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2017年下半期の怪文書コンテストグランプリを掴み取りそうなこちら。
私は正直にいってドン引きした。
この文章を書かれた田中さんという方のtwitter,facebookを遡ると、思わず眉間にシワが寄る。
大量にアップロードされている謎のセクシー?中国語動画と自撮り写真。中には裸エプロンなんてものもある。
あの怪文書を読んでいても感じたが、承認欲求と自己顕示欲の闇に飲み込まれてしまった人間の成れの果てを
見てしまったような気がする。
私の子供が通う小学校の近くに、この一帯では有名なモンスターペアレンツがいる。
すこしでも気に食わないことがあると、物凄い剣幕で怒鳴りこんでくるそうだ。
子供はというと、他を寄せ付けない圧倒的な学力を有しているものの、同級生とちょっとした衝突を起こすと、
子供は親を選べない。
多分きっと、豊田議員のお子さんも日常的に言葉の暴力へ晒されていたことと思う。
他人の家の事情でありながら、自分も子どもをもつ一人の親として、本当に胸が痛い。
周りから見て、明らかに異常な環境下に置かれている子どもたちに何か出来ないかと悶々と考えている。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/Eriko_imai/status/878072125252182017
全員的外れ。
おそろしい。
今井について分かって欲しいのは
学力・教養はいわゆる「底辺」寄りだということ。(良い言葉じゃないよね、スマン)
生まれ育ちもあんたらみたいには良くないうえにあんまり学校行かずに芸能活動して
スピード解散後も類友な人達と付き合って30代を迎えた人なわけ。
わかってる?
はてなのインテリ中高年の皆さんと今井はマジで会話成り立たないよ。
語彙が全然違うし。
はてなーの多くはあんま学校行かなかった層と接する経験が極度に乏しい上、もうアラフォーの中高年がメインだからなあ。
んで前述の通り今井ももう30代の母親だが、ああいう人は年齢のわりに若者文化に親和的だということ。
つまり今井の脳髄はわりと「今時の若者(ただし低学歴な)」に近い。
もうわかっただろうか。
まだわかんないか。
はてなー達は中高年なのと育ちよいインテリなののダブルパンチで下品なコミュニティを見ない。
爆サイもしらなくてびっくりしてるような坊ちゃま嬢ちゃまだからな。
底辺コミュニティやガキ向けコミュニティをある程度覗いていれば
今の若者や子供達が「批判」という言葉をなんか変な風に使ってるのに気付けたはず。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
あいつらには、たとえば流行りの映画の感想っていうのはダチ同士みんなで同じ方向性のことを言って共感を味わうためのツマでしかない。
もしそこにはてなーみたいなのが混じって、過去の作品についての豊富な知識を前提とした考察とか分析とか問題点の指摘とかしてみーよ。
「お前批判してるよ」って言われる。それは歩きタバコを注意するみたいなニュアンス。
そこで気付いてやめればいいけど、気付かず続けたり詫びの空気を出さなかったりすればハブられる。
批判は、すごくネガティブな、ピースフルでない、縁起の悪い行いなわけ。喧嘩とかケチ付けってことなわけ。
ね。
「ポジティブでピースフルなバイブスでやってきたいのでシクヨロ」って言ってるの。それだけ。
マジだぜ。
「批判なき選挙」は「ネガキャンとかしないニコニコ選挙」みたいなイメージ。
マジだぜ。
(まあ不毛で扇情的なネガキャンと政策についての厳しい議論との区別は今井にはたぶん付かないんだけど)
washburn1975 見れば見るほど現政権とその支持者の本質をえぐり出すツイートなんだが、おそらく本人は本気でイイこと言ったつもりなのであろー。 底抜け日本 256 clicks
だからこんなの見当違いもいいところ。
インテリ中高年が底辺若者語を深読みして「現政権の本質」「底抜け日本」とか言ってるのはオマヌ過ぎる。
もちろんこんなバカを議員にするのやめてくれよっていう自民党批判は当然されるべきなんだが…
自分達の手持ち知識だけで判断するのは脳の硬化のはじまりってもんでしょ?
