はてなキーワード: 感情移入とは
高2の長女をヤリ捨てする高3の先輩
そんな長女を、部活の先輩が相談に乗るふりをしながら口説き落とし、呼び出して繰り返しセックスした後、
まず重大な事実誤認が。
長女と先輩は母親のこと以前から付き合っているという設定です。
母親の死の真相にショックを受けた彼女が相談に来て泣いている肩をそっと抱いて・・・というのは
不誠実と言われればそれまでかもしれないが、そこまで非難されることでもないと思います。
そもそも長女の側にも、父親へのあてつけのために男に抱かれたいふしがあったわけだし。
長女はかなりのウザキャラで、父親を嫌悪し家から追い出すのはわかりますが、弟妹にも父親に会うことを禁じたわりには
世話をするわけでもなく、自分は面倒な家から逃げて男に走って朝帰り、弟妹と喧嘩をしては怒鳴り散らすありさま。
メンヘラ度合いも進行していき、先輩に一方的に悩みをぶつけたり、体目当てじゃないよねと問い詰めたり
うんざりした先輩が、じゃあそっちは俺の話を聞いてくれたことあるのかよというと、私のこと嫌いにならないでと泣き
最終的に駆け落ちを言いだして先輩をどんびきさせます。
先輩が女をとっかえひっかえするヤリチンかのような言われようですが、実際は部室で彼女が最近ヤバイという愚痴を後輩にしていたら
「じゃああたしと付き合っちゃいます?」という悪魔のささやきをうけてその気になっちゃっただけです。しかも長女乱入により未遂。
長女に目撃されて開き直れるほどワルでもなく、後日弁解に行き、精神の安定を取り戻した長女から
私は現実を忘れるために先輩に依存してただけでしたと、正式に別れを切り出されます。
よくもわるくも普通の気の弱い高校生という感じで、エキセントリックな登場人物が多いこのドラマでは1、2を争う普通の人だと思います。
苛立ちをバスケ部の後輩たちにぶつけ、キャプテンとしての人望は失墜。ユニフォームをゴミ箱に捨てて非行に走り出す。
そして更につのった苛立ちを、ミタにヤらせてと命令してぶつける。
ミタの脱衣の途中で現場を長女に見つかり、強く非難される。
これはあくまで命令を何事もなく完璧にこなすミタが癪にさわり、何か無茶な命令をということで行われたものであって
本当に服を脱ぎだした時のキョドりっぷりからみても本気でヤる気などまったくなかったのは明らかな描写だと思います。
のちにミタが自分の本心をわかってくれたことに感動して泣き、部員全員の前で謝ってバスケ部に戻ろうとするなど
これ以上なく素直でいい子に描かれてると思います。
力の誇示のために女をヤリ捨てる父の同僚
"父"との不倫が職場でバレてしまい、四面楚歌の状態で出勤する女性を、
父のライバル的な存在の同僚が弱みにつけこんで口説き落とし、肉体関係に持ち込む。
その同僚は出世のため常務の娘との縁談をまとめており、その女性の相手をまともにする気など全く無かった。
要するに"父"への当て付けのために抱いてみただけであった。
こいつはわかりやすい悪者で、常務の娘が本当に好きだった元恋人に結婚式に乗り込まれ花嫁を強奪されるという
わかりやすい天罰を受けます。追いかけて転ぶ時の転びっぷりは一見の価値あり。
セリフもいちいち過剰で非常に漫画チックなキャラですので、あまり男性嫌悪とつなげて考える人はいないんじゃないでしょうか。
どうでもいいけど、不倫女役の野波麻帆のエロ薄幸オーラがすさまじいので、あの境遇もさもありなんという感じで余り同情できません。
おのれの弱さを直視できず怒鳴り散らしてばかりの母方の祖父
娘、義理の息子、孫など、相手を問わずすぐに怒鳴り散らして威圧し、嫌われている祖父。
死んだ母の妹にあたる叔母のことも絶えず怒鳴り散らしていたため、
頑固で分からず屋で怒ってばかりだけど、実は不器用なだけで愛情にあふれてて、一度たがが外れると急速にデレ化する。
まさにステレオタイプ中のステレオタイプ、THE頑固親父です。
ミタにつきまとって肉体関係を迫り、ミタの家族を殺した弟
ミタの母と義父(ミタ実母の再婚相手)との間に出来た種違いの弟はミタに執着していた。
弟だけでなく、義父からも肉欲を抱かれていた。
