はてなキーワード: 国産ロケットとは
最初に言いますが、逆に伝わりにくくなりそうなので数字は使わないようにしますので、小学生みたいな表現になって恐縮です。
日本は必死に自分を大きく見せているだけの小国なので大国に比べるとかなりしょーもないです。
そもそも「なぜ、宇宙を目指すのか?」に対しての意識が希薄なので、一部の世界有数産業のような「小国のくせに凄いね!」はありません。
昔は「宇宙行くとなんか凄いらしいから頑張るぞ!」でお金が増えている時期もありましたが、今はもう惰性で同額の予算がつき続けているだけで、当然他国や自国の経済成長に対して比較すれば減少していると言っていいでしょう。
それもそのはずで宇宙に行って日本がやることは惰性の仕事ばかりなのです。
アメリカやロシアはそれこそ軍事開発があるので追い越し合いますし、同じ方向で元気な北朝鮮はバンバンロケットの技術を成長させています。
日本も宇宙軍結成の空気がありますが、そもそも我が国の軍備はアメリカを真似る傾向が強いので「ひとまずアメリカから色々借りて勉強しようぜ」から始まると思います。
つまり日本の惰性的宇宙開発の立場が宇宙軍設立がなった所で別に変わらないんですね。
必要は発明の母というように、必要という意識が弱いと科学の発展は伸び悩みます。
そんな中で国産ロケットは「宇宙、金になるかも?」でワンチャンを賭けてきました。
日本が宇宙に行く意味が弱くても、他国が宇宙にバンバン行くならそこにいっちょ噛みで工業的な新しい主要産業が狙えます。
電子製品が駄目になりだしてるのに車とカメラだけで食っていこうは技術立国的に厳しいですからね。
それでもひとまずは国内に「国産ロケットつええええ」をアピールしないと官僚どもの保守的な財布にぎにぎはすり抜けられません。
オリンピックみたいに裏金まきまきを取り付けて公金吸い上げが出来るような業界でもなければ、そもそもそんな余裕はないので。
日本は超保守国家なので、成長産業でもないなら「節約ができます!」でなければアピールは難しいです。
そこで国産ロケットも「節約できます!」を旗印にして動いています。
今回の「いきなりペイロード」はまさにその方針によってつけられた枷と言えます。
実験と本番を同時にやっていかないと「節約できました!すごい!」がアピールできんのです。
日本は長期的な視野に立って考える余裕がもうないので、短いスパンにおける損失に敏感になっており、まずは実験に予算を使いましょうだと「結果も出てないのに金だけ消えてる!騙したな!許さん!」と官僚プンプン丸になるのです。
しゃーないので本番と実験をセットパッケージにすることで「まだ終わってないです」を門外漢にも分かりやすくしていきます。
結果、開発中の機体に本番のペイロードを積むというギャンブルが始まりました。
まあ成功すれば「節約できたんじゃね?」でアピールできるし成功していたならみんな幸せでした。
結果は知っての通りとなります。
これはもう当面の間誰がこの辺の案件の間に立つかの運なのですが、下手をすると国産ロケットの計画は消えます。
白紙に戻るのではなく「失敗した計画」として次の機会もなくなるでしょう。
なぜこうなってしまったのか、様々な憶測はありますがやはり一番大きいのは「日本が貧しくなった」ということでしょう。
貧しくなった最大の理由は「失敗を許容できなくなった」ということだと思います。
これは卵と鶏の関係にもなりはしますが、それ以上に失敗に対しての耐性の低さが尋常ではありません。
正直今の日本にもまだまだ失敗する余力はあるのですが、国民性がそれを許しませんのでこのまま失敗をちゃんと出来ずに転がり落ちる気配が濃厚です。
技術の完全な継承に失敗したのなら、新しい技術の開発に挑戦すればいいのでしょうが、そのコストとリスクに耐えられずに「95%は継承できた技術」に固執するのが日本の国民性です。
今回の一件においてそれは多くの部分で発生していました。
ある種の血統主義や権威主義のようなものも強く、既存のなにかからの流れをくみたがる傾向が強いです。
まあそもそもが「絶対に失敗できない」という条件に囲われてしまったので手堅くいくしかなかったのはありますが。
技術開発は全てそうですが宇宙開発はとりわけギャンブルのような側面が強く、それをやるには種銭が必要になります。
種銭をいくらまで持ってこれるかが戦略をそのまま形作るので、ケチケチとすれば当然それに相応しい戦略しか取れません。
