はてなキーワード: 初七日とは
ペット業界が拡大し、ペットと呼ばれる子たちの地位が確立してきたとはいえ、世間はまだまだ「ペット」だ。
わんこやにゃんこ、鳥さんや亀さん、うさぎさんや蛇さんに、蜘蛛さんやハムスターといった(他にもまだまだ)子たちが世間からみんな「○○さんちの家族」として見なされてるとはいえない。
ツイッターに書けばいいのかもしれないし、匿名ではないブログに書けばいいのかもしれない。
でもなんだかそんな気分になれないのは、やっぱりそういう方々の目に触れてやいのやいのと言われるのが嫌だからだろうなぁと思う。
でも、それは現実を受け入れたとかではなく、上手に上手に現実逃避しているからなのだと思う。
生後二ヶ月弱で我が家にやってきたダックスさんは、やたらとお鼻と胴が長い、手足の大きな女の子だ。
途中からメキメキとぷくぷく育っていったのだが、これは甘やかしたのが悪かった。
とても柔らかい体つきだったし、小さな頃にヘルニアの手術をしているから抱き上げるときは慎重だった。
彼女は植物にアレルギーがあるので、おうちでゆったりと過ごす温室わんこだ。
朝起きて、ごはんを食べ、運動がてらにわたしの脱いだ靴下をあちらこちらに運んで隠すお仕事をする。
それが終わると夏は涼しいところ、冬はストーブの前に陣取りいびきをかいて寝て、暇になるとちょこちょこと短い足を動かしてわたしのところに来ては抱っこをねだる、甘えんぼさんだった。
調整しても調整しても首輪抜けをするので、なにかコツがあったのかもしれない。
窮屈なリードから解き放たれた彼女は実に楽しそうに駆け出していく。
だけど、名前を呼ぶとすぐに振り向いて、近づいてきてみたり遠のいてみたりと、わたしたちを焦らして弄ぶのだ。
これは小さい頃の話で、晩年は耳も聞こえなかったし、目も見えてはいなかった。
ヘルニア、目、耳、とさまざまなところが悪かったのだけど、彼女はとても頑張り屋さんな子なので、手術の麻酔が覚めると同時にわたしたちを探してすぐさま立ち上がる!なんてこともやってのけた。
それがとても頼もしかった。
亡くなる前日、彼女の息は既に浅く、苦しそうだった。
毎日わたしの隣で寝ているため、わたしもまたそんな苦しそうな姿を見守っていた。見守るしかなかった。
彼女はプライドが高いわんこなので、足腰が立たなくなっても自らトイレに向かおうとした。その彼女が、トイレにも行けず、その場で排便したという事実があの日わたしにある程度の覚悟を持たせたとおもう。
明け方の4時頃、1度彼女は立ち上がり、大きく息を吸って倒れ込んだ。
見れば、ぷにっとした黒い下唇にかかるように舌がちろりと出ていた。
これはまずいと思ったわたしは何を考えたのか、口を開けて、その舌の位置を整えた。
なにがどうなったのか分からないけれど、彼女はいきなり深く息を吸って目を覚ました。
もしかしたら気道確保になったのかな?なんて今になって思う。
その時点で時刻はもう朝の五時だった。
彼女は相変わらず呼吸が苦しそうに横たわっていた。
急変したのは朝の八時半で、いきなり噦くでもなく嘔吐したことにわたしはパニックになった。
わたしの動揺のせいか、出勤前の妹が仕事を休んでついていてくれた。
九時を過ぎたあたりで、わんこが短い痙攣を起こした。収まったあとで、上半身だけ起こすように抱き上げると、わんこはまた大きく息を吸った。あれだけ浅かった呼吸が深く穏やかなものに変わっていた。あれだけパニくっていながら、死に向かう彼女を見てわたしの頭はいやに冷静だった。
大きく吸った息を吐き出して、彼女の体は力なくぐだっとなった。抱き上げて息がないのは分かっていたけど、昨晩のようにわたしは口を開けてぺろんと出た舌の位置を整えた。
もしかしたら昨夜のように吹き返すかもしれないと思ったかもしれないし、もうちゃんと分かっていたのかもしれない。
あまり長くそばにいると、タイミングを見失うだろうという言葉に反論ができなかった。
