はてなキーワード: テーブルトークRPGとは
4巻収録の『CALL OF CTHULHU』は、学研の『月刊コミックNORA』ではなくホビージャパンの『コミックマスター』3号に掲載された。HJではテーブルトークRPG『クトゥルフの呼び声』を発売していることもあり、邪神のカタカナ表記名が異なり、ホビージャパン商品の表記に合わせてある(例:クトゥルー→クトゥルフ、ナイアルラトホテップ→ニャルラトテップ)。タイトルは「クトゥルフの呼び声」ではなく、「クトゥルフの呼び出し」の日本語題が表紙に併記されており、クトゥルフが「わしや」と電話でツァトゥグァを呼び出すシーンから始まる。これ1作のみ、雰囲気のまったく異なるカオスギャグ漫画となっており、作者自身は「シリーズ中最大の問題作」と表現している[3]。
Profile features characterizing High and Low anti-vaccine sentiment groups
From: Anti-vaccine rabbit hole leads to political representation: the case of Twitter in Japan
https://link.springer.com/article/10.1007/s42001-023-00241-8/tables/4
関連増田
指輪物語(The Lord of the Rings):1954年。
小説、映画。それまで妖精として使われていたエルフ、ドワーフを亜人類として登場させたファンタジー小説の原点といえる作品。
ホビットの名称は権利関係のため他の作品では使われなくなった。
ダンジョンズ&ドラゴンズ(Dungeons & Dragons、D&D):1974年。
世界最初のRPG。テーブルトークという紙とサイコロを使い会話で遊ぶスタイル。人間、エルフ、ドワーフなどの種族、戦士、魔法使い、僧侶などの職業がある。
ロードス島戦記:1988年。ライトノベル。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」に掲載されたテーブルトークRPGのリプレイから派生した
日本のファンタジー長編小説。ディードリットはエルフのパブリックイメージと言えるキャラ。
ウィザードリィ(Wizardry):1981年。コンピュータRPG。3Dダンジョン探索型ゲームの原点。転送失敗や蘇生失敗でキャラが消えるペナルティがある。
ダンジョンマスター(Dungeon Master):1987年。コンピュータRPG。魔物を食べる要素が登場。パソコンゲーム雑誌「コンプティーク」でコミカライズが連載されていた。
俺も昔、テーブルトークRPGやってたときそれで困った。
マウンティングという言葉がはやる以前から似たような概念の単語があったような気がして「口プロレス」を思い出した。平成の初頭には使われていた言葉のはずだ。
同じ趣味を持つもの同士がどちらのほうがより知識があるか、より面白い話ができるかでマウンティングを取り合うことをそう呼んでいた。趣味の話限定なのと、楽しませようというサービス精神があることが昨今の沢尻エリカ流マウンティングとは異なる点か。
今もどこかで使われているのかなとググってみたら、全く異なる意味で使われていた。どっちが古い用法なのかは分からない。
テーブルトークRPG界隈で今も使われる口プロレスという概念は、ルールに定められていない事柄を口八丁で説得して自分の有利にゲームを進めることを指すらしい。どちらかと言うとネガティブなイメージの言葉になっている。
先日クトゥルフ神話TRPGの「同居人」というシナリオをプレイさせていただきました。
※クトゥルフ神話:ハワード・フィリップス・ラヴクラフトらによって作られた架空の神話
※TRPG:テーブルトークRPG、紙や鉛筆、サイコロなどを用いて会話を軸に遊ぶロールプレイングゲーム
このシナリオはSNSなどでかなり人気があり、有志によるおすすめランキングの投票でも上位に出るシナリオである。TRPGをよくやる友人に「みんながおすすめしているから」というようなセリフで誘われてプレイした。
