はてなキーワード: 動物愛護法とは
この物語は伝承などに従ったフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
また、伝承は諸説有り、違った見解や物語を持っているものがありますが、これはそれらを否定するものではないことをあらかじめ申し上げておきます。
昔々ある所に、地域に貢献しながら元気に頑張っている2人家族がいました。一人は雅、もう一人は晴と言います。
体力に自信がある雅は、山(※この家族は入会地の権利を持っています。許可無く私有地・共有地に立ち入ることは法により罰せられる場合があります)に芝刈りに、晴は川へ洗濯へ(※この家族は水利権を持っています。安全上問題の無い処置の他、特別な訓練を受けています。もし真似をしたことによる損害が発生しても責任は追いません。また環境に配慮した石けんを使用しており、環境に影響を与えることはありません)出かけました。もちろん、二人の役割は固定されているわけではなく、ジェンダーに捕らわれない公正な考え方、ジェンダーではなく個々人に目を向けた正統な役割分担によって相談し当番制を敷いていて、今日はたまたまこの役割だった事は、言うまでもありません。
すると、川の上流から大きな桃ののようなものがどんぶらこどんぶらこと流れてきました。晴は桃を拾い上げると、警察に届けました。警察は、桃はそのままで保管する事は困難であると判断して、遺失物法に基づき手続きを実施、売却をしてその代金を保管することにしました。
雅と晴は二人で相談して、合議の上でお互いの財産から半分ずつお金を出し合い入札をして、桃を手に入れました。入札額は桃の価値に対して十分な金額でした。
持ち帰った桃をわってみると、なかから元気な子どもが! 二人は大変驚きましたが、子どもが生まれたことは事実であり、桃から生まれたと言う一点だけで差別したりはしません。二人は適切に子どもの世話をすると共に、役場の担当者に連絡、村長が棄児発見調書を作成して戸籍がつくられ、児童相談所に預けられました。この時、従来からの慣例に従い、子どもの命名は発見した保護者が行う事にもなっているため、二人は悩んだ末、ジェンダーニュートラルな名前「桃」と名付けました。(※なお、桃は二人でおいしくいただきました)
その後、これも何かの縁(※特定の宗教を意図したものではありません)と考えた二人は、正式な手続きを経て、桃を特別養子縁組の仕組みをつかって引き取るり、大事に育てました。もちろん、二人は養子として迎えられなかった子ども達が一律に不幸だと考えてこの行動をとったわけではないのは、言うまでも無いでしょう。
時は流れて、大きくなった桃(※事実を述べたに過ぎず、病気あるいは遺伝的特徴から大きくなれない事を揶揄する意図はありません)は、鬼ヶ島へ鬼退治(※法的処置に基づく、強制行動のことをさします)に行くことになりました。
もちろん、鬼たちは、鬼というだけで差別されているわけではなく、特定の島を不法占拠した上で、強盗・誘拐など、日本国法、並びに国際法、国際通念などと比較して、多くの人が反社会的行為だと言うような行為を集団的に実施している上に、暴力的な行為によって不当に取り締まりを逃れているため、対処の必要があると判断されているものです。
法的な召還にも応じず、命令にも従わないため、強制捜査や代執行などが決定されたものの、治安機関による取り締まりや、軍隊の出動などを実施した物のいずれも失敗したため、法的な手続きを踏んだ上で実施されています。一方的に鬼の人権を排除するような点については違憲の可能性も考えられるため、国会では議論に議論が重ねられ、特別立法によって、一連の鬼退治を桃に委託することに決定されました。報道各社の世論調査でも、読売新聞の調査で支持する、どちらかというと支持するを併せて8割以上が賛成、朝日新聞の調査でも7割以上が賛成するなど、世論の支持も得ています。
(なお、この文章は、現在国会で行われている、組織犯罪処罰法(通称、共謀罪)や、改憲論議に対して、何らかの意見、影響を与えることを意図した物ではありません。)