ミタは愛する男性と結婚して息子をもうけ、幸せな暮らしをしていたが、弟から執拗に肉体関係を迫られるようになる。
それを拒絶したことで弟は逆上し、家に火をつけてミタの夫と息子を焼き殺し、自殺してしまう。
ミタの両親とミタの夫の両親は息子を失って嘆き悲しみ、全てはミタが悪いのだと責める。
焦点は一生笑うなといった夫の母親と罪の意識を感じ笑うことを捨てたミタであって
「成功は、他力によるものこそ羨ましい!」という女の心性をひとまず心にとどめておいてください。
(エビちゃんシアターの)話は方便であって、エビちゃんの可愛さとシチュエーション別着回しがあり、イケメンに求愛されつつ、本命と結ばれれば良い。
求愛役となる「間男」にこそイケメンは配置される。そして誠実で優しいが言葉しかよこさない男より、間男(イケメンで金持ちでティファニーをプレゼントしてくれる)のほうが重要、という間男のテーゼが繰り返される。
意識的と言うよりは、作り手と読者の願望そのものが、幾度もコピーされるのである。
しかし、話がどうでもいいからには、むき出しの構造と身も蓋もない本質が現れる。
何の本質か?エビちゃんに自己投影したい女の、ファンタジーの好みである。
本田透は、女が忌み嫌うオタクのアニメやゲームの多くが、女好みのドラマと全く同じであることを見抜いている。
たとえばパソコンゲーム「君が望む永遠」は韓流ドラマ「天国の階段」。
やってることは同じだろ!恋愛!交通事故!記憶喪失!三角関係!嫉妬!妹!
ただ、オタクコンテンツと女が女のために無意識で作ってしまうコンテンツの間には、たった一点、違いがある。
古来、ドラマというものは苦労人の方に感情移入するように作られてきた。シンデレラを思えばいい。
それが女性誌型のドラマだと、「苦労知らず」の方が一人勝ちするのである。
それは本来はドラマにはならない。「冬のソナタ」野本ネタとも言われる日本の漫画「キャンディキャンディ」になぞらえれば、
いじめっ子の金持ち娘イライザが美人で性格もよくもちろん金持ちで男全員にモテモテ!みたいな話なのである。
それが、女の人生ファンタジー。何だろうこれ、妄想というのさえ疲れてきたが・・・。これが女がオタクを近親憎悪する理由なのだろうか。
エビちゃんが演じさせられることの、あり得なさがやたらにリアルなのである。背後にいる女たちの夢の在り得なさ、そのもののようで。
エビちゃんの演じさせられるOLは、手持ちの服と旬のアイテムをいかに効果的に組み合わせ自己プレゼンするか。そしてお話能力と関係調整能力だけ、
すなわちほとんど見た目とその個人の愛される質だけにたよった仕事であるとしか読めないようにできている。
エビちゃんが演じるOLの内実がどう描かれているのかをよく見ると、作り手が彼女に託したい夢の自画像のようなものが見えてきて、胸が苦しくなってくる。
それは、男女雇用機会均等法が決して果たさなかった約束であり、これからも果たすことがないと定款ないし絶望している女たちの夢のようである。
要するに、韓流ドラマっていうのは今で言うと豚向けアニメってことだな。
女は男がブヒィィ言うはるかに前から韓流ドラマでブヒブヒしてたわけだ。
女のほうがはるかに欲望に忠実で、それを早くから、しかも現実の人間を使ってドラマに仕立てあげてたわけだ。恐るべし。
で、オタクどもはそれの後追いにすぎない。
オタクって、偉そうなこと言ってるけど、想像力や執念においてそんじょそこらのブヒ女にはるかに劣る。まだまだ常識に囚われてる奴が多いってことがわかるね。
ついつい「これはやり過ぎなんじゃないか?」とかブレーキが掛かっちゃうんだろうね。
エロ方向だけは際限なく好奇心旺盛だけれど、もっと本質的な所で欲を持てない。弱い弱い。
もっとシャルとか牧瀬紅莉栖みたいなキャラをどんどん創り上げて、エロ方向よりもっとえげつない所で欲望を満たしていけばいいのに。
横だけど
事実を淡々と並べただけで主人公なのにまったく印象がわかず感情移入できない
「しかし」がどこにも繋がっていない、一人暮らし半年でこんなに汚いのか!という意味であればもっと描写が必要
