大きな物語」に翻弄される「弱い子供ビルドゥングスロマン」だった。

大人になると解る

「この世界には自分の為に用意されたセットなど何も無く、スポットライトすら無く、自らの居場所は自ら創りだし奪い取って行くものだ」

という基本的な認識を、シンジは「破」で体現して見せた。

自愛から慈愛への転換。

真希波という新しいキャラクターは「幸せは歩いて来ない、だから歩いて行くんだね」と謡った。彼女は前作へのアンチテーゼとなっている。

その真希波に誘われるように新しい物語は進み、シンジ彼女信条転移したかのように、その意志で自らの道を歩み出した。大切な、かけがえのないものを守る為の自己犠牲という愛の形。

綾波の命が失われずに済んだのも、トウジの妹が退院し、トウジの片足が失われずに済んだのも、アスカメンヘラーにならずに済んだのも、全ては「破」においてシンジが慈愛に目覚めたからである。

アスカは予告において、旧劇場版ラストシーンTV版第一話の綾波と同じように「包帯」で巻かれた左目を、伊達公宜しく威風堂々たる「漆黒の眼帯」に変えて現れた。アスカは明らかに、前作よりもキュートに、セクシィに、力強く描かれている。

庵野秀明は、「誰も不幸にならない世界」を描こうとしているのかも知れない。稚拙かも知れないが、物語として、純粋に強度のある作品を創ろうとしている。最高のエンターテイメントを。

EVAは、日本製アニメーションには珍しく、海外での評価が低く国内、国外での温度差が激しい。理由としては、特にシンジの評価が低い点が挙げられる。庵野秀明のように才能のある作家作品としては珍しい。

シンジは、最高のエンターテイメントを指向する際に、庵野自身にとって克服すべきハードルであった。

新劇場版庵野は「破」において、既に数多描かれている「弱い子供ビルドゥングスロマン」を早々に切り捨て、新たなステージへ観客を誘っている。

乗るか反るか、観客は庵野に試されているとも言える。庵野が今までも、観客の期待を裏切り続けてきた事を鑑みると、私達は新劇場版を、数多のEVAとは全く異なるモノとして観る必要があるだろう。

次世代を担う若者へ、不安が支配するこの世界希望を与える物語として、新たに書き換えられたエバの全く異なるもう一つの姿に、観客は堪えられるか。

私達の強度が試されている。

リアルタイム世代の一部に、ヱヴァ新劇場版:破の評判が良くない理由

「飛影はそんなこと言わない」

2009-07-01

http://anond.hatelabo.jp/20090630235403

信者っていうか、途中までは大好きだった元信者だけど、新劇場版面白かったよ。

面白くて嬉しくなった。

今回絶賛してるのは「途中までは好きだったのに、本当に大好きだったのに…」って人がなんじゃないかね。

逆に後半の展開が大好きな人やシンクロしてしまった人は、新劇場版違和感アリアリだろうな。

2009-06-28

新劇場版ヱヴァンゲリヲンの破と碇の違い

新劇場版ヱヴァンゲリヲンは、面白い。それはいい。だが、この漢字を読んでほしい。

破と碇

序破急の2番目にである破(は)と、主人公の名前である碇(いかり)の区別がつきにくい。

それだけ。

予告

レイシンジを取り込んだまま凍結されるエヴァ初号機

廃棄される要塞都市。幽閉されるネルフ関係者

ドグマへと投下されるエヴァ6号機。胎動するエヴァ8号機とそのパイロット

ついに集う、運命を仕組まれた子供達。

果たして、生きることを望む人々の物語は、どこへ続くのか。

次回

ヱヴァンゲリオン新劇場版

Quickening

さぁ~て、この次も、サービスサービスゥ!