その中で今回のペイロード打ち上げは比較的攻めたやり方が取れており「種銭に対しては中々強気に責められた」ように思います。
この賭けを「もっと小さく失敗できなかったのか」と攻めるのもいいですが、それよりも「よく挑戦した」と思って欲しいものですね。
これは非常に厄介な事態だと思う。今日のロケット関連の記事のトップコメントを見てほしい。
[B! 増田] 「JAXAに打ち上げ失敗を認めさせたい人」への説明に悩んでいる
frothmouth 「普通は失敗」「一般論では失敗」みたいな市民感覚と、科学技術の専門家の使う言葉の意味が違うのは当たり前で、2者の科学コミュニケーションを繫げるのがメディアに求められる役割なんだけど、記者がコレでは困る
[B! メディア] 国産ロケットH3の打ち上げは「失敗」である
steel_eel 「別にノーミス打ち上げチャレンジじゃないんで失敗じゃないですね。運ぶものやロケットが爆発四散とかしたら失敗です」って何度説明されてもノーミス打ち上げチャレンジだと思い込んでいる人々。
(太字強調は引用者)
どちらの人気コメントも記者に批判的な立場なのにもかかわらず、その書き方は失敗を認めてしまっているように見えることに注意してほしい。ノーミスのミスは和製英語だが、mistake には失敗の意味が含まれる。これでは開発側に何らかの失敗があったようにも読めてしまう。
ロケット開発に明るい方の分析によると、JAXAのような権威ある機関が「失敗」を認めてしまうと取り返しのつかないことになるらしい。
ロケット業界の中には「絶対に失敗してはならない」という意識下の前提条件がある。だからひと言でも失敗と発言してしまえば、「JAXAだって失敗してる」「失敗してもいいんだ」とはならずに、失敗の共通認識の前線が後退してしまうことになる。「今回の打ち上げは失敗」が未来の業界を、失敗を避けるために一か八かの勝負に出るような打ち上げをするような体制に変化させてしまう。失敗は成功のもと、と発言した文科相が直ちに追及されて謝罪したのも必要なことだった。
ロケット開発に限らず、あらゆる業界で「失敗」が避けられる。皆んなもちょっと思い出して見てほしい。自分からあれは失敗でした、などと言い出した人を、一人でも思い出せますか? … いないでしょ。
失敗だなどという認識を持てば自己肯定感は下がり、部下や仲間の士気も落ち、悪いと鬱傾向になってしまいかねない。集中力を失えばプロジェクトは瓦解する。また、失敗感は未来の自分や後輩の首を絞める側面もある。失敗するかもしれないという恐怖が心理的安全性を著しく損なう。だから近年、「失敗した」という人は少なくなってきた。長い歴史のなかで人類は「失敗の悪さ」を学んだのだと思う。
にも関わらず「失敗」は相変わらず言われている。主に、敵によって。例えばアベノマスクだって明確に失敗だったとは言えないはずだろう。当時のコロナ禍の五里霧中の状況ではチャレンジングな施策だった。確かに注意深さは十分ではなく、後から見れば問題は多々あった。だけど反体制側の人間は躊躇なく「アベノマスクは失敗だった」と言う。これは立場の問題だ。敵側の人にとってはあらゆる隙は「失敗」のレッテルを突きつけるチャンスになる。映画版スラムダンクは失敗だった。はてなブックマークのUI変更は失敗だった。ツイッターのイーロンマスクは失敗だった…。「失敗」は敵の言葉だ。
味方のフリをして足を引っ張る悪者にならないように、注意深く「失敗」のワードを避けるべきだと思う。失礼ながら、冒頭のトップコメントたちの修正案を考えてみた。
簡単に諦めてしまいがちな部外者である市民の感覚と、責任を持って問題に向き合う専門家が使う言葉の意味が違うのは当たり前で、2者の科学コミュニケーションを繫げるのがメディアに求められる役割なんだけど…
「別に一発クリア打ち上げチャレンジじゃないんで失敗じゃないですね。運ぶものやロケットが爆発四散とかしたら失敗です」って何度説明されても一発クリア打ち上げチャレンジだと思い込んでいる人々。
できるだけポジティブな表現に置き換えるのがコツ。見てる人の気分をダウナーにしないように時間をかけるのは時に難しいかもしれないけれど、必ずプラスの意味を持つ。誰の心にも響かなかったとしてもマイナスにはならない。そういう細かいケアが求められる時代になってきたと思う。ずっと勘違いされてきたけど、実は、ヒトの心は簡単に折れてしまうのだから。
え? 爆散しなきゃそのうち届くんじゃない?