淡々と事実を述べるだけでは羨ましいともスゴいとも思えない、この文章の一番の見せどころは『これはまるで理想の彼女のようだ』なのだからここはもっときちんと描写した方がいい
テキパキと機械的に家事をこなす表現だけではすでにオチが見えてしまう
俺は突然、猛烈にイラついて、美優の頭を瓶で殴りつけた。
ここも見せ場なのだからもっと情感たっぷりに狂気を演出した方が盛り上がる
あと語尾が全て「~だ」で変化が無く飽きる
どこにも感情移入できず、ただダラダラと長ったらしく妄想を垂れ流しているだけで
これはまさしく垂れ流された「文」であり、小説ではないので評価するには厳しい
物を大切に出来ない。
扱いが荒いとかではなく、まるで感情移入出来ない。
で、よく考えたら「これだけは残しておきたい!」ってものが無い。全く無い。
まぁそれはいい。それなりに気にしてるけど、まだいい。
いくら仲良くなった友人でも、別にこいつでなくてもいいんだろうな、と考えてしまう。それは家族も同様。
これがなかなか堪える。
人嫌いというわけではないし、寂しく感じることが多々ある。コミュ力も人並み。
それで何が嫌かって、真面目に生きている人達に随分と下らないことにつき合わせている様な、滑稽であることを指摘するのも憚られる様な罪悪感がある。
こんなやっかいな物をもつことになるとは思いもしなかった。
けどここまで来るのに時間をかけすぎたから、もうこいつを大切にしていくしかないと思う。
でもやっぱり、そう言い切るのは悲しい。
でも、はがないのほうがウマい。明らかにこっちのほうが技術がないと書けない。
はがないのメンバーは、「濃い」故に集団からはじき出されてる側の存在で、
自分を規定してくれる「外側」を必要としない。だから好きなだけ閉じこもれる。
マクロって言うほどのもんでもないけれど、スクールカーストを無視しても存在できる。
人付き合いは煩わしい、でも何者にも成れない、一人では生存できない、だから学校の柵にとらわれている、そんな中高生の憧れる身近な理想像だ。彼らは生存戦略が不要な強者なのだ。(友達いないと「いろいろと鬱陶しい」あたりの言及が、必死度の違いを露骨にしめしている)
友達を欲すること「さえ」ろくにできない。抑圧強すぎ。でもすげーよくわかるぞその気持ち。
なんでこれ夜空が主人公じゃないんだろうと思うくらいにぼっちものの主人公に最適だ。
この作品で本質的にぼっちなのも、部活を作ったのも、最も切実なのも夜空だけであって、
私は夜空にすごく共感するんだけれどぼっちの奴らがこれ読んで、夜空に嫌悪感を感じてるって構図がすごい皮肉になってる。
お前ら他人に対しては常人と同じ程度の想像力しかないんだなー、と苦笑したくなる。
いや、そこが売れてる理由なんだと思う。ホント。
むしろ、他人からみたら自分は嫌悪するべき存在だという自覚はあるだろう。
というか、自分自身、自分のことをこれでいいとは思ってないだろう。
本当の自分はこんなんじゃないんだ-という思いがまぁ小鷹やら星奈への擬似的な共感に繋がる。
星奈は特にアイドル要素を多く兼ね備えており、自分をごまかすには最適な感情移入対象だろう。
最終的には、夜空の嫌な部分を受け入れられない限り、読者はこの作品から卒業できないんだけどな。
ちなみに一番好きなキャラは理科さんです。というか理科と小鳩以外好きじゃない。
俺ガイルは直球だ。
ぼっちってのは基本的に「濃い」のではなく「薄い」。
故にキモい。何考えてんのか分からない。これが基本。こっちが多数派。
その本来のぼっちと、はがない型の「個性強すぎるゆえに集団から排除される」型のぼっちを並立させ、
間に普通の人間を挟むことで、ぼっちが「全体の中でどこにいるのか」が分かるようになっている。
マクロというほどもないが、学校という小さな社会を描くことさえ拒否するはがないとは違う。
というか、はがないは「特殊なぼっち」のなかに「普通のぼっち」を混ぜるという構図が不自然というかもう悪趣味すぎて、「君に届け」と同じくらい気持ち悪い。
俺ガイルが自然というわけではないけれど、まぁ共感できるのはこっちだ。どうしても。
