はてなキーワード: 海外とは
最近Spotifyで聴いていて、いいな〜と思っていた海外のアーティストをインスタで見てみたら、隣のクラスの男子がフォローしてた
アーティストは全然無名じゃないし(日本ではそうでもないけど)、その男の子のことは音楽が好きなんだろうな、ぐらいしか知らないけど、なんか嬉しくなった。
アサクリ(及びその開発元のUBI)が公式トレーラーをアップする
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半畳畳が敷き詰められた部屋など、おかしな描写が多いことが話題になる
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「海外では黒人の侍が主人公であることが批判されているらしい」と話題になる
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「海外ではロックリーという人物が弥助を神格化してあることないこと広めてるらしい」と話題になる
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ここでアサクリとロックリー史観が結び付けられてしまう(UBIはロックリー史観についてまったく言及していない)
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アサクリが悪いから殴る、ではなく、殴るためにアサクリの悪いところを探す、に移行する
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アサクリは歴史描写が正確だったはずなのに日本が舞台になると不正確なのはおかしい(実際には過去作でもおかしいところはあった)
アサクリの過去作では現地人が主人公だったのにシャドウズでは黒人が主人公になるのはおかしい(実際には過去作でも現地人でない主人公はいた)
アサクリは暗殺者のゲームなのに目立つ格好をした黒人を主人公にするのはおかしい(本作の弥助はステルスではなく近接戦闘向けのキャラだった / 過去作にもそういう主人公はいた)
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「ロックリー史観を信じた開発陣による日本人差別だ!」「ポリコレの行き過ぎだ!」
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UBIの言動を洗い出してインタビューなどでの発言を曲解していく
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「やっぱりUBIは悪い奴らなんだ!」(悪魔化)
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ロックリーの著作の「推測を膨らませた部分」を取り上げて「こんなデマを流している」と主張
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叩くことが目的になっているので次々に新たな問題を探していって論点がずれていく
途中で批判されても「それはもう論点ではない!」とゴールポストを動かして回避する
小さな疑惑を収集して誇張・曲解・邪推することによって自分たちの思い込みを強化していく
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「ロックリーやUBIは日本人に奴隷制の起源を押し付ける差別主義者なのだ! こうした差別的な史観が欧米では蔓延しているのだ!」
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学がない旅行は悲しいという趣旨のXの投稿を見た。旅先で見たものに思いを馳せずにただキレイだと思うしかできないからという理由らしい。
たしかに言っていることは尤もに見える。
