はてなキーワード: ゾーニングとは
「不快だ」という表明は自由にしたらいい。我慢する必要はない。どしどしやればいい。
私企業はマーケティングの問題を無視できないだろうし、公共機関が不快感の蓄積を見て配慮が必要だとする判断もありうるだろう。
問題となるのはそれを不快感の表明にとどまらず、広告が「性差別」のバリエーションだとする批判に踏み込んだ場合だ。
性的搾取とか性的モノ化とか性犯罪を誘発とか性犯罪と地続きとか。
これらは見逃すことができない。
ただし、ある表現が「性差別である」と認定された場合、いくらゾーニングされればOKと言われようが、表現としては決定的なスティグマを刻印されることになる。
そのことを踏まえて、もしその広告が性差別のバリエーションだという主張をするならば、
「性差別である=誰かの人権が侵害されているという十分なエビデンスをもとに、慎重に判断してくれよ」
という慎ましい要求をしているだけなんだ。
本当に誰かが搾取されているのか、モノ化は誰かの人権を損ねるものなのか、本当に性犯罪は助長されるのか。
【追記】
というコメントを見かけて。
「公共の福祉」は、「◯◯の自由」といった人権が制限を受けるのは、唯一その自由権の行使が別の人権を侵害している時に限る、というものなので、ちょっとイメージされてるものは違うんじゃないかな。
で、表現規制の問題こそ、この「公共の福祉」が適用されるべきだと思うのだけど。
「石に泳ぐ魚」事件は表現の自由とプライバシー権の相剋だけど、発想としては萌え絵も同じだと思うんだよね。
【追記2】
歴史的に見れば、「萌え」の起源はポルノグラフィである、と見るべき。この前提を否定しないまま議論を進めても、いずれ「性差別」の論点は避けられなくなる。
私の主張は、「本当に性差別であるかどうか慎重に問え」なんだから、最初から「性差別」は論点ではあるけど…。
よく分からないけど、萌え絵の起源がポルノグラフィだから、個別の絵柄はどうあれ性差別に相当するって意味?そんな雑な議論ある?
萌え絵っつったって千差万別(何でこんな当たり前のことを言わねばならんのだ)なんだから、萌え絵の起源がどうとか、全く関係ないでしょう。
性的搾取とか性的モノ化とか性犯罪を誘発とか性犯罪と地続きとかは、全て批判側が言ってるんですよ?
そう主張するなら言いっぱなしでなく、それをきちんと証明しなさいよ、という当たり前の話じゃないですか。
【追記3】
で、不快感の表明は好きにすればいいって言ってるの。
何でこんなことも読み取れないかなあ。
繰り返すと、不快感の表明に留まらず、ある表現を「性差別」であると踏み込んで批判するなら、そう主張する側が相応の論拠を示せと言ってるの。
いや皮肉ではなくて。
一昔前は壊れたラジオのように、犯罪者予備軍!宮崎!監禁王子!が二言目に来てたのに科学的根拠が皆無であることと強力効果説が否定され続けてようやく言わないようになった(未だに言ってる奴は相当ヤバい)。
代わりに持ち出してきたのが便利ワードであるところのゾーニング、TPO、公共の空間でエロ絵見せるな!である。ゾーニングは規制の一種に含まれている認識が無いとか(*1)、失礼クリエイターの如く自分に都合の良いTPOを作り出すとか(*2)、公共の定義がガバガバとか(*3)、アラは多いがTwitter de 真実症候群にはクリティカルヒットしているので今後10年は使われていくのだろう。
(*1) 言うまでもないが規制
(*2) 明文化されていないことを都合よく利用しているが、明文化されていないからこそ互いに理解し尊重し妥協点を模索する姿勢が重要
(*3) 少なくとも本屋のラノベ表紙やジャンプの内容は公共空間ではない
逆にオタクの方がアップデートできずに、まだ犯罪者予備軍呼ばわりするのかと反発していることも散見されるので注意して欲しい(恐らくゲーム障害辺りの主張が混同されている)。
俺はお前の言う表自だと自認する身だけど「ある種の表現を公の場に出す事はそれそのものがセクハラ」という考えは認めているよ。
その上でその「ある種の表現」がどのような表現を言うのか、まずは社会的合意を取ってからゾーニングだなんだは叫べと思っている。
そりゃあ職場にヌードポスターがあったら大多数の人はセクハラだと思う。これは社会的合意が取れている状態と言って良いだろう。
じゃあ近年たびたび話題になっている萌え絵広告なんかはどうだろう?