結論から言うと私個人はこのシナリオがとても嫌いだなと言う感想を抱いた。しかしながらネット上の感想は狂気的なまでに「良かった」という内容ばかりが並んでいたのでなぜそうなっているのか気になる。
私自身がシナリオを書いたりその他創作をする人間ではなく、シナリオ自体の完成度などに口を出せる立場ではないため1プレイヤーとしての感想を述べて行こうと思う。
まず回してもらった結果、エンディングとして味気のない片ロストだった。(このシナリオはプレイヤー人数が2人)
エンディングはプレイヤーの選択によって決まるものなのであまり騒ぎ立てたくはないが。どうしても2人が生還するには、邪神と接触して死んでしまっている片方のキャラクターを生き返らせてほしいなどのお願いをしなくてはならない設計になっている。
個人的に、あまりクトゥルフ神話の神話生物と必要以上に関わりたくないタイプなため、その邪神の接触呪文を使えるようになった後もそれを使わなかった。(結果的に相棒がロストした)
神話生物に解決してもらうシナリオってどうなのかな~、とシナリオ終了時は少しモヤモヤしながら終わったが。問題はそのあとシナリオを読んだときに現れた。
神話描写についていろいろとおかしいのではないかと思った要素があった。
ひとつは旧き印が神格との接触呪文に必要な魔法陣めいたものになっており。古き印の中心に神格が現れるという点。
古き印は神話生物から身を守るような呪文であると解釈しており。通常印の領域を神話的事象から守るであるとか、門の近くに書くと門から神話生物が現れなくなるとかそういうもののはずであるのに今回は召喚のための魔法陣扱いされているのが不思議だった。
二つ目は接触の呪文を知る機会。シナリオ内では『ニューイングランドの楽園における魔術的脅威』という魔導書(これが魔導書かどうかについては今回問わない)が出てくるが。そこに接触の呪文と古き印についての記述があるらしい。基本的にこの魔導書には特別な例を除いて呪文は書いていない。呪文を知ることができる特別な例では確かに接触の呪文がある、しかし古き印は書いていないはずなのでおかしい。
・意識を失うレベルで車にはねられたNPCが翌日元気にPLのもとに遊びに来る。
・とあるイベントにて凍死を免れるため人肌程度の液体をかぶる描写があるが。むしろそのあと凍死するまでが加速しそう。
・手元にある死亡診断書(役所に届けるもののはず、コピーをとるなりすれば手元に残っていてもおかしくないがそうまでする理由がない)
・さらにはその死亡診断書に死体の写真も添付されているらしい。
・これはスピリチュアル的内容になるので実世界的におかしいというべきではないかもしれないが、魂が必要とされている呪文の発動を幻覚として存在しているキャラクターで発動させることができる。
まだまだあるがキリがないのでこのくらいにするが。なんとも不可解なシナリオだった。
クトゥルフ神話TRPGの世界はある程度現実世界に近いながらも、アーティファクトや神話生物が絡み不思議な事象が起きる世界だと個人的には思っているのである程度物理法則を無視したりなど、何から何まで現実と同じにしろとは言わないが。あまりに乖離しすぎていると推理が進まなくなるのでもう少しどうにかならなかったのかと思った。
Q.敵NPCが人質の首にナイフをつきつけて脅迫したものの、プレーヤーは大人しくしなかったのでゲームマスターはNPCが首筋を刺して人質が死亡したと処理した。しかしルール上はナイフのデータでは即死しないとプレーヤーが抗議する。どうしたらよいだろうか。
http://hiki.trpg.net/wiki/?%BC%F3%A5%CA%A5%A4%A5%D5%CC%E4%C2%EA
テーブルトークRPG(TRPG)において、イベント的な意図とゲーム的な処理が噛み合わない問題。あるいは、ゲームマスターとプレイヤーの解釈が噛み合わない問題。
