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はてなキーワード: ミスミとは

2019-08-17

大人になってスキルセットを増やすのは難しくないだろうか

英語プログラミングはまだ安いところがあるので取り組みが出来る。


電子工作関係はかなり難しい。Arduinoラズパイくらいは出来るが、その後のハードルが高すぎる。

ちょっと基板作ろうとなるとネット書籍もない。(入門レベルはあるが)

自前でUSB端子やら、USB制御ICの選定、ドライバ製作などをやり始めると躓く。


MayaやHoudiniで、プレゼン用の動画が作れるようになればと思ったが、Mayaくらいの機能になると一ヶ月体験版で触っただけだと無理だった。


Arduinoサーボモータ簡単制御くらいはできたが、精度だったり速度だったりが足りなかったので、

PLC買ってメーカー制御ソフトも買って複数サーボモータやEtherCATやGOTまでは簡単なのは出来るようになったが、

問題はそこから後の機械部分だ。

ミスミ個人相手にしていないので精度良く作る手段がない。駆動部分の設計シミュレートするのにSOLIDWORKS使おうにも個人では高すぎる。



業界標準になっていて、それを使えなければ仕事にならないようなソフトが高すぎて、土日に勉強しようと思ってもできないのだ。

Autodeskmatlabなんか高すぎないだろうか。


プログラミングだと、Githubに作った物を置いておけばポートフォリオ役割を果たすが、他のジャンルは難しすぎる気がする。

論文ジャンルが違っていると購読しているところを探すだけで大変だ。

2016-04-24

[]番外編 増田お嬢様カップリングをかく語りき

 増田お嬢様も淑女であるときにはカップリング論争を行う。

カップリングといえばやっぱりNBK(鍋屋バイテック)ですわ」

企業ツバキに決まっています

三木プーリ……」

「ステッピングモータとセットでオリエンタルなどは?」

ミスミブランドOEM生産ですの?」

 表面的に穏やかだが一歩も譲らない雰囲気

お嬢様ともあろうものが展示会でノベルティをもらったから、

そのメーカを贔屓にしているわけではない、おそらく。

 姫カットお嬢様がおもむろに口を開いた。

パナソニックは?」

「「「それはカップリング違いです!」ですわ!」ですの!」

「……しょんぼり

(口でおっしゃった!?

本編

http://anond.hatelabo.jp/20160407225815

標準カップリング http://jp.misumi-ec.com/vona2/mech/M1000000000/M1001000000/M1001090000/

2015-09-02

「一度ミスしたら終わりなんですか」について

「一度ミスしたら終わりなんですか?」と言う人は、まあ間違いなく、かなりの回数ミスしているが、その数々のミスを巧妙に隠してきてしまったり、本人の知らないところで誰かがフォロー責任を取ってくれた人だろう。

一度もミスしない人や一度もミスをしなかったと思い込んでる人は、そこに至るまでに数々のミスをしたり、それを自覚したりする中で、ミスカバーするための方法ミスを避ける方法を学んでこなかった人だ。

ミスを乗り越えることで、ミスのない今に辿り着くという経験学習をしていない。

さな舞台や小さなミス経験してこなかった人は、大きな舞台で信じられない大きなミスを犯す。そして反省をせずに、こう言う。「一度ミスしたら終わりなんですか?」

大きなミスとは、小さなミスの積み重ねなんだ。大きなミスが発生するまでには、小さなミスがいくつも積み重なっている。小さなミスのうちに適切な対応を取っておけば、大きなミスには繋がらなかったのに。あるいは、大きなミスが発生してしまっても、少しはマトモな対応を取れたかもしれないのに。