当日の料理当番だった雅が作った(※雅はジェンダー的役割の押しつけによって料理当番を実施しているわけではなく、個人に着目した能力に応じ、二人で決めたルールによって自発的に実施しているものです)きびだんごを腰にぶら下げて鬼ヶ島へと出発しましたが、道中、犬、猿、キジが現れました。桃は、彼らに、脱酸素剤などをつかい、添加物などを使わずに適切に保存したきびだんご(※動物に有害なものは入っていない特別な物です。一般的なきびだんごを動物に与えると動物の健康に悪影響を与える場合があります。また、野生動物に食べ物を与える事は、条例によって罰せられる場合があります)を、アレルギーなどがないかを確認した上であたえ、動物愛護法などに定められた、また、社会的にも正しい動物福祉の元で彼らの協力を得て、鬼ヶ島へと渡ります。
鬼ヶ島では、鬼たちが【青少年の健全育成に不適切な表現。ゾーニングされていないバージョンは正式な手続きにより読む事ができますので、検閲ではなく、これは自主規制です】の最中でしたが、人道的に問題があるとされる奇襲などは行わず、あらかじめ用意された裁判所からの令状を、十分に聞こえる様に読み上げ、鬼たちがそれに従わないことを確認すると、法令に則り代執行を宣言、【青少年の健全育成に不適切な表現。ゾーニングされていないバージョンは正式な手続きにより読む事ができますので、検閲ではなく、これは自主規制です】の末に、鬼らを後からやってきた治安機関の職員に次々と引き渡していきました。この時の罪状は公務執行妨害の現行犯逮捕です。鬼たちは今後、弁護士がついて公正な司法のもと、裁かれることになりますが、罪が確定して有罪になる迄は、あくまでも罪人ではない事に配慮し、実名は記しません。
また、この行為について、鬼側に死亡者が発生しているのではないかという指摘がありますが、事実無根であり、ここで行使された武力は正統かつ、やむを得ない範囲で十分に配慮されたものでした。
鬼たちが悪行で集めた金銀財宝などは、特別立法に基づき、国が指定した弁護士、管財人によって管理されます。有罪が確定したあと、確認が行われた後に被害者に分配されることがきまっています。故に、桃らが横領したという指摘にはあたりません。桃はここから報酬を受け取るのではなく、国から各種規定に基づきあらかじめ定められた報酬を受け取りました。これは桃が果たした社会的な役割を鑑みると正統な報酬であると考えられる範囲の金額であり、会計検査院の監査を受けた上で、妥当だと証明を受けているものです。
個人のプライバシーがあるため詳細は省きますが、報酬の用途は、実家のすぐ隣に新たな家を構え、その後は自立した大人として暮らすために使われ、桃はこれが国民の血税であることを十分に認識しながら、感謝の気持ちを忘れることなく、決して不当な事に当てられたことはなかったということだけは記載しておきます。
被害に遭われた方々の事を思うととてもめでたしめでたしなどと言うことはできない凄惨な出来事ですが、それでも、桃が自らの役割を果たしたことで、社会秩序・治安といったものが守られ、公共の福祉が成されました。今回は暴力という手段によってしか解決ができなかったことは大変に不幸であり、桃、または登場する人物もその点に遺憾を表明しており、やむをえずおこなったものです。
これは、桃は特別な訓練と、公正な立法措置によって行われた事であり、通常行うと重大な事故に繋がったり、罪に問われる場合がありますので、真似をしないでください。
https://www.ad-c.or.jp/campaign/self_all/self_all_01.html
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/04/news117.html
http://www.huffingtonpost.jp/2017/07/05/ac-japan-ad-campaign_n_17389562.html
https://srad.jp/story/17/07/06/047224/
現代アート愛好家であり愛鳥家のひとりとして、意見を申し上げたいと思い、メールを差し上げるとともに、郵送いたします。同時にウェブでも公開します。2つの要望があります。
(1)展示を即時中止してください。
ラウラ・リマ氏による『フーガ』に関して、ずさんな管理によって鳥を逃がしたり、病鳥を放置したり、適切な環境を整えないなど、目を覆いたくなるほどの展示がなされていたことを知りました。鳥に対して明らかな虐待的行為が行われ、また会期終了後の鳥の扱いが宙に浮いたまま、その場しのぎの対策が行われました。このことは、多くの現代アート愛好家と愛鳥家を悲しませ失望させました。