TRPGではイベント内も含めた全ての行動を共通のルールで処理する。そうすることでイベント中であってもプレイヤーのステータス、機転、判断が絡み、思いもよらぬシナリオが生み出されるのが醍醐味だからだ。
ゲームマスター(GM)のこのイベントでの意図は人質の命とNPCの要求の二者択一をプレーヤーに選ばせるものだが、プレーヤーは何としても自らの機転で最良の結末を選びたいものだ。(そして得てしてGMもそれを受け入れる傾向にある。)
そこで考える。「よく考えたらナイフの攻撃値と人質のHPを比べると一撃では即死しないじゃないか。なら一回刺してる間に奪還すればいい」。しかしGMは言う。「首に刺したら死ぬに決まってるだろ常識的に考えて」。
TRPGにおいてイベントとはどうあるべきか、ゲーム的な処理はどこまで適用されうるか、そしてGMとプレイヤーの理想的な関係はどうあるべきかといった様々な論争を巻き起こした奥深い問題。
「あゆルートにおいて奇跡の力が発動してない栞はどうなるの?」
https://lonestarsaloon.hatenadiary.org/entry/20090410/1239302357
エロゲあるいはギャルゲにおいて、選ばれていないヒロインの問題。あるいは、誰かを選ぶと他の誰かが不幸になる問題。
泣きゲと呼ばれる類では特に顕著だが、エロゲもしくはギャルゲのヒロインたちというのは、物語上何かしらの不幸や屈折を抱えていることが多い。
主人公がそのルートに入ることによって問題は顕在化し、主人公の手によって解決するのだが、では選ばれていない他のヒロインの不幸はどうなるのか。
Kanonに限らずこういった論は意識されてはいたのだが、その構造が特に露骨に見えやすかったのがKanonだった。Kanonの世界においては、1度きりしか使えない「奇跡」によってしか救えないヒロインが複数人いる。
しかも、その選択権は主人公にある。一周目は誰のことも知らないからよかった。二周目以降、あの子の不幸がちらついて他の子が選べない。
エロゲや周回ゲーム全般、ひいては物語そのものに対する様々な解釈を生み、遡及的過去生成なんていう超絶アクロバティックまで提唱された根深い問題。
勝ち目が無くなったプレイヤーが、勝ち目が残っているプレイヤーの最終的な勝敗に、ゲームの最終目標とは無関係に、恣意的に関わってしまう
多人数対戦のボドゲや卓ゲ、TCGなどで、絶対に勝てないプレイヤーの問題。あるいは、最適解のない手番の問題。
既に絶対に勝つことができなくなったにも関わらずゲーム進行上手番が来てしまうことがある。Aを選ぶかBを選ぶか。どちらかを選ぶと、それに直結してこのゲームの勝者が決まってしまう。
どちらも自分の勝利に近づかない=理論上の最適解がありえない。それなら気分で選ぶか、ランダムに選ぶか、いっそ勝たせたい方を勝たせようかな。
それが、そのゲームをしゃぶりつくしたい理論派プレイヤーには我慢できない。お前の理論値はこうだ、たとえ勝てないとしても最大得点を取れる手はAなのだ。俺は全プレイヤーが理論値を目指すことを前提に戦略を組んできたんだぞ。
という感じで、さて誰が悪いんでしょうねと議論が始まった。
そもそも誰かが詰んでしまう仕組みになってるゲームが悪い、いや詰んでもいいけど第二の行動目標が必要なのだ、いやそもそもこれは問題でもなんでもない、究極理論値を目指さないプレイヤーがいたっていい。
やがてゲームそのものの理論や意義までもを考える人まで出てきてしまった闇深い問題。
推理小説における作中探偵の限界についての問題。あるいは、探偵が物語にとっての何であるかという問題。
推理小説がパズルであるなら、読者は問題から答えを導くことができる。しかし、探偵にとってはそうではない。作中にいる探偵には作者の出した「問題」が見えない。
つまり、前提条件がどこからどこまでで、今この瞬間には推理ができるのか?できないのか?それがわからない。
特に犯人が探偵の存在を知っていて、偽の手がかりなんかをばら撒き始めた日には、より顕著になる。何せ偽の手がかりが偽だと気付くための手がかりが必要だ。でもそれが偽でない保証は?