最悪、他の国のロケットで届けるという手もあるし。
とはいえ、それは国産ロケット打ち上げが成功したか失敗したかという点で言えばどっちになるかねえ?
そーいやあんま関係ないけど、俺が東京に引っ越した時、引越し屋が荷物をなぜか北海道に送っちまってな。
約束したスケジュールに届かず、住み始めても布団が無いというありさまだったんだが、引越し屋に電話したら、「間違ったわけでは無く、北海道で保管しているだけだ」とかほざかれたんだわ。まあ実話なんだけど。
最終的にはえらく遅れて届いたんだけど、ああいうのって聞き苦しいわなあ。間違ったなら間違ったで、人のやる事だから仕方ないと思うけど、誰も保管してくれと頼んでもねーのに「保管してた」と言われてもねえ。
うーん、『宇宙の傑作機』シリーズが出るたびにコミケ行ってるぐらいには愛好家ではあるけれど、個人的には「"失敗"としといたほうが良くない?」という感じ。
基本的には、衛星本体もロケットも無事に打ち上げ中止できたという点に絞れば、言い換えると射場視点で見たら完全に"中止"だとは思う……のだけれど、以下にモヤってる点をまとめてみる。
例えば暴風雨なりOリングが固まるような低温なりといった外的要因ならまあ分かるんよ。あるいは「ソフトウェアテストが完了してないので」的な計画の遅れとか。そういう事象であれば誰も"失敗"とは言わないはず(あーいやどうやっても文句をつけたい人は一定数居るか。まああの手の人達は無視していいと思う)。
でも今回発生した固体燃料ブースターの点火失敗はそうじゃないよね?まだこれからバラして調べないとわからないけれど、逆に言うとちゃんと問題を特定した上で何らかの対応を取る必要がある。
なんというかこー、原因特定と対策(と場合によっては関係者の責任も)を取る必要がある事象を"中止"だけで済ませるのはかなり抵抗ない?「射場で起きていたこと」はそりゃ"中止"だけどさ。
あと、重大事故に発展する可能性のあった話なのに、"中止"という言葉で扱いが軽くなってる気がする。
これは元増田に言ってもしょうがないことではあるけど、「フェイルセーフが動いたので問題ない」みたいな話まで出てて(フェイルセーフ機構が動いた時点で問題ありやろ。致命的状況を防ぐ事ができたというだけで問題が消えた訳じゃない。)
このあたりはJAXA側も記者会見で事象として重大なものであるとは言ってるけど、Webの雰囲気として国産ロケットの話になると安全意識が現場猫レベルになる人多くない?という気がして、長期的に見ると割りと危険な感じがする……
「重大」問答については以下
https://twitter.com/ohnuki_tsuyoshi/status/1626469011423907842
共同通信「重大な事象だととらえた方がいいのか、そうではないととらえた方が良いのか」
※さっきの失敗ワラの人とは別の記者です
その日のうちにこういう話が出てきたりさ
https://nordot.app/999144117284077568
いやまあ「共同やぞ?」って言うかもしれないけど、記者会見でもこういう話が出てきたり
https://twitter.com/ohnuki_tsuyoshi/status/1626449947011973120
いやもちろん以下のようなやり取りもあり急かされても原因追求が蔑ろにはならないだろうけど
https://twitter.com/ohnuki_tsuyoshi/status/1626457752406208513
読売新聞「再打ち上げまで少なくともどのくらいかかるか。期間は3週間だが、数日レベルか数週間か」
岡田「事象次第。燃料充填含めて数日で打ち上げできるように作ってあるが、原因がどこにあるか。究明中なのでわかり次第考えていきたい」
それでも、もともとH3開発遅延もあるので政治家サイドから色々急かされてるんじゃないかなあという感じがする。"失敗"はともかく"中止"よか強い表現をつかって急かされない雰囲気を作っといたほうがよくない?
