はてなキーワード: ハッピーとは
経済的にもほぼ優位に立てる
色々と話題になっていたので気になって調べてみた。
よくある受験の手引や先輩の体験談で早いほうが有利だーとか、基礎が大事だーとかいろいろ聞かされふーんくらいしか思わなかったんだけど、進路指導先生の言ってたことをよく思い出す。
「人生は選択の連続です。大人になるということは選択肢を捨てて、意思決定していくことです。きっと子供の頃はみんなプロ野球選手になりたいとかお母さんに喋っていたと思います。けれど、今この場には、今から努力してイチローになれる人はおそらくいません。みんな自然と選択してきた結果が今なのです。
勘違いしてほしくないのは、イチローになれないことがダメなことではないのです。自分の選択を自分で決めていくこと、適当に流されず生きてください。そして、時間が経つうちに自分の選択に限界が見え、選択を変えることが多くあります。それはそれで、私は良いと思っています。大事なことは、自分の選択を肯定し続ける事です。一時的に隣の芝生は青く見えるかもしれません。けれど、大人になるということはいろいろな現実を受け入れ、過去の選択を肯定し、今を生きることが大事なんです。頑張ってください。」
要約するとこんな事を言っていた。
そうか、じゃあ自分が今抱いている劣等感、すなわち、同じクラスのどんなに勉強しても勝てないスポーツ万能の滝沢くんや石川くんに対しても、途中で退部して後悔している自分を冷ややかな目で見てくる元部活の仲間たちに対しても、きっとこのもやもやした隣の芝生は青く見える感情は一時的なんだ、大学生、社会人になって振り返ればちっぽけなことに過ぎないんだ!
そう言い聞かせて勉強を頑張って大学に入れば今までのことはチャラだ!
今ももちろん楽しいけどなんかこういう負債みたいな感情もそのうち忘れるんだな!
なんてお気楽に思いながらガリ勉して、めでたく無事第一志望に合格!これで万々歳!人生ハッピー、今までのことなんて忘れちゃえってなるんだ!
となったものの、大学生になってもモヤモヤは消えず、社会人になっても消えず、いつまでも高校生や大学生の時に抱いた「隣の芝生は青く見える」という感情がよく頭を巡っている。
上で書いたことは一例だけど、友情、恋愛、部活、就活、スポーツ、勉強、バイト、仕事、いろいろな局面で「こうしていたらどうなっていただんだろう…」「このときこの選択を取っていたら、今は違うんじゃないか?もっと幸せだったんじゃないか?」「●●さんはいいな…羨ましいな…」ということを常に思う。
なんというか、中学生くらいまではそんなことを考えてこなかったから、正直中学以前の選択で後悔やIfを考えることはない。
問題なのは、特にそれを自覚してからの高校生以降のそうした後悔というか自責というか、他者が羨ましく思えるという感情が積み上げ方式で心に溜まっていく。
「オリンピック開催には反対だけどアスリートを攻撃するのは間違ってる」って矛盾してない?
攻撃の度合いの問題はまああるとして、今の状況で「世界中から人集めて大規模イベントやりたいです(しかも大規模なメディカルスタッフまで必要)」って言ってる人達に反対して何が悪いの?
オリンピックって所詮ただのエンタメ産業でしょ。ライブハウスや劇場がやってることと何も変わらない。パフォーマンスと観客とチケットとスポンサーで回るただの興行ビジネス。
そういう中に音楽に人生捧げてきた人、演劇に人生捧げてきた人、色んな人がいて皆今の状況で割を食ってる。その中でなんで世界中から人集めて特に超大規模なイベントやりたがってる選手たちを何故擁護しなきゃいけないの?
結局のところオリンピックの開催に関して「イエス」か「ノー」で言えば選手達はイエスを言い続けてるのと同じでしょ?なのになんでオリンピック選手だけがイノセントみたいな扱いなの?他の業界の様々なプロフェッショナル達が色んな活動縮小を強いられてる中で世界最大イベントを開催することに関して「出来ればやりたい」とか思ってるわけでしょ。メディカルスタッフ動員して。バカじゃん。
「オリンピック開催には反対」かつ「アスリートは応援したい」ってただのダブスタ偽善者でしょ。オリンピックの開催に反対した時点でそれが叶ったらアスリートの望みが叶わないことを意味するのに。(もちろん中止に限らず延期だけだって相当な負担になる )
そういう偽善者が求めてるのは「政府(自分以外の誰か)がオリンピックを中止を最終判断した」「私はアスリートを応援してたのに残念」みたいな自分が悪者にならないだけのシナリオ。オリンピック開催中止/延期と選手にそれを納得させることは本質的にセットなんだから。ワクチン摂取による集団免疫が成立するまで全員がハッピーになるシナリオなんて無いんだよ。なんでオリンピック選手だけ議論から保護しないといけないんだよ。
散々こねくり回されてきたオリンピックだけど、件のIOC批判は内容もさることながら、11週前のこのタイミングで、というのもあって中止される未来がだいぶ具体的に見えてきた人も多いんじゃなかろうかと思う。
そして完全になんとなくでしかないけど、向こう2週間以内にかなり大きな動きが起こるだろうなと思ってる。
で、それを想像したときに一番怖いな~~~となっているのが、オリンピックが中止になってしまった時にあらゆる立場の人を襲う巨大な絶望感。これが現時点から怖くてたまらないので対策を教えてくれ、という話。
最近は頭に血が上りっぱなしの人が多いので先に書いておくと、この不安を解消するためにオリンピック中止の声を止めるべき、という意図ではなくって、かなりの確率で来るであろう未来に対してどう構えておくかみんなの意見が聞きたいです、という内容です。