俺ガイルの面白さだが、メインの主人公については「あるある大百科」でしかない。少なくとも私にとっては。作家ならではの端的な表現で自分が感じてたもやもやが言語化されてすっきりするってのはあるけれど、新鮮味は少ない。どっちかというと、「ぼっち」から、一般人を観察して、どう感じるかって描写部分が面白い。いや、それよりも「片方からのぼっち」が「もう片方のぼっち」に感じる感情の描写が興味深い。
無職の人間が、ノマドバンザイ、フリーランス最高っていってるやつに投げかける視線。共感と嫉妬、諦めと憧れが混じったような複雑な感情、これは経験がない部分なので素直に楽しい。
その言葉との出会いが私にとってのインターネットという希望だ。そう信じてネットの文を読む。ネットに限らず、だけれど。
これは私の文章の読み方の話だ。
http://anond.hatelabo.jp/20111119203554
を書いたあとで、
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
を読んだ。
普通でない女性が普通を騙る事でどれだけの普通の女性が抑圧されたか。
世間一般の愚かな男達があれを普通だと思う事で、どれだけの女性が癒えることのないダメージを被るか。
何故インターネットという希望の聖域の大切な動機という最も偉大なる感情の衝動を、
就職活動という大人達が作り上げた陳腐な社会の枠組みのブラックボックスにアウトソーシングしてしまうのか、僕には全く理解が出来ない。
素晴らしい世界を、どうしてアラビア人などという現実世界のくだらなさを持って語ろうとするのだ。
無限の永遠世界の衝動を、就職活動などという確かで小さな現実世界の理由付けで説明しようとしてしまうのだ。
そうじゃなかったはずだ。そんなんじゃなかったはずだ。僕らが夢見て懸命に生きたインターネットはそんなものじゃなかったはずだ。
ここらへんについては、言葉の技術(この人のほうが私より断然ウマイ)や対象は違うけれど、私が書いてることとかぶってると自分では思ってる。ここいらの部分については、私にとって、同意やら共感することはあっても心が動かされることはなかった。
これは持論なのだけれど、悩みというのは、あるものごとに絡みつかれ、あるいは取り込まれ、そこから抜け出せない状態を指すのだと思う。そして、文章でもなんでも、表に出すことができることは、どのような形であれ、自分がそこから距離を取ることができたものである。
はてブの人のように、そもそのその問題に興味がないから軽く考えて思考停止した状態でなんの感情もこもっていないコメントを書ける人もいる。(「三行でまとめろ」みたいなことを言ってる人は、幸せな人だと思う。その幸せに気づかないところに少し嫉妬を感じる)
ふと興味を持って、そこにわずかな感情移入をこめたり、調べてみて情報を追加する人もいる。
一方で、その問題に巻き込まれ、散々傷ついたり悩んだりした上で、なんらかの出口を見つけた人もいる。
とりあえず、私は上のような問題については、たどたどしいながらも言葉にすることができる。ある程度客観視出来る。読者から見て、客観視できてないと思われる所があると感じたなら、まぁそこはまだなんか執着があるんだろうが、それでも大枠としては抜け出せていると思う。
私にとって、文章に書ける問題っていうのは、私の中でもうあきらめが付くか克服されていることである。
もうここいらの問題から私は逃げることはできる。無理に否定しなくても、自分を抑圧しなくても、生きていくことが出来る。
だから、私にとっては、この部分は、まぁいい。
自分が距離をとれる問題について言葉のやり取りだけを繰り返すなら、インターネットはいらない。
私が他人の文章を読む時、私が探しているのは、自分の心のなかにあって、でも気付くことさえできない言葉だ。
生きてはいけるけれど、どうにもこうにも心苦しい。その理由や、自分の位置を、他人の言葉で確認したいと思ってる。
美しいものを美しいと言う。それが出来ないのが人の悲しみである。
素敵なものを素敵と言う。それを口に出せないのが人の苦しみである。
「美しいね」と言いたいのだ。「素敵だね」と告げたいのだ。
僕らがインターネットをするのはザッカーバーグの為ではなく、インターネットの為でもなく、ましてや自分自身の為でもない。愛の為だ。
