はてなキーワード: 受験勉強とは
国語の偏差値が70云々という、はてなブックマークの話題を目にして「高校生の頃の偏差値をよく覚えているなあ」と感心した。私は自分の偏差値を忘れてしまった。センター試験の自己採点で国語・数学・英語がいずれも190点超えていたことは覚えている。しかし、わざわざそれを他人にアピールする機会も意味も、私には無かった。
アピールする意味が無いのは、自分の頭脳は良くないと自覚しているからである。大学生になったは良いものの、私はイプシロンデルタ論法についていけず大学の数学に挫折した。数学以外も似たようなものであった。ペーパーテストではない、実験や研究という大学の活きた学問は、まるでダメだった。地方国立大学に入学できる程度には受験勉強が出来たし何とか卒業もしたものの、大学の本格的な勉学に挫折した私は、平凡な人間であった。
それで今更の話なのだが、現在の私は数学を勉強し直している。別に仕事に役立てようとか、そういうつもりは全く無い。全くの自己満足である。では、自己満足の欲求の源は何処かといえば、それは私の両親である。
私の両親は、高校中退者である。私の両親の世代では、地方の低所得者層に生れた子が、生家の経済的な理由から学業を断念せねばならないというのは、珍しくない話であった。珍しくない話ではあったものの、やはり両親にとっては心の傷だったのだろうと思う。
父は、一冊の古い辞書を大切に持っていた。私が小学生の頃には既に、ページは手垢で黒ずみ、ボロボロの状態だったのを覚えている。母は、横溝正史や松本清張の文庫本を何冊も持っていて、これまたページはボロボロであった。学業を不本意に断念させられたことの埋め合わせだったと、私の両親は言っていた。本物の勉学を経験した人たちから見れば、たかが辞書や推理小説を読む程度で勉学の埋め合わせを名乗るなどお笑い草かもしれない。しかし、私の目には、両親の姿が尊く見えた。親馬鹿ならぬ子馬鹿と言うべきであろうか。それでも構わない。私が今更ながら数学を勉強し直しているのは、明らかに両親の真似である。
就職して幾許かの金を自由に使えるようになった私は、両親の欲しいもののリクエストに応えて買い物をした。平家物語を読みたいと言うので、古語辞典と一緒に買って送った。お経や論語も読んでみたいと言うので、これらの本や漢和辞典も買って送った。母はアガサ・クリスティ作品を読みたいと言うので、これも買って送った。父は写経したいと言うので、筆や硯も買って送った。いずれも大した額の買い物でもないのに、両親は大袈裟なぐらい喜び、何度もありがとうと言っていた。
むしろ、ありがとうと言うのは私の方である。家族共用の本棚に、子供向け百科事典や児童文学のセットを置いてくれて、子供の私が本を読むように育ててくれた。それに、私の読書の趣味に決してケチをつけなかった。国語の試験の偏差値は忘れたけれど、本を読むことの楽しさならば私も忘れないだろう。本を読むことが楽しいと私に教えてくれて、ありがとう。
蛇足だが、数学の再勉強でノートをとりながら「どこまで理解できているやら。これでは写経だな」と思い、父子で写経好きというのが何だか可笑しく感じた。
高2の時、とある事件を基に学校への不信感が増したので不登校になった
でも授業には出られないので友達同士でやってて一番下手だったサッカーを練習していた
多いときは一日8時間 ずっとトラップして受けたりシュートの練習をしこたまやった
昼休みにその練習着のまんま学校のフェンスをよじ登ってサッカーをしてるクラスメイトに混じった
練習を重ねるとまるでタコみたいにドリブルする足にボールが吸い付いたようになって 昼休みの短い時間にハットトリックを決めた
そして昼休みが終わったらまたフェンスを登って公園で自主練するという日々を送った
2021年、コロナ禍では集まってなにかスポーツするということのハードルが上がった
一方受験勉強に関してはデジタルの発展で人によっては学校に通うよりも能力がアップするかもしれないという環境になった
だから私は当時出来なかった受験勉強をしようと自宅浪人を決意した
こんなまたとない機会はないし 自分みたいに勉学でベストを尽くせなかった環境にいた身としてはまさに今というタイミングだ
こんな歳で みたいな葛藤もあるが コロナ禍前に受験勉強に明け暮れたとしたらと考えると こんな報われない人生もない
だから俺はコロナ以前に勉学以外のコロナ禍では出来ないことをやりつくして コロナ禍中に勉学一辺倒に出来るよう寄せたのだと考えるようにしている
フルリモートできる会社って主に大企業なんかでITに設備投資できて優秀な人材が集まってると思う
でもせっかくそんな仲間がいっぱいいるのにリモートばかりで仕事の話ばかりしてプライベートでワイワイやったり出来ないわけ
一方フルリモート出来ないような会社は職種にもよるがうだつの上がらないような社員だらけの会社
そういうのに限って対面式 スキルアップも出来ないし自分を高める事もできない
どっちに転んでもLose要素がある 特に前者は大学受験をくぐり抜けた猛者たちだ
だから宅浪理転再受験を選んだ俺はコロナ禍において質の高い時間を送っている
現役時代は高校ではスポーツに打ち込んだり簿記やPCスキルを付けたり大学では語学を学びサークルも設立してサークルの女をリーダー権限で喰ったり悠々自適だ 大学は指定校で入ったので特に受験勉強らしきものはしていない