火葬車で迎えにきてくれて、家の前で焼いてもらう。そうして、お骨上ができて仮位牌も頂けるという業者に半べそ状態で電話した。
確か、正午頃に電話をかけたのだが、向かうのが夕方になるという。
忙しいということはそれだけみんな家族を失ってるひとがいるのだなと思った。
火葬車が来る時間までは、体を拭いたり爪を切ったり、毛をカットしたりした。
生前どうしても切らせてくれない毛玉が取れて、よかったとおもった。
アイスノンで背中とおなかと頭を冷やすわんこの横に寝そべって2時間くらいわたしもお昼寝をした。
お前、そんな状況でよく寝れるなと思うかもしれないけど、眠れない日が続いていた上に前日は一睡もしてなかったので寝れたのだ。
わんこと手を繋いで寝たのだけど、どうしてもおなかに置いてあるアイスノンが冷たくて手を引っ込める、はっと気づいてまた手を伸ばす。そんなことを繰り返した。
業者のおじさんが何だかやたらと明るいひとだったのだが、多分、それくらいの方がいいのかもしれない。
お線香を上げさせてもらって、扉が閉まるのを見た。
1時間半から2時間くらいかかるから、家の中で待っていてくれと言われたのだが、なかなかそうもできなかった。
ただ、おじさんが火の調整か確認のために、炉の小窓を開けたときに、燃え盛る火の真ん中に横たわるわんこの姿と肉の焼ける匂いが今もまだ忘れられない。
ちょうど他のひとか死角になっていたからそれを見たのはわたしだけだ。
後ろにわたしがいると気付かず、小窓を開けてしまったらしいおじさんが少し申し訳なさそうな、労るような表情をしていたのが印象的だった。
そのあと家の中で何をするわけでもなく待っていると予定より早く、おじさんがインターホンを鳴らした。
お骨、直接拾うかい?
本当は頭から順にケースに入れて持ってきてもらい、玄関先で、というのがスタンダードらしいのだが、炉から直接拾わせてもらうことになった。
お骨は綺麗に並べられていて、おじさんが部位ごとに、これはアバラで、これは喉仏で、と教えてくれた。
お尻のほうから拾ってね、という言葉にならい、母と妹が拾う中で、わたしは最後の頭蓋骨と喉仏を任された。
頭蓋骨も喉仏も綺麗に形を保っていた。
頭蓋骨はすくうように拾ってと言われたのだが、最後の最後、みんながわたしらしいと笑ってくれたが頭蓋骨がちょっぴり崩れてしまった。
思ったよりもカサカサでサラサラだったのだ。これがあの子の頭なのかとちがう方向に意識を飛ばしてしまったのが原因だろうと思う。箸使いは上手い方なのに……。
生前服を嫌がったわんこなのに、亡くなってからやたらときらびやかな服を着ているみたいでなんだか不思議だった。
きっと火葬の間に書いてくれたのだろうと思った。
話は変わるのだが、わたしはペットの火葬業者、特に移動式火葬車を持っている業者には不信感があった。
わんこが亡くなってホームページを閲覧し火葬業者を探しているときも不安は凄まじく胸の中をぐるぐるしていた。
けれど、わたしは最終的に直感で業者を選んでしまった。口コミもなく、高くもなく、これといって特筆すべきところのない業者だったのだが、ここを選んでよかったと思えるところに当たってよかったとおもう。
今、明日の初七日を前にして、これを書こうとおもったのは少しでも落ちつけるだろうかと思ったからだ。
ストーブの前に彼女がいないこと、眠るとき隣に彼女がいないこと。日常すべてに違和感がつきまとう。
所謂オタクというもので二次創作にも手を出しているわたしにとってツイッターは都合のいい逃げ場所だ。黙っていてもぞろぞろと情報は流れてくるし、リプがくればリプればいい。恰好の逃げ場所だ。ちがいない。
アジタケーサカンバリン的な死生観を持つわたしにとって、死後の世界の想像は難儀だ。
