はてなキーワード: 利益とは
今の会社で勉強した分の利益を会社に返し終わった自信があって今の会社でできない興味のある仕事があれば転職、興味のある仕事がなければ今の会社での経験を活かして効率よく仕事して評価してもらってプライベートを充実させるかな
回答になってなかったらごめーんね🥺
開発費が高すぎる、これに尽きる。
ゲームにおいて開発費というのは大半が人件費だ。なので開発費が高いというのは、開発人員が多い、開発期間が長いの掛け合わせになる。
で、スクエニ、というかFFとドラクエは人員が多いのはあるけど、開発期間が長すぎる。一応一定期間PS専売にすることでSIEから支援(開発支援金、宣伝費持ち出し等)を受けているはずだけど、それでも数百億円規模の開発費がかかっていて、100万本200万本じゃ到底儲からない状況。
FF16も7Rも開発費をペイできる本数に全く届いておらず、2タイトルの損失を抱えて昨期は散々なことになったのだろう。
こういう状況を受けて、今後は開発費を圧縮してペイしやすいタイトルを増やすだろうと自分は思っていたので、真逆の戦略をとることに驚いた。
家庭用ゲームソフトの良いところというのは、一回発売してしまえばその後何もしなくても&セール等によりじわじわ売れることで、コストをかけなくても利益が出せるところだ。そしてそれはソフトの数が多い程チリツモになるが、数年経てば新ハードが出るのである程度コンスタントに新作を発売できるのが望ましい。(そういう意味ではSteamは世代交代が無いのでゲーム会社の最近の好調はSteamの台頭によるところも大きい)
そういった市況があるにも関わらず、商品を増やさずにより質を高めていく(=開発費も高くなる)という戦略を掲げたスクエニの未来は暗そうだ。
ちなみにソフトを増やす戦略は、バイオハザード辺りが過去作も活用していてとても上手いと思う。リメイクが多いので開発費も安くはないと思うが、コンスタントに新作を供給しており、相当稼いでくれているはず。
ぶっちゃけ増田的にはこれ愚問でしかないんだけど、たぶんみんなタイトルだけ見て完全にこの記事の内容勘違いして想像してると思うんだよね。
この記事は、実はその勘違いがどっから起きてんのかって話です。
夏目漱石の有名な一節「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と、昨今みんな当たり前のように理解したつもりで使ってる「政治的な正しさ」が日本語の乱れによってどんな風に誤って解釈されているか。
まあこの辺でちゃんとしてる人はもう気づいてると思うけど、それは「的な」という便利ないいかげんな日本語表現から来てるよってことを述べる記事でござんす。気づかなかった君こそ読もう。
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」って言葉は、国語の授業で「こころ」を読んだ中高生はたいてい知ってる。
ときには授業のあとにクラスで、冗談めかして馬鹿だ馬鹿だと言い合う遊びが流行ったりしただろう。
でもその意味を本当には理解できているのか? 「精神的に向上心のないもの」とは何だ? 「精神的にでなく向上心のないもの」とは何が違うんだ?
この言葉は作中で計二回用いられている。一度めはKが何気ない場面で「私(若き日の先生)」にかけた言葉。そして二度めは、それを反復して「私」がKにやり返した言葉だ。
最初の場面にはただこう書かれている。
つまりKにとって「精神的に向上心のないもの」とは、ただ「日蓮の事について取り合わなかったもの」のことなのだ。
次の場面には、これをもうちょっと細かく解説した文がつけられている。
Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いて見ると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。
ここでは「精神的に向上心のないもの」とは、一言で言えば恋をするものということになっている。
もうだいぶ見えてきた。実はこの「精神的に」という言葉は、君たちが思ってるよりだいぶシンプルで、現代となっては時代錯誤過ぎて本気には取れないような内容なのだ。
spiritually
そう、Kにとっての「精神的に向上心のないもの」とは、ただ単に宗教的精進をしないものということなのだ。
普通の向上心、つまり立身出世とか勉学の追究とか、そういう現世利益とは程遠いという意味で、わざわざ「精神的に」とつけているのだ。
これは英語のpolitically correctの訳語なので、英語で調べるのが手っ取り早い。オックスフォード英英辞典のcorrectの項目には、こんな類似表現が紹介されている。
environmentally correct
環境的に正しい、とでも訳そうか。これはどういう意味だろうか?
