はてなキーワード: 国威発揚とは
2021年10月25日に先行配信が開始され今日CDが発売される、槇原敬之の復帰作『宜候(ようそろ)』。
(引用という形式ですが、考察として歌詞を書き起こしている都合上、このエントリはすぐ消します。)
こんな素敵な曲なのにネット上でも思ったより反応が薄いのが驚いている。
一方で、仕事中にもかかわらず号泣してしまうほど刺さってる人も居る。俺のことや。
歌詞提供しているのは、尾崎豊・村下孝蔵・玉置浩二・浜田省吾をプロデュースしている音楽プロデューサーの須藤晃。
https://www.youtube.com/watch?v=vjyQTWT-Oe8
歌詞が伝わりやすいよう、敢えて伴奏はピアノだけという最小限のスタイル。
まずは何も言わず配信サービスで聴いてくれ。冒頭35秒だけでいい。
話はそれからだ。
私は普段、歌詞考察・歌詞解説といった野暮なことは一切しない。
その作品に出会った際に各々が感じた時のフィーリングや気づきこそが宝物だと思っているからだ。
たとえ善意でも、ネタバレによって公式の意図と違う形で聴き手に伝わってしまうのはファンとして本意ではない。
ましてや、私個人の解釈というフィルターを通すと全く違った風景で見えてしまうだろう。
「説明しよう!」と割り込む人は、その作品に邂逅した時の感動を減らし自論を押し付けてしまうことになるかもしれない。(本稿の私のことである。)
「今のは何が面白かったの?」と解説を求めると白けてしまうだろう。
もしかしたら自分の前では二度とジョークを言ってくれないかもしれない。
ガルパンおじさんが「ガルパンはいいぞ」としか言わないのは、単に語彙力が足りないからだと思っていた。
しかし、実際に観てみるとそういった優しさからだったのだと今なら分かる。ガルパンはいいぞ。
だが、この忙しい現代社会。
また、曲の背景に想いを馳せるためには少しばかり教養も必要となる。
(YOASOBI「夜に駆ける」の原作小説「タナトスの誘惑」を読んで納得して
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「どちら様かは存じませんが
そのサングラスやめなさい
悪い輩(やから)に見えたら損よ
その目を私に見せなさい」
ばあちゃん 俺に微笑みかけて
かすれた声で叱ったよ
出会いと別れを 繰り返し
「もう慣れたわよ」と言ったけど
「やっぱり一人は つらいから
誰かの傍にいなさいね」
ばあちゃん遠くの空を見て
小さな声でつぶやいた
「夢なんて叶わぬうちが花だけど
待ってるだけでは駄目だから
行きたい場所を目指しなさい」
「橋の袂で声かけられて
赤いかんざし褒められた
あの日の私が一番綺麗
忘れられない思い出よ」
ばあちゃんはにかみ謝った
「ごめんなさいね こんな話」
「毛皮も指輪も 押し入れの中
どこに置いたか 忘れたわ
一度ハワイに 連れてってくれ
息子に頼んでみたけれど
伊勢神宮さえ 行けなくて
膝が悪くて 行けなくて」
「先頭に立たないように気を付けて
争いごとは やめなさい
いつまでたっても あいこでしょ」
「今度訪ねてくれるなら
どちら様かは存じませんが
これも何かの縁でしょう
「人生は思うようにはなりません
それでも希望を持ちなさい
神様なんていないけど
変わっていくものを嘆くより
変わらぬものを愛しなさい
笑う門には福来る
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さて、以降は2回以上聴いた人に読んでもらいたい。
答え合わせをしましょう。(抜け・漏れや解釈違いがたくさんあるはずなので、どうかコメントで補足お願いします。)
歌詞の大部分が、お節介な性分の認知症の「ばあちゃん」が孫(孫と認識されていない)に向けて語りかけるセリフである。
(叙述トリックで多用される「信頼できない語り手」の可能性も考慮せねばならない。なんせ認識が歪んでいるのだから。)
一見すると(前半はともかく)後半は思い出すままに過去を語ったり、
人生の先輩としてアドバイスを始めたり脈絡が無いように思われる。
しかし、言葉のひとつひとつに含蓄や温度感があり何故か聞き流せない。
「出会いと別れを繰り返し」:記憶を失う(別れる)→自己紹介(出会い)のループを指すのだろう。
後半で自分の孫に「どちら様かは存じませんが」とまた語りかけるので、「ばあちゃんまたボケとるわ!」とツッコんでしまう。
「やっぱり一人は つらいから 誰かの傍にいなさいね」と語りかけられても、
「ばあちゃん、いま孫がそばにおるんやで…」とさみしくなってしまう。
ところで、こういった違和感がないだろうか。
・ハワイに行けなかったら妥協点で伊勢神宮が来るのおかしくない?