虹の橋のお話がとても素敵だ、だからこれを信じて生きていこうと思ったところで、理屈っぽいわたしは「飼い主って……え、じゃあ順番的におかんが亡くなったらおかんがわんこといっしょに行っちゃうの?わたしは?」などと思ったりするので、こういう時ほんとうに自分の性格を憎らしく思う。
VIPだったのかオカ板だったのか思い出せないのだけど、死後案内場所のお話だ。
ひとは死後、自分が信じた、あるいは自分の中で印象に残っていた死生観の世界に行くらしい。
スレ主は確か、宗教だとか天国地獄だとか、そういうものではなく、なにかのアニメだか漫画だかで見た「死後案内場所」のようなところにたどり着くんだとか。
そこで、これからどうします?と自分の過去を遡ったりしながら今後の身の振り方(?)を決めるらしいけれど、わたしもわんこはここにたどり着いていたらよいなぁと思った。
「さて、ここからどうする?」
「天国に行く?」
「虹の橋に行ってみる?」
自ら地獄に行きたがることはそうそうないとは思うのだけど、でもこうして選択肢があればそれがいいんじゃないかなとおもう。
うちのわんこはなにを選ぶだろう。なにを選んだんだろう。
残された人間はそうして自己満足で生きていくしかできないのだ。
辛い、悲しい、なにより寂しい。
それでも、どうにか生きていくためにはこの感情を抱えるにしても乗り越えるにしても何らかのきっかけが必要なのだ。
これからもわたしは自己満足で彼女に水をあげ続けるし、大好きだったシーザーのビーフ(まぐろ入り)を供え続けるだろう。納骨を合同にするか個別にするか不毛な悩みに頭を抱えるだろうし、毎日毎日飽きもせず話かけて、飽きもせず写真を取り替えるのだろうと思う。
辛い記憶を振り返りたくはないけれど、それでも毎日毎日思い出していないと記憶が朧気になってしまうことは祖母の亡き後思い知っている。
なんだか、とりとめなく支離滅裂な長文になってしまったけど、残しておきたかったのです。
断滅論の権化であるわたしが言っても違和感なのかもしれないけれど、それでもどうか、彼女が死後案内場所で自分が「このコースいいな!これにしよっかな!」と思えるところを選べますように。
「幸せ」とそれに関係する「怒り」「哀しみ」について書いてます。
本気で考えたから長くなったし、読みにくいと思う。
生活が豊かになっても、富を得ても、幸せでなければ意味はない。
「人より生活が豊かである」ことに幸せを感じる人もいるだろうが、 「あらゆる人より」は世界に1人しかいないので、「誰かより」と人と比べることになるだろう。
どんな環境であっても、自分を幸せだと思う人もいれば、常に自分は不幸だと思っている人もいる。
自分が何のために行動しているのかを、もっと掘り下げて自問しなければ、自分で自分が理解できない。
「自分が理解できない自分」を他人に理解してもえることはほとんどないが、稀にあり、その出会いは幸せであるので感謝する。
「自分が何のために働いているのか」「何のために怒っているのか」「何のために勉強をするのか」「何のためにそこに住んでいるのか」
幸せになる方法は、あらゆる選択肢の中から自分の「好き」を選ぶこと。
付き合う人や孤独であること、仕事・仕事でない生きる方法、住む国や場所、食べるもの、着る服、宗教・無宗教など、すべてを「自分の」幸せと照らし合わせて選んぶ。
傲慢は誰も幸せにしない。傲慢であることに幸せを感じる人もいると思うが、私はそういう人とは付き合わない。
幸せを実現する手段を教えることはいいことだが、その選択自体は、他人にとやかく言われることじゃないし、他人に口出しするものでもない。
「人それぞれ」という言葉に不安を覚える人は、宗教や学問を選ぶと、自分以外の場所に確かな指標や信じるものが出来ていいと思う。
それを信じている間は、幸せのカタチを変えられないというデメリットも分かっていたほうがいい。
宗教だって学問だって、信じられなければ変えればいいと思うけど。
その手段は相手に対して間違っていることがあるかもしれないが、それを「偽善者」の罵る人は、想像力が足りない。