ちなみに、読者にとっては「これが推理小説であるという事実そのもの」&「ここから解決編が始まるよ!という作者の親切なほのめかし」によって、そこまでのヒントで必ず論理的に謎が解けることが保証されている。
ここから突き詰めて、じゃあそれでも解けてしまう探偵って何なんだ、超人なのか神なのか、単なる物語上要請されている機械仕掛けの役割にすぎないのか、いやいや探偵も人間だろう、推理小説も小説だろう、というような論争がなぜか日本でだけ始まった。
なんだかんだでその後の小説のテーマになったり斬新なトリックの基礎となったり、魅力的な探偵を生み出したりと後世に確実に影響を及ぼした、興味深い問題。
(第二問題である「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」も面白い)
(本当はトロッコ問題とか心身問題とか異世界シャワー問題とかも語りたかったけど、アルバムとしてのコンセプトに合わない気がするからこの辺にしておく)
ラグビーの審判は、テーブルトークRPGにおけるゲームマスターみたいなものか。。。
私がTRPGというものに触れてから、もう8年近くが経とうとしている。
元々幼少期から存在自体は知っていたものの、それはダンジョンアンドドラゴンズなどに代表されるファンタジー系のものだった。当時愛読していたライトノベル「フォーチュン・クエスト」の影響もあるのかもしれない。
だが、ニコニコ動画でクトゥルフ神話TRPG(以下CoC)のリプレイ動画が莫大な人気を博したあの瞬間、それまで見向きもしなかったであろう層が、斜陽であったTRPG界に一斉に興味を示した。
それはとても素晴らしいことだと思う。前述のとおり、私もその流れに乗って本格参入したクチだ。消費税が8%になる直前にはいろんなシステムのルールブックやサプリを買い漁った。
発展したインターネットとTRPGの相性もすこぶるいいもので、遠く離れた人ともツールを使えばリアルタイムにロールプレイしあえてダイスの結果を共有できる。冬の時代を現役で感じていない私のような若輩者が口にするのは何様だともなるが、いい時代になったなと今でも痛感する。
とりわけメインで参加しているシステムはやはりCoCだ。人智を超えた生命体への恐怖という題材が好きというのもあるが、それよりも大きな理由は「プレイ人口が多いから」だ。界隈が違えばまた変わってくるのかもしれないが、私の周りには大体みんなCoCを知っていて、それ以外のソード・ワールド2.0やピーカーブーなどに目を向けるとプレイ人口は冗談抜きで半分を下回る。なんなら「CoC以外はやりたくない」と言う層もいるので、布教すらさせてもらえない。チャイム越しに追い返されるセールスマンの気持ちがなんとなくわかるような気がした。
そんな弊CoC村だが、ここ数年でやたらと所謂うちよそタイマンが流行りだした。KP側の作成したPCと、PLが用意したPCが濃密な関係を組み、愛と勇気の力で宇宙的恐怖を退けるアレだ。
TRPGの遊び方というのは千差万別、卓の数だけ物語がある。それは重々承知しているつもりだ。
けれど、私にとってのCoCは本来特別な力を持たない(ほんの少しだけ生業への専門知識を持っているかもしれない)ただの人間の探索者が知恵を絞り不可解な謎に挑み、その先で神と呼ぶのもおぞましい存在に圧倒され自らの矮小さに慄くシステムだと自己解釈しているために、どうも首をひねらずにはいられない。
pi●iv製のシナリオを見てみると「突然意識を失い、目が覚めたら見知らぬ空間にいて、そこには囚われたor記憶を失くしたKPCがいた。脱出するにはKPCを犠牲にしなくてはならないが謎を解き明かせば二人揃って無事に生還できついでに二人の絆を証明するアーティファクトが手に入る」的なものが5件に1件くらいの確率でねじ込んである。その中でもシナリオ背景に「ニャル様が暇つぶしに二人を試しました☆」だけしか書いてないものを目にしたときは頭を抱えた。
いやもうそれクトゥルフ神話要素ほとんどないやん????バッドエンドで視界暗転する瞬間に「やれやれ、君たちにはがっかりだよ。さて、次のおもちゃを探しに行こうかな」だけ言い残すニャルラトテップ御大の化身だけでは????
