はてなキーワード: 通俗とは
・・・要するに衛生条件と動機づけ条件をわけろってことでおk?
「人間はネズミではない」という、当たり前の事実が忘れられるとするなら、よくありません。
「動機づけとは、教育の手段ではなく、目的である」ということです。
例えば、子供に勉強をしてもらいたければ「知りたい!」という動機づけをすることが必要なわけです。
ところが、勉強を「させる」ために、しばしば用いられるのは、誰かに勝ちたいとか、褒められたいとか、ご褒美をもらいたいといった手段としての動機づけです。
この背後にある問題を考えるため、以下、本書の記述をピックアップしてみます。
・アメによって反応を引き出せはするが、同じ行動をさせ続けるためにはアメを与え続けなければならないという事実そのものが、
アメの長期的効果(あるいはその欠如)についてのカギを提供しているのではないかということである。(p25)
・ごく幼い子供たちにはコントロールをもって対することも必要なときがあろうかと思う。
最低の基準として、例えば三歳児がよちよちと表の通りに出て行こうとするのを見過ごすわけにはいくまい。
しかしコントロールに頼る前に、それほど強圧的でなくもっと相手を尊重した世話の焼きかたはできないかどうか、しっかりと確認すべきではある。(p49)
・報酬と罰とは基本的に同じようなものである。現代の社会心理学の創始者であるカート・ルーインが言うように、
両方とも「そのときの自然の場面からは生まれないような行動」を引き出そうとするときに使われる。
さらに、長期間にわたって見るとどちらもまったく同じ様相を示すことが分かる。
つまり、こちらの望むような行動を続けさせるためにはやがて賭けるものを上げ、報酬なり罰なりをどんどん増やしていかなければならないのである。(p74)
・親が子供に、ずっとおとなしくしていれば日曜日にサーカスに連れて行ってやると言ったとする。
土曜日に子供が親の気に入らないことをした場合、親がよく使うせりふは、「そんなことをしているとあしたのサーカスはだめだぞ」であろう。
褒美をご破算にするということの脅しが、罰を与えるという脅しと同じ機能を持っているのは明白ではないか。(p77)
・報酬は、ひいき目に見ても、こういう協力や仲間意識を促進するのになんの役にも立たない。
アメを奪い合うときには必ず「争いと嫉妬」の底流が生じるのであって、それはすでに二世紀近くも前にニューヨーク市の教育者たちがある行動修正プログラムが実施されているのを見て出した結論でもあった。(p80)
・報酬主義の問題は、報酬を与える場合、そもそも問題がなぜ発生したかに注意をすることは全然必要でない、という理由である。
子供が泣きわめいている原因、生徒が宿題をやって来ない原因、従業員が気の乗らない仕事ぶりをする原因を考える必要はなく、ただ該当者を買収するか脅すかして活を入れればいいことになる。(p87)
・「こうすればあれをあげるよ」と言えば、関心は「これ」ではなくて「あれ」に行ってしまう。
従業員に給料袋の中身について考えさせたり、生徒に通知票のことを心配させたりするのは、創造性を重んじようという場合にはほぼ最悪の戦略である。(p99)
・先生は肩をすくめて、「試験に出るよと言わなければ、子供たちは覚えようとしないわ」と言う。
経営者は、キチンとした仕事をさせるためにはボーナスを出さなければダメだと主張する。
親は、子供が誘因なしでも「やるべきこと」をやるだろうと期待するのは現実的ではないと信じている。
しかしもう一度考えてみよう。そういった言い分は通俗行動主義を擁護するものではなく、教室や職場の設定のしかた(あるいは人々がなすべく要請されていること)に何か大きな間違いがあることを示すしるしなのだ。(p123)
褒めたり操ったりすれば、その自然な動機づけを押し殺し、そのかわりに盲目的従順や機械的学習態度や権威に対するあからさまな反抗を生み出すだけである。(p142)
・大抵のおとなが褒め言葉を連発しようとするのはなぜなのか。
褒めることは安上がりで簡単なのだ。
それとは対照的に、技術と工夫と配慮がなければ、人を励ましてしかも今やっていることへの興味を持続させ、その上コントロールされているとは感じさせないようにすることはできない。(p168)
・一般に報酬というものが業績を伸ばすのに役立たず、しばしば業績を妨げることは、いろいろな種類の仕事において見られるが、それは特に創造性を要する仕事において著しい。(p182)
・仕事にほかのもっと重要な面で欠けているところがあると、次善の策として給料の額が重視される傾向がある。
つまり、課題が本当におもしろく意味のあるものでなかったり、自分のやることを自分で選べなかったり、社会的な支持が得られなかったり、自分をみがき自分の能力を発揮する機会が与えられなかったりすれば、
給与がいくらかということに目が行きやすいということである。(p197)
・強調しておく必要があるのは、こうした事情があるからといって、経営者が給料を出ししぶるのが正しいということにはならないという点である。
だれも給料は十分かつ公正であってほしいし、いちばん単調できつい種類の仕事をする人たちは特に高い給料を望むように見えよう。
しかし金こそが人間を動かすと考えることは、人間の動機づけというものを貧しく解釈することになろう。(p200)
・家庭でのものごとを自分で決め、自己決定の感覚を持つ機会を親からあまり与えられていない子供は、学業成績もあまりふるわないということも明らかにされている。=私はそうでもなかったけどな。多分日本のテストはバカ向けなんだな
こうした事実は何を意味するのか。基準を厳しくしたり、点を辛くしたり、誘因を増やしたりすることは、益よりは害になるということについては強力な証拠がある。(p225)
・自分がどれぐらいよくやっているかを気にしている人は、自己概念をかけているということがある。
自分を利口だとか有能だとか思っている自己イメージは、一定の活動水準に達しないおそれがあれば危険にさらされることになる。
そういう自己イメージを守ろうとすると、普通は、自分の最善を尽くしたいという欲求を犠牲にすることになる。
そういう欲求は危険だと思われるのである。やらなければ失敗もしないわけだ。(p233)
望ましい行動を取らせるために報酬というニンジンを与えることは、その人が持っている「行動そのものへの興味」を殺し、ニンジン中毒を作り出してしまう可能性があるのです。
僕たちは、これを慎重に回避するための方法を学ばなければなりません。
「うれしいな、月曜日だ」と思える人生を、より多くの人に実現してもらうということが、教育に関わる人の責務であり、それは人生をかけるに値するものです。
2 :カタログ片手に名無しさん :04/11/12 15:59 ID:???
徳川家康の場合は自分で参加してそうでもある。活字印刷に興味あって実践したりしてたし。
12 :カタログ片手に名無しさん :04/11/13 01:16 ID:???
大名と農民だとサークル当選率が全然違う。商人は賄賂でスペースを確保。
15 :カタログ片手に名無しさん :04/11/13 08:24 ID:???
壁には、大勢ならんで、古絵草子屋へ売りに走るのですな。大坂や京のサークルは、千石船は危ないから、牛、馬で搬入。
17 :カタログ片手に名無しさん :04/11/13 08:44 ID:???
印刷はフルカラーはないものの、30色指定とか信じがたい技術が。しかも木版。
23 :カタログ片手に名無しさん :04/11/13 21:02 ID:???
48 :カタログ片手に名無しさん :04/11/20 07:58 ID:???
江戸市中から駕籠屋集めてくるのも大変そうだな。会場周辺には蕎麦屋や寿司屋の屋台とか?
59 :カタログ片手に名無しさん :04/11/23 17:33 ID:???
自分は創作の「南総里見八犬伝」の続編がでるかどうかか気になるよ。書き手がもういい年だからな。
息子の嫁さんに代筆頼んで口頭で書くその創作熱には頭が下がるよ。
61 :カタログ片手に名無しさん :04/11/23 18:47 ID:???
大手や、版元の搬入も面白い。江戸御府内からは大八車だが、遅れると5人位で引いてくる、
越後あたりからは馬に積んでくる、馬子が引くので、スピードが出ない、締め切りが早いぞ。
飛脚はピコ手向けだ。関八州内からは高瀬舟、神奈川からは八丁艪、蝦夷から弁財船、
大坂の大友屋は樽廻船で3日で新刊をコミケに運び、締め切り遅れの大手新刊をコミケに間に合わせた。
94 :カタログ片手に名無しさん :04/12/12 05:17 ID:???