・というかハワイに連れて行ってもらいたかったら息子より先に夫に頼めよ
・孫のことは何度も忘れてるのに、若い頃に口説かれたことは「忘れられない思い出よ」?
・なぜサングラスをかけるだけで「周囲から悪い輩(ヤカラ)と認定される」と思い込んでいるのか?
(グラサンといえばローランの民からすれば陛下の象徴と言っても過言ではないだろう)
こういった違和感や疑問を紐解き、一本の補助線を引けば、
ハマらないと思っていたパズルのピースが繋がり、この歌詞の全体像が視える。
それを前提にもう一度聴いてほしい。
「先頭に立たないように 気を付けて
争いごとは やめなさい」
この歌詞が異様に生々しく感じないだろうか。
まるで親しい人が先頭に立ったせいで亡くなったかのような物言いである。
→軍艦じゃんけんの掛け声「せーんそっ(戦争)」を嫌ったのではないだろうか。
「グー・チョキ・パー」は「軍艦・朝鮮・ハワイ(軍艦・沈没・ハワイの地域もあるらしい)」に置き換えられている。
小学校の時に「不謹慎だ」と先生に叱られた人もいるのではないだろうか。
実際、その後にお土産としてお寿司を細かくリクエストしている割に、「軍艦巻き」は入っていない。
「一度ハワイに 連れてってくれ
息子に頼んでみたけれど
伊勢神宮さえ 行けなくて」
→夫が居ないので息子に頼んでいる。おそらくハワイで亡くなった(と聞かされており、真偽は不明)。
そもそも、「ばあちゃん」は太平洋の地名でハワイぐらいしか知らない可能性も高い。
なぜなら当時のメディアは時の政府の統制下にあり、大本営発表を検証せず偏向報道をするプロパガンダの道具となっていたからだ。
国威発揚のため、日本軍の勝利を事実以上に喧伝し、大敗の事実を隠蔽する構造であった。
真珠湾奇襲の報道は大々的に宣伝したので、その印象が強いのではないか。
さて、ばあちゃんはハワイに夫を弔いに行きたいが、それが無理ならせめて国内で、
ということで日本全国最高位の神社である伊勢神宮にお参りしたいわけだ。
戦後世代にとっては戦没者を祀るのは靖国神社というイメージが強いが、
戦前世代にとっては伊勢信仰が普通であったようだ。現在も神社本庁の本宗は伊勢神宮。
(ちなみに作詞の須藤晃は富山県出身。槇原敬之は大阪府高槻市出身。)
「夢なんて叶わぬうちが花だけど
待ってるだけでは駄目だから
行きたい場所を目指しなさい」
→これは解釈が分かれるところか。素直に歌詞通りに受け取っても良い。
膝を悪くしてしまい二度と夫の弔いという夢が望めなくなってしまった悔恨にも解釈できる。
「橋の袂で声かけられて
赤いかんざし褒められた
あの日の私が一番綺麗
忘れられない思い出よ」
→孫(俺)のことは何度も忘れるくせに、「忘れられない思い出よ」。
その理由は、夫と過ごした時間が少なく他に思い出が無いからではないか。
・「毛皮も指輪も 押し入れの中」
GHQ連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの印象によるものではないか。
「変わっていくものを嘆くより
変わらぬものを愛しなさい」
→生きている人より、亡くなった夫への執着を感じないだろうか。
ここの「あなた」は孫(俺)に語っているように見えるが本当にそうだろうか。
夫に似た孫の姿を通して、
過去の思い出の姿の夫に、
ここにきて思い当たる。
「その目を私に見せなさい」と言われサングラスを外し、孫の目を見る描写。
ここでばあちゃんは若き日の夫を思い出す。
それをきっかけにこの歌詞のセリフのような回想が始まったのがこの曲じゃないだろうか。
タイトルが「ばあちゃん」じゃないのは、一人称が「俺(孫)」に固定されてしまい
メインディッシュにもなれず世の中の隅っこで苦い人生を送ってきた「ばあちゃん」の象徴として「わさび」がタイトルとして選ばれたのだろう。
よく学者が「このままだと日本はノーベル賞取れなくなる」と言うけど、そもそもノーベル賞いる?