2月17日のH3ロケットの打ち上げについて、次の江川紹子さんのツイートに限らず「JAXAに打ち上げ失敗を認めさせたい」という意見ががはてブにもツイッターにも大量に見かけました。
"「失敗」か「中止」か。後者は、何らかの判断があって止めたニュアンス。でもJAXAは「失敗とは考えていない」と。メディアも「失敗」との言葉を避けている。失敗を失敗と認め、失敗から学んで次につなげればよいのでは…という気がするが。"
おそらく「失敗を認めたくないから意地を張っている」という考えが根底にあるもしれないのですが、そういう事じゃないんだよと言うことを説明したいと思って頑張って書いてみたい。
ちなみにマスコミが失敗と報道するのは自由だと思っています。あくまでJAXAに失敗と認めさせたい人の話。
・特定の日時に必ずというものではなく、打ち上げ可能な期間は長く取る ※小惑星探査などはちょっと例外
・少しでも問題があればすぐに中止
とするのが一般的です日本に限らずどこの国でもこのような運用を行なっています。少しでも不安があれば延期するのはある意味山登りと同じ。
批判している人の一部には、そもそもこの点についての理解が無さそうに感じられました。
昔スペースシャトルの事故が相次いだことがあって多数の人命が失われたのですが、その原因の一つとして「政治からの圧力でスケジュール優先させた結果、いくつかの懸念の声を封殺した」という反省があって、それ以降より安全を重視するようになったという歴史もあります。
ここまでが前提でここから本題なのですが、全世界のロケット関係者(おまけで増田のような愛好家)には以下の共通認識があります。
一部成功とか一部失敗とか細かい条件はありますが、イーロンマスクに聞いてもホリエモンに聞いても(NASAやロスコスモスのトップに聞いても)同じ認識を示すはずです。たぶん。
なので「打ち上げに失敗した」なんて見解をJAXAが示したりしたら世界中のロケット業界が大騒ぎになると思うんですよ。
今までの共通認識が変わってしまうし、また安全よりスケジュールが優先されてしまう時代に戻りかねない。
というわけで、『「意地でも失敗と認めたくない」というレベルの話ではないのですよ』と説明したつもりですがうまく伝えられたでしょうか…。
納得いかないところや反論があればぜひ反応をいただけると嬉しいです。
そういうツッコミを予想して、定義と書かずに"共通認識"という言葉を選びました。
ジャーナリストの大貫さんが打ち上げの成功・失敗について解説しているのでぜひ読んでみてください。
https://twitter.com/ohnuki_tsuyoshi/status/1626484661093548035
それと、インターステラテクノロジズの稲川社長が、まさにタイムリーなエントリを書いてくれたので、こちらも超おすすめ。
https://note.com/ina111/n/nabc831e05beb [ロケット打上中止後の延期は失敗なのか?]
山登りやスペースシャトルのくだりが被ってしまったけれど偶然です。まるでパクったみたいで恥ずかしい
当初計画の期限までまだ余裕があるので中止でいいんですよっていうなら理解できるけど、誰も期限がいつなのか書いてくれないんだよな。いつが期限なの?