お金があること自体に幸せを感じる人は、自分をまだあまりわかっていない。
「お金あっていいな」とは思うけど「お金あればアレができるのに」はみんな違う。
「そのために何をしている、何をする」が近い人とは過ごしやすいし、「その手段もあるのか」「こういう手段もありますよ」がお互いを幸せにする可能性を広げる。
「わたしはこっちがいいんです」と言われても、それはその人の幸せのカタチなのだから、落ち込む必要も怒る必要もない。
こういう考えが自分に合ってるというだけで、それこそ個人個人にもっと合う考え方があると思う。
数多の国・宗教・文化があり、法律・戒律は違えども、すべての目的は「幸せになること」で、根っこの部分は本当によく似ている。
幸せのカタチはみんな違うけど、皆自分の生活をより良くしたくて、または今の良い生活を維持したくて、行動している。
怒りを感じる事自体は悪いことではなく、あたりまえの本能なのだけれど、それで幸せが遠のくのであれば、感じすぎないほうがいい。
怒りの成分は大きく分けると「自分の幸せへの危害」と「嫉妬」くらいだろうか。
嫉妬とは「相手の幸福により、相対的に自分が不幸になること」に対する怒りであり、あんまり自分の幸せがなんなのか分かってない時にあふれだす。
自分の幸せの手段である何かを持っている人に対して湧く感情なので、消し去ることはできない。
「今嫉妬してるってことは、自分もああなりたいんだなぁ」と言い聞かせて、「羨ましい」と言葉にすることで、少しは解放されるかも。
「それを持っていることでなぜ幸せなんだろう」と掘り下げることで、「元から嫉妬するようなことでもない」と気づけるかも。
「怒り」は「幸せ」を守っている。
ただ、必要以上の怒りは、怒っている本人を含めて誰も幸せにしない。
「何に怒っているのか」を自分で理解して、それ以外のことにぶつけてはいけない。
怒りの多くは、その原因を取り除けば解決できる。
「その手段でしか幸せになれない」と思っているから怒るのであって、他の方法を探すことで、かなりの怒りから開放される。
他人に対して怒りが湧くときも、お互いが「相手も幸せになりたくて、その行動をとっているんだ」と思えば、多少軽減できるし、「じゃあどちらも幸せになるように新しい手段を探そう」と原因の解決に迎える。
あらゆることに対しても怒りが湧くときは「眠い」か「疲れている」か「お腹が空いている」。怒っても解決しないので、うまいもの食って休もう。
「怒り」から遠ざかることで、「怒り」から遠い存在である「幸せ」に近づくことができるのではないだろうか。
哀しみを感じる事自体も悪いことではなく、あたりまえに持ってる本能だけど、それで幸せが遠のくようであれば、感じすぎないほうがいい。
幸せも怒りもわりとすぐに忘れてしまうけれど、哀しみはなかなか慣れない。
怒りと違って、死や離別など、原因を解決できないことがほとんど。向き合って鎮めるか、逃げるしかない。
仏壇に手を合わたり、十字を切ることで、寂しさから解放される人もいるだろう。一種のルーティーン。
大事な人やモノを失うと寂しい。いつもの幸せな日々が終わってしまうから。幸せなときにいつもやっていたルーティーンによって「大切なものの1つを失ったが、今も幸せである」と思い出す。
それは幸せなのかと言えば、そうではないと思う。哀しみをごまかしているだけではあるが、他にいい方法がない。
哀しみと向き合うのは、辛すぎる。
どうあがいても哀しいものは哀しい。
ずっと哀しんでいないといけない雰囲気がある。
それって誰が得するかと考えると、やっぱり宗教なのかなと。
余計に哀しむ必要はない。普通に過ごせば、みんな充分哀しんでると思う。
「哀しく感じていた感情を忘れる哀しさ」があるのも、また真実。
哀しく感じなくなったからと言って、愛していた事実がなくなるわけじゃない。それだけを愛情のモノサシにしなくても良いのでは?
