はてなキーワード: アフリカとは
真面目にやっていると、「こいつはいうことを聞くやつだ」ということで「お前は努力が足りない!もっと真面目にやれ!」と叱責される。
子供の教育ならともかく、現場が疲弊してヘロヘロだが、現場が真面目にやってる職種(学校だとか医療だとか介護だとか)こそがそういう指弾を受ける。
うなぎうめー!どんどん殺せ!みたいになってうなぎが絶滅しかかってるように、
「真面目な日本人」こそがもう30年ぐらいしたら絶滅して、アフリカの独裁国家みたいなヒャッハー国家になっていくのかね。
まあ、思えば、日本のオンラインサービスでもそうかもしれない。真摯に顧客の意見を聞こうというやつは、クレイマーみたいなのに絡まれて疲れてやめ、
現状の労働基準法が正社員を保護しすぎる法律だというのが財界の統一見解で、確かにそれは一理はあるのだが
一方で日本は労働者保護のための社会的な土壌がほぼないため、ストライキすらまともにできないからね今や。
このまま米型の雇用フォーマットを運用しちゃうと労使ともにうまく機能しないだろう。
一方で、米型の雇用が本当にうまく行ったかというと、トランプ出てきちゃったわけで。
今までの労働者の使い方も、労働者の権利の確保の仕方も、どちらも合わなくなってきている。
そもそも先進国は、すでに労働者の数=利益の額、というシンプルで牧歌的な資本主義からはとうの昔に卒業させられており、
消費の中心者である中産階級層が減少する「痩せる」のは、企業側としても困った事態であるはずなのだが、
今のところはまだ世界中くまなく探せば「簡単に売りつけられる相手」は見つかるので、財界としても労働運動側としても見てみないふりをしているのだろう。
中国が消費社会化した、次は東南アジアだ、その次はアフリカ北部もまだ残っているし。アフリカ中・南部も都市部ならまだまだ「消費社会化」できる。
まぁこれも保ってあと10~20年で「簡単に売りつけられる≒労働力も安価」な人々探しも、ネタが尽きて終わりを迎えるだろうけど。
ちょっと前に盛り上がった、ダウンタウンのブラックフェイス問題について、
自分は「『我々に差別の意図はないんだからセーフ』って強弁しても、当のアフリカ系がみたらギョッとするんだから、こっちの「意図はない」を無理押ししないで『分かんなかったんでこれからはもうしません』で良いんじゃないのかなー」位に思ってたんだが、最近、ふと「中川礼司の中国語のモノマネって本物と比べたらどれくらい似てるんだろ」と動画サイトを検索したら、劇団ひとりの「北八先生」がでてきた。
はて。
これ、今やったらセーフ?
「なんでも差別差別言ってたらモノマネも出来なくなるじゃないか!大阪のおばちゃんのモノマネは差別かよ!」
自分なりに考えてみよう。
差別って事について、あからさまに「あいつは我々より劣っているので劣った存在として扱おう」など、優劣を確信してやるケースはまれで、「相手がコミニュティに対して疎外感を感じる」「自分がコントロールできない属性によって、自分の所属していないコミニュティから明確に違う扱いを受けたと感じる」と言う所だと自分は思う。雑ですまんが。
そう思うと、大阪のおばちゃんのモノマネは大阪人がやっている限りセーフ。
大阪人は大阪のおばちゃんと同じコミニュティに属し、大阪のおばちゃんについては、おおよそ見ている日本人も「そうはいっても同じ日本人だからいろいろな側面を持っている」という常識を共有した上で、その独特のコミニュケーションをディフォルメしたものを楽しんでいる。
ここでは「劣ったものとして差別してせせら笑っている」かどうかは問題ではない。
北八先生は「別の文化圏に居るよく分からないもの」との交流として戯曲化されていて、「我々のコミニュティじゃない人は違うよね」という不可解さが笑いの仕掛けになっている。
なので、前提として「あの人は私たちの身内じゃないし、知らない。分かろうとしても無理」があって、それに戸惑わされる事を笑っているので、「疎外」を笑いに含んでいる。
どうだろうか。
立場をひっくり返して、たとえば中国のTVで「やたらすぐ謝るし、ちょっとした約束をしようとるすとすぐに保留にして持ち帰る、東京老師(演じているのは北京出身のお笑い芸人)」というキャラが大人気になって、上海を歩いていたら「東京老師!」と声をかけられたら微妙な気持ちになると思う。
日本人が顔を黒く塗るのはアフリカ系人種差別か?という論争が巻き起こっている。
1人だけ映画「ビバリーヒルズコップ」のエディマーフィーのコスプレをさせられるというシーンだった。
この番組ではダウンタウンの浜ちゃんが1人だけ番組の趣旨から少しだけ外れた仮装を行うことが恒例となっている。