2009-04-15

ヱヴァンゲリヲン新劇場版序を見たのだけど

傑作だったんだね、これ。

ぶっちゃけエヴァンゲリオンに対してそんなに強い思い入れは持ってなかった。

磯光雄! とか、吉成! なんていう、普通一般とはちょっと違う視点から眺めてた。

だから、テレビ版は全話みてないし、見た話についても、そんな細部まで覚えてなかった。

読んでる人には引かれるかもしんないけど、俺はフリーターでさ。

パチンコ屋で働いてんの。で、働いてる店にもエヴァの新作が入ってきてさ。

今までのパチンコエヴァは旧世紀版の映像だけだったんだけど、

新作のは新劇場版映像豊富に使われてるんだよね。

働きながら横目でそれを眺めたりなんかしてたら、いつのまにかDVD借りてた。

最初10分は正直期待はずれっつーか。サクサク進むんだけど、早すぎて

逆にテンポが悪くなってるのが目について。あー、期待はずれだった、なんて。

けどトウジにぶん殴られる辺りから、原作との変わりぶりに目がいくんだよね。

いやストーリーはあんま変わってないんだけどさ。

絵作りが大きく違うなーって。修正なんかも全編に行き届いてて、

別に原作キャラの作画が悪いなんてあんま思わんけど、すごく端整に描かれてるなと。

それと撮影? なのかわかんないけど。ここ2,3年のアニメ特に劇場作品なんかは、

すごくライティングが意識されてるよね。雰囲気が出てるっていうか。

この作品も例に漏れず、加えて、もともとのレイアウトの良さとが相まって、

緊張感がずっと途切れないすごい良い映像になってると思う。

そんで、ヤシマ作戦だよ。ヤシマ作戦

俺は本当に、この映画はすごいと思った。

ヤシマ作戦を通じて、初めてシンジは他人からの期待を知るじゃないですか。

トウジと、ケンスケと、ネルフの人たち全員の期待を知るじゃん。

自分の非常時に、わざわざ留守電入れてくれる友達なんて、シンジ君にはいなかったわけですよ。

四方八方走り回って色々調達して、まあそれは彼ら自身が死にたくないからなんですけど、

けど結果的に、代表としてシンジ君が仕事するわけじゃないですか。

彼らは結果的にはシンジ君の為に働いて、そしてシンジ君に全てを預けるわけじゃないですか。

シンジ君自身もセントラルドグマを見せられて、よりその期待を感じて、乗ることを決めるじゃないですか。

気になる女の子に関しては「私が守るからあなたは死にませんよ」、なんて言いだす始末ですよ。

それこそどういう表情していいかわからなくなりませんか?

そんな期待の大きさに耐え切れず、彼は失敗してしまうんですよ。

恐怖と痛みで震えあがるシンジ原作の彼ならここでこのまま死んでたと思う。

でも映画シンジ君は、強い子でした。

奮い立ったのです。

「今一度、日本中のエネルギーと一緒に、私たちの願い、人類未来

生き残った生物の命。あなたに預けるわ……。がんばってね」

ミサトの言葉に強く、うなずくシンジ

そして彼は背負うのです。期待を。もう周りの人間

友人たちやネルフの期待だけでは済まないのです。画面にいやというほど出てくる、

電力会社社員、避難する学友、そして日本全域からの期待。

常人だったら投げ出したくなるような重圧。

それをですよ!? たった、たった14歳の子供が!

そういうもの全部背中にしょって、また立ち上がるんですよ!?

14歳って。まだ子供じゃないですか。

俺はリアルに「まだ子供じゃないか」とかつぶやいてた。ほんとに。

めっちゃ泣いてた。ていうか今も泣いてるわ。

そして14歳の少年は、見事その期待にこたえるわけです。

任務成功。

俺は少年のとてつもない成長を作品内に見てしまった。ボロ泣き。




でも、見終わった後気づくんですよね。

きっとこれ、エヴァンゲリオンだからここまで泣いてしまったと思うんです。

あの弱虫シンジ君がですよ。

あの弱虫シンジ君が、やっとヒーローになってくれたんです。

他の人はどう考えてるのかしらないけど、シンジ君はこの作品でようやく、

正統派ロボットアニメ主人公になれたんです。

足掛け10年以上。作品内だけでなく、もっと共通のイメージとしての、

キャラクターとしての碇シンジが、他人の期待に応えられなかった碇シンジが、

10年かけて成長したんですよ。

僕、原作では劇場版だけは10回くらい見てるんです。彼の煮え切らなさに何度も腹を立てました。

シンジ君に期待していたのは、僕も一緒だったのです。

その彼が。やってくれたのです。

5年くらい前(旧劇場版見たのそのくらい)の思いが今かなえられるとは、全然思ってなかったんですよ。

残りの3作で、再びこの期待を裏切らないで欲しいなー。

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