いやそれだけでも出てくるのならまだいい方だ。中には「自作世界観を再現したので神格も宇宙的恐怖も一切関係ありません」なんてシナリオもゴロゴロ転がっている。それなら“クトゥルフ神話TRPG”のタグを付けないでほしいし回すKPも事前に告知してほしい。こっちはいあいあしにきてるのだから。
なんだか本題からずれてきている気がする。
うちよそ自体は否定しない。最初はそのつもりじゃなくても幾度か同卓をして交流を積み重ねた結果恋仲や相棒になったPCたちもいることだろう。
ただ、うちよそありきでキャラメイクをしシナリオを選びとなると正直もっとうちよそに適したシステムは世の中にごまんとあるわけで、ただでさえロスト率や後遺症を貰ってくる確率の高いCoCに向いた遊び方ではないと思ってしまう。
例えばネクロニカやダブルクロスなんかはPC同士でロイスや未練といった感情を伴った絆を結ぶことでクソデカ感情生成システムを生み出している。これらはファンタジー色が強すぎるが、現代日本ステージであるならばインセインはPCそれぞれに「秘密」が割り振られ、その内容がPC同士密接に絡み合っていたりする。
これら以外にも、もっとうちよそに向いたシステムがあるのに彼女らは尚もCoCに拘っている。神話成分が微塵も残っていない話でオタク好みする都合のいい展開にエモいエモいと泣いて有難がっている。億が一ロストの道を辿っても、今度は「ロスト探索者専用シナリオ」を用意してきて死の淵から蘇ってきてまでうちよそをしようとしている。もはや執念だ。
結局のところ、システムは二の次なのだと思う。感動的なロールプレイをしたためたいだけなのだ。そこまできてしまったのなら、もう“テーブルトークRPG”というジャンルよりも“なりきりチャット”の方がいいだろう。私も中学生の時にオリキャラなりきりチャット掲示板で長ったらしい割にはわかりづらいロルを回してはよその子と交流を深め恋愛関係を結ばせていただいたことが何度かある。あちらにはほぼ“判定”というものがない分、よりPLにとって都合のいい展開に持ち込めていいんじゃなかろうか。
ここまで書いて、ただの自分の好き嫌いで解釈違いというだけのクレームまがいな文章になっていることに自分で引いた。
タイムラインに流れてくる「CoCタイマンしてきた〜♥恋仲になりました♥」と心底嬉しそうな報告ツイートに、ふぁぼも祝電リプも送れない意地悪な自分に嫌気が差すし、かといって界隈から離れるには横の繋がりが多すぎて村八分状態になってしまうのが寂しいと抜かす、ただのかまってちゃんで我儘なプレイヤーだ。
あれからすっかり参ってしまって、TRPG用のアカウントにログインしない日が続いていたら10月頭あたりに学級会になってたらしくびっくりです。たいたい竹流さんまで言及する事態になってるとは…。
2ヶ月越しに意見を漁りまくってたんですが、賛同や理解を示してくれる人もいれば口出しせずに放っといてくれって人もいて賛否両論でした。そりゃそうだ。タイトルが攻撃的だったのが燃え広がった原因なのかな?
「合わないなら離れればいい」という意見をとても多く目にしたのですが、当記事に言及ぶら下げてくださってる方が仰ってる「居場所が侵蝕されたがそれだけを理由に切れるような浅い間柄ではない」ってのがまさにその通りで、だからこそ苦しかった。こんなグチグチした恨み言を書くような性格してるから必然的に友達も少ないし、その少ない友達がそんなことになってさらに孤立してしまったような気分になってしまったというのが本当のところで。
一度恨んでしまえば対象が何を言っても気に障ってしまう性分で、そんなタイムラインを見続けるのも精神衛生上良くないと思ってひっそりミュートしてたら今現在その界隈とは疎遠になり、晴れてぼっちになりました。万歳!!