私はいろんな人に愛されていると思っているから、私が死んだときにはそう考えて欲しい。
「恐怖」とはなにかを考えると、「幸せを害される」ことに起因する感情。
自らの死、病気、老い、孤独、蔑視など、人生においては恐怖も少ない方がいいが、避けようがないものもある。
悪い結果を想定して、余裕を持っておく。
恐怖を乗り越える「覚悟」を持っていれば、もはやそれは恐怖ではない。
老いたから、即不幸なのか。何ができなくなることが不幸なのか。若いままでいて、何ができることが幸せなのか。
病気も孤独も蔑視もそう。それ自体が不幸なのではなく、その結果なにかができなくなることが不幸であり、逆に何かしたいことができるままであれば、それ自体は恐怖の対象ではなくなる。
「死」の恐怖はすさまじい。「死」は積み上げた幸せを失う。
死んだことがないから、またわからない。わからないものは怖い。
あれもしたかった、これもしたかったはたくさんあるけど、「この人と一緒に過ごせてよかった」とか「得られるだけの幸せを手に入れた」と満足することこそが、生死の際まで幸せでいられる手段ではないだろうか。
この世との別れは哀しい。それは絶対に避けられない感情だけど、それより人生に対する幸福感が上回れば、受け入れられないものでもないのかも。
うん、やっぱりどう考えても今は死にたくないな。
長生きするのは不幸だという意見だったけど、失う対象が少ない状態で死ねると考えれば、今はじめて、少しだけ羨ましくなった。
「幸せな死」にこれから出会えることがあれば、そこから学ぼう。
出会う前に死んだら、仕方ないな。
怒りや恐怖について考えられる日も、多分幸せな日だけ。
哀しみについては、哀しい日の方が考えられるかも。
余裕ができたら、余裕がなくなったら、また読み返そう。
個人的な話なんですけど、自分の実家は地方のさらに田舎の方にあって、そこに18までいたんですけど、東京に出てきてから自分の中では常識だと思っていたことが全然当たり前じゃなくて、とても驚きました。
その中でうちの地方だけの慣習だと知って一番びっくりしたのがあるんですけど、例えば家族の中で誰か亡くなった時に、お葬式をして、初七日や四十九日がありますよね。ここまではうちの地域も同じなんですけど、その後に月命日ってあるじゃないですか。あれがちょっと変わってるみたいなんです。
まず、月命日の夜には家族全員が揃って家の中で過ごさないといけないんです。何故かというと、「弔いさん」が来るからなんです。
多分、東京の人とかには弔いさんが何なのか分からないと思うんですけど、家族全員で家の中にいると、大体夜の9時とか10時くらいに、玄関に弔いさんが来るんです。
弔いさんは男性の時もあれば女性の時もあって、年も20くらいの若い人から80過ぎくらいの人までいるんですけど、ただみんな背の大きさが2メートル50センチくらいあるので、だから多分、人間じゃないと思うんですけど、背が高い以外は普通の人と変わらないです。
弔いさんを家に上げたあとは、お茶やお菓子を出して、一時間ほど談笑をします。話してみると、弔いさんはこちらがビックリするくらい故人の事を知っているので、かなり盛り上がります。
弔いさんは毎月の月命日にやってきて、毎回同じようにみんなで談笑します。
最近、東京出身の人にこのことを話したら、弔いさんのことをまったく知らなかったらしくて、とても驚いていました。
あと、知り合いに隣の県の出身の人がいるんですけど、そこでは弔いさんじゃなくて、命日さんって言うらしくて、身長も1メートル20センチくらいで、狐のお面を被ってるらしいです。
何でこんなに地域によって差があるんでしょうか?