城は宿でも合宿所でもねぇぞ!!
104 :カタログ片手に名無しさん :04/12/13 13:17 ID:???
「飾り物」サークルで手作りのかんざしとか売ってるって聞いたけど、できはどうかな?お歯黒アートもやってくれるんだよね。
106 :カタログ片手に名無しさん :04/12/13 16:37 ID:???
137 :カタログ片手に名無しさん :04/12/22 03:06 ID:???
しかも大手サークルは株仲間を作って冥加金を納めているので非課税らしい。
田沼も大手も逝ってよし
138 :カタログ片手に名無しさん :04/12/22 07:44 ID:???
>>137
田沼はその金で水路の開削したり埋め立て地作って行列場所を確保するのが目的だからなぁ……
一概に逝ってよしとも言えん。金持ってるのは商人と大手、こいつらから出させようってだけの話でさ。
145 :カタログ片手に名無しさん :04/12/25 02:16 ID:???
墨がだめなら四隅を減らせばいいのです、とか言って、
円形の本作ってる小坊主見かけたんだが。
152 :カタログ片手に名無しさん :04/12/26 04:34 ID:???
とにかくショイコを背負ってる馬鹿デブがウザすぎる!!あいつら一体何考えてるんだ!? 痛てーんだよ!
持ってた予備の風呂敷で首締めてやろうかと思った。
200 :カタログ片手に名無しさん :05/01/14 01:32 ID:???
211 :カタログ片手に名無しさん :05/01/31 02:46ID:1WXMCW.U
平塚宿あたりからぶっ通しで来る連中は品川宿で風呂に入ってから来てくれ。
あと、丑寅の時間帯は来場禁止だって法度諸注意に書いてあるだろ。欲嫁。
223 :カタログ片手に名無しさん :05/02/01 19:29ID:qu/Tjqwk
264 :カタログ片手に名無しさん :05/07/05 21:59 ID:???
ウチの本、一冊20文なのに。ちゃんと両替屋に行ってから来てくれよ。
265 :カタログ片手に名無しさん :05/07/05 22:43 ID:???
いちいち両替商にいって両替すると手数料取られるし、面倒くさいわ。
266 :カタログ片手に名無しさん :05/07/06 23:24 ID:???
それを仰るのなら、上方の方でも小判を使わせて下さいよ。
272 :カタログ片手に名無しさん :05/07/08 19:51 ID:???
302 :カタログ片手に名無しさん :05/10/04 17:04 ID:???
江戸時代でも全国的に識字率高かったし、元々閑職の武士が仲間内で書いていた戯作(通俗小説)の流行を受けて
金のある町人達も書き手になっていったって話だし印刷技術さえ何とかなればコミケも可能だったんだろうな。
348 :カタログ片手に名無しさん :05/12/21 00:49 ID:???
百姓なんだけど米や味噌と交換はあり?ナマモノダメなら炭でもいいけど。
350 :カタログ片手に名無しさん :05/12/21 10:04 ID:???
手荷物増えるから米との交換は勘弁。反物なら綿でも可、なんだけど。
351 :カタログ片手に名無しさん :05/12/21 15:15 ID:???
酷いところだと彫刻師まで連れてきて、木くずがひどいのなんの。まったく、番士は何をしているのか。
380 :カタログ片手に名無しさん :06/01/06 05:21 ID:???
うちはどれも1冊数文なんでマジで困った。
小判なんぞ貰っても釣りがないからたばこ1包と交換してもらった。
素直に文句言ったら「番頭にバレないよう夜中に店抜け出してきたけど、
両替屋がどこも閉まってて…」ってこぼしてた。お役人も会場内の公認両替処増やしてやれよ。
でもたばこが上等の薩摩物だったんで許す。百姓は一般でもサークルでもこういう時強いな。
しょい籠の中に柿や芋満載して、それで本代払ってる強者見た。
なんかまたいつものように、宇野常寛と東浩紀がかけあい漫才やってるみたいだけど、この議論って連合赤軍の人たちやラジカルフェミニズムの人たちが、さんざん昔にやってきた話を、繰り返しているように見えて、だから僕は東浩紀の言う「宇野常寛は古風で倫理的」ってのはまさにそのとおりだなあ、って思った。
例えば連合赤軍の議論に変換するなら、「父」を「プチブル」とか「帝国主義者」とかに言い換えてみればいい。
私たちは誰もが(男性であっても女性であっても)誤った、矮小な帝国主義者である。「帝国主義者」になることは達成ではない。(続く) 私たちは否応なく「帝国主義者」にされてしまうのであり、あとはこの不可避の条件にいかに対応するか、という問題だけが残されている。帝国主義の回復は、既に自動的に達成されたものであり、それはもはや想像力の仕事ではない
というわけだ。宇野常寛文脈では、「父」ってのはフェミニズムにおいて批判的に語られる「近代的な傷つける主体としての権力者」っていう意味の隠喩を受けてるから、この(「父」⇒「帝国主義者」の)言い換えはそれほど的を外したものではないだろう。帝国主義者に(あるいはプチブル)になる/ならないの二項対立は無効であり、もはや現代においては全ての人間がプチ権力者でありプチ「傷つける主体」なのだ、だから誰もが否応なく帝国主義者になってしまうのだ!! という議論は、はっきり言うが全く新しいものではない。倫理的に煮詰まっちゃった昔の活動家の人達の多くがたどった道だと思う。連合赤軍にしろ、東アジア反日武装戦線にしろ、ラディカル・フェミニズムにしろそうだ。
さらに言えば、彼らの多くが「ナルシシズムの徹底的排除」を掲げていたのも、宇野常寛と二重写しになる。東浩紀が言っている
「だれもが父である」ということと、「父になってしまう」ということは違うんだよ。宇野君が主張したのは前者。それは父になる/ならないの二項対立を回避するためのアクロバティックな論理。でも「だれもが父である」んじゃ、もう「父」の意味がないじゃん。ぼくの言っているのはそれとは違うの。
というのは言ってみれば典型的なプチブルの思想だ(東浩紀がプチブルの権化であることには皆異論はないだろう)。「全ての人間が帝国主義者だってあんたらは言うけど、でも突然、個別具体的な権力とか責任とかを負わされちゃうことだってあるよね」って連合赤軍に向かって言っているようなものだ。そのような個別具体的な(たとえば出来ちゃった結婚で通俗的な意味で「父になってしまう」ような)例を挙げるのは、社会の根本的矛盾から目を反らすためのナルシシズムであると、連合赤軍ならそう言ったに違いない。個別具体的な実例において「父になってしま」い、そのことについて個別具体的な議論をするようなナルシシストは、「総括」するのが彼ら/彼女らのルールだったのだから。
これはちょっと極端過ぎるたとえかもしれないけど、宇野VS東って赤軍派VSプチブルって捉えると、自分としてはすごく分かりやすいんだよね。
小学生の時聞かされた。
変だよね、こんなの。
遊郭としてたと言っても、すぐ前の世代ではなく、その前にやめて地主になって、それをある宗教に寄付して、無一文の状態になって・・・と色々あったらしい
その色々が続いてない事も無いから、こんな事を言ってくるのかもしれないが ( 精神的にいろいろあるからかもしれないが、別に親は生活やお金には困っていない。全然余裕なのに・・・ )
それにしても・・・・
昔から私に関する事だけ、洞察力が欠落したような事を平気で行う人だった
実の母親から、お前の幸せを願ってません と宣言されるようなものだし
普通の健全な家庭の特に専業主婦の人が聞いたら嫌がるようなことを好んで言う傾向もあった
(別にエロい事と言う訳じゃないです。エロい人ではないと思います)
言わなくて良い事実とか、厭世的になるような事とか
例えば、森村誠一氏の小説を読んで、なぜそんなものを読むのか聞いたら、「私は本当の事が知りたいもん」と言ったりされたりとか
森村氏は優れた小説家だと思うけど、年若い人が見ると、厭世的になったり人間不信になる可能性もあると思う。私に勧めてきたわけではないけど、こういう事も踏まえた上での答えとしては適当ではないと思う。
本当の事と言っても、小説はフィクションなので、本当の事が知りたいなら、ノンフィクションのドキュメントかルポを読むべきだと思うし。
言うとしたら、氏は、厭世観を持つような事実を扱いながらも、それだけではない深い何かがあるとか、それを超えたものもあるとか、何とか言えないものなのだろうか、と思う。
世の中にあるものを無批判に肯定的に受け止めるのではなく、時には皮肉や風刺も、クリティカルな思考をするために必要なように、社会の暗黒面を描くのもより良い情況を目指すためには、有効だとか、視点としては、そういう目も必要だから、とか何とでも良い言い方は色々できると思う。
しかし、彼女の場合はそんな事をわかって読んでいたのではないような気がする。
これは離れて暮らしている今もそうだが
どういう人間だったかと言うのが、チグハグすぎて思い描けないし、人に説明もできない。
