「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」みたいな定義だっけ?
だとすると俺が読んだことがある純文学は「アルジャーノンに花束を」と「虎よ虎よ」だけかなあ。
え?じゃあ純文学ってなんだ?
恋愛ドラマや戦争映画でサブテーマに人種差別が入ってきてるような感じ?
純喫茶は「純」=「酒の力に頼らずソフドリと飯と雰囲気だけで勝負してますよ」って意味だっけ?
じゃあ純文学も「純」=「内容に頼らずに文学性だけで勝負してますよ」じゃないとアウトなんか?
チョット調べたら「こころ」や「よだかの星」も純文学らしいね。
でもどっちも「"潔癖症的な自己憐憫&自己否定"vs"自己満足的な懺悔&自己破壊"のタッグマッチ」がメインテーマであって、文学としての表現力はそれを盛り上げるための裏方業務って感じじゃね?
裏方凄いなーって所で盛り上がるときがあるのは分かるよ。
サマフェスのスピーカーの仕組みがバズるとか、競馬の名実況で思い出トークが始まるとか、でもそれってやっぱりサブジャンル的な楽しみ方だと思うんだよなあ。
それとも「SF」や「歴史小説」や「架空戦記」みたいに単なる舞台設定の一種なのか?
いやそもそもの考え方が違う気がしてきた。
小説って作品のジャンルを何によって定義するのかが他のコンテンツよりも自由すぎるんだな。
あとテレビゲームの「アクションアドベンチャー」とか「MMOFPSRPG」みたいな合体型のジャンル表現が発達してない。
分類する人間が漠然と一番濃度の高い要素で定義してるだけなんだな。
そうなると「純文学」って言われる作品の傾向がなんか見えてきたわ。
「他にメインジャンルになれるような要素が強いものがなく、かつ純文学のカラーが強い」って場合に「純文学」の棚に分類されていくってことなんじゃねえか?
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であることは「純文学」の必要条件でしかなく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」だったら全部「純文学」になるわけじゃない。
逆に「純文学」と呼ばれている作品はすべて「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であるってことか。
すげー地味なオチだな。
しかしアレだな、こうなると「純文学」ってジャンルに区分されるってのは「それ以外の要素が特定のジャンルに含まれるには弱いね」を意味しているってことだな。
「恋愛小説」や「ライトノベル」っていうジャンルに区分けされるのと「純文学」ジャンルに入れられるのどっちが作者的に満足が行くのだろうかってのは永遠の謎だなあ。
「アルジャーノンに花束を」にしたって文章によって主人公の知能状態を表現しているのは凄いんだが、それを通して描かれる差別問題、知性の絶対性に対する問題定義の方もちゃんと読み込んでやらんとアカンやろとは思うんよな。
絵画の世界だと手段そのものが目的になっていることは結構あると思うが、文学の世界でそうなってる作品ってあんま多くなさそうなんだよな。
結局求めているのは自分が切り取りたい世界観に合わせたより適切なレンズやフィルターであって、それが凄いねって褒められたとして作者的には「いやそれを通して見せたかったものの方の感想言えよ」なのかも知れねえなあ。
私小説のことだよ
芸術性重視はともかく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した」なんて前提はそもそも無いぞ もちろん文章表現の芸術性も基準ではあるが そもそも純文学は日本文学独自の概念...
日本の近代文学および文壇における独特の用語。 読者の娯楽的興味に媚 (こ) びるのではなく,作者の純粋な芸術意識によって書かれた文学というほどの意味。 大衆文学,通俗文学の対...
純喫茶は今ならドトールとかスタバで、純喫茶じゃない喫茶店はメイドカフェとかコンカフェみたいな煩悩まみれの店の事やろ。