この作品は小鳥のいのちを軽視し、いのちの尊さを毀損しています。アートコンセプト「想像力を結集した創造の旅」というメッセージのもと、小鳥たちのいのちが傷めつけられるのを目撃するのは愛鳥家として胸が張り裂ける思いです。そればかりではなく、上記の鳥の扱いは、「動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛護法)」、「愛知県動物の愛護及び管理に関する条例」及び「豊橋市動物の愛護及び管理に関する条例」に違反しています。
創作したラウラ・リマ氏、国際展キュレーターのダニエラ・カストロ氏、チーフ・キュレーターの拝戸雅彦氏、芸術監督の港千尋氏、及び実行委員会委員長の、この作品と継続に対するそれぞれの公式な見解を求めます。「無限の想像力を結集」した「創造の旅」というコンセプトのもとで展覧会を開催したにもかかわらず、寄せられた多くの批判に沈黙したまま、作品公開を継続するというのは、アートや鑑賞者に対してあまりにも無責任な姿勢です。展示終了まで、まだ時間が残されています。この件で、現代アートに対する不信感が愛鳥家をはじめとする多くの動物を愛する人々に広がっています。一刻も早く、アーティスト、キュレーター、芸術監督、及び実行委員会委員長による見解を公式サイトで明らかにしてくださるよう求めます。
俺がみんなに共感して欲しいと、気持ちを込めて書いたブコメには星が一つもつかないのに、
たいして興味がない記事に、何の気なしに書いたブコメに大量に星がついたりするのは
何でなんだぜ?
[追記]
前者:http://b.hatena.ne.jp/entry/news.yahoo.co.jp/feature/277
後者:http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/nakayamayujiro/20160804-00060527/
[追記2]
何だよ~。みんな優しいな(泣)
[追記3]
[追加4]
kyo_ju
問題の業者が動物愛護法に基づく登録取り消し処分を受けたということと、
動物愛護法の精神は何かということを考えていただきたいな、と思います。
行政処分を受けるような悪質業者は論外として、良心的に猫カフェを営業
していたとしても、経営に行きづまる事もあるわけで、そんな時に店にいた
まず、猫のエサとして生きたイエウサギや飼育愛護目的に繁殖された小鳥は適切ではない。
ペットブームで愛護動物用のフードが数多販売されている中、生きた動物を与えるというのは合理性に欠けるし、そもそも猫はウサギを殺して食べるまでに至っていないので実質エサやりにすらなっていない。
「野生と同じように自ら獲物をしとめて食べることが猫のためになる」と主張したとしても、自発的にウサギを襲おうとしているわけではない猫を敢えてけしかけている時点で説得力を失うし、イエウサギに関して愛護法違反であることに変わりはない。
(動物の所有者又は占有者の責務等)
第七条 動物の所有者又は占有者は、命あるものである動物の所有者又は占有者としての責任を十分に自覚して、その動物をその種類、習性等に応じて適正に飼養し、又は保管することにより、動物の健康及び安全を保持するように努めるとともに、動物が人の生命、身体若しくは財産に害を加え、又は人に迷惑を及ぼすことのないように努めなければならない。
その子がウサギを飼っているのならば、動物の種類、習性等に応じて適正に飼養し健康及び安全を保持していると言えない。
イエウサギには猫に傷つけられることで健康を増したりより成長が促進されるといった習性はなく、猫の方でもウサギを攻撃することが飼育管理上適切な運動行為とは言えない。
猫を逆上させてウサギを攻撃させているとしたら、ウサギだけでなく猫をも虐待しているという解釈すら成立する。つまり、猫は食べるためでなく怯えて/嫌がって、ストレス因(=敵)を撃退すべくウサギを攻撃せざるを得ない状況に陥らされているから。
さらに、他人のウサギを持ち出しているとしたら器物損壊にも問われる。
どこぞの国の動物園でもライオンやトラの庭の中に生きたままの牛や羊やウサギを投げ込んで
それを見世物にしているそうだが、これと同じだと思う。
同じではない。
