はてなキーワード: 幼児とは
美しく品位のある町だと思っていたら、とんでもない治安の悪さだった。
この地域のブランド公立小に通うために、わざわざ引っ越しまでしてくる子持ちもいるのだが、大抵そういう家庭はプライドと見栄ばかりを気にした低ランク家族である。
特に親がインスタ中毒で、子供を成城の豪邸前に立たせて写真を撮りまくる。自宅ではなく、他人の家だ。
買い物をしてはインスタアップ。何でも帰ることをアピールしたいのだろうが、残念ながら超富裕層はそんな下品な活動をしないし、インスタ中毒者は眼中にすら入らない。
成城には、お受験対策用の幼児教室も数多く存在する。教室の活動後は、成城コルティやミスドあたりで休憩する母子が多数いる。ちなみに朝やランチタイムは学園保護者がママ会を開き、カースト丸出しでお互いを探り合う低レベルなクッソどうでもいい会話が2時間以上続くのだ。
頭の中が小学生女子のままで、聞き耳立てると面白い。バカすぎて。
で、学園の生徒たち。
所属する趣味のサークルにお父さんに連れられてやってくる10歳の男の子がいる。
その子はついてきているだけ。
お父さんを待つ間、時間の関係で私と私の5歳と2歳の子どもと毎回1時間近く遊ぶ。
ボール遊びやかけっこなんかしたり、学校のこと話したり、好きなゲームのこと話したり。
将来の夢や家のことも話す。
大人になったら家を建てるから、その時は犬を飼って一緒に住まない?と聞かれたから私の夫と子どもたちもみんなで住もうって答えたらそっかーって残念そうに笑ってた。
その子はお母さんと住んでいない。
はっきり聞いていないがどうやら離婚していて、離れて暮らす5歳の妹がいるらしい。
その子ははつらつとしていて、運動が得意で元気で頭の回転も早くて、多分誰が見ても良い子。
その子のお母さんと私は多分歳が一緒くらい。
その子はサークルに来て私を見つけると子犬のように駆け寄ってきて、「今日来たんだ?」と満面の笑みでそわそわと挨拶してくれる。
多分その子は、本当にうっすら私が好きなんだと思う。
触れたりもしない。
けれど私はその子に会えるのを楽しみにしていて、その好意を嬉しく感じている。
私の子どもたちがこんなふうに素敵な子に育ったら良いなと思う。
だからさー。勝手に道路に出たり、自ら死にに行く幼児ですら嫌がられてるこの国でさ
それ以上の思考が可能なのに自ら死ににいく子供とか存在がもはや面倒くさいんですよ
日舞を始めたくて調べていたら師匠にお中元、お歳暮を送らないといけない?月謝の1ヶ月から2ヶ月ぶん?とかでてきて「ムリムリムリムリ!!」って思った。
日舞界隈って他のダンスの習い事よりお金かかるじゃないですかー??
日本人の若者そんなにお金持ってないので無理ですよ。こんななら他のダンスの習い事やりますよ
日本画も油絵とか水彩画に比べたらたっかいお金がかかるじゃないですかー??日本画を本気でやったらクルマが買えちゃう!!
着物だって、洋装よりもはるかにお金がかかる。子供の入学式や卒業式で着物を着ようとしたら旦那に「目立って恥ずかしいから着物はやめて」と止められた話しもある。恥ずかしいってねえ。着物って私たちの民族衣裳なのに恥ずかしいって……
まぁ私もお金をそんなに使いたくないから子供の行事は洋装ですね。
私は今、手ぬぐいにハマっているのだけれども
みんな知っての通り手ぬぐいよりもハンカチやタオルやスカーフのほうがお店で売ってるしよく売れているのよ!!
手ぬぐいを持ってる人は手ぬぐいが好きだから持ってるんだけど、ハンカチやタオルは別にハンカチやタオルが好きじゃない人でも誰でも持っているのよ。手拭いを好きでもないのに持っているって人は剣道をやっている人とかごく限られた人なのよ。
手ぬぐいって日本のほこるべき伝統工芸品なのになんででしょうねえ?それは幼児が手拭いよりもハンカチやタオルのほうが使いやすくて手ぬぐいはでかすぎて子供には扱いづらいからじゃないかな?って思ってる
最近飯屋で幼児のウンコを処理する増田が話題になってて何事も感じ方は人それぞれなんだなぁと思ったよ
たまたま性的グッズが俺でいうウンコみたいな位置付けだっただけかも
男を見るとウンコに見えてそうな人もいるし女を見るとウンコに見えてそうな人もいるし
世界は多様だ
この旅行ブログでは日本人女性の街頭写真(無断撮影っぽい)を多数載せて、「多くの成人女性が実年齢の半分の年であるかのような服装をしている」「女性の服従の問題で苦しむ国の女性幼児化の影響」と批判している。コメント欄は賛成一色だ。
http://www.oneikathetraveller.com/tokyo-style-and-infantilization.html
通りすがりの女性を盗撮して無断掲載して批判するのがフェミニズムに反すると考えるのは、日本特有の考えなのではないだろうか?