予備日は3月10日までですが、地元自治体や漁協との交渉でさらに先の日付にリスケできる可能性があります。これもよくある事です。成功失敗の判断も、ずっと先になるかも…です。
そして実は、本来の計画の期限は2年前でした。増田から見たプロジェクトの評価は現状かなり厳しいものになっています。もちろん期待はしていて、5年後10年後に成功プロジェクト!と言えること願ってますが。
【余談】LE-9エンジンの野心的なスペックが増田的には懐疑的で(エクスパンダーブリザードサイクルを採用するならもっと小型にすればよかったのに、と)案の定、開発に難航して2年間延期してしまいました。
3Dプリンターを使った燃焼室も2号機からの採用で、試験機1号機は本来の量産機ではなく、これも懸念するところです。
参考に:
毎週のように打ち上げが行われているスペースXのファルコン9ですが、本当にちょっとした理由ですぐに延期します。天候だったり機体側や地上側設備の不具合だったり。
「specex scrub」で動画検索してもたくさんヒットします。スクラブは延期の意味です。
wikipediaの打ち上げ履歴のリストにも、記載されている成功・失敗は上記の定義なはず。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Falcon_9_and_Falcon_Heavy_launches
https://en.wikipedia.org/wiki/H-IIA
おまけ:
『中国で同じことが起きたら「失敗」と捉えるのでは?』 捉えません。党派性に囚われ過ぎ。
よく判らんが、ロケットが軌道に届かず、途中で失速して住宅地に落ちて死者が出たけどペイロードは無傷で回収できたら「プロジェクト継続中であり失敗ではない」って言い張るの?
マジレスしますが、地上に被害が出る前に指令破壊で自爆させます。ありえない仮定で、揚げ足取りでは?
増田はまずその白黒つけたいという欲求を自覚して「そういう人もいる」という思考に持っていかないと生き難いだけだよ。人間、赤の他人と認識を共有する必要なんてないし、他人の価値観は変えられないんだから。
マスコミの報道や個々の感想については否定していません。失敗の認識でも全然問題ないと思いますよ。あくまで「JAXAに失敗を認めさせる」事についてです。明確にそう書いたはずなので、もう一度読んでいただきたく…
国産ロケット発射中止のニュースに対し、「それは中止ではなく"失敗"だ」という主張が話題になっている。
中止か失敗かで論争になってるが、なんでそんな盛り上がり方をするのか。
何が何でも失敗と言いたがるモチベーションが謎だが、似たような行動する奴をeスポーツでよく見る。
「eスポーツって言ってもゲームでしょ?体動かしてないならスポーツじゃないよね。だったらスポーツじゃなくてゲームと言うべき」
こういう異常なテンションの奴を見るにつけ、お前は何を必死になってるんだと不思議だった。
そいつらと何度かコミュニケーションを取ってみると、なんとなくモチベーションがわかってきた。
特定のジャンルでは常識になってる言葉づかいも、自分にとっては非常識なので、疎外感を感じてムカつくわけ。
eスポーツというジャンルに浸かってる人間からすると、競技性の高いゲームをスポーツと呼ぶのは常識だ。
定義の議論なんかとっくに終わってる。誰も言葉の使い方に文句を言わない。
だがそれが常識でない人間からすると、身内だけで通じる常識のように見えて、欺瞞に満ちた表現に映る。
そして欺瞞を暴きたいと思うわけだ。
基地建設反対の「抗議日数3011日」に対して「0日ですよね?w」とツッコミ入れたがるのと恐らく同じだ。
今回の件で中止と言いたがる奴のモチベは知らないし、そっちの話には興味ないのだが、
その一報を父から聞いて胸中に去来したのは、幼き日の思い出ではなく、むしろ長じてから度々意識した故郷の衰退のイメージだった。
元より地場産業として誇れるものが取り立ててあったわけではない地元は、緩やかだが確実な経済的衰退と人口減少の影響を受け、公共施設の老朽化や各種インフラの経年劣化という形で自治体としてのほうれい線を隠す術を失っていった。