普通に考えれば、平易な日本語で言う「環境に優しい」くらいの意味だろう。まかり間違っても、本音では違うんだけど環境に配慮して用意した建前、なんて入りくんだ意味ではないだろう。
それなのになぜ、「政治的に正しい」という表現になると、そのような皮肉を含んだ偽善的なニュアンスをもつものになると考える人がいるのだろうか? 同じニュアンスで「優しい政治の」くらいにふんわり理解しても良さそうなものなのに。
結論を言えば、これはひとえに「的な」という便利な、それゆえに乱暴に使われがちな日本語表現の問題から来ている。もちろんそれと、そういう曖昧さを悪用しようとするずるい詭弁愛好精神にもよるものだけど、これを言い出すと話がややこしくなるので触れません。
「的な」という言葉は、上で見てきた例のように、英語の名詞から作られた形容詞を直訳するための便利な接尾語という側面がある。この場合、もとの英語の意味内容をそのまま適用して、その名詞の事柄に関するものというくらいのニュアンスしか持たないとおおらかに解釈しておくべきだ。
しかしここに何故、もっと皮肉なニュアンスが含まれると勘違いしてしまいがちなのか。
君たち的にはどう思う?
……そう、つまりこういうことだよね。口語のブロークンな表現として、「オレ的には」「アイツ的には」なんて言い方で、その人にとってはそうだけど、他の人には必ずしも理解されるわけではないよっていうエクスキューズの言葉に使われているからだよね。
でも注意深く考えてみればわかるけど、それは一般の形容詞を作る場合、特に外国語を訳して作られた言葉の場合には何の関係もない、あくまで「的な」の複数の意味内容のひとつにすぎないんだよね。それこそ、「口語的」にはそうだけど、堅い術語では違うわけ。
こういう解釈で「精神的な」「政治的な」を解釈したら、本来の意味が薄れちゃう。「政治的な正しさ」に建前だとか皮肉な意味なんてないし、「精神的な向上心」は「気持ち的に高まる」みたいな曖昧な意味ではない。
増田的には、みんながもっとこの点に注意深く、誠実になってくれることを切に望むよ。将来展望的に。
そこは置いとくとしても、例えば自分の利益優先でパクツイのアカウントをリツイートしたりまとめブログ読んだりするのって利己主義が多くの他人に迷惑かけるパターンじゃん
利己主義でも利他主義でもそれで損したり得したりは一概に決まってないからどっちでもいいんじゃないの
そもそもガソリン車のままでも利益を生んでくれている層ではないんだから、特にEVも無理して売りつける気はないんでは。むしろ、ガソリン車が禁止されたり、あるいはそこまでいかずともガソリンにきついピグー税が課されるようになったときに、このような予算の低い人たちがどうやってEVを手に入れるかという問題でしょ。
購入費用が高いこと、充電インフラの不足、メンテナンスの専門性などが挙げられる。
カーシェアリングは、所有の必要性を減らし、利便性を提供する。
また、複数の人が車を共有することで、環境への負担も減らせる。
車を共有することで、充電スポットの効率的な利用が可能になる。
カーシェアリングサービスは通常、新しいモデルを提供するからだ。
例えば、週末だけSUVを利用したい場合も、それが可能になる。
これらの課題に対処するため、多くのカーシェアリングサービスが工夫を凝らしている。
アプリを通じた簡単な予約システムや、自動清掃機能を備えた車両も登場している。
結局のところ、カーシェアリングは個人所有の代替手段として有効だ。
アートへの個人投資は、株式・債券・不動産などと同列に投資ポートフォリオの一部と見做すことが可能だ。
アートは景気の好不況の影響を受けるが、株価と比較すると安定して上昇する傾向があり、投資対効果が高い。