仮にこの先オリンピック中止が発表されたとして、そこには「結局中止ならこれまでの無駄の山積みはなんだったんだ・・・」という虚無感と、コロナ禍で溜まりまくった不満をぶつける大きな敵がいなくなったことでの絶望感しか残らないんじゃないかと思っている。
前者について、中止が決定された後の次なる批判はきっと「損切りが遅かったからこうなったんだ!責任を取れ!」だと予想してるけど、オリンピックを止めるための批判に比べてかなり後ろ向きだし、もっと大きい虚無感に包まれそう。(次々サンドバッグを殴り続けることが精神安定に繋がるタイプの人はそれでいいんだろうけど)
でももっと怖いのが後者で、そもそもの原因である新型コロナwith山積みの課題という現実をこのタイミングであらためて直視しなきゃいけなくなる、というのに耐えられる人がどれほどいるんだろう・・・という不安がある。
今よく見かける「なんでイベント/ライブ/コミケは中止なのにオリンピックはやるんだ!」的な声は、本意ではなかろうがその何割かに「だったらこっちだってOKだろ!」という自粛で溜まった欲求不満の発散に近い気持ちも含まれている言葉だと思っていて、
もしオリンピックが中止になったら、「まぁオリンピックも中止したしこっちも中止だよね・・・この状況じゃ・・・」としか言えなくなっちゃう。
幸いにもワクチン関連はすごく期待できるニュースがちらほら見え始めているけど、現実的にみんなが接種できるまでには期間も課題も果てしなくて、またしばらく感染の怖さだけを直視させられる絶望感を打ち消すほどには強くないと思う。
そして、きっと感染症そのものについての課題が解決しても、疲弊しきった経済とか、潰れたお店とか、弱りすぎて失われた文化とか、消え去っちゃった青春とか、後れを取りまくった教育とか、返ってこない数年分の負債によるネガティブな空気はしばらく消えなそう。
そういう意味では、複雑すぎるコロナの問題に比べてオリンピックは誰がどう見たって論理的にも道義的にも完全に破綻していて、ひとまず誰でも正当性を持って殴れるお手軽なサンドバッグとしてはかなり優秀だったんじゃないか?とすら思えてくる。
(中止決定後は政府自体や特定の政治家をサンドバッグにする向きも今より強まるだろうけど、やっぱりサンドバッグとしての殴りやすさはオリンピックほどじゃないよね)
で、先にも書きましたがこの不安を解消するための回避方法をどれだけ考えてみてもまったく思いつかず、苦しいけど正しい選択、として受け入れるしかないのだろうなという結論に至った。
少なくとも向こう5年くらいは心からハッピーになれることは無さそうだな~という、避けられる確率がとても低い現実が目の前にある。
そこで、ほとんどごまかしに近いんだけど、世間に漂う陰鬱な空気が自分の心に流れ込んでくるのを目の前の小さいハッピーで相殺できるくらい小さいハッピーに対する感度を上げておく訓練を今からしておこう、と思った。
(今も自粛中に出来る範囲(美味しいものを食べるとかインドア趣味に没頭するとか)でポジティブになろうと頑張ってるんだけど、どうしても世間の空気に負けてしまう)
ということで、ここはぜひ皆さんの知恵をお借りしまして、上記のハッピー感度を上げるためのコツとか、私はこうやってストレスを乗り切ってるよとか、小ハッピーじゃなくてこんな中ハッピーを試してみたらどう?みたいなのを教えてほしくて書きました。
まあそのとおりだと思う一方
土地やらベンチャー以外の経営権やらもというかほぼあらゆる価値や資産ってそういうリスク込じゃね?
持っていることによって有象無象が寄ってくるのも同じ
相当にあらっぽい話だけど、頭に浮かんだから書く。
貯金があったとしても、口座開設禁止、しかも家にお金を置いておくこともできません、毎日自分の身に付けて持ち歩かなきゃいけませんと言われたら、かなりしんどいと思う。
自分のジャケットの裏やポケット、バッグの中に数十万の札束が入っているだけでも、かなりの緊張感を感じるだろう。
男性と女性の性的価値や性的承認(?)の得やすさ(?)の違いの議論では、時たま
「価値があるといっても、そんなにコントローラブルじゃねえぞ」
「預金みたいに安全なところに置かれていて、自分の裁量で引き出して使えるものじゃねえぞ」
「コントローラブルじゃなければ、そんなにハッピーなもんでもねえぞ」
って部分が抜けていて、
それに対する女性側からのカウンターとして、個別の辛かった事例が挙げられるが、あまり響いてなさそうな気がする。
個別の議論に入る前に、「性的価値って、たとえ存在するとしても、預貯金などよりも結果が確定していない馬券(ギャンブル)や、ベンチャー事業の経営権とか、そっちのほうに近くて、取り扱いもそんなに簡単じゃない」ってところは合意しといてもよいんじゃないだろうか。
別の角度から言うと、性的価値とか性的承認の話って、「うまくいった例(成約例)」時点から話が作られがちだけど、
個々の人間は、成約するか分からないかたちの、取り扱いの難しい財としてしか性的価値を持てない。
もちろん、いくらでも混ぜっ返しは可能で、取り扱いが難しくてもそういう財が欲しかったという人もいるだろうが、
いや小額でももっと額面が確定に近い財の方がいいという人もいて、その辺は個人の嗜好や状況によるだろう。
(デスパレートな状況だと、一発逆転的なものが眩く見えるとか)
性的価値や性的承認の得やすさの性別間での不均衡みたいな話をする時に、