日本は今までたくさんのノーベル賞を受賞してきたけど、ほとんどノーベル賞取ってない中国・韓国に産業では後塵を拝している。いくらノーベル賞を取って科学の進歩に貢献しても国民の暮らしが豊かになるわけでもない。ノーベル賞を取った基礎研究の応用を日本が独占できるわけでもない。じゃあ一体、何のために基礎研究に金を出してるの?
今後はノーベル賞取るような研究は他所の国にやってもらって、日本はその成果を応用することだけに注力すればいいじゃん。基礎研究なんか金の余裕がある国が国威発揚でやってりゃいいんだよ。
今回の東京五輪では開会式も閉会式もはてなでやたら評判が悪いけれど。
本来、五輪で見せるべきは、人間の限界に挑むアスリートの姿であって、本来、開会式だの閉会式だのは付随したセレモニーに過ぎないはずである。
サッカーやラグビーのワールドカップやら世界陸上やらウインブルドンやらで、開会式それ自体を楽しみに待ってる人は、そんなにいないだろう。
なぜか五輪だけは、開催国がアイデアを尽くしたショーをみせるのが当然のようになってるけど、それこそ国威発揚とコマーシャリズムとテレビ放映権料ビジネスが結びついた、異様な見世物の行き着いた地点ではないのか。
聖火リレーも含めた壮麗なページェントとしての開会式のルーツがナチスドイツ政権下で開かれたベルリン・オリンピックにあることを、みんなもう少し思い出した方が良いと思う。
本来、開会式なんて選手が集まって開会宣言と選手宣誓やって、あとは花火上げて景気づけにブルーインパルスでも飛ばしておいたらそれでいいんのかもしれない。いや、それが本来だろうという気もする。
はてぶみてて興味深いのは、わりと今回の五輪開催自体に批判的な人が、こと開会式に限ってはダサかっただのmikiko案がみたかった電通が中抜しやがってバカヤロー的な方向で批判してる例が散見されること。
五輪は嫌いだけど、アイデアを尽くした面白いショーは見たかったということか。
五輪におけるアスリートの活躍が“お菓子本体”だとするならば、開・閉会式なんておまけのオモチャじゃないのか?と思うのだが。
僕がなにより絶望したのが、同業のゲームライターたちをはじめとして、ゲームファン、クリエイター、インフルエンサー、場合によっては作曲家当人もが、この件に感動しここまで指摘してきた諸問題を見なかったかのように「ゲームが認められた」というような論旨の発言を恥ずかしげもなく振りまきだしたことだ。国威発揚に都合よく利用されることは認められていることとは全く違う。
同性婚の認められていない国で虹色のドレスが登場するのと同じで、つまりは「利用価値があるうちは、使ってやる」と言われているだけだ。
表現は不当に規制され、バッシングの矢面に立たされてきたビデオゲーム文化を、こんな時だけ都合よく使われるのは(繰り返しになるが)本当に許しがたいことだ。
最後のもそうだけど、この発言に関しても、こう思う根拠が気になるんよなぁ
見方が古いかも。よく言われるように、1984のロサンゼルスオリンピック以降は商業五輪の世界で、国威発揚というよりはコマーシャリズム、ショーとしての完成度を競うようになったと言っていい。
そうみると仮に開会式を失敗したとしたら、主義主張の統一ができなかったのではなく、商品としての規格を統一できなかった。商業的な失敗。
より痛いな。
みんなさ、信長の野望とか三国志とか戦略系のシミュレーションゲームやったことある?