これは父にも言える事だが。
それで、トラバはしてないけど、さっき書いた恋愛に夢が描けない話
これに繋がらない事もないわけだが
人様のお嬢さんを金にものを言わせて攫ってきて、性的搾取をしてきた先祖・・・と考えると、他人にそんな事をした人間の子孫は、恋愛なんてできない、と思いつめてしまった部分は、小学生だったので、少なからずあると思う。
小学生ごころにはきつすぎる。
ある程度、自己防衛的な思考や論理的な判断力が、育った状態でしかも安定した身分の状態の大学生くらいになってから、先祖の歴史として話すのなら、わからないでもないと思うが・・・
遊郭というのは、気になるから、何かの折に目に触れたものを読んだり、本を立ち読みしたりして、調べた範囲でも、摩訶不思議な構造になっている
江戸時代とそれ以降での違いというのもあるし、江戸時代でも、遊郭というのとその他のものでは、だいぶ違ったようだった
病気で亡くなった江戸を描く漫画家の杉浦日向子さんは、このあたりちゃんと書いていた。(ただ地名を正確に書いてたというだけだけど)
明治以降国家神道として神道を流行らせたりする時に、その町のイメージが悪くなってはいけないという配慮からなのか何かはよくわからないけど、映画でも何かの作品でもその町を舞台にしたものは、江戸時代は心中モノが描かれたりしてたけど、今は全然ない。他の町も吉原以外は似たようなもので、特にタブーだかたというわけではなく、吉原が通俗的にそのような場所として有名だからわかりやすいからかもしれないが。( 江戸時代の吉原と今のとではだいぶ趣が違うけど )
有名な江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目で、伊達の殿様に切り殺されてしまう太夫の話がある。実話かどうかは定かではないらしいが、その太夫の死体が流れ着いた淵や、亡骸が祀られたとされている寺か神社もあるらしい。この話は、武士より武士みたいな形で亡くなってしまった遊女というところが皮肉なのだと思う。 創作だとしたら、こういう人身売買に誑かされて鼻の下を伸ばしている武士に対する皮肉もあったのではないかと思う。
遊女の腹から生まれた大名 で検索すると 23人もいたと記したページも出る
http://kkubota.cool.ne.jp/saihouji.htm
皮肉だ
江戸時代でも人身売買は悪いとわかる倫理観はあったと思う。わからないわけがないと思う。
それなのに、簡単に誑かされてしまう。
礼儀には必ず合理的な理由はある
とか書いておいて
だもんなあ。これで理路整然で終始一貫した説明なのかあ。へー、そうなんだあ。あ、ちなみに辞書をひくと
合理的 (形動) (1)論理にかなっているさま。 因習や迷信にとらわれないさま。
らしいですよぉ。
これに関して
その流れから、ネットでは全角を見るとあまり快く思わない人が多かったんだ。
半角文字を偶数桁使う分には問題ないんです。奇数桁使われると不快なんです。どうしようもないんです。鳥肌がぞぞぉって、ぶわぁってなっちゃうんです。
説明してください。同じコンテクストは共有してるみたいなので。
あ、あと、
お前も礼儀そのものが分かってないのだとすれば、お前とも会話が成り立たないってことになる。
会話が成立しないというのはインタラクティブな問題だから、あなたにも責任はあるんですけどねえ。理解できないオマエが悪い、というのはコミュ不全を認めたようなものだと思いますがねえ。
最近知ったとあるはてなーさんの、書くものが素敵だなあと思い、さかのぼって読んでいたその方のポストやその他から、いくつか思うところがあった。
あまり他人には話していないことなので、anonymousで書く。
わたしには両親と弟がいる。
母はわたしが生まれた直後から精神分裂症を患っていた。(あえて精神分裂症と書く。このころはそう呼びつけていたので)
小学校低学年までは、母との生活は(今にして思えば)まったく筋が通らないことばかりで、いつも、なぜここで怒られるのだろう?とか、なぜ今日はあんなにものすごく褒められたのだろう、とか、謎ばかりだった。
生育環境が特殊だったせいも幾分かはあるのだろうが、わたしはとにかく人と違ったことをしたがる子どもだった。それが物事を杓子定規に進めたがる母の気にいらなかったらしく、なにか思いついて喜び勇んでぶちあげると、必ずひどくしかられた。10歳くらいまでは、ひきずりまわされて力のかぎり叩かれたこともよくあった。もちろん、アザが残ったり傷ができたり骨が折れたりする程ではない。ひどい折檻程度だった。
わたしがラッキーだったのは、平均的女児よりも身体の成長が速く、小学校高学年の時には母とほぼ同じ体格になっていたことだ。身体的暴力は、この時点でほとんど無くなった。家には、父が母の病気を理解するために買った精神病関連の書籍があり、木村敏や小此木啓吾やユング、フロイトなどを読みはじめたのもこの頃からだった。
さらについていたのは、父がいたことだ。父は、自分の仕事を本当に愛していて、いつでもわたしのそばにいて全面的に護るというようなことはなかったが、常識的な会話ができる人間がこの世にちゃんと居るということを示してくれていた。そして人と違ったことをしたがるわたしの話しを聞いてくれて援助してくれ、ときには叱ってたしなめ、穏かに見守ってくれていた。
そして、これもついていたからだと思うが、普通の生活を営む程度の収入がある家庭だったので、家事全般がほとんどできない母ではあったが食べ物には困らなかったし、そうとう不衛生だったが病気にかかるほどではなかった。
食い意地が張っている子どもでもあったので、まともなウマいものが食べたくて、本を見ながら料理も自分である程度やるようになっていた。
とにかく、生命力が強かったのだと、今にして思う。
ここにいては生きていくのは非常に困難だと、小学校高学年で思ったわたしは、とにかく遠くへ離れるべく寮のある学校を受験しまくったのだが、高校卒業までは家から通うこと、という父の方針で、18歳まで実家で暮すことになる。
ところで、弟は、わたしほど離脱しようとする力が無かった。
母は弟をとても大切にしていた。大切にされすぎて、彼は何かを失なってしまったのかもしれない。
わたしが自分のことで精一杯の間、だんだん彼は社会(小学校や中学校だが)との折り合いをつけられずに時を過ごし、中三で精神分裂症を発症した。
家は、この時から、構成人員の半分が常人、半分が精神分裂症患者、となった。
家に帰れば戦場であり(後年、映画「死の棘」を見た時、実に的を射ている表現が多くて驚いた)、学校では思春期らしい悩みと葛藤を抱えて足掻き、それなりに忙しい日々を過した後、大学に入り、一人暮しをはじめる。
その後は、主に自分自身との戦いだったが、ほんとうにいろいろあった。
ただ、わたしには帰る家がない。お金はいくらかは融通してもらえるかもしれないが、自分で自分のメシを獲ってこなければ、生きていけない。そう思って、とにかく稼ぐことだけは途絶えないよう必死になっていた。
母が統合失調症(この頃、病の呼び名が変わる)なのは述べたが、叔父も同じ病であり、母の実家はとある新興宗教に全資産を入れあげていたという、ココロの弱い血筋であった。
血筋という言い方をするとオカルトめいて解決不能な雰囲気が漂うが、単に神経系と内分泌系の一部が弱い体質が遺伝しているだけなのだと、今では思える。
わたし自身について言えば、体質が遺伝しているので、危機的状況に陥るといまだにマイナートランキライザーが手放せない。症状が投薬で緩和されることを学習して以来、困ったらかかりつけの医師を訪れて、状況を説明して投薬してもらうことにしている。
こんな風になんとか曲りながらも人生と折り合いをつけていたのだが、わたしはずっと母が許せなかった。母には、「母」であって欲しかった。ドラマに出てきそうな、心優しく、あるいは通俗的で、あるいは自己中心的だが、少くとも夜中にカーペットを切り刻み出したりしないような。
母が「こうして欲しい」「こうでなくてはダメだ」と言うことは絶対だと思っていたので、それがひどく間違っていたり、わたしを苦しめるようなことであった時に、わたしはどうしていいかわからなくなっていた。そして、そんなことを言う母を、許せない、という思いを募らせ続けていたのだ。
電話をすれば必ず口論になり、長い間顔を合わせることはなかった。
時は経つ。
数年前に、一人の男性と出会い、わたしたちは結婚することになった。
結婚の予定を報告をする時に、相手のご両親に、わたしの母と弟の話をしたのだが、そこで相手のお父さんが言ってくださった一言がある。
「病気なのだから、しかたないね」
そう言われて、初めて気がついた。
母は病気なのだ。病気なのだから、間違ったことを言ったり行なったりするのは仕方がないことなのだ。
そして、わたしは曲りなりにも自分でエサを獲ってきて寝場所を確保できるくらいには育ち、一応社会と渡りあって生きている。