大切なのはミスの大きさや回数ではなく、その後の対応です。

から臆面もなく「一度ミスをしたら終わりなんですか?」なんて言えてしまう人は、その舞台に立つにはまだ早すぎた、または、その舞台に立つには実力がなかった人といえる。

さなミスミスって大事だね。

2012-01-16

ハシズム

下市長の意見を聞いていると、ミスミCEO三枝 匡氏の理論とまさに一致する。

http://www.misumi.co.jp/corp/recruit/career/introduction/soshiki01.html

ぜひぜひ三枝 匡氏の著書を読んでほしい。

日本会社問題点を的確に表している。

グローバルな競争に勝ち残っていくために、日本企業がすべきことが書かれている。

やはり、現場の第一線で戦ってきた人の言葉は重みがあるし、実践的だ。

この理論企業だけでなく、日本の中の”組織”すべてに当てはまる。

下市長は、まさにこの理論政治教育の場で実践しているのではなかろうか。

2009-12-22

http://anond.hatelabo.jp/20091222101213

松下幸之助しかり、ミスミのCEOしかり、製造業で自社のR&Dを技術面で深く理解できなくても経営は出来るみたいよ。

2009-07-30

なぜ結婚したい人ほど結婚できないのか? 最強婚活.com

結婚ジレンマ

これは勝手に命名させてもらいました。多くの婚活者が陥いるであろう罠です。

本当に結婚できる人は周りに貢献し、周りの助けを得ることができる人

まず、僕が婚約していた頃の当時の彼女との会話を紹介したいと思います。

自分結婚だけを考えている人とパートナーへの貢献を考えている人、どっちが結婚できると思う?」

今考えると恥ずかしいのですが、こう答えました。

自分結婚だけのことを考えている人だと思います。」

理由は簡単でした。なぜなら結婚活動で出会った婚活者は、得てして自分に対する結婚願望が非常に高かったからです。私の答えに対して、彼女はこう教えてくれました。

「それは違う。恐らく、どちらの人も速度は違えど、結婚するはずです。しかし、本当に結婚できる人は周りに貢献し、周りの助けを得ることができる人です。」

当時「なるほど。確かに。」と納得したことを覚えています。しかし、実際にこの言葉意味を理解することになるのは、結婚活動を始めて半年くらい経った頃でした。その言葉意味について書いていこうと思います。

結婚願望をアピールする婚活

よく婚活者とお見合いをしていると、「あなたと結婚できると思ったからです。」「あなたとなら新しい結婚生活に取り組めるチャンスがあると思ったからです。」という婚活者が後を絶たない。恐らく「結婚願望があります」ということをアピールしたいのでしょう。

確かに結婚願望が無い人よりは、結婚願望があった方が絶対的に良い。しかし、上記の発言をする人は基本的にNGです。

なぜ結婚願望をアピールするのはNGなのでしょうか?そして、なぜ結婚したい人ほど結婚できないのでしょうか?

夫婦は分業するという選択をした

まず夫婦のあり方についてです。

18世紀のイギリス自由主義家庭学者アムダ・ミスミが、『家富論』の第一編において分業を論じている。それ以降、夫婦は分業システム理論的に定式化した。そして夫婦は、信頼と責任ベース家事をすることを始めたのです。

分業が確立される前までは、一人で自分のためにでも良かったのかもしれません。しかし、分業を選んだ以上、自分のことしか考えていない人は、その家庭から弾かれる事になります。これを現在夫婦生活に置き換えてみよう。

例えば、分業していると多くの人が一つのプロジェクトに携わります。よって家事を依頼しなければならない。また、家事を請けなければならない。その中で「自分結婚だけを考えている人」と「相手への貢献を考えている人」のどちらに家事を任せたいだろうか。恐らく後者であろう。結局、自分結婚だけを強く望んだとしても、自分結婚に繋がるような家庭を与えてもらえないのです。

これが、結婚ジレンマである。

良い夫婦生活をする人に良い夫婦生活が回ってくる

さらに自分結婚を望む人間は得てして競争を好みます。なぜなら、いかに結婚するチャンスを得るか、が目的になってしまうからです。

しかし、相手の貢献を望む人間競争を好みません。なぜなら、競争をせずとも貢献はいくらでもできるからです。目的が「奪う」ではなく「与える」ということなのです。

さらに、競争心がモチベーションとなって行動する人は、それ以外の人、たとえば克己心などをモチベーションにする人に比べ、いい結果が残せないという研究結果があります。

競争はまた、夫婦生活の質も低下させます。テキサス大学ロバート・ヘルムライク教授は、自然科学の分野で博士号を持つ人百人以上の著作を調べました。その結果、専門分野への興味や自分で決めた目標を重んじる既婚者のほうが、競争を重んじる既婚者よりも、質の高い夫婦生活が多いということがわかったという。