Hearts of Iron でも Europa Universalis とかでも何でもいいんだけど。
やったことある人ならわかると思うけど、この手のゲームってリソース管理が命なわけよ。
有限の資源である資金や兵糧や配下武将とかを他勢力よりも効率よく利用しないと成りあがるのは難しい。
で、今の日本の政治家を主人公にしたゲームでさ、『菅義偉の野望』みたいなゲームがあったとするじゃん。
ゲームなわけだから勝利条件があって、こんな感じだとするじゃん。
・コロナを他国よりも早く収束させて、海外へのワクチン供与や経済支援を行い、国際社会で尊敬を集める
・オリンピックを成功させて国民に夢と希望を与えて支持率アップ、国威発揚
だけど実際の政治家は、勝利条件から遠ざかるような判断を下しまくっている。
国民に会食自粛を要請しながら政治資金パーティーとか、(ゲームなら民衆の忠誠度が下がる)
飲食店に保証金出すから休業してくれと言って、お金の振り込みが遅れるとか、(ゲームなら民衆の忠誠度が下がる)
ワクチンを早く打てと言って、在庫無いから供給しないとか、(ゲームなら出撃した部隊の兵糧取り上げるようなもんだよね?もちろん忠誠度が下がる)
不徹底な水際対策で変異株が入るのを許しまくりとか、(ゲームなら治安低下。やっぱり忠誠度が下がる)
どう考えても勝利条件から遠ざかるようなふるまいをしていてさ、はたから見るとやられ役としてAIを弱めに設定されている今川氏真か、劉禅かって感じでわざと自滅するようにプレーしているサイコパスなんじゃねーのって思ってたんだけど。
もしかしたらプレーヤーのゲーム難易度がナイトメアモードなのかなという気もしている。
シミュレーションゲームなら敵国の国力や部下の能力が数値化されてて全部見えるけど、ナイトメアモードの『菅義偉の野望』では側近からの口頭の助言しか判断材料がない的な。
もともと戦国時代に詳しい人ならば、データがわからない状態でもそこそこプレーできるかもしれない。
だけど知識ゼロの人が『信長の野望』をプレーしたとするじゃん。で、はたから見ている第三者が早くプレーヤーをゲームオーバーにさせれば自分のプレイ順が回ってくると思って偽情報を吹き込んだとする。
「姉小路家は強いから初心者にお勧め」とか、「島左近は野心が高くて裏切るから追放した方がいい」とか。
戦国時代の知識が無くてゲームをしているプレーヤーは、悪意のある第三者に偽の情報与えられたときに真偽を判断できるだろうか?
姉小路も島左近も、高校までの日本史の勉強で出てこない話だし、たいていの人は騙されちゃうんじゃないだろうか?
現実世界をゲームにたとえてみると、今の政治家が現実世界で勝利条件から遠ざかる判断を下しまくってるのは単純に適正のない人がゲームをプレイしてる結果なのかなとも思えてくる。
だとしたら今の日本政治のシステムの欠陥 (例えば小選挙区制とか) とかの可能性ってないんだろうか。
オリンピックの無観客のニュースを聞いて、みんな当然のように予想できたことなのにどうして政治家たちは今まで判断できなかったのだろうと不思議に思ったので、こんな仮説を書いてみた。
まんざら外れてもいなんじゃないだろうか?