俺には極一部の得意なネットクラスタの人が目くじら立てているようにしか見えない。
だって、現実で会う非オタクの普通の人々を見ても規制を叫んでいる人なんてほぼほぼ見たことがない。圧倒的大多数は無関心でしかないもの。
正負問わず関心のある層だけ取り上げても、近年のオタク文化の興隆を思えば、規制派と呼ばれる存在はその手の表現の愛好者よりもほぼ確実に少数派だと思われる。
そんな状態で「こんな表現を堂々と見せるなんてセクハラだ!」と言われても「まぁ、そういう特殊な取り方をする人もいるんですねぇ……」以上の感想は出てこないよ。
長引くコロナ禍で商業でも活躍している有名作家がDL販売を開始した例が増える一方、パトロン系サイトに登録して本をあんまり出さなくなった作家も増えた一年でした。
単にエロいだけではない印象に残った同人について書き残しておきます。
なお同人音声は専門外です。
・嫌われ女を助けたらシリーズ 手つかずの青
パーティーの嫌みな女騎士が公衆便女になってたので買い取ったら薬で淫乱になってて献身的に介抱したらツンデレになった話。
もちろんこういう設定は罪悪感なくセックスするためのお膳立てでしかないんだけど、淫乱顔から固い顔から惚れ顔っていう表情の変化がとても良かった。
小悪魔未満の無邪気な女の子がノー天気にエッチしてて気持ちよさそうだからそれでいい。
・おまかせくださいご主人さま 2SAI
マグロじゃないけど表情固めのメイドが少しずつ緩んでいく感じが萌え。
射精のメタファーというか絶頂の視覚的表現としての母乳描写がエロくて、シリーズでも出色。
大河がキャラとして強すぎるので声が脳内再生される。電子版再販とかじゃなくて令和にとらドラ!の新刊出したのすごい。
この作者絵がすごく上手いわけじゃないんだけどアヘ顔がすごく良くて、その中でも一番よく出てるのがこの本だと思う。
ジャンプルーキーから追い出された倒錯インピオ漫画が吹っ切れて同人で帰ってきた。TSではなく性器交換というのは関係性萌えがすごい。
俺はゾーニング主義者ではないけど、やっぱこの作者にはジャンプという枠は小さすぎる。
関谷あさみ先生はやっぱり感情の機微がエロさに結びついててすごい。
快楽落ちした人間が他の人間も善意で落とそうとする、というシチュが素晴らしい。この本の場合機械姦なんで、人間関係を抜きに純粋な快楽に落とされる感じがすごく良い。
日本国紀みたいな価値0のどうしようもない本でも、「政治的表現の自由」があるという話になれば平然と書店に並ぶことができる。そこに「ゾーニング」が求められることもない。
「政治的表現の自由」なんかよりも「エロ表現の自由」の方がよほど危機的状況にあるというのは単に事実なんだけど、どうしてもそれを認めない人がいるんだよな。
結局ゾーニングした上でどうするかとかはもう良くて「エロはゾーニングしよう、終わり」ぐらいでいいんだよ
うちは小学生だけど、もうしっかりジェンダーに囚われた考え方をしてしまっている。外部の影響は大きい。母子での会話はしている。
なくせと言ってるわけではないんだけど。ゼロイチで沸きあがる人たちがいて怖い。
殺人などのアクションと違って、性描写はより日常と地続きなんだよ。もちろんここの捉え方も、親になってからは特に過敏になってしまって偏りがあるかもしれない。
表現の規制には基本反対派なんだけど、ゾーニングや自主規制に関する議論をしようとすると沸き上がるような状況にはうんざりだな。。
小説や漫画やアニメに倫理観を求めて内容を変えさせようとする人はヤバい。漫才に対しても、もっと広くお笑いに対してもそれは言えると思ってる。
でも、たとえば18禁のイラストをどーーーん!と街中に掲示するのは良くない。
それはそのイラストが悪なんじゃなくて、街中の色んな人が不可抗力で見てしまうような状況で掲示するのが良くない。それと同じで、やっぱり見た目いじりとかルッキズムやイジメの助長に繋がりかねない表現をテレビで流すのは良くないと思う。もものネタだって、バラエティの見た目イジリだっていろんな技術が詰まっている。もものネタはルッキズムを完璧にバカにしてるから成立してる。見る人が見たら分かる。だけど、わからない人も見るんだから。
例えば自分がたまたまテレビをつけたら、あるいは町の定食屋のテレビ見てたらガッツリAVが流れ始めた…みたいな状況があったら嫌だ。チャンネルを変えたらいいなんて問題ではない。
それこそ子供が見たら嫌だとも思うし、そもそもおかしいだろって怒りたくなる。テレビのお笑いにイチイチ文句つけてる人はそれと同じなのかもしれない。
お笑いが好きだし漫才は日本が誇る文化であり、守るべき表現の自由だと思っている。たとえ傷つく人がいたとしても
でもだからこそテレビでやるべきではないと思い始めた。各々のYouTubeだったり、ABEMAだったり専用チャンネルだったりライブでいいんじゃないの?