わたしの望むような「母」ではないかもしれないが、彼女なりにわたしのことを思っていることも、やっとそのとき腑におちた。
では、間違ったことを言われた時には、「それは間違いだよ」と、きちんと話してあげれば良いのだ。それが、人間同士というものなのだ、きっと。
そうして、わたしは今、母に向って、「そんなこと言うもんじゃないよ」と、きちんと話ができる。
会うと、ひとつひとつわたしの装いや様子についてヒステリックになる彼女に対して、説明もできるし、「ひとに何かを言う時ははそういう風に言うと失礼なんだよ」と、言ってあげられる。
驚くべきことに、そう言うと母は、「そうかねえ」と、聞いてくれるようになった。どうせまたしばらくしたら、同じことを彼女は言うのだが、それでもその時は返事をしてくれる。
弟のことは、まったく何も解決していないが、彼は彼で生きていくのに困らないよう、両親が整えてくれている。
前からそうだったが、最近はより一層、わたしは自分自身の生育歴を振りかえる時、アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」を思い出す。
小さいころはわからなかったけど、家族が数名病気にかかっているというだけで、別にどうということはないのだ。
ここまで至るのに、ずいぶんいろんな人に助けてもらった、底抜けに楽天家の夫や夫のご両親もそうだ。
苦しいかもしれないけど、一人じゃない。
そしていつか必ず、なんとかなる。
あなたにそれを伝えたい。
伝わらなくてもいい。
でももし、自分のことを独りだと思ってしまっているなら、近くまで行くから、ガードレールに座りながらアニメやマンガやブンガクやロックの話をして、一緒にこの夜を生きのびよう。
わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋を造ったり、おとなのように働きながら、けなげにも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚のように---というのはあらゆる通俗小説のように、感激を与えやすい物語である。実際また十五さい足らぬわたしは尊徳の意志に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合わせの一つにさえ考えていた。・・・・・・
けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代わりに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼らは尊徳の教育に寸毫の便宜をも与えなかった。いや、むしろ与えたものは障碍ばかりだったくらいである。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と言わなければならぬ。しかしわれわれの両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。尊徳の両親は酒飲みでもあるいはまた博奕打ちでもよい。問題はただ尊徳である。どういう艱難辛苦をしても独学を廃さなかった尊徳である。われわれ少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。
わたしは彼らの利己主義に驚嘆に近いものを感じている。なるほど彼らには尊徳のように下男をも兼ねる少年は都合のいい息子に違いない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を顕わしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合わせの一つにさえ考えていた。ちょうど鎖につながれた奴隷のもっと太い鎖をほしがるように。
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遠山の金さんといえば庶民感覚で犯罪者を裁いた”名裁判官”として歴史に残る。通俗大衆小説のモデルにもなり、何回かテレビドラマにもなった。
お白砂には花吹雪舞う刺青の松方弘樹扮する金さんが颯爽と登場して悪を懲らしめ、弱き庶民から拍手喝采をあびる。
江戸時代までは検非違使の伝統が息づいていた所為か警察、検察、司法が同じ行政機関で行われた。警察が逮捕し、検察が起訴し、裁判所が法に従って結審するという近代の概念はなかった。火つけ強盗改めの長谷川平蔵も然り。
大岡越前守も温情主義裁判で庶民に人気がある。考えてみれば南町と北町奉行所の同心だけであらゆる民事裁判をまかなっていたのである。
江戸時代を世界同時代的に俯瞰すると日本はたいそう治安が良かった。日本人が裁判沙汰を好まなかった証左にもなる。
水戸黄門様は印籠をかざして即席裁判。これは超法規行為であり、そもそも黄門様は司法の独立って概念を知っていたのかな。
そういうわけだから日本人は争い事が嫌い、裁判は避ける。なにごとも裁判で決着をつけ、交通事故でも弁護士をよぶ米国とは法律の風土が違う。
だが世の中が変わり「国際化」というアメリカ化が進んだ。外国人の犯罪ばかりか、外国企業との軋轢、特許係争が頻発し、あげくは米国からの強い要求が突きつけられる。日本に弁護士が少ない、と。
この結果、二つの政策が実現した。まずは大学に雨後の竹の子のごとく誕生した法科大学院。
そして日本に馴染むかどうか不明な新制度、すなわち裁判員である。しかもこの裁判員が臨む裁判と言えば殺人、傷害致死、放火、身代金誘拐などの重大犯罪であり、死刑か量刑か無罪かを決める「大岡越前」の小型ヴァージョンとなる。実際に最初の判決が八月初旬に実現し「業界予想よりすこし思い」量刑が下った。世間の常識が裁判官の常識を変えた例になった。
ともかく裁判員制度の発足は米国からの圧力が遠因、これに財界の要求が一致し、日弁連が便乗した。奇妙な、面妖な裁判員制度が日本にうまれた。
左右の境界線がないまま賛否両論が渦巻き、「ともかく始めてみなければ分からない」ということになったわけだ。
議論は曖昧なまま、米国へのジェスチャーのごとくに審議が進み、国民が誰も知らないうちに米国流の「陪審員」制度の誕生となったことは述べたが、米国には黒人奴隷制やリンチによる縛り首があった。日本とは異なり犯罪者も多く、弁護士は百万人以上、なかには悪徳弁護士、アンビュランス・チェイサー(救急車を追いかけて患者から事故の弁護士を成功報酬でいかがかと注文をとる)もいれば、マッチ・ポンプもいる。セクハラをでっち上げて日本企業から大枚をせしめた手合いもいる。
だから伝統重視の保守派がいきり立って反対の論陣を張る。教養の低い、裁判官に比べると法律知識のない素人にそんな重大犯罪を判定させて良いのか、それこそ左翼の思う壺ではないのか、と。
第一に無知蒙昧なる庶民が重大犯罪を裁けるのか。冷徹な判断が出来ず情実に走り、死刑を避ける傾向が顕著になるのではないのか。
第二に陪審員は買収されやすく誤審、冤罪が多く死刑執行後に真犯人がでるケースが米国では頻発している。だから「逃亡者」というテレビは大ヒットした。反面で、陪審員を黒人ばかりにして、妻殺しの「無罪」を勝ち取ったO・J・シンプソン事件のような法廷テクニックの悪用がおこる。
第三にこれは基本的に人民裁判であり、ソクラテスの「法は法なり」と言って毒杯をあおいで死ぬようなケース、あるいはマリー・アントアネットのように左翼お得意の人民裁判が復活する恐れはないのか。
▲上告審には適用されず、なんのために必要なのかは不明
細かな問題点はほかにも多々ある。
一、選挙管理委員会のリストを元に無作為に選ばれる「裁判員候補者」は面接で拒否されることもあるシステムとはいえ、拒めば罰金とか、法廷の密室での協議内容は一切喋ってはいけないが、違反した場合、数十万円の罰金とか馴染めない特徴あり。
四、多数決で裁定することが本当に妥当なのか等々、問題点が沸騰する。
ところが新制度では凶悪犯罪の一審でしか適用にならず、高裁から最高裁へと上告するに従い、裁判員はおかれない。どのみち現在の裁判で一審で終わる裁判は稀だから、それならいったい何のためにこういう「改革」が必要かも論議された。
裁判員制度導入に賛成する保守の論客も意外に目立つ。代表選手はコラムニストの高山正之氏だ。
高山氏は産経新聞ロスアンジェルス特派員時代に多くの裁判を傍聴し、陪審員制度に精通し日米の裁判に関連する著作も多い。
法律の解釈しか知らない裁判官、世間知らずの無知な裁判官より大衆の叡智、つまり民度が裁いたほうが適正な判決が出やすく、主知主義、インテリの暴走、左翼優勢といういまの偏向状況を覆せる嚆矢になるかも知れないという。世間智の欠如甚だしきインテリの裁きより大衆のほうが賢いという日本人への信頼がそう言わせるのだろう。これぞまさしく遠山の金さんの時代への回帰ではないか。
ただし米国の陪審員制度といい、今度の日本の裁判員制度といい、これらは民主主義の発展とは相関関係にはない。司法の民主化などというお題目は寝言の部類であり、推進側だったはずの日弁連ですら一部は反対に回っているそうな。
