ちょっと前に盛り上がった、ダウンタウンのブラックフェイス問題について、
自分は「『我々に差別の意図はないんだからセーフ』って強弁しても、当のアフリカ系がみたらギョッとするんだから、こっちの「意図はない」を無理押ししないで『分かんなかったんでこれからはもうしません』で良いんじゃないのかなー」位に思ってたんだが、最近、ふと「中川礼司の中国語のモノマネって本物と比べたらどれくらい似てるんだろ」と動画サイトを検索したら、劇団ひとりの「北八先生」がでてきた。
はて。
これ、今やったらセーフ?
「なんでも差別差別言ってたらモノマネも出来なくなるじゃないか!大阪のおばちゃんのモノマネは差別かよ!」
自分なりに考えてみよう。
差別って事について、あからさまに「あいつは我々より劣っているので劣った存在として扱おう」など、優劣を確信してやるケースはまれで、「相手がコミニュティに対して疎外感を感じる」「自分がコントロールできない属性によって、自分の所属していないコミニュティから明確に違う扱いを受けたと感じる」と言う所だと自分は思う。雑ですまんが。
そう思うと、大阪のおばちゃんのモノマネは大阪人がやっている限りセーフ。
大阪人は大阪のおばちゃんと同じコミニュティに属し、大阪のおばちゃんについては、おおよそ見ている日本人も「そうはいっても同じ日本人だからいろいろな側面を持っている」という常識を共有した上で、その独特のコミニュケーションをディフォルメしたものを楽しんでいる。
ここでは「劣ったものとして差別してせせら笑っている」かどうかは問題ではない。
北八先生は「別の文化圏に居るよく分からないもの」との交流として戯曲化されていて、「我々のコミニュティじゃない人は違うよね」という不可解さが笑いの仕掛けになっている。
なので、前提として「あの人は私たちの身内じゃないし、知らない。分かろうとしても無理」があって、それに戸惑わされる事を笑っているので、「疎外」を笑いに含んでいる。
どうだろうか。
立場をひっくり返して、たとえば中国のTVで「やたらすぐ謝るし、ちょっとした約束をしようとるすとすぐに保留にして持ち帰る、東京老師(演じているのは北京出身のお笑い芸人)」というキャラが大人気になって、上海を歩いていたら「東京老師!」と声をかけられたら微妙な気持ちになると思う。
相手から不快に思った事を知らされて訂正を求められている状況で俺は間違ってないお前の解釈がおかしいと返したらそりゃあ揉めるだろう でも差別しちゃいけない理由はないし揉めち...