空腹の肉食動物のために生きたままの草食動物を与えるのは草食動物にとっては虐待だが肉食動物の飼育に関しては適切か否か議論が分かれる余地がある。
あなたの見かけた子どもはウサギを食べたがってすらいない猫にウサギを押しつけていじめさせているので、ウサギにとっても猫にとっても明らかな虐待。
極端な例だが、「食べなよ」とゴキブリを押しつけられたらあなたでも悲鳴を上げないだろうか? 「それは食べ物ではないし仲良くしたい相手でもない」と。
ただ、賭けてもいいが、学校は事なかれ主義なのでこの件に関してはもみ消しを図るだろうし、先述したように機能不全家庭化している可能性もあり親は子どもの指導に関して宛てにならない。
というか、学校教育や家庭内での教育の場というレベルでそういった虐待行為を行う人間への矯正・指導のノウハウがたまっているということがそもそも期待できない。
つまりその子の行為への抑止力となるような機構はほぼ全く存在せず、またその子は見つかったことで次は見つからないようより巧妙に、かつ叱責を受けた・非難或いは疑惑の目で見られたことのストレスを晴らすためにより過激な虐待を行うようになる可能性がある。
個人的には児童相談所への通報をおすすめしたい。すぐに何らかの介入行為に至ることがなかったとしても、通報実績だけは重なるから。
でなきゃ、「ネコをいじめるのは法律違反だが、ネコを食べるのは法律違反じゃない」という
矛盾したことにならない。
こういう「法律の存在意義は別のところにある刑法文」って、結構ありそう。
例えば「死体遺棄罪」というのは、ホンネのところの存在意義は、
「殺人容疑者が目の前にいるが、殺人容疑で拘束するには根拠不十分、という場合に、
立件しやすい死体遺棄罪で逮捕状を請求し、でも実質は殺人罪の取調べをする」
というところじゃないか?
本来の趣旨がそうなんだから、「親の葬儀代が出せなかったから、仕方なく死体をそのままにして、
動物愛護法の条文自体にはどこにもそんなこと書いてねえ。
であれば動物愛護法の18条とか23条は削除して、27条その他の文面から「みだりに」は削除するように法改正させる運動をしたほうがいいな。
保健所がペットを受け入れることは場合によってはおかしくないだろう。
動物愛語法の18条や23条や27条を知らんからなんとも。説明したいなら詳しく書いてくれ。
猫だって何が自分にとって正しいか考えて決めてると思うぞ。ただ人間のほうが力が強いので、猫の決める正しさと、人の決める正しさがかち合ったときに、猫の決める正しさが勝てないだけで。
いつの時代のどの場所においても人を含めた全ての動物は生きたいと思ってるに決まってるんだから、野犬を駆除するのもいけないな。
野犬は、そもそもペットの犬を捨てないとか、はじめから野にいる犬は民家に近づけないようにするとかすべきだね。それらの努力をしても人の生活地域で野犬が出て悪さをするなら駆除すればいい。実際そうしてるでしょ。トラバツリーをたどれば分かるけど、おれは生き物を絶対に殺してはいけないとは言ってないよ。人が生きたいと思うこと、他の動物が生きたいと思うこと、その根本的なエゴがぶつかって解消不能なときは、どっちかが死ぬしかないんだ。たとえば生きるために他の生き物を食べること、人と生活域の重なる獰猛な野犬を駆除すること、そういうのは認められるだろう。でもそれ以外の不要な殺生は避けるべきなの。
いや、小型犬だったかもしれない
運転していたのは夜遅くで、まわりは街灯も少ない場所だった
普段からそんなに注意していないわけでもないし、この日もいつも通り「注意して」運転しているつもりだった
そんな中、前方道路の真ん中でビニール袋?が風にたなびいているように見えた
ビニール袋と思っていた僕は「ビニールなら踏んでも平気かな」なんて思っていた
しかし近づいたときには、何か毛が生えたような? 生き物のように見えて……
「うわあああ!」と思わず声が出てしまい、慌ててハンドルを切った
ドン、と前輪が乗り上げた時の感触
そのまま進みつつバックミラーを確認すると、何かが動いているように見えた
後続の車両も慌てて避けている
一瞬、後ろの誰かが轢かないかな、そうすれば僕が最終的に悪かったことにならないのに、なんて思ってしまい、急いでその考えを振り払おうとする
次に思いついたのは、うちに居る猫のことだった。彼らは今どうしているだろうか? 同じように轢かれていないだろうか?