通巻第2702号
→http://anond.hatelabo.jp/20090103032255
人間関係が薄くなりすぎているのでは? カウンセリングや認知療法では人間関係の代わりにはならないだろうし、抗鬱剤で承認が得られるわけではむろんない。人間関係を具体的に広く深くすることに踏み出せれば前に進めると思うが。
* * *
一つの参考として読んで下さい。私も鬱病経験者なので一人の経験者の立場で書きますが、この病気の十全な改善のためには、「自分が生きる」とか「生きる」ということについての或るていどの深さのある肯定が必要なのだろうと感じます。
「こんなに苦しいことがあふれている生を続けていく意味は何?」というような問いを抱えていて、その問いの答えが分からない状態だと、色々な辛いことや苦しいことが剥き出しになって自分に迫ってくるように感じられて非常に辛いし、憂鬱にもなります。具体的な行動に踏み出す気力も出にくくなります。
「こんなに苦しいことがあふれている生を続けていく意味は何?」というような問いは要するに人生の意味を問うている問いなのでしょうが、鬱状態だと人は意味や価値について一種の盲目になる(意味や価値をあまり信用できなくなる)ことがあるので、そういう状態で「人生の意味や価値を問う問い」について答えを出そうとしても無理があるのではないかと思います(鬱状態でなくても扱いに困る問いですが)。
「こんなに苦しいことがあふれている生を続けていく意味は何?」といったように人生の意味や価値をストレートに問おうとするから答えに窮するのであって、答えに窮しているから憂鬱にもなるのでしょう。だとすると、そもそも「こんなに苦しいことがあふれている生を続けていく意味は何?」というような形式の問いを抱くことが憂鬱さの原因の主要な1つかもしれない。だとすると、この原因を取り除くためには問いの形式を変えるべきだと思います。
どのように変えるかというと、例えば「生きているとはどういうことか?/人生とはどういう事態か?」という問いに変えるわけです。つまりこれは「生きる」とか「人生」という語の意味自体を本人が再定義する試みであって、これを果たせば鬱病者当人が自分の現状を或る意味でクリアに見ることが可能になるし、あるべき生と比べて現状に何が足りないかということを自覚することもできるでしょう。「人生の意味は何?」というような問いの1つの答えが副産物として得られる可能性もあると思います。
「生きる」とか「人生」という語を単に通俗的な意味でとらえているだけだと、「生きる」とか「人生」ということを通俗的な意味の外側から見る視点が得られないでしょう。そうすると、通俗的な意味での「人生」に幻滅すれば精神的に行き詰まり得ます。「その行き詰まり状況を打破するためには、本人が人生を積極的に肯定しなければならない」といったときに、そこでいう「人生」の語は通俗的な意味を超えたものにならざるを得ないのではないか。それを提供するのは宗教かもしれないし、哲学かもしれないし、文学かもしれないし、何らかの直観かもしれないが、理性を否定したりトンデモに堕ちたりはしないかたちで「人生」という語の意味を本人なりに再定義することはできるはずです。
>>薬なんか飲んでも極論、治らないんだよ。
>>本人が回復しようと思わないと治らないんだよ。
人生観に関して行き詰まっている人間は、行き詰まりが打破できないがために「自分は回復の見込みが無い」と思い込んでいる可能性もあると思います。ですから、「生きているとはどういうことか?/人生とはどういう事態か?」ということを考えることを通じて少しでも人生観を更新すれば「回復しようと思」い至ることができるでしょう。そして「こういうことが自分の善き生である」ということが明瞭に意識のなかに立ち現れれば、具体的な行動にもつながると思います。
そういう試みを鬱病者本人が一人でやるのは正直しんどいかもしれないので、信頼できる伴走者的な人と一緒にすすめた方がいいと思います。とりわけ、「こういうことが自分の善き生である」と意識するためには他者の存在が欠かせないでしょう。回復した後も社会のなかで生きていくのだから、「自分の善き生」というものは他人との具体的な関係のなかで築いて(気づいて)いかないといけないと思います。
人生への幻滅や人生観の行き詰まりが原因で鬱病になっているのだとすれば、その鬱病者の人生観の方をこそ誰かが理解し解きほぐしてあげるべきだと私は思います。あなた一人の手に余るならば第三者にも頼るべきでしょう。
人生観の更新で「健康」を創ることはできると私は思うし、できる以上はするべきだと思います。「健康」に生きることが善であるとお認めになるのであれば。
〈参考〉
あ、それすごくいいとこついてる。簡単にいえばそれ実存主義って呼ばれてたやつっぽい。
イデオロギー論ていうのはマルクスさんて人が言い始めたんだけど、日本語で「虚偽意識」って訳した人がいるくらいで、
人間の意識なんてのはその時の社会の制度とか科学の発達とか使われてきた言語とかそういうものによって規定されるもので、意識なんかはないってのがそもそものイデオロギー論なのさ。つまり人間は振り回されるだけだと。
つまりさ、ドーナツの穴みたいなもんで、穴自体はなにもない部分なんだけど、周囲のドーナツの形状によって色んな形になれるっていう。
で、そういうものに対する抵抗が実存主義。これが学生運動とかそういう形でバーッと広まったのさ。
この辺、カミュの「異邦人」と「ペスト」を読むとわかる。「異邦人」は徹底的に流されるだけの人の話で、「ペスト」は徹底的に死にものぐるいで(ムダとわかりつつ)抵抗し続ける人の話。この流れが実存主義の歴史なのさ。
だからあなたの思考は(通俗的な意味でない)左翼的な文脈としてありっちゃあありよ。
ちょっと書き直してみた。
俺も22歳の童貞だけれども記事のだいたいに同感。
自分が童貞になった理由が書き込んであるのをよく見るけど、そういう理由は8割こじつけで、実は理由なしってのがほとんどじゃないかなあ。
逆に非童貞の側に「理由有り。」ってところか。
処女に関しては、男側からはシミひとつついていない本と、BOOK OFFで買ってきたシミつきの本っていう違いかなあと思う。世界的に処女性に関するブランドがあると思う。
「処女は大事にして!あまりに早いとDQNっぽいから、結婚適齢期に出会うであろう本命の男まで保存しつづけて、そこで捨てて。簡単に捨てちゃだめよ。かといっていつまでも保存するのは考え物だわ。捨てるべきときに捨てるのよ。」
増田では概ね有意義な反応が尽きたようなので、戦闘的でも粘っこくもなさそうな方に試しにトラバ。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20080814/1218670547
さて不謹慎な表現など多々あるかと思うけど、以下に私的な疑問・論点をまとめます。
時間掛けて経営学や医学や倫理学や歴史学を学んでたら、軽くクリアーできる論点・誤解もあるかも知れないけど、その他も含めてご容赦を。
●論点1 トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
●論点2 「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
●論点3 「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
●論点4 経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
●論点5 トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
●論点6 トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
●論点7 むしろ平時に「かわいそう」の論理を追求する方が、長期的には「かわいそう」な人を増やすのではないか。
●論点1
トリアージを「極限状態」と呼んで忌避するが、何を以て「極限」と呼ぶのかが恣意的だと思う。
たとえば、短い時間で選択を迫られるという意味でなら、(汚い例で恐縮だけど)映画館で上映開始数分前に便意を催し、
そこで素早くトイレを済ませるか、そのまま2時間前後我慢するかなど分単位で決断を迫られたりとか、
あるいは語源となる(らしい)コーヒーの選別作業など秒単位で決断を迫られる行為が、実は日常でもよくある。
もちろん時間以外の資源をモノサシにする場合も同様に議論を進められるはず。
つまり、時間等の量的な制約をその条件とするのであれば、いわゆるトリアージ以上に「極限状態」とみなせる
選択はいくらでも存在することになり、なぜトリアージだけを取り上げて「極限状態」と呼ぶのかがわからない。
そして呼ぶだけならいいとして、そこに殊更特別な意味を見いだそうとする行為には恣意性が入って来ないか?