不思議です。
もちろん遺体の焼却はさっさとしないとだが、初七日とか四十九日もぴったり7日や49日でやらないんだし、拘らなくてもよいのではと思う。
式を執り行うことに意義があるだけで、そこに遺体は必要なのだろうか。
墓石がない墓が一般的だし、六文銭も最近はただの紙だし、そろそろ遺体レスの葬式も発案できると思うのだが。
数人分まとめてできる分、葬儀費用は安くなるだろうし、式場や寺も計画的な業務が出来るようになる。
婚姻届は24時間いつでも受付ていても、結婚式は「明後日やるからよろしく!」なんてことはない。
葬式ももう少し考えたらどうか。
追記
創価学会は葬式が安いらしいが、その他の機会に吸い取られるし、クリスチャンだって毎週教会に通ったり、なにかの折りに寄付をしたりと、どんな宗教でも金はかかる。
普段なにもしないぶん金で解決、まあそれも宗教というものを守るために仕方ないじゃないか。
無神論者だけど、この世に宗教がなかったら殺伐としてると思うから、金は払うよ。
よくNHKが言う公共放送を維持するために受信料、みたいなものかと。
(あれは納得出来ないが)
赤子から2親等の葬儀なので、通夜はパスさせてもらったけど告別式はなんとか出席。
9時過ぎに葬儀場に集合→10時から告別式→11時ごろ出棺→斎場に移動→11時半に火葬(1時間半ほどかかる)→葬儀場に戻る→昼食→再度斎場へ→お骨を拾う→葬儀場に戻って初七日の法要(一緒に済ませた)→親族のお見送りで終了
終わったのが15時頃。
基本的に赤子向けのサービスはなし、身内なので控室があるけど、出席だけなら出棺までかな、、、(その時点で帰る親族もいた)
お経読んでる間はぐずったらさっさと退席するが吉かと、誰も気にしてない。
最後に、亡くなった身内が赤子と少しでもかかわってもらえてよかった、でも、もっと長く接してもらいたかったので本当に残念。空からずっと見守っていてください。
3年前の夏、私は実家に帰った。お仏壇のある部屋には、認知症の祖母が寝たきりの状態でいた。
その以前から遅々として認知症の症状が進んでいたが、その頃には私と弟の区別がまるで付かない状態でいた。
「誰かね。(弟)かね」「(私)だよ」
あれほど大好きな祖母が、私の事が分からないのが不思議だった。
「そうかね。(私)はオートバイで死んだよ」「ふふふ、おばあちゃん、違うよ。(私)はまだ死んでないよ」
その時、ふと目が覚めたように、祖母は私に気付いたようだった。
「ああ、(私)かね。(私)はいつからそこにいたのかね」「さっきからずっとここにいたよ」「元気かね。今、何をしてるのかね」「東京で仕事をしているよ」「ああ、東京でなんてね。大変だ、大変だあ」
私は、一瞬だけ元に戻った祖母の声を聞いて、涙を流した。声色を正すのに、精一杯だった。その後、意識が混濁した祖母は、弟の名前を叫んでいた。認知症の人は、いくつかのパターンにかなり明確に分けられるという。祖母は、火やガスの心配をしきりにするパターンであった。
祖母が死んだのを知ったのは、ある日の金曜の22時前であった。数人で残業していた時に、突然、母親から電話がかかってきた。母は涙声で、祖母が死んだと言った。私は部長に、祖母が死んだので今日は帰らせてください、と言うと、全員が弾けたように帰り支度を始めた。駅までの帰り道、先輩と上司が、自分たちの身内が死んだときの話をしてくれた。私はふわふわとした気持で、それを聞いていた。アパートに付くと、軽い食事だけして、すぐに寝た。化けた祖母は、夢の中にも出てこなかった。