そういえば、小さいころ飼っていた猫があるときフッと居なくなってしまって、どこかに旅に出たのかなあ、なんて素朴に考えていたけれど、こういう風に惹かれてしまったんだろうな、と思った
あと、これは動物愛護法違反で、飼い猫なら器物破損も加わる感じなんだろうか、なんて思った
その後は、結局人間は肉食の際に動物を殺して生きているのだし、これはそれがわかりやすく形になったのだ、なんてわけのわからないことを考えていた
僕はとても混乱していたのだろう
気を紛らわせるためにラジオをつける
あそこでジタバタとしていたということは、その前にきっと轢かれて動けなくなってしまっていたということだ(だから僕のせいじゃない)
自分が轢いてしまった後も動いていたということは、トドメになったわけではなかったんだ(だから僕のせいじゃない)
そもそもあんなところにいるなんて、思いもしなかった(だから僕のせいじゃない)
もしくは、轢かれてしまっていたということはどうせ助からなかったんだから、あれがトドメになってくれていれば、とか
そんな考え方は間違っているのは良くわかっている
もっと注意して運転すれば、気づいて轢かずに済んだんだろうし、轢いたら轢いたでその状況を直視したくないなんて気持ちを押さえつけて、猫の安否を確かめるべきだったのだ(動物病院は急患を受け付けてくれるんだろうか? でも朝まで待って連れて行ってからでも平気な程度だったかもしれない)
でも、僕はそこから逃げ出して、頑張って忘れようとした
あれは悪い夢で、本当はそんな事故はなかったのだ
もし現実だとしたら、大いに反省し、もう二度と同じような事故を起こさないようにすればいい
でもそんなの、轢かれた猫にとっては全然関係ないし、どうでもいいことだ
その猫にとってはありもしない次の機会への反省なんていらないから、生きていたかったんじゃないだろうか
次の日、同じ場所を通ってみた
猫はそこからちょっと離れた場所で、息を引き取っていた
最後の力を振り絞ったのか、それとも誰かが寄せてくれたのかわからない
いや、後者でも何か出来たんだろう
端に寄せてあげて、保健所に連絡するとか、どこかに埋めてあげるとか(これは違法かも)
何か供養したりしてあげるべきだったのかもしれない
でも、僕は何もしていない
ただ罪悪感に苛まれて、悪いことをしたとか、何が出来ただろうかとか、運が悪かったとか
そういうことを悶々と考えるだけで、行動に移していない
目をそらしても問題は消えないのに、僕は目をそらしている
人を轢いてしまった時も、僕は目をそらして逃げるんだろうか?
それで「僕は目をそらしている」なんて増田に書いて、叩かれでもしたら、懺悔できたなんて思って満足するんだろうか
しかも「僕みたいなのが最低の人間って言うんじゃないだろうか」とか書いて、自分を卑下すれば十分だろうと思ったりするんだろうか
なんか頭の中がゴチャゴチャしていて、気持ちの整理が出来ていない
とりあえずここに何か書いていても何にもならない
明日も見に行って、まだそこに居たら、せめて、保健所に連絡してあげよう……