しかし、富裕層でもアートはポートフォリオ全体の5%程度にとどめるという。
自分を犠牲にして相手に尽くすのは聖人と呼ばれ普通ではないので、まともな人間は自他の利益バランスと相手に与える印象を考えながら選択するのは間違いない
「テイカー」は常に、与えるより多くを受け取ろうとし、自分の利益を優先する人のことを指す。 「ギバー」はギブ・アンド・テイクの関係を相手の利益になるようにもっていき、受け取る以上に与えようとする人のことだ。
ただ受け取る以上に与えようとする存在って本当に存在するんか?こういうことができる人物像がちょっと理解できない
具体例がまったく思いつかない
例えば自然現象なら例に出せるけど(太陽は何も受け取らないけど人類に多大な利益を与えてくれる、とか)下心なく受け取る以上に与える存在って具体的におるもんかね
女はテイカー気質ってよく見るけどじゃあ男はギバーかというとそうではない
投資した分の見返りがないなら同じだけのつらさ恨みをどこかに吐き出してる
反証的にギバーだっているよ!と言うために架空の存在を定義してるだけのように思う
母親の愛情だって結局は老後の世話の保険だったりかわいい姿を見せてくれるから世話してたりするだけだしな
俺が猫を飼ってるのも猫からすると俺はギバーに見えてるけどかわいい姿でかわいく懐いてくれる生活を得るため飼ってるだけだし、餌代や病院のお金もそういうバランスの中で考えてるわけで見返り以上の与えは渡してるつもりはない
対面の俺は信号を律儀に守ってそれを見ていたが、彼らは俺の存在などないかのように笑顔で談笑しながら横を過ぎ去っていった。
俺は悲しくなったが、それと同時にこれこそが幸せなのかもしれないと思った。
幸せのコツとは、自分と自分の近しい人々の利益・幸福の最大化と、「今」の利益・幸福の最大化を目指すことなんじゃないかなと思った。
彼らは社会のルールとか、対面で信号待ちしている俺の道徳心、道徳心の陵辱とかは考えない。自分たちが立ち止まらず時間を無駄にせず移動できれば良いと考える。
俺は俺が信号無視したら漠然と見えないみんながルールを守るモチベが下がるとか、視界内の人が嫌な思いをするとか考えるから信号無視はできない。少なくとも隣や対面に人が居ると。俺は俺じゃない他人のことで俺の行動を決めているから彼らのように幸せな気分で信号無視できていない。不幸せだ。
同じく、俺は結婚もしてないが、俺が信号無視してたら自分の子供にどうやって信号を守らせるように説けるか悩むことがある。自分ができてないことを他人にさせるなんて、と考える。決して訪れない未来だ。つまり仮に子供が出来ても、俺は信号無視できない。未来を考えているからだ。
彼らは違う。ベビーカーに乗ってる子供はロクにルールや両親の行動を理解できない赤子であって、子供が認識できない今は何をしても彼に影響がないことをちゃんと理解している。罰せられないという前提なら子供の前で万引きだって殺人だってできるのだろう。ちゃんと「今」にのっとって行動しているのだ。彼らがベビーカーを覗くときはよき父とよき母であり、子供が成長したあとは子供の前ではそう振舞うのだろう。
今、自分たちが快いように行動する。それで結婚でき、子供ができ、笑顔でいられるのだろう。
困ったことに、幸せになれるコツはつかめたが、俺が実践できるかというと難しい。言ってしまえば俺の価値観での「悪」に染まれということだから。
赤の他人に嫌われようと平気な人間になれたとしても、内面の自分に嫌われるのはしんどい。かなり過酷な実践的トレーニングで鍛えていくか、催眠おじさんに人格改変してもらうか。
確実に俺はそんな苦行をする人間ではないので、俺の思考は変わらず、幸福度がそこそこ低いままあまたの信号無視を見送りひそやかに傷ついていくのだ。