コロナになってそれ以前にやっていたことは出来なくなったが自分自身はもうやりきったと思ってるし 逆に受験勉強は今は教材も多いし現役生がリモート授業やってることを思えば条件もそんなに変わらない
自分が言ったことを親が覚えていないのだ。適当に聞き流して相槌だけ打っていたのならまだしも、しっかりと会話として成立し「じゃあお母さんがやっておくね」と言ったことが為されていない。行動を起こしていないことではなく、「やる」と言ったことを覚えていない、ましてや「そんな約束した覚えはない、自分に都合のいい嘘をついてるんでしょ」と責任転嫁してくるそのことがとにかく腹立たしかった。私たちは確かに2001年1月16日にその話をしたというのに!!!(約束の内容は実に子供らしい取り留めのない話なので割愛する)
あまりいい親ではなかったのでそういうものなのだろうかとも思うが、家庭から出ても「自分が何度も言ったことを相手は覚えていない」という事態に遭遇する。流石に幼少期よりは歳を重ねていたので地団駄踏んで怒ることこそなかったが、「この話5回したよ」「もう4回聞いた」「2回も言わないでもわかる」というような台詞は何度吐いたかわからない。その言葉を投げかけられた友人たちが不快になっていたであろうことは大人になってから理解し、反省した。
中学以降は自分が小動物的容姿なのも相俟って、わざと抜けたことを言ってはいじられ、ペットのように可愛がられるというそこそこの立場で過ごしていた。
どうせ理解してもらえないのなら、自分から話題を振るよりも他人の話にカービィみたいに相槌を打っていればいいのだ。「ほょ〜?」とか言えるのは若さゆえの特権。
だから大学で一番楽しかったことは、「バカのふりをしないでいい」ということだったな、と最近思い出す。
大学でできた友達はみんな外山滋比古もクィア理論も御館の乱も当然の教養として知っていた。全員が全員その道のオタクや研究者ほどの知識があるわけではないけれど、受験勉強で触る程度の知識は当然みんな持っていた。喋る前にいちいち前知識の説明をしないで済むということがこんなに楽だなんて知らなかった。
専攻は本当に楽しかったし、充実した4年間だった。
当時バイトは知り合いの紹介で事務をやっていたけれど、その知り合いを含めほとんどの人が高卒で、大学に進学した同世代よりも先に社会に出ていることを誇りに思っているような人たちばかりだった。
実際、自分が大学でのんべんだらりと『西瓜糖の日々』なんか読んでる間にも実務経験を積んで自力でお金を稼いでいた人たちのことをすごいと思う。
初めて任された業務について先輩に質問をしていたら、「大学行ってまで何学んでんだかw」と笑われたことがある。
「少なくともこの会社の顧客リストのコピーの方法ではないですし、他人にそういうことを言わないような教養ですかね」と口に出すのはなんとか堪えた。
自分には確かに中卒・高卒の人たちが築いてきたキャリアも考えもわからないけれど、彼らも大学生・大卒の人間の学んでいることを知らないのに何故こうも馬鹿にして下に見るのだろうか。
「大学に行ける」という選択肢を持てた立場の傲慢なのかな、とは思いつつ、それでもやっぱり自分が愛した学問を理解もせず見下していた彼らのことは苦手だ。
ちなみに上司にセクハラとパワハラとモラハラをされたので勤務時間内に「今からバイト辞めます」と宣言して辞めた。時給はちゃんとその時間までで出ていた。
『勉強できる子卑屈化社会』という本があるそうで、まだ機会がなくて読めてはいないのだけれど、タイトルや書評だけで深く頷いてしまった。
自分が同年代の平均より知能指数が高いであろうことは自覚しているけれど、それがあたかも嫌味なことであるかのように扱われ、出身大学を尋ねられたら「あ、一応○大です」と「一応」をつけなければいけない気がする。
スポーツ得意とか、料理が上手とか、そういうノリで言っちゃダメなの?「僕は頭がいいです」って。
あと一つ言っておくけど、「本当に頭の良い人なら頭が悪い人にもわかりやすい話ができる」っていう論調やめてくれねーか。
あれわざわざお前のレベルに合わせて話の知能指数下げてるから情報取りこぼしてるんだよ。
そもそもその「本当に頭の良い人」とやらに一方的に負担を強いて喜んでるのマジで何なの?お前もちゃんと原文で理解する努力をしてくれ
物事を覚えるということは、その物事に対して感想、意見を持つことだと思った
例えば、受験勉強における世界史だったら、カノッサの屈辱に「おもれ〜」って思ったり、イギリスの三枚舌外交ありえん!みたいな、能動的に物事を捉えることが近道な気がする。
教科書の勉強だけで全力で受験勉強しなくても旧帝受かるくらいに優秀な奴のほとんどは何らかの形で拾い上げられてると思う
増田がやる気なくしたのは、そこまで優秀じゃなかったってことだ
都会生まれで親が破産して経済的に困窮してても奨学金で東大行って優秀な学者になるなんていくらでもいる
逆に田舎育ちで周囲にチンピラしかいないような環境だと、家が金持ちで地頭いいやつでも地元F欄(その地域では駅弁に次ぐ名門だが)出てブラック企業を継いだりする
産業社会にとっては、優秀な人材に基礎訓練を施して一定数供給してくれれば文句ないので、個々人の感情レベルでのルサンチマンへの配慮はされない