少し調べるぐらいの用心深さと謙虚さがあれば、今井が全く異なる言語を使ってることに気付けたはず
でもはてなのボリュームゾーンっておれより更に10歳ぐらい上のような感じがする
今回みたいなときとか、たまに年齢を感じる
したら担当さんがお若い巨乳美人さん。前は普通におばちゃんだったよなあ。
なんかちょっと得した気分だ。
○朝食:なし
○夕食:麻婆豆腐丼
○夜食:ビール、餃子、ラーメン(夜中に急に食べたくなって…… その、つい……)
○調子
はややー。
●3DS
○ポケとる
○はねろコイキング
コイキングは、59代目。
今更気づいたけど、ゲッコウガいるじゃん。
アローラが悪タイプのニャースと、進化系に悪がつくニャビーは入手してるから、
ゲッコウガもほしいな。
ログボのみ。
超久々にやりたくなって起動。
友達がLGBT。だと思う。だと思う、というとあやふやなのかよと思われるかもしれないが、本人がそもそもはぐらかす。はぐらかすわりには同性愛あることをほのめかす。ややこしい。
カミングアウトするほどでもないのか、ほんとは異性がすきなのか、付き合ってたひとの話をするときはいつも「恋人」と言うわ。
友達のことを尊敬してるし、この先々一生付き合っていくと思う人なので、できれば無駄なフィルターをかけたくない。
本人に聞く、とか無粋なこともしたくない。
庶民感覚で図りすぎてる
海老蔵のエピソードググれば解るけど、そんな感覚通じる人種じゃない
追悼はしたらいいけど慮るだけ無駄だ
そもそも、仕事に責任を負わせる手段は金以外にもありえるという視点が抜け落ちてるから変な気分になる。
経済的に言えば、経済の大部分は金(キャッシュ)ではなく信用(クレジット)で回っているという。
賃金は安いし、ノーといえない下請け仕事も多く、採算度外視で全力を注ぐ羽目になる業務がさしこまれ、
ひどい残業。
ビジョンも現場と上とが食い違っていて、どこに向かっていいのかわからないまま
みな目先の仕事で手一杯。
だれも経営してない、いつまで体力がもつかわからないっていう、
スペックの詳細は隠すけど、仮にAと呼ぶ。
こんな零細にそんな人、なんでこんな会社に応募してくんのか、
それを見抜く力のない社長は、
やたら高スペックのAをチャンス、とでも思ったのだろう。
Aはきりっとした様子で、晴れて入社日にやってきた。
零細に突如あらわれた高スペックのAを、みんながまぶしく思った。
なにより人当たりがよく、入ってすぐ古株の社員と打ち解けた。
Aは慣れないながらも、一つひとつ、
与えられた仕事を着実にこなしていたように思う。
少しクオリティは甘いかもしれないが頼んだ方も気持ちがよくなる、そんなタイプだった。
そんな彼が、あることをきっかけに、
突如、会社に来なくなった。
そういう日が何日か続いた。
電話をしても、つながらない。
何回かけても、かかってこない。
しばらくつながらない状態だったが、
ある日、Aから連絡が来た。
「体調が悪くて、出社できず申し訳ない。なんとか生きている」、といった内容だったようだ。
いったい全体、どんな体調なのか…
様子を見に家に行こう、という案が出た。
という連絡が来た。
なんだ、よかった、と上司はほっとした。
……
そこからどうなったかというと、彼は、もともとある病気を抱えていたとのことで、
今も休養中だ。
60・70台の両親を持つ。
二人には目立った趣味というものがあまりない。父親はソリティアをしたりスポーツを観戦するので、それを趣味といえばそうなる。ただし母親は買い物くらいしか能動的な活動をしていない。
何がいいのだろう。問題は趣味を見つけることではなく、それを探すこつと続けるノウハウだ。自分が好きなことは両親にはまるで合わない。だけどそれが何かしらのヒントになるかもしれないと思って探っている。
彼女や彼女の遺族が報道を望んでいないなら、それを優先してほしい。そう思って今日一日、注意深く過ごした。スマホの画面に手を変え品を変えあらわれる関連リンクを踏まないよう、ラジオが「悲しいお知らせ…」と言ったらすぐ消すよう。しかし矢継ぎ早に情報が表れてくる。疲弊してしまう。私人の死を社会全体で弔いすぎだと感じる。
報道しない情報発信者を評価する仕組みがほしい。彼女のことだけに限らない。自分の日常におよそ関係のない誰ぞのゴシップも、悪事の被害者のプライベートも同じだ。インターネットは理性を効かせないと世の中のすべてのことに一言申し上げたくなる気安さに満ちている。その中で、何も言わない、調べない、関わらない分別を備える人々は可視化されず、結果また報道が過激になる。私は今の時点でこの仕組みが変わる方法を見つけられない。
(話はやや情緒的になるが)麻央さんの死に衝撃を受け、明日は我が身と突きつけられた患者や家族もいると思う。各界お悔やみの言葉を目にしながら、自分が弔われるような恐怖を感じてはいないだろうか。もしくは、彼女のように高潔には日々を乗り越えられず、我を比べてやりきれなくなってはいないだろうか。彼女が励まし続けたという、死と隣り合わせの患者が、報道の裏で過分に怯えていないことを願っている。
死は極端にプライベートな出来事で、感想を述べていいのは死んだ本人だけ、弔っていいのは本人を知るものだけだ。彼女の本心がどうであったのか、どう家族と死の準備をしていたのか、当事者以外知らないし、知ったところで生まれるものはない。彼女の死は彼女だけのものだ。
それでも懲りなく死後に語られる話は、残された人々の心を落ち着かせるための物語に過ぎない。若すぎる、美人薄命、子供が幼い、その境遇の謎を解くかのようにドラマを見出す報道が続くだろう。それはもう彼女のためではなく、個々人のカタルシスを行っているだけだと弁えたい。
私たちは必ず死ぬ。それがいつなのか、なぜなのかは分からない。生き様と死に様は関係ないし、ましてや他者に評価されるものではない。誰かが死んでいる今この瞬間も自分は生きている。そうであれば、その生に集中することが生き物の務めではないかと思うのだけれど。