いやね、元から書いてたんですけどシナリオを経た結果うちよそに発展するのは全然いいと思うんですよ。それも一つのロールプレイだと思ってますし、なんなら私にもそういうルートを辿ったPCがいます。
過激派繊細ヤクザすぎて言語化がひどく難しいんですけど、うちよそすることを大前提にキャラメイクしたり、ただダラダラと中身のない会話をするだけで生還報酬1d10貰ったり、初対面から仲良くなり喧嘩したりなんだりで段々と惹かれ合い告白し愛を深め身体を重ね合わせプロポーズして結婚式!って流れを全ッ部「クトゥルフ神話TRPGのシナリオ」にして経験してて、お前は24時間365日神話的事件に巻き込まれてんのか?っていうようなやつが本当に本当にダメで…そこまで神格に寵愛を受けてるのなら今頃ドリームランドか外宇宙へご招待されてるのでは?ってなってしまうんですよね。
言ってしまえばこれもただのいちゃもんです。私が嫌いだから見たくない!っていう近頃流行りの“お気持ち案件”です。当時元身内たちに言いたくても言えなかったフラストレーションが積もり積もってキレ散らかしながら書いた散文だし、こうやって拾い上げられて学級会の議題に据えられることなんて想定してなかったし。
けど、こうやって苦しんでたのが私だけじゃなかったことがわかったことはちょっとだけ安心しました。
書かれそうだから先に書いとこう
RPGの話をする。
RPGっていっても、テーブルトークRPGやMMOとかじゃなく、ドラクエやFFみたいな俺が青春を費やしたやつだ。
ストーリーってもう出尽くした気がするんだよね。
かつては、ストーリーに出尽くしなんかないと思ってた。
もちろん、定番のネタというのはあるけれども。
でもさ、思えばRPGにおけるストーリーの制約はけっこう厳しい物がある。
町の平和を守るとか、そういう小さな目的から、世界を救うといった大きな目的まで、その流れに沿って話を進めないとならない。
ハードと媒体の進化によって、グラフィックや容量に制限はなくなった。
いくつもの国があり、それぞれの国にはいくつもの町があり、それぞれの町には何百人、何千人、時に100万人以上の人間が住む大都市まで登場する。
そんな世界では、一人の魔王を勇者が倒せば諸問題が全部解決する、なんてことはありえない。
現実と同じくらい複雑な世界では、その世界の諸問題も現実世界の諸問題同様に複雑で、誰か一人をやっつければ解決するほど単純なものではない。
独裁者、魔王、そういった一個人をラスボスにすることが出来ないとなれば、ラスボスは超存在とか概念となる。
スーファミ時代から、いやファミコン時代の後期からそういう傾向はあったけどさ。
でも、そういうのってしっくりこないんだよね。
昔話、神話で刷り込まれた勇者が魔王を倒すっていう基本のストーリーははやっぱり強力。
そういう単純な話、敵をやっつけて一件落着というラストに落とし込めるような、箱庭的な小さな世界観のゲームのほうが結局面白い。
「世の中には善と悪だけじゃなくて、偽善やら偽悪やら、善のつもりで悪をしてたり、その逆だったり、頭じゃわかっても憎しみは消せなかったり、いろいろあるんだ」
などと説教されても
「うるせーバカ」
となっちゃうだろ?
最近になって、糸井重里がMOTHER3の開発が頓挫した理由を「大作主義に陥ったため」と説明した理由が理解できてきた。
フラッグシップハードのRPGは大作である宿命が義務付けられている。
グラフィックは美麗でないといけないし、美麗なグラフィックは古典的で単純なターン制では許されない。
誰得な複雑でわかりにくく珍しさだけで楽しくもないシステムを抱き合わせさせられる。
世界は壮大でないといけない。
敵の目的も壮大でないといけない。
ちっぽけな主人公の存在が世界の大きさに押しつぶされてしまうのだ。
(じゃあ主人公をちっぽけじゃなく、特別な存在にすればいいのか?そんな特別な存在に感情移入できるのか?)
