はてなキーワード: 中二病とは
人間ってさ、1人で生きていける訳じゃないから徒党を組んで社会や家庭という単位で助け合って暮らすんだと、高校生の頃に倫理か何かの授業で習った覚えがある。社会契約論?人間は考える葦である?満足な豚より不満足な人間がいい?みたいな。詳しくないからよく分からんけど、それはそれで筋の通った理屈だとは思う。
中二病を引きずってるみたいで恥ずかしいけど、自分は割と他人に対して淡白で、1人で放って置かれたら1人遊びで結構暇を潰せるタイプだし、そりゃ人恋しい時もあるから、そういう時は誰彼か飲みに誘うような人間関係もあるから、酒でも飲みに出かける。ただ、基本的には他人が何しようが他人の勝手だと思ってるし、その代わり、自分のことは大筋で放って置いて欲しいタイプだ。
だからかもしれないが、自分の垣根を超えて干渉してきたり意志を向けてくる人間が理解できなくて、すごくストレスに感じる。満員電車なんか、他人だらけの空間で、マナー良くしようとはするけど、態度の悪い人がいたりすると、それを見ただけでストレスだ。
最初の話に戻って、人間は社会的な生き物だって話なんだけど、じゃあなんでおれはこんなに他人に対してストレスを感じるのかな、と思う。他人と暮らさざるえないなら、こう、脳の作り的に、他人と接した時にストレスを感じるよりは、快を感じる方が理にかなって要るような気がするんだよな。
人によるけど、他人と話したり行動したりすることにあまり快楽を感じないから、なおさらなんでなんだろう、とそう思う。実際、人間は他人とソリが合わなくて争ってる事の方が大半だし。それよりか、意見の違う他人といても超楽しい、って感じる脳の仕組みだった方が生きやすいのにね。
これに罹る人自体は、めずらしくない(私だってそうだ)。だが今後、きっと爆発的に増えていく。デジタルネイティブの若者に関しては特に著しく勢力を増やしていくだろう。
情報技術が発展し、情報リテラシーが高まり、他人の多種多様な生き様や頭の中をヴァーチャルに追体験できるようになっていくほど、そうなる。
あるいは、縮小し閉塞感に満ちていく社会において「○○のような人材」が求められれば求められるほど、他人の望む人間になることを是とする人は減り、真逆にあたるこの症候群が増える。
現代は多くの人が情報の海に晒されているが、基本的にはみな、好きで晒されている。
情報から距離を置けない理由には社会的欲求(横並び意識)も関係しているだろうが、根源的な部分で、人間の知識欲ははかりしれない。
ともかく数年もそういう情報収集に没頭するうちに、人はすべての情報を客観的に見るようになる。
言い方をかえると、すべてが他人事になっていく。自分の思想や行動様式と一致する主張ですら、他人事であり、移入することができなくなる。
感動しないわけではない。心酔しないわけでもない。でも、その素晴らしいものは(ゴミみたいなものもだが)、すべて、自分とは別の世界のことだ。無意識に距離を置くようになる。
自分の世界には、何もない。ゼロではないが、大したものはない。そのことに虚しさや悔しさなどを感じる時期も通り過ぎてしまった。きりがないのだ。自分は空っぽでいい。そうなっていく。
はてブなんていうメタツールを使っている人ならその感覚がよく分かるはずだ。
「自分の主観的意見」ですら客観視しだして、「これはくだらない、取るに足らないものだ」と思うようになり、いずれ黙るようになっていく。
自分が言わなくても、自分が思いつく程度のことは静観していれば誰かが必ず言う。それどころかもっと洗練された素養を感じる意見が次々と出る。
たまに黙るようにはならない人もいるが、そういう人は、自己の空虚さを完全に意識から消しているので、傲慢で上から目線な発言をするようになる。覚えがあるだろう。
自己を主体とすることを肯定することは、一人の人間としての人生に埋没してしまうことだ。
それは極めて当たり前のことだが、しかしそうではない、メタな視野の万能感を、我々はもう知ってしまっている。
他人、企業、社会、そういった観察対象の生き様、行く末を見るのは刺激的だけれど、自分がそれに加わろうとは思わない。
できることなら人間をやめて、電脳化して、この先数千年くらいの人類を観察していたい。
それはある意味で、死へのあこがれかもしれない。
そうでないのなら、これは静かなる反抗だ。
あまりにもできの悪い現実に対する?いや、違うだろう。情報を手にしてしまったことに対する、が妥当だろうか。
