はてなキーワード: いでとは
学生が教授の研究内容を手伝うスタッフみたいな位置づけのところに入ると、卒研(卒論)の題材がほぼ自動的に決定する。
卒論がそのまま成果発表だとか資料の一部になるから教授は容赦なくダメ出しするし、論文としての体裁がなってないものなんてその場でゴミ箱に放り込まれる勢いで叩かれるぜ。
http://anond.hatelabo.jp/20110216204534
若い世代が心血を注いで新技術開発しても、能なし老害は市場開拓に失敗
ガラパゴスと世界から嘲笑されあげくにせっかくの技術も二束三文で反日国家のものに…
反日世代の老害経営者は外国人をせっせと優遇する一方、日本の若者から搾り取り
絶対に育成しようとはしないくせにバカにして嘲笑うだけ…
おしまいだ…
代案も何もないネガキャンだけのクズ政党が政権をとったせいで案の定
何 一 つ 良 く な っ て い な い 現 実
日 本 一 人 負 け と い う 現 実
絶 望 的 な 未 来 予 想 図
政権交代で
「閉塞感がとれて青空が見える」
出 口 の な い 闇
絶 望 の 暗 黒 時 代
真 っ 暗 だ …
http://anond.hatelabo.jp/20110214230635
http://anond.hatelabo.jp/20110214230635
まず、大量のティッシュは流さないでください
お母さんにゴミ捨てしてもらってる年代の少年、流して証拠隠滅したい気持ちは大変良く分かります
しかし最近の洋式便器でも10センチの排水管に接続してあっても便器内の一番細い部分で5センチ以下な部分もあり
どうしても詰まってしまう事もあります お勧めはしませんが、少量ずつ流すか、燃えるゴミに出してください
あとトラブルがあって便器を外した際に、箸、ボールペンなどの棒状の物が引っかかってた事がよくあります
単体だとさほど影響は無いのですが、コレに紙や固めのブツが絡んで溢れる事があります
私達は、髪の毛に絡んだ白いタンパク質の物体や、縛ってあるコンドーム、もやしと麺(今年一発目がコレ)
などがコンニチワしても、顔色一つ変えず迅速に処理する訓練と経験を積んでいます
家の外の排水で詰まるのは、私が見た限りですが 宅内の設計がヘボいか経年変化で埋設した配管の勾配がなくなってた場合がほとんどでした
それこそ、
で何でも聞ける時代に、そのレベルだと事前に調べておくこともあまりないのではないでしょうか?
具体的に、やりたいことを決めて、XXの帳票を作る とか
その目的に対して、具体的な方法を聞いたほうが早いし、答える方も楽です。
よろしくお願い致します。
遠距離というには微妙な距離に住んでた彼氏に、昨年年末にふられた。
実は二股かけられてて、もう1人とうまくいきそうだからもうお前は要らないって。
1週間足らず前のクリスマスイブには宝飾店覗いて「そろそろエンゲージ?」とか言ってたくせに。
年始をどっぷりと暗く過ごして、そのあと忙しくてそれこそ寝る暇もなかったけど、
そのおかげですっかり忘れてきっぱりと立ち直った。
2月頭で忙しいのも終わって、ようやくのんびり過ごせるようになった先週末。
「俺はお前の愛に甘えすぎていた。
今、ようやく解き放たれてお前のところへ戻っていけるようになった。
愛の炎を窓辺に灯して目印にしておいてくれ。飛んでいくよ。
二人の愛の巣で幸せに暮らそう。
でも今の俺には翼がないんだ。。。
君の元へ飛んでいくための翼を俺にくれないか。
7桁とは言わない。君の愛を僕は信じてる。
○○○銀行 ×××支店 普通 12345678 ボケヤマボケオ」
……ようするに、向こうにふられたから元鞘希望、ついでに交通費よこせと。
知ってるんだ。1月に解雇されこと。懲戒解雇だから退職金も出ないんだってね。
しかも住んでるのが会社の寮だから、すぐに引っ越さなきゃいけないんだよね。
誰がそんな話に乗るんだっつーの。
愛なんてこれっぽっちもないよ。バーカ。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
http://dictionary.goo.ne.jp/study/newsword/wednesday/20110215-01-2.html
あくまで余談で、Twitterで上述のようなジョークがあるとの紹介がJapanなニュースで。
うまいこと言う人がいるもんだと。
ないわけねーだろ
キャビアだって言いながらランプフィッシュ売るのは詐欺っつーんだよ。
そう見てない奴もまだいーーーっぱい居るね。
「問われてない」なんつって頑張ってるのはバカ君だけなのに
たーーーのーーーむーーーよーーー
そんなの何年も前にママか学校の先生に頼むべきだったんだよお前は。
それが琴線に触れちゃったならごめんなさいとしか言いようがない
ちなみに「マスゴミ」って造語を使ってるのもこのツリーではバカ君だけなw