ずいぶんと後に、ゲームボーイアドバンスでMOTHER3が発売された。
物語の全てが小さな島のなかで進行した。
人類が生き残っているのはその小さな島だけだった。
それでも、大作を目指してしまった痕跡と言うか、いろんなものを詰め込み過ぎた痕跡が見え隠れして、MOTHER2ほどの面白さがなかった。
「他の犬は知らないかもしれないけど、君達が世界を救ったこと僕は知ってるよ」
と言ってもらえるような冒険がしたいんだよ。
かれこれ、初代ポケモングリーンをやったのが最初で最後だったから、今回ポケモンブラックをプレイしたのはもう12年ぶりくらいなんだろうか。
いろいろ感じたことは、ポケモンとは今までのRPGの集大成だということだ。
とりあえずエンディングまでは辿りついた。
まだまだ冒険は終わりではないらしい。。
これからは順不同で自由度の高い旅が用意されているみたい。
出会いを求め、伝承を辿り、新たな発見を求めて冒険がずっと続いていく。
近作のポケモンでコンピュータRPG史上初めて導入された画期的な要素ではないけれど、このエンディング後のパートが大きいのは特徴的だ。
一本道の必須パート+エンディング後(あるいはエンディングの前から)に自由なパート
例をあげれば、クリアした後も、エンディング後にいけるようになる隠しダンジョンや、クエストとよばれる小冒険を続けることでストーリーテリングの楽しさが去った後もゲームの面白さを維持できる。
もともと、自由なパートが置かれる以前でもPG(ここではドラクエに代表されるRPG)の魅力の1つは探索だった。
今回、ポケモンブラックホワイトでエンディングまでに巡ることが出来る町はマップにある町のたった3/4ほどだ。
もちろん、通信機能を使ったクエストも用意されている。
ドラクエでいえば3、FFでいえば5、自由度の高い育成要素を加えたゲームは面白い。
反面、キャラに自由度を持たせることは、人格を定義しにくくなる。
ドラマパートでは勇ましいセリフを言うけれど、戦闘シーンでのジョブは遊び人だとか、移動シーンでは鎧を着てるのに戦闘シーンでは魔法使いのローブを着ているとか。
どんなにポケモンを鍛えようと、どんなポケモンを育てようと、主人公の人格に違和感はない。
パーティメンバーに過去の設定をつけないという意味では、DQ3のルイーダの酒場システム(Wizのが古いしギルガメッシュの酒場というべきか)と同じのはずだが、ポケモンのほうが自然とキャラへ感情移入が出来る。
流石にそこは人間と獣の差、獣はペットを飼う感覚で従えることができるが、共に冒険する仲間にはそれぞれ世界にたった一つの冒険する理由が欲しい。
戦闘員と主人公を全く切り離し、戦闘員を非人間にすることで完璧な解決を図ってる。
(3)狭い世界
RPGにおける世界の広さは、スーパーファミコン時代が一番広かったと思われる。
主人公が住む世界が地球規模(船や空を飛んで一周できる)で、さらにもう1つ、あるいは二つ同じように地球規模の異世界が次元をまたいだり時空をまたいで存在し、同じように人の営みが用意されていた。
ところが、それ以降は世界の広がりはない。
むしろ、ある外界から隔たった特定地方を舞台にすることが増えてきた。
おそらく、僕らの住む現実世界のようにいろんな人がいて、いろんな思想、派閥が存在する世界の諸問題は、魔王を倒せば解決するような単純なものではないからだ。
狭い、人の繋がりの密な世界の温かさ、かといって冒険が不自由なわけではない。
世界が狭いからといって、すぐに退屈してしまうことはない。
僕が子供の頃に近所の廃屋や林を探索していたときには退屈さを感じなかったように。
(4)古きよきターン制
ポケモン廃人がパラメータからダメージを計算できるように、極めて厳格なルールで動いている。
パラメータと行動の結果がほとんど予想可能なまでにすることで、カードゲームのような戦略性が生まれている。
そこに、僅かに1つ2つ、(僅かであるのがミソだ)乱数で決まる要素を加えることで、興奮が高まる。