なんか昔はとても憤ってたんだけど、最近は無感動になってきた。
自分が一生結婚も育児もできないことがはっきりしてきたからだろうな。
なんだろう、レクサスが暴走逆走プリウスに突っ込まれて大破した動画を見るのと同じような感情になる。
恵まれた人が落ち度なしにひどい目にあった、そういうのを遠くから眺めている気持ち。他人事である。
極めて高級だが自分の生活に縁のないなにかに取り返しのつかない被害が出た、そういう話ととらえてしまった。
自分が結婚できるかもしれないとほんのり考えていたころには幼児の被害に敏感だった。それって将来自分に関係あるかもしれないって思ってたからだと今気づいたんだよね。
もうなにもかも遅いんだけど。
幼児の送迎バスの運用が今後改善されれば新しい犠牲者は生じなくなるけれども、死んじゃった子は返ってこないし、自分が関係する話題になることもないんだよなあ。
自分は手術しないと幼児のうちに死亡する病気を持って生まれてきたが、幼児の時に手術して生き残った。
幸い、頭は良かったので、中高はキリスト教カトリックの進学校に通えた。カトリックは性転換手術を非難する。
持って生まれた体を人間の都合で書き換えること自体が、神の意志に対する反逆だ、と教えるのだ。
では自分が手術して生き残ったのは正しいのか?神はもともと自分が幼児のうちに死亡するように計画なさったのに、人間の都合で自分が生きるように書き換えた。それは罪ではないのか?性転換手術とどう違うのだ?
手術しなければ死ぬ病気で生まれたことがばれたら、キリスト教徒は豹変して自分の死を願うようになるのでは?
中高の時、神父たちは自分の疑問にうまく答えてくれなかった。結局、宗教というのは健康な一般人を相手にしていて、自分みたいな例外ケースに対してうまく説明できようができまいがかまわないのだろう。数の暴力というやつだ。
たまーに聞かれるんだよね。これ。
結婚して10年以上経っても子供がいないから疑問に思われるのは仕方ない。
一言で言うなら「親の子育てを見てこりゃ無理だ、こんなのやりたくないって思った」…これに尽きる。
私は一般的なサラリーマン家庭に生まれた昭和末期生まれの一人っ子。
妊娠中に口蓋裂で生まれることがわかり、地獄の授乳と整形がスタート。
歯の矯正は保険が効かないものも多くめちゃめちゃ医療費がかかる。口腔外科に百万単位で課金する。
更にアトピー性皮膚炎を発症。成人になっても治らず現在デュピクセントでなんとか生存しているレベル。皮膚科に延々と課金する人生になる。
加えて鼠径ヘルニア及び脊柱側弯症を発症。整形外科のお世話になる。
こんな弱っちい人間を社会人にするにはそれなりに学歴をつけてやらねばという親の思いやりで幼児教室に入れられる。虚弱体質なのでスパルタにならない程度の教育を施すためSAPIXほどではないが塾に課金して大学まで通わせる。
幼児期はミルクが飲めないのでチューブを喉の奥に突っ込んで飲ませる。なかなか体重が増えず疲れ果ててノイローゼになる。その当時の母親の手記を読んだことがある。
几帳面に授乳量などをかいてあるのだが「つらい、死にたい、なんでこんな子を授かったのか」と言う愚痴が定期的に現れていた。
手術をして口でご飯を食べられるようになっても母親の苦労は続く。
勉強は英語は中学まで教えていたし、病気のケアも甲斐甲斐しく薬を塗ったり通院に付き添ったりした。
塾の送り迎えも毎日で、学校帰りに塾の道具を持って最寄り駅まで来ていた。
高校生くらいになると自分で塾に通うようになりようやく手は離れてきたが、その頃の母親はもう50歳だった。
ここまで父親がほぼ出てこないが、父親は湯水のように金を使う私の医療費と教育費を稼ぐために銀行員として朝から晩まで働いていた。
あまりに家にいないので父親に何かをしてもらったエピソードは語れない。ただ、お金はたくさんかけてもらったのだろう。毎年夏休みには海外旅行に連れて行ってもらったので。
こんなに手と金をかけてもらって育ったので、母親がこなした山のようなタスクを見ると「何これこんな仕事やりたくない」となるのだ。
私は私の母親のようなタスクをこなす自信は全くない。よって子育てというタスクは自分には全く無理なものだと判断したので、「親の子育てを見てこりゃ無理だ、こんなのやりたくないって思った」という答えにたどり着くんだ。
という自分語りでした。おわり。