つまり「番組のテーマをしっかり理解していない」という体のボケであり、
番組が仕掛けたくだらないギャグに浜ちゃんが巻き込まれる不条理さも相まって独特な可笑しさを楽しむ風景なのだ。
この番組は無論アフリカ系人種(以下「アフリカ人」)を卑下する意図はなく
単にエディマーフィーのコスプレをさせただけのつもりだったが
「ミンストレルショー」のトラウマが根深い欧米人から非難があがり問題となっている。
僕が言及したいのはなぜアフリカ人のコスプレ、テレビ番組的に言えば物真似をするときに、日本人は黒塗りをしてしまうのか、
そして「ミンストレルショー」の存在を知ってもなおここまで非難されることに日本人は納得できないのかということだ。
日本人は物真似を形態模写という職人芸として捉えているのに対し、
欧米人は物真似を風刺の手段だと認識しており、そのギャップが今回の問題の噛み合わないところなのではないだろうか。
白山雅一や江戸屋猫八等に代表されるような寄席演芸で培われた職人芸の延長線上にある。
なので似ていればいるほど賞賛され、
鍛錬の成果や手間暇が垣間見えれば
それは「対象への憧れからくる興味の現れ」として敬意の証とされる。
何かに対する批判を風刺で表現しているという感覚が根底にあるように見える。
その文脈の中で物真似とは対象を揶揄する行いであり、対象を貶しているのである。
今回の騒動に当てはめれば
エディマーフィーに好意的感情があるからこそ物真似のモチーフに選び
しかもわざわざ凝った黒塗りの扮装までしていると日本人は捉える。
しかし見下げる感覚があるから表層を真似るのだという前提が欧米のステージショーには存在するため
欧米人は180度違う意図があるように感じてしまったのではないだろうか。
もはやこれは文化的断裂でありどちらかが折れれば済むことではないと僕は思う。
この騒動で指で目を釣り上げる行為を引き合いに出す人もいたがズレていると思う。
地球儀を買った。
小さくて、手のひらに載せられるくらいのやつ。
ニュースや何かの記事などで国名が出てきた時に、隣に置いてあるとすぐに位置を確認できる。
メルカトルの地図、それも自国が中心の地図ばかり見慣れていると、実際の位置関係やサイズなどがわからなくなってしまう。
毎日、異なる方向・角度にしておいて眺めていると、包括的な視点で地理を捉えられるようになっていい。
北朝鮮からNYにミサイル飛ばすなら、思ったより北極のほうを通過するんだなとか、
太平洋と南太平洋あたりから地球を見ると、海ばかりやん、とか、
アフリカから南米への難民の船ルートはこんな感じなんだなとか。
GoogleEarthでええやんとか、何かPCやスマホで使えるものでええやんって思うかもしれないけれども、
すぐ隣に物理的に置いてあって手に取れる最大限の気軽さがこういうものには必要なので、
こんなこと、小学生の頃から知ってるよって意見も多いだろうけど、地球儀、買ってよかった。
それというのも日本にも四季があるせいで、もともと人類の生まれた場所はもっと暖かいところだった。
という印象だが、アフリカの全部が暖かいというわけでもないだろうから、どの程度の真実かはわらかない。
それなのになぜ冬のあるところに住むようになったかというと、まるで人類の持って生まれた知的好奇心で古いところを捨てて新しい土地を求めて移動したかのように説明されているが、とても本当とは思えない。
人口が増えた時に、強い集団が元の土地を専有して弱者を追い出したのだろう。追い出された方の集団は仕方なく住みにくいところに移動したと考えるべきだ。
そもそも海に生まれた生物が陸上に進出してきたのだって、全然進出ではなくて同じように追い出されて仕方なく住みにくい陸上に移動したのだろう。陸上生物はやむなく陸上で生きているのである。こんなに生きにくいのも無理に陸上に合わせているからである。ずっと海に住み海のために進化していたら、重力の影響も少なく楽できたろうに。
同じように人類だってずっと四足歩行していたら、胃下垂にもならず足腰の痛みもなく楽に生活できたのだ。知恵を身に着けたのは直立二足歩行の結果かもしれないし、それ以外の理由があるのかもしれないが、いずれにしても結果的にそうなっただけで、知恵を身につければ進化できると考えて苦労したわけではないだろう。
強いものに楽できる環境を奪われた結果なんとなく進化して、なぜか元の強いものより楽できたりすることもあるけれど、生き残った者がたまたま振り返ればそうなっていただけである。多くの場合、快適な環境を追い出されたものは単に死んでいるはずだ。