排他的な「マスゴミ出てけ」というシュプレヒコール、それから集まった人に配られる日の丸の小旗、それが一斉に打ち振られる様子――まるで国威発揚の祭典ですが、これはそれまでの選挙戦にはなかった風景であり、二〇一二年以降、自民党のありようとして僕の中に刻印されているんです
安倍が演説中に「あんな人たちに負けるわけにいかない」と発言して大騒ぎになったけど、
要はそれって演説の最中に「安倍辞めろ」コールをしていた人たちに向けたセリフだったわけでさ。
「排他的」ていう表現は、まんま左派のシュプレヒコールにも当てはまるものだと思うんだよね。
私は別に反米でもなんでもないんだけど、これからみんなで国を盛り上げていこうって時にボタン一つで市民を何十万人も殺戮したという事実は今後数十年アメリカの影となって付きまとうだろうなってふと思った。
ことアメリカにおいては、過去を振り返った時に他に慰めになるような歴史的遺産が何もないということ。テクノロジーや経済の発展なんて些細なものでいずれは忘れられる。
自分の国がそんな穢れた歴史しか持ってなかったらどうする?国威発揚なんてできるだろうか。
アメリカが世界の警察を名乗って正義を実行したがるのも少しでもあの歴史を塗りつぶしたいんだと思う。
でも原爆投下を超えるような歴史的遺産、それもとんでもなくでかい負の遺産を払拭できるようなことなんてそうそうない。
ドイツもロシアも原爆を持ってたけど使わなかった。それは戦術的観点と同じかそれ以上に、これまでの自国の歴史、これからの自国の歴史を天秤にかけた結果だったんじゃないか。
昨今のアメリカ国内の騒がしさを見ても、歴史的精神的未熟さを感じずにはいられず、これから数十年かけて沈んでいく泥船に見えてしまう。
なんで反対しているの?
コロナ禍の現在なら分かるよ。でも、開催決まってからずっと反対している人に、その理由を教えて欲しい。
お金がかかるって言う話もあるけど、そのお金は消えた訳じゃなくて、どこかの企業の売上になって、さらにそこの取引先の売上になったり、社員の給料になってるんだよ。
古い話だけど、2016〜2018年ごろの土建業とその周辺産業はかなりの好景気だったよ。もちろん1人親方の所得や、社員のボーナス、バイトの単価など、企業以外のところもプラスだった。人手不足で工賃が上がって、着工できない、みたいなニュースも流れていたじゃん。
それとも赤字国債はいつか自分の首を締めるっていう意見かな? 自分はMMT信者、ただし租税貨幣論によりBIのみの無税国家は無理、と言う立場なんで、赤字国債による財政破綻の可能性は信じていません。なのでここで意見が食い違うなら、相互の違いを受け入れます。
オリンピックより復興という話もあるけど、予算推移を見れば分かるとおり、福島以外の復興は2015年ごろにはほぼ完了しており、さらに福島の場合は予算を入れてもすぐに解決する訳じゃ無いので追加投入しても効果が薄い(多重下請構造はどうかなぁ、という気もするが)。
当時の一部はてなーは反緊縮を訴える反面、自民憎しからアベノミクスの財政出動に反対してたし、そこら辺の流れが続いてオリンピック反対してるのかな、という気もする。
本来、思想的に左派なら公共投資拡大には賛成すると思うので、なぜ左派が多いはてなーが反対するのがどうしても疑問。通常反対するのは右派だと思うが、右派は右派で国威発揚ということで受け入れちゃってるし。
その一報を父から聞いて胸中に去来したのは、幼き日の思い出ではなく、むしろ長じてから度々意識した故郷の衰退のイメージだった。
元より地場産業として誇れるものが取り立ててあったわけではない地元は、緩やかだが確実な経済的衰退と人口減少の影響を受け、公共施設の老朽化や各種インフラの経年劣化という形で自治体としてのほうれい線を隠す術を失っていった。
それでも、いや、それゆえに明確な転換点などなく、ただゆっくりとした老化から鈍感なふりをし続けた首長、自治体、そして何より住民が半ば共犯のように地元の腐敗と死滅とを看過していった。
だからこそ、いまさら太陽光発電などで延命を図ろうとする醜さにほとほと嫌気が差した、その実感があった。