明確な基準がなくはっきりしないせいで、そうした疑問が浮かんでしまう。
もし資源制約等々を最初から全部取っ払って、人の命を「切り捨て」るプロセスを指し「極限」と呼ぶのであれば、
蘇生行為の中断や、人工呼吸器の取り外し、あるいは脳死判定?など、(当事者にとっては非日常ではあるものの)
平時の医療行為の中にもそれらは存在する。これらはいずれも倫理学的検討に値する問題ではあるんだろうけど、
今回の問題意識とはずれているのではないかという気がする。なぜなら、経営学講義中の「資源制約下の選択」
というトピックで取り上げる事は難しいと思えるから。よってこれも不適。
ここからはさらに妄想。そこで「資源」の意味をもう少し拡張し、技術水準まで含めるとしたら?
現代医療で人工呼吸や蘇生や脳死判定が要請される重態の患者でも、実は簡単に救えるほどの医療技術が
遠い将来いずれ誕生する事を想定すれば、それらの現場を「極限状態」と呼ぶ事も可能かも知れない。
けれど何事も有限なこの世界で、資源の有無は所詮相対的な問題でしかないから、逆に心臓マッサージも知らない
ような時代まで遡れば、現代医療は「極限」でも何でもなく、相対的にかなり恵まれた状態だとさえ言えるかも知れない。
だからこの妄想理論も、当然すぎるほど当然ながら、使えないよね多分。
●論点2
「極限状態」という一種のフィクションを前提としなければ、ナチスはホロコーストを行わなかったのだろうか?
トリアージの現場では、住所氏名年齢性別人種思想信条宗教経済状態等ではなく、たとえばSTART法に
代表されるように、あくまで症例とその喫緊性を判断材料にして、医療資源の配分が決定されて行く。
そこでの個人は、生存者の最大化という観点から、同じ人間同士限りなく対等に扱われると見ていいはず。
他方、ナチスはアーリア人種なんかにとって、異民族共産主義知的身体的障害者等の存在が有害だと
訴えてたわけで、その排除は平時であると有事であると問わず、進行していたんじゃなかろーか。
不謹慎な言い方をすれば、対等ならざる「異分子」の排除は、保健所の動物駆除のように、
生存権や私有財産権その他の人権を持たざる者と扱った上で、粛々と進められたんじゃないかなと。
また日本や北欧等でも障害者・社会的弱者の断種手術が進められたけれど、これらも特に有事であるからと
行われていたわけではないはず。社会ダーウィニズムや通俗的な理解によって「市場原理主義」など(あるいは
「原理主義的資本主義」?)と呼ばれる淘汰のプロセスは、ある緊急時の必要に応じて進む(進められる)
と言うよりは、むしろ長期的に徐々に着実に進行していくモデルだと考えるのが妥当だと思う。
そして比喩としての「極限」的危機のアピール自体は、かつてのワイマール共和国を含む(民主主義・非民主主義問わず)
あらゆる国家で行われる、支持者獲得の為の常套戦略で、たとえば、核戦争や原発メルトダウンの恐怖を時に過剰に煽るのも、
類似の行為と言えるのでは?ナチスに特徴的な行動として取り上げるのは些か困難じゃないかと感じる。
以上の点から、トリアージを差別的な(どころか相手を人間扱いしていない)ホロコーストとなぞらえるのは
間違いであるし、また仮にトリアージが「極限状態」の選択であると仮定しても、ナチズムやホロコーストとの
同質性を認定するのは恣意的だと考える。トリアージの普及推進や例示がホロコーストと地続きである、または
そうした考えを広げるというのは、不謹慎である事を除いても有益な議論とは言い難いはず。
そもそもホロコーストの最たる物である絶滅収容所等におけるユダヤ人殺害は、ナチスドイツの
敗色が濃厚になった戦争後半期にかえって加速していたようで、一般的な意味で言う有事への対応や
資源の最適な配分という意図からは、どうも外れた感が強い。元々戦場の論理とは別物なのでは。
●論点3
「資源の有限性を前提にするな」と言うけれど、実はこの世界ではあらゆる物が有限だったりする。
トリアージの現場においては人員物資設備等の制約がボトルネックとなっているけど、そもそも人員物資設備等が
無限であれば、トリアージはもちろん企業経営の探求や経済学的考察など、資源の効率的な配分を研究する
学問・営為は生まれなかったはず。経営学や経済学をはじめ、多くの人間の知的営為はその濫觴において、
現実世界の資源の有限性を前提としており、その有効活用を目的としているわけだから。
たとえば、市場メカニズムの根本を支える価格シグナルは、財やサービスの需要と供給によって決定されるけれど、
供給無限(商品の物量だけでなく運搬供給設備やそれらの生産性等も)であればその価格はゼロとなり、
人は欲望の尽きるまでそれらを蕩尽するはずだが、もちろん現実はそうじゃない。一見価格ゼロに見えても
広告販促込みだったりして誰かが費用を負担しており(そのままでは持続可能ではない)、いずれにしても
「価格」の存在は、資源の有限性がこの世界に付き物だという事実を、端的に示していると言えるわけ。
またたとえば、かつて環境問題が今ほど注目されなかった時期には、社会的制限が存在しない中で
工場は排煙を垂れ流し放題だったけど、現在では空気ですら無限ではないというのが、環境問題を認識する
あらゆる人間の知る所で、その為に各種の環境規制や課税が行われ、少なくとも先進国では、工場経営者も排煙その他の
公害原因の扱いに注意を払うようになっている。逆に各種エネルギーに補助金(それは低い技術水準とワンセットだが)を
与えている中国やインドなどは、その凄まじい蕩尽によって資源の国際価格高騰や各種公害の原因としても台頭している。
以上のように、資源が無限か有限か(≒価格がゼロか否か)は、その資源を効率的に扱うインセンティブを決定している。
そして、およそあらゆる物に価格や税金、規制が付きものなのは、それらが現に有限だからに他ならず、
経営学・経済学・トリアージはもちろんとして、多くの人間の知的活動はその資源制約によって発展・流転を促されてきた。
よって「資源の有限性を前提にするな」という主張は、現実を無視し多くの知的活動を否定する行為に等しく、場違いな指摘だと考えます。
有限性の前提や資源の効率的利用・効用最大化と言った考えがナチズムへとつながるのであれば、必然的にこの世の
学問・営為・制度・生活習慣は、その多くがナチズムの眷属となり、今回の件を特別批判する意味は限りなく薄まるはず。
●論点4
上と関連して。経営学はそもそも社会全体について語る学問なんだろうか?