もう少し踏み込むなら、世の中にあふれる要素に対して、人生があまりにも短すぎることを知らされてしまったこと、
そして「実体験」の価値が相対的に見て瑣末なレベルにまで薄れてしまったこと、その2点に対するハンガーストライキだ。
だから何もせず、社会にも加わらず、ひたすら情報を摂取して、内なる膨張を続けながら生きる。
「労働者」になりたくない。
「親」になりたくない。
「男(女)」になりたくない。
「○○ファン/シンパ(=何かに従属するもの)」になりたくない。
ひとつひとつを見れば、中二病か高二病かといったものをこじらせたんだな、と一笑に付されて終わるかもしれない。
けれどもこうした「○○になりたくない」という思いはインターネットの海で練り上げられて竜となり、
それらが寄り集まった集合体として、漠然とした怪物の姿となる。
その影はどこにでもあり、その姿は気づけば心のどこかに転写されている。
その怪物こそが、何者にもなりたくない症候群の主たる発生源だと思う。
中年になっても、老年になっても、一言で表せるような身分を勝ち取る行動を頑なに起こさず、さまよい続ける境界者であり続ける。
そんな境界者とて、なにか巡り合わせた特定の状況に依存して生きているわけだが、決してその状況を肯定したり、堅持しようとするわけではない。
吹けば飛ぶような場所にいて、弱者であることにこだわり、風が吹くならば死んでも仕方ないと覚悟しつつも、防御行動を取らない人達だ。
そういう人の割合がふえてくると、これまで人類の築いてきたコミュニティの在り方は根底から崩れる。
それが悪いと言うわけではない。いち罹患者として言わせてもらうと、自然の成り行きなのかもしれないし、興味深いと思っている。
母さん
驚くべきことが起きました!
デートに誘われたのです
7月2日、日曜に
元々は
友達と行くつもりだったそうですが
友達がどうしても行けなくなったので
代わりに僕を誘ったとのこと
でもまだ本決まりではありません
保留にしてしまい
まだ答えていないのです
要するに僕は
最高の最高
ギリギリの
僕は平静を装って
どったの急に
それじゃあ一応
日曜確認してみるわ
と言いました
しかし内心は
冷静なはずがありません
まさか僕が
そんなことは
一生無いと思ってました
小5の時に
異性を意識し始め
しばらくは自分なりに
かっこよくやってたつもりでしたが
男だらけの世の中は
テレビの声も
一人ではどうにもならなかった
カラ元気は余計に空しくなるので
気付けば僕は
無口になっていました
やがて僕は中学生になり
強烈な中二病が訪れました
派手に暴れたりはしません
とにかく僕は
一秒でも口を開くのが
嫌(危ないから)という設定でした
同じクラスにいながら
僕もいつのまにか
それに慣れていました
僕は僕に対して
静かに諦めていたようで
それはもしかしたら
心が死んで
数年間
僕の恋人は
ロックだけだったことが
原因かもしれません
結局聞き専の僕がモテることはなかった
僕ももう高二です
以前に比べれば
僕の人間性は
ずいぶんましになりました
少なくとも
気になる女子と
挨拶ぐらいは交わすし
時々
あれいいよね〜なんて
話したりします
(PINBALLS以外は正直微妙だと思ってるけど)
ごくたまに
しかし!それにしても!
今回のライブの誘いには
驚いています
まだ実感がわかず
フワフワしています
浮かれているわけではないですが
どうにも顔がにやけ
授業になりません
それで僕は
保健室に行くふりをして
授業をさぼり
空き教室に入り
こうして驚きを綴っているのです
日曜のライブは
僕の大好きなアーティストです
それは当然です
僕はあの子の影響で
そのアーティストの
まだロックにハマりたてだった頃
そのアーティストを見下していました
けっこう昔の話です
あの子でした
素晴らしいバンドだった
そういえば
母さんともこのバンドについて話した事がありました
母さん
ところが何もかもはうまくいきません
さっきはてブのホッテントリを見たらウキウキのおっさんお義父さんが
増田を書いていました
僕はどうすれば
余命いくばくもないけど明るい女子高校生が出会ってイチャイチャする話
原作のタイトルだけ見て木になってたけどマンガになってたから気楽に読めてよかった
四月は君の嘘、いちご同盟、半分の月がのぼる空を読んだ後だと、何番煎じかわからんくらいのテンプレ展開で、全然面白くなかった・・・