たとえば学がある人にとって姫路城は見た目の美しさのみならず、城が辿ってきた歴史の面でも格別である。他の城にも物語があり、それぞれが持つ物語が城を特別で代替不可能なものに変える。一方で学がない人にとっては城なんて全部一緒に見える。木造か鉄筋コンクリかなんて知らないし、関ヶ原以前に建てられた城も昭和に建てられた城もいわれなきゃ気づかないし、わざわざ調べない。学がない姫路旅行は2つの観点から悲しい。姫路城が数百年の間に経験した災難を乗り越えていま自分の目の前に建っている。この感動を抜きにして姫路城をただのランドマークとして消費してしまうのは悲しいことこのうえない。それに、都内に住んでいる人がわざわざ、1時間に1本しかない東京駅発姫路駅停車の「のぞみ号」を調べたり、日帰りで行くのは勿体ないから...とホテルを複数のサイトで比較して安くて良いホテルを探したり、といったことをしても得られる喜びは東海道本線での日帰り旅行で行く熱海城と同程度だとしたら時間とお金の無駄である。
まず第一の観点は今回無視する。絵具をチューブから直接キャンバスの上に出したような現代の抽象画について、どんなに説明を聞いても良いと思わない人がいるのと同じで、学と旅行を結びつけることに根本的に喜びを感じない人もいるからである。そのような人の存在を疑うなら修学旅行を思い出してみてほしい。団体行動の時間にはたいていの場合、歴史の授業で最近習った場所に連れていかれる。それに、ツアーガイドさんの補足説明もある。しかし、帰りの新幹線の中で学がある旅行の感動について語り合っている人はいなかっただろう。
第二の観点についてもう少し拡大して考えたい。すなわち、同じに見えるのにわざわざ遠くの有名な観光地に行くことは時間とお金の無駄だ、という着眼点で「よく分からないけどキレイな観光地」にわざわざお金と時間を余分にかけて行く人がそれなりにいるのはなぜか、ということを考察する。
グループ旅行について考えるほうが簡単なので先にグループ旅行から考える。家族や友人と行く旅行は仲を深めたいだとか、近場での遊びよりも長く一緒に過ごしたいだとか、いろいろな理由があるが、そこの違いは無視する。身も蓋もない言い方で結論をまとめると、みんなでわざわざ遠くまで行くのは共通の思い出作りだ、ということになる。しかし、これでは「なぜ熱海城ではなくて姫路城でなければダメか」の答えになっていないので旅行でよく起こるイベントを丁寧に見ながら先の論題への回答とする。
旅行に関する出来事を時系列でたどると初めには誰かが「旅行に行かないか」と言い出すことから始まる。旅行先は旅行の幹事が勝手に決めることもあれば、みんなが納得するように話し合いで決めることもある。「もしダーツで旅行先を選んだら、旅行先は決めたのではなくて勝手に決まったのではないか?」」という奇異な意見もあるかもしれないが、そのケースでも「ダーツで旅行先を決める」ということを決めている。そして、それぞれの決断にはなんらかの共通認識が必ずある。「みんな社会人になったからスケジュールをコンパクトにしよう。で、その分ちょっと予算多めにしよう」だとか、「卒業旅行だからせっかくだし海外に行こう」だとか、なんでもいいが何かしらの理由がある。そして、行きの新幹線(もちろん飛行機でもなんでも良い)に乗るタイミングでは必ずドラマが発生する。誰かが乗り遅れたらそれはずっと話のネタになる。誰も乗り遅れなかった場合、もし全員が旅慣れしてれば「みんなの深い知識と経験のおかげで誰も遅れることがなかった。」と言えるし、旅慣れていない人がいれば「旅に慣れてないのに複雑な東京駅で迷子にならなかったのは奇跡だ。旅行が楽しみだからみんな早めに家を出たのかもね。」とかなんらかの会話が生まれる。そして、目的地に着いたときに旅行に関する過去の出来事がある特定の景色やランドマークと結びつく。「新幹線に乗り遅れて一時はどうなるかと思ったけど、全員で一緒にこれが見れて良かったね。」とか、「幹事やっぱセンス良いわ~」とかといった具合だ。この瞬間に、「他の城との違いはわからないけど有名らしい姫路城」は「みんなで行った姫路城」になる。冒頭で言及したXの投稿では学がないと何を見ても同じようにキレイとしか思えないとされていたが、自分はエモいという言葉で表現することを提言したい。エモいという言葉はキレイという言葉よりも、汎用的でなんにでも使える。その言葉の広さがもつ暴力性から、攻撃の的とされている言葉だが、この広範さが旅行では逆に良い。旅行に行っていない人に「エモかった」と言っても旅先で見聞きした素晴らしいものは1mmも伝わらないが、むしろそのほうが旅行の当事者だけにしかわからない秘密の合言葉のような効力をもつ。誰かといった旅行で、ここぞというタイミングで「エモいね」と言ってみてほしい。言われたほうは初めは意味がわからなくて首を傾げるかもしれないが、意図がわかれば「そうだね、エモいね。」と返してくれるだろう。もちろんどれだけ待っても意図が理解されない可能性もあるのでタイミングと使う相手には注意していただきたい。「学がある旅行」は旅行の中にぽつりぽつりと学と実物が交差する点があって、そこに感動を覚えるといったニュアンスであると自分は解釈したが、タイトルで先に出していた「エモい旅行」のエモい、は形容詞であるため、旅行の全体にかかる。