経営学と経済学は、もちろん共に資源制約の下での効率的利用を目的とするんだけど、後者が主に
社会全体の効用最大化を目指すのに対して、前者は時に社会全体の効用をかえって損なう決定を推奨しかねなかったりする。
既に上で述べた環境問題における企業行動が典型例だし、あるいは独占や寡占の追求、他企業とのカルテル、
最近も相次ぐ情報の非対称性を悪用した偽装問題など、企業は時に利益追求という存在意義に忠実なまま、
社会全体の最適化からは逸脱しちゃう場合がよくある。そうした行為には違法な物からグレーゾーンまで何でもあり。
他に経済学の概念上でだけで考えれば、ブランド構築・製品差別化、特許等の独占的使用販売権の取得等も、
完全競争を避ける狙いから行われる、社会全体の最適化に反した行動とみなせる。もちろんこれらの場合は
消費者や社会の利益となる場合もあるんだけど。ともかく経営が目指すのは本質的に部分最適・部分均衡なわけ。
このように企業はいろいろな経営的実践を通して、市場における競争を避け、超過利潤・独占利潤を得ようとする。
それに対して、各種公害規制や独占禁止政策・不正競争防止、情報の非対称性の排除などを通じて、市場メカニズムの
健全な作用を維持し、また時に所得再分配を考慮し、社会全体の効用最大化を目指すのが、一般的な意味で言う経済学の使命。
つまり、別々の学問として定立している以上当然なんだけど、経営学的実践における「全体」と、
経済学的・政治的・社会的実践における「全体」とは、多くの場合かけ離れているんだね。
よって、(仮に)経営学的営為の例としてトリアージを取り上げる場合でも、それらが一般的な意味で言う「全体」、
社会や国家全体に敷衍されて適用される恐れがあると考えるのは、学問の目標を見誤った、飛躍を含んだ主張じゃなかろーか。
●論点5
トリアージに関連して「他者性がない」選択と言うけど、その「他者」の扱いも恣意性を含んでいるのでは?
既出のようにこの世界のあらゆる物は有限であり、ある選択は必然的に他者の選択を制限してしまうのが世の常。
だからたとえば、日常の買い物で財布の中身と照らし合わせながら商品を決める(予算制約下の最適化行動)裏には、
売り上げ好調で繁栄する勝ち組企業と同時に、売れない商品を作って経営不振に陥り、場合によっては
倒産する「かわいそうな」負け組企業の存在があったりする。ひょっとしたら「切り捨て」られたその経営者は
自ら命を絶ってしまうかも知れない。その他日常ありふれた選択が、当然のように多くの他者の運命を決定している。
政治上の決定で見ればもっとわかりやすい、再分配は必ず財源を必要とする。
たとえば公共事業を削ればどうしても倒産は増えてしまう。増税だって薄く広いだけで景気を落ち込ませずには居られない。
以上のように考えれば、無視出来ない他者の範囲は空間的・時間的に際限なく広げる事が可能であり、
トリアージだけを取り上げ、その「他者性がない」側面を強調する行為には、恣意性が含まれているのではないかと。
●論点6
トリアージを「全体主義的な決定」「悪しき決断」と言うけど、平等な個人の自由な契約という所からも基礎付けられないだろーか。
仮に「災害時に被災・負傷し、物的人的制約のある災害医療の拠点に搬送された場合にどのような治療戦略を望むか」
という契約をあらかじめ(被災時に意識を失えば意思の確認が出来ず不公平なので)交わすとすれば、
そして公序良俗に反するという立場から、金銭などの代償を対価とした優遇や、自己犠牲を禁じ手とすれば、
自由かつ平等な個人は、期待生存率を最大にする為=自分自身の為にトリアージを選択する権利を行使するはず。
これが全体主義国家ならマイノリティは放置され、地位や能力のある者の治療を優先させられるかも知れない。
よってトリアージは「みんながひとりのために」でも「ひとりがみんなのために」でもなく、
「ひとりがひとりのために」という個人主義をベースとした選択と考える事も十分可能だと思う。
また自分の命が常に他者の命と可換であるという強い認識が働くから、他者認識がないという批判も的外れとなるはず。
(ちなみに治療従事者自体はロボットだって構わないわけで、その他者性認識を問題にする意義は仮想の話の上では薄いと思われ)。
以上はリベラリズムの基本である無知のヴェールのアイデアを多少拝借した物。
無知のヴェールとはリベラリズム上の社会正義のあり方を考える思考実験で、それを被された者は他人はもちろん
自分も含めたあらゆる属性・・・住所氏名年齢性別人種主義主張経済状態等々・・・がわからなくなってしまう。
その状態で、各個人は自身の利益も含めもっとも望ましく公正な社会の条件を考えてみよ、というのが実験の中身。
で、リベラリズム上の議論においては、その条件の下で「格差は最も弱い立場の人々の効用を最大化する目的でのみ正当化される」
という「格差原理」が導出される事になっている。では、トリアージの現場において、それがどのような人々に当たり、
かつその条件の下で選択要請される治療戦略とはどのような物になるだろうか、ちょっくらこれを考えてみる。
まず被災患者を症例・緊急度により以下のように分ける。
A.所与の医療資源・技術では、どれだけ治療を施しても亡くなってしまうとされるグループ(START法では黒いタグを付けられる)
そして以下のように選択可能な治療戦略が提示されているとする。
1.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、医療資源を人数分で割って全員に割り当てる「平等戦略」
2.治療を受けられない人は「かわいそう」だから「公平に」症状は無視し、各人へのくじ引きで割り当てを決める「機会均等戦略」
これら5つの内であれば、各人は全体最適など考えずとも(それを考えるのが完全な悪というのもおかしいんだけど)、
個人の利害に触発されて、自由かつ平等な権利の下に、最も自らの期待生存率の高い4のトリアージ戦略を選ぶはず。
ではその場合の「最も弱い」人はどの患者グループなのか、その効用はどうなるのかを不謹慎な表現も交えるかもだが次に検討。
もし医療資源を注ぎ込んでも「ほぼ」助からない黒いタグ、この場合グループAの患者だとすれば、どのような治療戦略においても
「ほぼ」死亡という結果に終わり、効用は「ほぼ」不変=「ほぼ」常に最大だからトリアージを選ぶ事は「ほぼ」許容される。
次に死亡状態とみなされる人ではなく、助かる可能性はあるが治療を必要とする赤や黄色のタグ、グループBに含まれる患者を
「最も弱い立場」とするならば、トリアージによって最も手厚く医療資源を配分される事になるから、やはり許容範囲となるはず。
問題はもちろんグループAについての「ほぼ」の取り扱い。技術水準の問題として閑却する事も話の上では出来るんだけど、
(前にネタのした時は確実に生存率を判定出来ると仮定したので簡単だった)、現実のトリアージではそうは行かない。
ただ、いずれにしても確率的な選択を強いられるのであれば、やっぱり4のトリアージ戦略しかないと思うんだけどね。
あと検討の順序が逆だったり、戦略や条件の設定の重複・恣意性等あるけど、まあ素人なんで大目に見てくださいな、と。
基本的には無知のヴェールまで降りて議論するまでもなく、最初の期待生存率+公序良俗の「治療戦略選択契約」の話で
大体OKと思うし、そこで「全体主義的」なる批判はシャットアウト可能だと考えてます。よってここらでこの論点終了。
字数制限でhttp://anond.hatelabo.jp/20080817193711へと続きます。目障りでごめんなさい。
そもそも、経営学は「全体」について考える学問じゃないんと思うんだよね。
たとえば、一時流行った「ブルーオーシャン」なんて、要するに「独占寡占は美味しい」という話だし、
経営学的発想とは、いかにして競争を回避し超過利潤を確保するかという課題への取り組みでもあるわけ。
それに対して、時に独占へ介入するなどして経済を競争的に保ち、社会全体の効用の最大化を目指す
というのが一般的な経済学の姿。とりあえずこの両者は別物で、だからこそ別々の学問として定立している事がわかる。
「経営学は社会全体について語る物」という誤解から、トリアージだからホロコーストだみたいな
品のない暴論が飛び出したんだけど(まあ仮に全体について語る物であったとしても噴飯物の妄想だよ)、
要は「トリアージを経営学として社会全体に敷衍し全体主義社会へ」という決めつけは、最初から矛盾を孕んでいたんだね.