実家近くの斎場に着くと、親戚が集っていた。祖母の死に顔を拝むと、瞼は空き、顎は開いた状態であった。濁った眼球は乾き、辛く天井を向いていた。まるで恐怖で引き攣ったようだった。肝臓が止まった状態で、2週間も祖母は生きた。凄い執念であったか、薬の力であったかは分からない。苦しかったかも、案外楽であったかも分からない。生きるのも死ぬのも勝手に選べなかったのは事実だと思う。
私は祖母の横で、父と一晩を過ごした。守りの番である。
会社のパソコンを持ってきたので、祖母がいる横の部屋で仕事をしていた。それが終わると、祖母の横たわる姿を眺めていた。夜の2時を過ぎたころ、ようやく眠れた。怖いとか、悲しいとか、そういう気分ではなかった。夜が長いことが辛かった。
親戚一同は、ふすまで区切られた横の部屋で待機していた。2、30分もしたころ納棺師の方に呼ばれると、祖母は見違える状態で眠っていた。見開かれた瞼はすっかり閉じられ、顎はしっかりと閉じていた。口に綿を詰めて頂いたらしく、化粧もあって、何歳も若返ったように、生き返ったようだった。
「お母さん、お化粧されたのね」
鬼の様の怖かった叔母が泣いていた。みんな喜んでいた。あの顔で焼かれちゃっじゃ困るな、と叔父が笑っていた。
私は祖母が、本当は生きているのではないかと思い始めた。
「あら、いつからそこにいたの。すっかり寝ちゃってたよ」
そう言いながら、起きるんじゃないかなあと思っていた。そうしたら、目が乾いてるから痛そうだし、すぐにお医者さんを呼ばなければと考えていた。
葬式が終わり、焼却所に行くことになった。たくさん人がいた。毎日、たくさん人が死んでいるのだなと思った。
祖母が、大きなオーブンに入ることになった。お坊さんがお経をあげながら、それに従い我々も手を合わせていた。葬儀場のコーディネータの人曰く、焼却所までお坊さんが来てくださるのは珍しいらしい。確かに、最後の最後までよくして頂けた素晴しい方だった。
私は、祖母が焼かれるのを少し待って欲しかった。本当は死んでいないのではと思っていたからだ。
まるで病院の待ち合いのような LED ランプの番号が光ると、我々はぞろぞろとオーブンの前に並んだ。
これが(祖母)様の喉仏のお骨です、こうして見ると仏様の形をしているようですから、喉仏と言われます、と説明してくださる方がいた。祖母の骨は、お棺の中に入っていた何かとくっついたかして、青い色が移っていたのがあった。
斎場に戻ると初七日を行い、御飯を食べた。豪華でとても美味しかったが、焼却所で軽く食べたおいなりさんのせいで、あまり食べられなかった。その後、実家に帰り、支度をすると、すぐに東京のアパートに戻った。その次の日から、また残業の毎日であった。
先日、一周忌があった。祖母の住んでいた離れが綺麗に掃除され、そこで親戚が集まり御飯を食べた。
私は親戚が自分の家で揃って、一緒に御飯を食べるのが好きだった。子供の頃は、それがお祭りみたいで楽しかった。それがこういう形で集まるのが寂しかった。ただ、祖母もこういう集りが好きだったから、喜んでくれたのかなと思う。
直接の被災地でもなかったのだけど空回りして何かできないかオロオロしているあいだになんか疲れた。体調もわるい。
多分被災地の人もこれぐらいのタイミングで、ふと現実にかえってぽっかり穴が開くのかもしれない。
忙しくしているあいだは大丈夫だけどという、いわゆる初七日。さらに49日あたりで、さらにひしと復興に向かうのだろうな。
4/19あたりか。世間だと新学期が落ち着いたころだね。
はてさて、いろいろむちゃくちゃになりすぎていて、現実感がないのだけど経済的に本格的な影響がでるのはこれからだと思う。
どう乗り切るか?はたまた、載り切らないか、選択肢がすくなくなったぶん悩まないほうがいいのかもしれない。
やっぱり目の前にある優先度のたかいものからがむしゃらにコツコツとやっていくしかないね。
守るものを大切に。守れるものを大切にしてやっていこう。