それでも友人の結婚式に出席するために数年ぶりに帰省してみると、どうも聞いていた状況と乖離があったために改めて確認を取ったところ、どうやらこの度設置が決まったのはソーラーパネルではなく、例の宇宙太陽光発電の受電設備ということらしかった。
年齢を重ねたが故に知識と語彙の更新をやめた父をいまさら責める気も起きず、数か月前にニュースサイトで多少話題になっていたトピックに思いを馳せることで2次会の無聊を慰めていた。
令和4n-21年に決定された第n次エネルギー基本計画では、ついに原子力発電の占める発電電力量の占める割合が0%になった。
平成の震災とそれに連なる事故以降窮地に立たされていた原子力産業はついに時勢に降参し、明るい未来のエネルギーから歴史の教科書上の記述となることを選んだ、という建前を本気にしている奴は少々イデオロギーに傾倒しすぎているきらいがある。
現実は、国内ソーラーパネルメーカーの開発した、そこまで安価とは言えないまでもそこそこ効率改善の図られた新型パネルを推したい産業界が、細々と開発を続けていた国産ロケットのペイロードの使い途を探していた経産文科省に仮託した、おままごとのような科学技術的国威発揚の煽りを受けた全廃、と言ったところだ。
どこまで行っても消極的な退場に、却って日本という国を感じざるを得ず、左派メディアのこじんまりとした勝利宣言にわざわざ難癖を付ける余力もなかったと見え、平成後期から令和初頭に掛けてあれほど紙面を賑わした役者とは思えぬほど粛々としたレームダック期を享受していた。
実際、人々とメディアの関心は、中国による、気前の良い提供と、経済協力を人質に取った押し付けの中間の様な形で供与された受精卵遺伝子改変技術をどれだけ受け入れるかという議論にあった。
(科学技術という側面において現代日本が中国に対して如何にサブジェクト・トゥしているか、という話だ。宇宙太陽光発電所はさながらパクス・シニカに立ち向かうドン・キホーテのようだ、と明に暗に揶揄された。)
日米原子力協定の次回更新がないことは誰の目に見ても明らかであり、山のように余っているMOX燃料の行き先はIAEAも知らないようだった。
そんなことだから、中間貯蔵施設という名目の、事実上の最終処分場たる六ヶ所にすべてを押し付け、政府と行政と大多数の国民はNIMBYの精神を遺憾なく発揮することで各々の精神の安寧を獲得していった。
とにかく、ことの主犯たる国産宇宙太陽光発電所は「ひかり」という、加齢臭むせ返る横文字の候補群からはなんとか逃げ果せた通称を拝命し、20GWもの大電力を供給し始め、東京万博会場の灯りが一斉に点った日をもってひとまずのプロジェクト成功と見る向きもあった。
(日本による宇宙開発の数少ない世界的成功に肖って「はやぶさ」なんてネーミングを推す動きもあったが、流石にこの国にも一抹ながら恥の概念は残っていたらしい。また、「まりし」などという旧動燃の残留思念、いや怨念が具現化したかのような案も提出されていたもと聞くが、真偽の程は定かではない。)
実際、こんな大規模プロジェクトを実行する能力とエネルギーをこの国がいまだに持っていたことに驚いた。
ただ、ひかりから降り注ぐ高密度のマイクロ波を分散して受電する設備、すなわち受電所の立地が不足していると言う問題は依然として解決の目を見ていなかった。
安全よりも安心を求める国民性に変わりはなく(「焼き鳥デモ」の映像を見たときは流石に乾いた笑いしか出なかった)、電源交付金も雀の涙と来れば宜なるかな、積極的に手を挙げるごく少数の自治体は奇異の目で見られた。
とはいえ、大流量の循環水系のために沿岸部であることが求められる汽力発電でもなく、大規模な河川と高低差が求められる水力発電でもなく、只広い土地さえあれば良いというだけの必要十分条件は今まで大規模電源立地となることなど考えもしなかった自治体の目には福音として映ったらしく、それらの首長は新たな時代の権益ホルダーとなることを選んでいった。
