2017-06-24

小林麻央さんの訃報に接さな報道

彼女彼女の遺族が報道を望んでいないなら、それを優先してほしい。そう思って今日一日、注意深く過ごした。スマホの画面に手を変え品を変えあらわれる関連リンクを踏まないよう、ラジオが「悲しいお知らせ…」と言ったらすぐ消すよう。しかし矢継ぎ早に情報が表れてくる。疲弊してしまう。私人の死を社会全体で弔いすぎだと感じる。

報道しない情報発信者を評価する仕組みがほしい。彼女のことだけに限らない。自分日常におよそ関係のない誰ぞのゴシップも、悪事被害者プライベートも同じだ。インターネットは理性を効かせないと世の中のすべてのことに一言申し上げたくなる気安さに満ちている。その中で、何も言わない、調べない、関わらない分別を備える人々は可視化されず、結果また報道過激になる。私は今の時点でこの仕組みが変わる方法を見つけられない。

(話はやや情緒的になるが)麻央さんの死に衝撃を受け、明日は我が身と突きつけられた患者家族もいると思う。各界お悔やみの言葉を目にしながら、自分が弔われるような恐怖を感じてはいないだろうか。もしくは、彼女のように高潔には日々を乗り越えられず、我を比べてやりきれなくなってはいないだろうか。彼女が励まし続けたという、死と隣り合わせの患者が、報道の裏で過分に怯えていないことを願っている。

死は極端にプライベート出来事で、感想を述べていいのは死んだ本人だけ、弔っていいのは本人を知るものだけだ。彼女本心がどうであったのか、どう家族と死の準備をしていたのか、当事者以外知らないし、知ったところで生まれものはない。彼女の死は彼女だけのものだ。

それでも懲りなく死後に語られる話は、残された人々の心を落ち着かせるための物語に過ぎない。若すぎる、美人薄命、子供が幼い、その境遇の謎を解くかのようにドラマを見出す報道が続くだろう。それはもう彼女のためではなく、個々人のカタルシスを行っているだけだと弁えたい。

私たちは必ず死ぬ。それがいつなのか、なぜなのかは分からない。生き様と死に様は関係ないし、ましてや他者評価されるものではない。誰かが死んでいる今この瞬間も自分は生きている。そうであれば、その生に集中することが生き物の務めではないかと思うのだけれど。

  • 庶民感覚で図りすぎてる 海老蔵のエピソードググれば解るけど、そんな感覚通じる人種じゃない 追悼はしたらいいけど慮るだけ無駄だ

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