それでも、いや、それゆえに明確な転換点などなく、ただゆっくりとした老化から鈍感なふりをし続けた首長、自治体、そして何より住民が半ば共犯のように地元の腐敗と死滅とを看過していった。
だからこそ、いまさら太陽光発電などで延命を図ろうとする醜さにほとほと嫌気が差した、その実感があった。
それでも友人の結婚式に出席するために数年ぶりに帰省してみると、どうも聞いていた状況と乖離があったために改めて確認を取ったところ、どうやらこの度設置が決まったのはソーラーパネルではなく、例の宇宙太陽光発電の受電設備ということらしかった。
年齢を重ねたが故に知識と語彙の更新をやめた父をいまさら責める気も起きず、数か月前にニュースサイトで多少話題になっていたトピックに思いを馳せることで2次会の無聊を慰めていた。
令和4n-21年に決定された第n次エネルギー基本計画では、ついに原子力発電の占める発電電力量の占める割合が0%になった。
平成の震災とそれに連なる事故以降窮地に立たされていた原子力産業はついに時勢に降参し、明るい未来のエネルギーから歴史の教科書上の記述となることを選んだ、という建前を本気にしている奴は少々イデオロギーに傾倒しすぎているきらいがある。
現実は、国内ソーラーパネルメーカーの開発した、そこまで安価とは言えないまでもそこそこ効率改善の図られた新型パネルを推したい産業界が、細々と開発を続けていた国産ロケットのペイロードの使い途を探していた経産文科省に仮託した、おままごとのような科学技術的国威発揚の煽りを受けた全廃、と言ったところだ。
どこまで行っても消極的な退場に、却って日本という国を感じざるを得ず、左派メディアのこじんまりとした勝利宣言にわざわざ難癖を付ける余力もなかったと見え、平成後期から令和初頭に掛けてあれほど紙面を賑わした役者とは思えぬほど粛々としたレームダック期を享受していた。
実際、人々とメディアの関心は、中国による、気前の良い提供と、経済協力を人質に取った押し付けの中間の様な形で供与された受精卵遺伝子改変技術をどれだけ受け入れるかという議論にあった。
(科学技術という側面において現代日本が中国に対して如何にサブジェクト・トゥしているか、という話だ。宇宙太陽光発電所はさながらパクス・シニカに立ち向かうドン・キホーテのようだ、と明に暗に揶揄された。)
日米原子力協定の次回更新がないことは誰の目に見ても明らかであり、山のように余っているMOX燃料の行き先はIAEAも知らないようだった。
そんなことだから、中間貯蔵施設という名目の、事実上の最終処分場たる六ヶ所にすべてを押し付け、政府と行政と大多数の国民はNIMBYの精神を遺憾なく発揮することで各々の精神の安寧を獲得していった。
とにかく、ことの主犯たる国産宇宙太陽光発電所は「ひかり」という、加齢臭むせ返る横文字の候補群からはなんとか逃げ果せた通称を拝命し、20GWもの大電力を供給し始め、東京万博会場の灯りが一斉に点った日をもってひとまずのプロジェクト成功と見る向きもあった。
(日本による宇宙開発の数少ない世界的成功に肖って「はやぶさ」なんてネーミングを推す動きもあったが、流石にこの国にも一抹ながら恥の概念は残っていたらしい。また、「まりし」などという旧動燃の残留思念、いや怨念が具現化したかのような案も提出されていたもと聞くが、真偽の程は定かではない。)
実際、こんな大規模プロジェクトを実行する能力とエネルギーをこの国がいまだに持っていたことに驚いた。
ただ、ひかりから降り注ぐ高密度のマイクロ波を分散して受電する設備、すなわち受電所の立地が不足していると言う問題は依然として解決の目を見ていなかった。
安全よりも安心を求める国民性に変わりはなく(「焼き鳥デモ」の映像を見たときは流石に乾いた笑いしか出なかった)、電源交付金も雀の涙と来れば宜なるかな、積極的に手を挙げるごく少数の自治体は奇異の目で見られた。
とはいえ、大流量の循環水系のために沿岸部であることが求められる汽力発電でもなく、大規模な河川と高低差が求められる水力発電でもなく、只広い土地さえあれば良いというだけの必要十分条件は今まで大規模電源立地となることなど考えもしなかった自治体の目には福音として映ったらしく、それらの首長は新たな時代の権益ホルダーとなることを選んでいった。