テーブルトークRPGから伝統的な古きよきターン制だ。
しばらく気付けなかったが、風来のシレンのようなダンジョンRPGに通じるものがある。
なにを、何回、どういう順番で、行うか、それをプレーヤーに考えさせる。
MP制でなくPP制にしたのもそのせいだと思う。
もちろん、これが対戦という状況においてさらに頭脳戦の楽しさとなるだろうことは想像に難くない、
(5)通信要素
思えば、初代ポケモンのグリーンとレッドの2バージョンを用意することで、通信なくしてコンプリートできない仕様にしたのは画期的だった。
最近だと、インターネットにより携帯機でなくとも通信は可能になったけれど、ネットワーク利用で面白さを倍増させることに関しては、これ以上のゲームはなさそうだ。
面白さを倍増と書いたが、累乗といっていいかもしれない。
ラブプラスがDSの特性を最大限生かしたゲームとか言う意見を聞いたけど、そんなレベルを遥かに上回る。
やりこみ要素が強いのに、廃人も初心者も、小学生も大きなお友達も、みんな楽しめる。
以上、近作のポケモンでゲーム史上画期的というようなシステムはない。
ただ、集大成だ。
そのクォリティが高すぎて、RPGというよりもポケモンという新しいジャンルだと言っていい。
しかし、おそらくこんないろんな要素を絶妙なバランスで詰め込むのは他社には出来ない芸当だったと思う。
どうせ子供向けだろとか、グラフィックのドットが粗いとか、そう思って見向きもしてないだろうけど、みんなポケモンやってみてくれ。
テーブルトークRPGってのは想像以上に手間と時間と気力を使うので、かなり意識的にやっていこうとしない限りは仕事や家庭を持つようになっても定期的に続けるのは難しいよね。
全くTRPGに限った話じゃないけど、お互いの人生観や人間に対する見方とか問題解決のやり方とか、要は世界の解釈の仕方が垣間見える(ような気のする)遊びだし、俺はひたすら内輪でサルのようにやっていたんで、コミュニケーションも濃密になるし、キャンペーン何本も走らせたりしてるとエピソードの蓄積もかなりの量になる。だから、就職したり結婚したりして全国に散ってしまって、時間も10年以上経った今でも、たまに会う度にその頃の話してはゲラゲラ笑える。
むむ、こうしてみると、TRPGが楽しかったというより、ダベるネタ生成装置として機能してたんだな。最近どっかで読んだ「コミュニケーションには肴が必要」ってやつか。
TRPGをするために生きているような時期さえあって、メジャータイトルからマイナーなものまで結構あれこれ手を出していたのに、コンベンションに行ってみようと思ったことすらない。TRPGが内輪のコミュニケーション強化のツールになってて、実はツール自体はどうでも良かったんだろうな。自分の中の際限のない妄想にある程度の規制をかけて他人と共有できるようにするために、システムのジャンルとか、ダイスとか、能力値とか、キャラシートとか、戦闘ルールがあった。
馴れ合いしまくりの面子の割には、たとえ厳密に適用すると展開として盛り上がらない方向になってしまったとしても結構ルールとか判定にシビアだったのは、そこがいい加減になると共有することが困難になってしまうことが何となく分かっていたからかも知れない。
多分今はMMORPGがその役割を果たしてるんだろうなあ。もちろん、色々違う面はあるんだろうけど。液晶ディスプレイの前で、あんまりそのゲームと関係ない話をチャットでしたりしながら、それぞれダベってたりするのかな。現実との境はTRPGよりもはるかにはっきりしてるから(その分、帰ってこなくなってしまう事もあるらしいけど)、少なくとも場所に関する制約からは解放されてるから、TRPGよりはやりやすい面もあるよな、きっと。
やたらと重たいルールブックは大半処分してしまったし、20面体のサイコロなんてもう一生使うことは無いかも知れないけど、多分20年後でも、あのセッションの時の事しゃべってバカ笑いできる。楽しかったよ、ありがとな。