誰かさんのセリフを借りれば「ちゃぶ台返し」的に、立論の第一歩から間違っていたわけ。
この騒動の流れ的に言えば、通俗的な女性のイメージや、トリアージという命の係わるデリケートな問題を
公開の記事にした点で(あるいは実名blogで顧客を侮辱するという失策をした点で)、件の先生が各方面へ
お詫びに追い込まれたりして、その点は既に決着がついているから十分だと思うけど、そこへ何を勘違いしたか
「あ??こいつなんか弱ってそう、俺様の知的関心のいい餌食だやっちまえ」的な勢いで、マニア的な屁理屈で
大した検討もなしに相手をナチ呼ばわりした馬鹿者がいたという話だね。
漫画版の『NHKにようこそ』は引きこもりの話ではな い。主人公は原作小説ほどネガティブでも内向的でもなく、世界と敵の関係について考え込んだりもしない。自意識のベクトルが、原作ほどの自己嫌悪へは向か わず、他人や他人からの視線への過剰な関心という形で現われる。では何の話なのか? それは「誰かのために」の物語である。
中原岬は幾度となく言う
「つまり…私は…/ひきこもりを助ける
その…/天使みたいな…/もので…
決してからかってる/わけじゃなくて…/本気の本 気!!
つまりボランティア/みたいなもので…/別に佐藤君が 好きとか/そういう……」(2巻p123)
「あたしは佐藤君を/天使のように助けようと思っ て……」(2巻p168)
「わ…私は/弱者に優しい/天使というだけのことです」 (3巻p163)
「な…何ですか/関係ないじゃないですか!/私はただ天 使だから…
佐藤君を助けなきゃ/いけないから!/クーリングオフ を申し込みに/来ただけじゃないですか!!」(3巻p165)
「誰かのために」は通俗的な用法としての「共依存」と 言い換えてもいいかもしれない。「共依存」の人は、自分自身の問題と向き合う前に、身近な「困った」他人の問題ばかりに気を向けて、その問題の解決に身を 捧げてしまう。しかし、そのような態度が、根本的な他人の問題の解決に向かうことはない。というのも、そのような「困った状況」において、世話をされてい る彼/彼女は、自らの努力で問題を解決するチャンスを奪われてしまう上に、その状況が続くことを世話をしている彼/彼女が望んでしまいさえするからだ。こ れが、(やや通俗的な解釈ではあるが)「共依存」ということの意味である。
「共依存」というと、互いに依存するようなカップルな どを思い浮かべる人もいるが、「共依存」自体は一方的な献身においてであっても(むしろそうであるからこそ)発生する。「自分が誰それから必要とされてい るはずだから、自分は誰それの世話をしてあげるんだ!!」と思い込んでしまうのが共依存だからだ。その意味で中原岬は、典型的と言ってもいいくらいの、 「共依存」である。
「共依存」は引きこもりに近い状態ではあるが、社会性 としては引きこもりより一歩進んでいる。一般的に「引きこもり」は自分のことだけに関心が向いてしまい、外界に対しては一切の干渉/被干渉を拒否してしま うというイメージであるが、「共依存」においては少なくとも、「自分を必要としているはずの」他人に対する関心や干渉はあるのだ。これは、ラカンにでも言 わせれば鏡像段階などと説明されるのだろう。
さて、「自分よりダメな人間を見つけたから」佐藤達広 と付き合おうとしたのだという、中原岬の告白は、原作においてはクライマックスの一部をなすほどに、作品全体において重要なものだが、それが漫画版では、 あえて秘密にするまでもないほどに、何度も語られてしまう。つまり、漫画版『NHKにようこそ』とは、既に人間関係が「共依存的」であることが、明らかに なってしまった後の話なのだということにならないだろうか?
興味深いことに、漫画版においては、中原岬以外の登場 人物もみな、多かれ少なかれ「共依存」的である。人間関係の契機がそのような、「誰かのための『優しさ』」として現われることが多い。主人公の後輩、山崎 は言う。
「僕は佐藤さんの事/尊敬してるんです/昔 僕がイジメられてた時……
こんな…ダメな奴なのに助けて/くれたでしょう?
僕…そんなの/絶対ありえないって/思ってましたか ら…」(1巻p31)
3巻で登場するマルチ商法の勧誘員女は言う。
「ただ…私は今まで/秋葉原でオタク相手に/絵を売った り宝石を/売ったりしてきたわ
何故だか分かる?
私の兄がね…そうなの…
…悲劇よね…
それでも兄弟だから/私が養ってあげようと/思って必 死で働いたわ
でも兄は働きもせず/人に迷惑かけるばかりで/部屋か ら出なくなって/もう6年になるわ
そんな人の為に/お金を稼ぐのが/正直虚しくなってき たの…」(3巻p165)
そして極めつけは、2巻で語られる、主人公と先輩女と の関係であろう。この関係が、中原岬と主人公の関係と二重映しに見えるプロットは面白い。主人公は言う。
「もう逃げるのは
やめだ!!
たとえ拒絶されたって/向かい合わなきゃ/今までと同 じなんだ!!
今度こそ/勇気を出して/先輩に言おう!!
別に好きとか/嫌いとかじゃない
ただ俺はこの人に/元気でいて欲しいんだ!!」(2巻 p107)
「そうだ!/そして何より
この人(ルビ:柏先輩)の/笑顔を/守るために」(2 巻p115)
「そうだ…俺は/どうして彼女を/止めるんだ?
結局 死ぬも生きるも先輩の/自由じゃないか?
俺がとやかく/言う権利なんて/ないじゃないか!?
…そうか…/そういう事か
何故 俺が/彼女を助けたいのか/どうしてこんなに/ 辛いのか?
つまり…/俺は彼女の事を――」(2巻p164)
だが、この主人公の純情は、先輩にかかってくる一本の 電話、そして「……私/結婚します!」の一言で打ち砕かれる。「誰かのために」が成就するとは限らない。誰それが自分を必要としているはずだから、と思っ たところで、誰それが本当に自分を必要としているかどうかは分からないのである。そして更には、必要とされているからと言って、誰それに手を差し伸べるこ とが良いことだとも限らないのだ。
このように、漫画版においては、「引きこもり」的な内 向自意識の問題は、半ば解決済みとも言える。「巨大な悪の組織と戦うことなどできなくなった」のが小説版の置かれた状況であるのならば、漫画版は「巨大な 悪の組織と戦う必要すらなくなった」後の話なのである。「もう“デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる(もちろん,21世紀はくる。ハルマゲドン なんてないんだから)。世界は絶対に終わらない。もっと大きな刺激がほしかったら,本当に世界を終わらせたかったら,あとはもう“あのこと”をやってしま うしかないんだ」(『完全自殺マニュアル』鶴見済,1993年)に対して、山崎はこう言うだろう「僕らは自殺だなんて/ドラマティックな事に/関われる資 格がありません…/どんなに落ち込んで苦しんでも…/この馬鹿馬鹿しい日常に帰ってくるだけです/もし帰ってこなくても/どこかで馬鹿らしく/死ぬだけで す」(2巻p182)。これが90年代と00年代の差の一つである、というのは安易にすぎるかもしれない。だが、問題意識は確実に転換している。それを進 歩と呼んでいいのか分からないし、「共依存」は、描かれているほど楽なものでもないのだけれど。
「共依存」は自意識の問題を解決し得るだろうか? そ して、宙吊りにされた「世界と敵」の話が、再び思い起こされることはあり得るのだろうか? それが漫画版『NHKにようこそ』において今後注目したいとこ ろである。