反対に、新規制基準適合審査の遅々とした進展と繰り返される住民訴訟、そして最終的な結論としての廃炉の影響をもろに受けた原子力立地の反応はさっぱりであり、政治の影響をもろに受ける歳入に頭を悩ませられるエネルギー立地はもう懲り懲りと言った風情で、役人の誘いをアイリスアウトの向こう側に押しやっていた。
結局、ひかりの設計容量のすべてを受電するに必要な30GW分の受電所を運開当初から用意することを諦め、漸次募集という名の先送りを決定した政府は経産文科省を矢面に立たせることを選び、自らは飄々としていたというのだから大したものだ。
結局、運開から5年が経過した段階でもひかりの擁する200k㎡に及ぶパネルの3分の1は折り畳まれたままであり、白衣十人黒衣五人などと不必要な比喩を披露した大臣はメディアの総バッシングを浴びる権利を恣にしていた。
そうした、古式ゆかしい伝統的な時勢の中で、2次立地募集に手を挙げた自治体の内の1つが、我が郷里だったのである。
「親父が色々動き回ってたみたいなんだけど、さ。正直言うと、あんま関わりたくないなってのがあって」
私の友人であり本日の助演男優、またの名を新郎が、半分ほど空けたアサヒビールのジョッキをテーブルに慎重に据えながら、疲労を隠さぬ赤ら顔で言う。
彼の父親は町議を務めており、「太郎」というシンプルすぎる名前も出馬を見越して付けた名前だと言っていた。
(国政選挙に出るわけでもないのにな、とは彼の自嘲だ。)
その親父さんはどうやらこの度の誘致に際し懸命に旗を振っていたという。
しかし、僅かばかりとは言え受け取る交付金と、"多少の"造成による環境破壊と、電源立地になるという誇り(この価値観だけは共有が出来なさそうだ)と、それら3つをとりまく可愛らしい権力闘争の予感に、父親の説得と説教とに玉虫色の回答を重ねることでのらりくらりと回答の明言を避けてきたのだという。
彼のこの手の身のこなしは素直に凄いと思うし、そうした人付き合いに嫌気が差していた、というのは私の上京に係る動機の半分を占める。
「でもお前、今更そんなこと訊いてくるだなんて、本当にここの人間じゃなくなっちまったんだな」
この地でこの話題が取り沙汰され始めたのは軽く2年以上は前だという。
誘致か否かで侃侃諤諤の論争があり、どこに建てるかでまた侃々諤々の論争があり、さらに用地買収に係るあれやこれやのトラブルがあり、それでも最終決定がなされたのがひと月前というのだから、どれほど地元の世情に疎くなっているかを実感させられる。
あるいは、上京して好き放題やっている(ように見える)私に対する軽蔑と嫉妬の念が多少なりとも混じっていたのかも知れない。
なるほど、確かに私には家庭もなく、親族との濃密な付き合いもなく、仕事周りの土地付き合いもなく、自由気ままにやっていると言われても反論する材料がないことに気づく。
であるなら、こんな日くらい友人の愚痴と誹りを受ける義務も果たすべきだろう。
そう思って、コークハイを傍らに、言葉少なに彼の言葉に相槌を打つことに決める。
まったく、本当に大変な役回りだと思う。
返す返す、自分には出来る気がしない。
翌朝、久々に実家の自室で目を覚ますと(物置と化していなかったことに驚いた、こうした面に関する母の義理堅さには感謝しても仕切れない)、やはり気になっていた裏山に足を伸ばした。
アルコールが多少残ってはいたが、丁度良い運動だと体に言い聞かせて路を辿っていく。
子供の時から変わらない、というのはフィクションの中にだけ許される情景で、長らく人の手が入っていないことを伺わせる荒れ様には流石に心のどこかが痛んだ。
…いや、いや。
よそ者同然と化したお前が捨て犬に見せるような仏心を発揮して碌なことになるのか?
もはや何も言う権利などないことに遅ればせながら気付き、せめて在りし日の遊び場の記憶が損なわれぬよう、路の途中で踵を返した。
もう2度と見れぬであろう山の景色を視界から追いやり、そういえば客先から急ぎの問い合わせを受けていたな、などと頭からも追いやり、足早に帰路に就いた。
帰路。
実家への帰路か、東京への帰路か、自問せずとも回答は明白だった。
思い出深き裏山は、もはや私の裏庭ではない。