学がある旅行以外での一人旅行も実はほぼ同じである。何かしらの理由があって旅行先を決めるし、旅行先に行くまでに何かしらのドラマがある。ひとつだけ違うと感じるのは、一人旅では共通の思い出を作る相手がいない代わり、その時の感情の一部をスナップショットのように観光地に釘付けして保存しておける点だ。たとえば、自分は大学受験の直前にモチベーションを完全に失って、いつも通学に使っている電車の先の海が近い駅に行った。あの海を見ると受験のプレッシャーから一周回って解放されて、燃え尽きるまで頑張った自分を全肯定した清々しさを今でも思い出す。あの頃にはエモいという単語すらなかったが、思い返すとあれもやはりエモい旅行だった。
お、そーゆーことだったのか。
小児性愛者許せん!!って活動してた海外の団体の代表が小児性愛者だったとか、
それ系、もう必須事項のようにあるよね。
Me Too運動してた人がMe Tooされてたり。
オリンピック見てると、昔みたいに日本人選手が英語表記で姓名の順番が逆になっていなくてモヤる。
海外の人が勝手に変えたわけじゃないだろうし、最近の政府の意向なんだろう。
英語表記では姓名の順番を西洋に合わせるっていう積み重ねが70年以上あった訳じゃん?
英語の授業では自分の名前を先頭で書くように習ったし、今持っているクレカだって名姓の順番だ。
Haruki MurakamiとかHayao Miyazakiとか海外で有名な日本人は名姓の順番で知られてるわけだよ。
左翼は言論の自由と、人種差別撤廃を訴えますが、実際には言論弾圧と人種差別をします。
何度も答えが出ています。
弥助が侍かどうが議論できるのは日本人だけです、と言ったらそれは間違いでしょう。
ですが、海外の巨大掲示板Redditでは「弥助は侍である」と結論付けて、議論を禁止しました。
彼らは議論への参加権があるだけで決定権はありません。本当は参加権すら無いと思います。
他国の文化について、なぜ断言できるのか、それは日本人に人権が無いからです。
弥助が侍であるかどうが議論があるのは、侍の定義が日本でも曖昧であるために議論が起きているのに
つまり、今後、日本でどのような議論があろうとも侍は殿様が命じれば何の武功も上げてない外国人でも
彼らが失われた30年について言及するとき、ほとんどの場合、真面目で勤勉なはずの日本人が
なぜ労働生産性や国際競争力で劣るのか、という話になりがちだ。
しかしそもそも、何かに原因を求めるよりもまず、能力が低いのではないか?とか、実力不足では、という指摘が
どこからも挙がってこないことがまず問題なのだと気付かなければならないと思う。
例えば、出勤時間よりも早く来て勝手に仕事をし、自ら進んで時給を下げているにも関わらず給料が低いと嘆く、とか。
こういった行為が利益になるのは、会社の業績が右肩上がりの高度成長期のような場合だけなので、
もしやるならば自分の会社の決算ぐらいは見ておかなければならないが、ほとんどの日本人はそういったことが苦手だ。
もっとわかりやすい例では、英語力が顕著だ。日本語と英語の相性が悪いことは良く知られているが、
似たような文法と発音で話す韓国人と比べても49位(標準)の韓国に対し87位(低い)と差は明らかだ。
(日本人は労働契約書が読めないのか?)とか(この程度の英語も理解できないのか)と思っていたとしてもあまり口には出さない。
たまに「日本人は勤務時間外にも真面目に働いてる!クレイジーだ!」と正直に言ってしまう人が現れても、
なぜか誉め言葉のように受け取って現実を見ようとしないし、遠回しにアドバイスを貰っても聞く耳を持たない。
海外が異様に素晴らしいわけでもないし、日本が全く駄目なわけでもないが、そうはいっても努力は必要だ。
取捨選択をし、自分で判断して自分で責任を取る。何も決められず、責任も取らないのであれば、少しずつ沈んでいくのは当たり前の話だ。