お前のオツムの残念さなんだ、気付いてくれバカ君。この通りだ。
そしてもう他人に迷惑かけるのやめろ。
君の場合で言えば、ネットに自分の考えを書くのはやめろって意味だ。
あるレベル以下のバカはネットで不特定多数に意見を発信するだけで迷惑なんだ。
ゴミ撒いてるのと一緒。
バカがバカの癖してなんか言ってるのって健常者から見ると目障り極まりないんだ。
それをわかってくれ。
http://getnews.jp/archives/99251
NHKスペシャル『無縁社会』に出たニコニコ生放送ユーザーが語る“演出への違和感” - ガジェット通信
NHKに取材されたんだけど、アタシがこんなふうに映っててもうヤダってお話。
http://b.hatena.ne.jp/entry/getnews.jp/archives/99251
その反応。
もうなんだかね。
テレビはひどいとか、NHKはどうとか。メディアどうとか。演出がどうとか。
脚色だとかヤラセだとか・・・・まあそういう見方があってもいいけど。
自分のこととして考えてない間抜けさは感じる。
頭の中で「社会問題」的に処理して身の丈の生活に着地させていかない浅い思考っていうか。
取材されたこのアラフォーさんの気持ちは痛いほどよくわかるし同情もする。
災難だったと思う。
でも外野がこれをメディア云々の話に持っていって悦にいっているのはどうかと。
要はこれって相手(NHKのD)を信頼して色々喋ったり日常生活を見せたり(撮らせたり)したのに
自分が言った事、思ったことと違うこと言いふらされたってことじゃん。
こんなの日常生活でもよくあること。
つか日常生活のトラブルってほとんどこういう事から起こってたりしない?
あの人を信頼して色々喋ったのにヨソで全然違う事言いふらされたとかさ。
あの人の為を思ってこうしたのにヨソで正反対の酷い事言われたとかさ。
自分は今、子どものスポーツ少年団で役員みたいなことやってるんだけどさ、
親同士のトラブルの火種って大概そんなくだらないことなんだよ。
特に声の大きい前に出てくるタイプの人がそのトラブルの中心になってる。
この一件にあてはめて考えると
NHKのディレクター、つまり「NHK」が声の大きいガサツな人だった
ってことなんだよね。
逆に考えれば、
あの人を信頼して色々喋ったのにヨソで全然違う事言いふらされた。
っていうのは、
あの人は私の発言内容を「恣意的に編集」して「構成」しなおし、さもアタシが悪いように
話ぶりを「演出」し、他人に伝え広めようとした。
って言う事なんだと思うんだ。当たり前の話だけどうわさ話もメディアだよと。
つまりひとりひとりがNHKという組織と同じようにメディアなんだよと。
こういう出来事を旧メディアサゲみたいに捉える思考はそろそろ捨てた方がいいんじゃないかと。
ブログとかツイッターで小さいメディアが大きな波及効果を(正負ひっくるめて)生み出しやすい構造になっているわけだし。
こういう出来事から、
自分は普段目の前のナマの情報をどのように「編集」しどのように「構成」し
人にどのように伝えているいるんだろう
その通り。
ついでに言えば
その中でもわざわざ風俗嬢の述懐をネットで探して粘着するようなタイプは
(風俗利用者の多くはそんなのまで探して読もうと思わない)
変な業種の変な客の中でもえりすぐりのストーカータイプの言動を
「男一般」にすりかえて男叩きをしたいなら、
同じやり方でいっくらでも女叩きが出来るよ。
でもばかげた理屈で男叩きに持って行こうとすんなw
友達は今でもデス系を聞いてますが、私は全然デス系の良さは分からないです。
でも、技術職だったら、もしかして少しはそんな趣味いないかな?
(他の職種よりコンピュータ系の技術職だと、HR系が好きな人が多いイメージがあるけどね)
(意外と今の若い子とか知らないだけで、聞いたら目覚める子もいないかな)
皿まで共有して舐めつくすとかならまだしも、鍋に多少溶けた程度なんてどう考えてもドアノブやらその辺にまとめて刺さってる塗り箸に比べたら細菌少ないでしょ。
細菌やウィルスを気にするならボトルネックから潰さないと意味無いと思うぞ。
つまり何が言いたいかというと、結局感情論から来る自己満足だよねってこと。それならそれで理解できるんだけど、最初から素直にそう言って欲しい。
ちなみに今ググったら、唾液中の細菌数とドアノブの細菌数は大体コンパラくらいっぽいな。
http://osk-net.org/gakkainew/ig/h17/hanada/hanada_4.htm
http://www.gifu-cwc.ac.jp/tosyo/kiyo/52/zenbun52/Senmenjo_shimizu.pdf
鍋で数千~数万倍くらいには希釈されるだろうから、鍋に溶けた細菌を気にする暇があったら今すぐドアノブとか目の前のテーブルとかを滅菌処理するべき。