反対に、新規制基準適合審査の遅々とした進展と繰り返される住民訴訟、そして最終的な結論としての廃炉の影響をもろに受けた原子力立地の反応はさっぱりであり、政治の影響をもろに受ける歳入に頭を悩ませられるエネルギー立地はもう懲り懲りと言った風情で、役人の誘いをアイリスアウトの向こう側に押しやっていた。
結局、ひかりの設計容量のすべてを受電するに必要な30GW分の受電所を運開当初から用意することを諦め、漸次募集という名の先送りを決定した政府は経産文科省を矢面に立たせることを選び、自らは飄々としていたというのだから大したものだ。
結局、運開から5年が経過した段階でもひかりの擁する200k㎡に及ぶパネルの3分の1は折り畳まれたままであり、白衣十人黒衣五人などと不必要な比喩を披露した大臣はメディアの総バッシングを浴びる権利を恣にしていた。
そうした、古式ゆかしい伝統的な時勢の中で、2次立地募集に手を挙げた自治体の内の1つが、我が郷里だったのである。
「親父が色々動き回ってたみたいなんだけど、さ。正直言うと、あんま関わりたくないなってのがあって」
私の友人であり本日の助演男優、またの名を新郎が、半分ほど空けたアサヒビールのジョッキをテーブルに慎重に据えながら、疲労を隠さぬ赤ら顔で言う。
彼の父親は町議を務めており、「太郎」というシンプルすぎる名前も出馬を見越して付けた名前だと言っていた。
(国政選挙に出るわけでもないのにな、とは彼の自嘲だ。)
その親父さんはどうやらこの度の誘致に際し懸命に旗を振っていたという。
しかし、僅かばかりとは言え受け取る交付金と、"多少の"造成による環境破壊と、電源立地になるという誇り(この価値観だけは共有が出来なさそうだ)と、それら3つをとりまく可愛らしい権力闘争の予感に、父親の説得と説教とに玉虫色の回答を重ねることでのらりくらりと回答の明言を避けてきたのだという。
彼のこの手の身のこなしは素直に凄いと思うし、そうした人付き合いに嫌気が差していた、というのは私の上京に係る動機の半分を占める。
「でもお前、今更そんなこと訊いてくるだなんて、本当にここの人間じゃなくなっちまったんだな」
この地でこの話題が取り沙汰され始めたのは軽く2年以上は前だという。
誘致か否かで侃侃諤諤の論争があり、どこに建てるかでまた侃々諤々の論争があり、さらに用地買収に係るあれやこれやのトラブルがあり、それでも最終決定がなされたのがひと月前というのだから、どれほど地元の世情に疎くなっているかを実感させられる。
あるいは、上京して好き放題やっている(ように見える)私に対する軽蔑と嫉妬の念が多少なりとも混じっていたのかも知れない。
なるほど、確かに私には家庭もなく、親族との濃密な付き合いもなく、仕事周りの土地付き合いもなく、自由気ままにやっていると言われても反論する材料がないことに気づく。
であるなら、こんな日くらい友人の愚痴と誹りを受ける義務も果たすべきだろう。
そう思って、コークハイを傍らに、言葉少なに彼の言葉に相槌を打つことに決める。
まったく、本当に大変な役回りだと思う。
返す返す、自分には出来る気がしない。
翌朝、久々に実家の自室で目を覚ますと(物置と化していなかったことに驚いた、こうした面に関する母の義理堅さには感謝しても仕切れない)、やはり気になっていた裏山に足を伸ばした。
アルコールが多少残ってはいたが、丁度良い運動だと体に言い聞かせて路を辿っていく。
子供の時から変わらない、というのはフィクションの中にだけ許される情景で、長らく人の手が入っていないことを伺わせる荒れ様には流石に心のどこかが痛んだ。
…いや、いや。
よそ者同然と化したお前が捨て犬に見せるような仏心を発揮して碌なことになるのか?
もはや何も言う権利などないことに遅ればせながら気付き、せめて在りし日の遊び場の記憶が損なわれぬよう、路の途中で踵を返した。
もう2度と見れぬであろう山の景色を視界から追いやり、そういえば客先から急ぎの問い合わせを受けていたな、などと頭からも追いやり、足早に帰路に就いた。
帰路。
実家への帰路か、東京への帰路か、自問せずとも回答は明白だった。
思い出深き裏山は、もはや私の裏庭ではない。