良い夫婦生活が出来なければ、次に良い夫婦生活は与えられない。これも結婚ジレンマです。

パートナー家族に貢献できる人を求めている

話を結婚活動に戻しましょう。

お見合い釣書を見ていてよく出てくる発言が以下の内容です。

「あなたとならキャリアを詰めると思ったからです。」

「あなたとなら裁量権があり、すぐに結婚できると思ったからです。」

「あなたとの家庭なら自分の力が発揮できると思ったからです」

「あなたとならMBAが取れると思ったからです。」

改めて言います。こういったニュアンスの発言や質問の類はNGである。

お見合い相手は間違いなく、貢献の意識を理解できていない人より理解できる人を採用します。いかに向上心結婚願望が強く結婚した結果その家庭に貢献できるとしてもである。

ある程度優秀な人材であれば、そもそも向上心結婚願望があって当たり前だと我々は考えています。中には優秀さに甘えている人もいますが。

よって、自己結婚願望をアピールしている人はただのエゴイストにしか見えません。「自分結婚した結果、貢献する」であっても、そもそも自分結婚目的になっている人は、結局エゴイストとみなされてしまう場合が多いです。結果、結婚もできなければ、家庭内秩序も乱すとみなされても仕方が無いのです。これでは、結婚したくてもできない。

本来あるべき姿は、夫婦で家庭生活を営む以上、自己結婚願望といった利己主義ではなく、パートナーへの貢献といった利他主義をアピールしなければならないということです。

よってお見合い釣書で書くべき事は以下のようになります。

「私の力を使って、あなたの成長に貢献したいと思ったからです。」

「私の今までの経験で、あなたの利益創造に貢献したいからです。」

「より一層学習し、これから生まれてくる子供へのナレッジを蓄積します。」

といったことが、パートナーが求めていることです。これを表面上で共感するのではなく、理解し、実践できるようになることが重要なのです。

最後に

婚活者になって若い頃よりもお会いする異性の方が絶対的に増えたことも原因かもしれませんが、真のプロフェッショナルな既婚者と呼ばれる人とお会いするようになりました。そこで気付いたこと、それは真なる既婚者は、自分結婚に着目はしていませんでした。パートナーへの貢献に着目し、結果結婚していたのです。

結婚目的となる人には、周りが結婚の機会を与えない可能性があります。そして、結婚の機会を自ら逃すことになります。「結婚したいのに結婚できない」これが『結婚ジレンマ』なのです。

2008-12-18

http://anond.hatelabo.jp/20081218152326

何でいいカモがいるのにそれをミスミス手放すような方針とらなきゃなんねぇんだよ!

と覆面キャリアが申しているようです

2008-06-20

みーんな疎外中。

 長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。

疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。

 なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。

 じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。

「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」

「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」

「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」

「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」

「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」

「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」

「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」

「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」

「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」

「その人を手当てすりゃいいじゃん」

 ……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。

「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。

 例えば教育。そもそも公教育制度って、政治社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像国民保証する」ことにあるわけです。

 だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。

 警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。

 他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列未来投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。

 だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?

 いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級リングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級リングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。

 だから、庵野監督大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)

 なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。

 ポルポト文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。

 ……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。

疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェ運命愛もちょっと似てるかも。

 ……でもこれって、

「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」

という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論ポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女ジジイ

 ……この「反疎外論シリーズ、いろいろ応用がききそうだな。

 例えば、

「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」

「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずく正義押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」

とか、

「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」

「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」

「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」

ライダーは二人も要らない」

「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」

貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」

「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」

(去っていくザビーゼクター

「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」

(半年後)

「もう疎外論も物象化論もないんだよ。影山、俺と一緒に転向しよう……。天道、おまえはいいよなあ、どうせ俺なんか」

とか。

 
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