少し泣いた。この部分に何を思ったかは書かないしまだ書けないけれど、こういうものとの出会いがインターネットに感じる私の希望だ。
他の人には、この文章が、ただのルサンチマン、で処理できるものなのかもしれない。ただの勘違いと読んで笑うかもしれない。
それでも構わない。というか、本来、そういうものなのだ。みんなが同じように理解して納得できるものだけが価値じゃない。
昔は自分の望んでいることや、自分が正しいと思うことを主張するのが、他人にとってはただの我侭でありルサンチとして一笑に付されるものであることに絶望したりしたこともあった。そうやって、自分が何かを望むこと自体が間違いであったり、自分自身が間違った存在であると思った。そう思って何も望まず、無気力になったこともあったけど、今は自分と外の世界は別のものだと思っているから気にしない。
自分だけが大切と感じるものがあってもいいし、そういうものを見つけることこそ幸せなのだと思ってる。人は自分だけの、自分のための勘違いをするために生きている。
その上で、朋有り、それはインターネットから来たる。自分にとって大切な事を、他にも感じている人がいるかもしれないと思うのは嬉しいことだ。自分のなかの小さな真実でも、勘違いでも、それでも人とつながりうると感じる。それが私の希望だ。
RPGの話をする。
RPGっていっても、テーブルトークRPGやMMOとかじゃなく、ドラクエやFFみたいな俺が青春を費やしたやつだ。
ストーリーってもう出尽くした気がするんだよね。
かつては、ストーリーに出尽くしなんかないと思ってた。
もちろん、定番のネタというのはあるけれども。
でもさ、思えばRPGにおけるストーリーの制約はけっこう厳しい物がある。
町の平和を守るとか、そういう小さな目的から、世界を救うといった大きな目的まで、その流れに沿って話を進めないとならない。
ハードと媒体の進化によって、グラフィックや容量に制限はなくなった。
いくつもの国があり、それぞれの国にはいくつもの町があり、それぞれの町には何百人、何千人、時に100万人以上の人間が住む大都市まで登場する。
そんな世界では、一人の魔王を勇者が倒せば諸問題が全部解決する、なんてことはありえない。
現実と同じくらい複雑な世界では、その世界の諸問題も現実世界の諸問題同様に複雑で、誰か一人をやっつければ解決するほど単純なものではない。
独裁者、魔王、そういった一個人をラスボスにすることが出来ないとなれば、ラスボスは超存在とか概念となる。
スーファミ時代から、いやファミコン時代の後期からそういう傾向はあったけどさ。
でも、そういうのってしっくりこないんだよね。
昔話、神話で刷り込まれた勇者が魔王を倒すっていう基本のストーリーははやっぱり強力。
そういう単純な話、敵をやっつけて一件落着というラストに落とし込めるような、箱庭的な小さな世界観のゲームのほうが結局面白い。
「世の中には善と悪だけじゃなくて、偽善やら偽悪やら、善のつもりで悪をしてたり、その逆だったり、頭じゃわかっても憎しみは消せなかったり、いろいろあるんだ」
などと説教されても
「うるせーバカ」
となっちゃうだろ?
最近になって、糸井重里がMOTHER3の開発が頓挫した理由を「大作主義に陥ったため」と説明した理由が理解できてきた。
フラッグシップハードのRPGは大作である宿命が義務付けられている。
グラフィックは美麗でないといけないし、美麗なグラフィックは古典的で単純なターン制では許されない。
誰得な複雑でわかりにくく珍しさだけで楽しくもないシステムを抱き合わせさせられる。
世界は壮大でないといけない。
敵の目的も壮大でないといけない。
ちっぽけな主人公の存在が世界の大きさに押しつぶされてしまうのだ。
(じゃあ主人公をちっぽけじゃなく、特別な存在にすればいいのか?そんな特別な存在に感情移入できるのか?)
ずいぶんと後に、ゲームボーイアドバンスでMOTHER3が発売された。
物語の全てが小さな島のなかで進行した。
人類が生き残っているのはその小さな島だけだった。
それでも、大作を目指してしまった痕跡と言うか、いろんなものを詰め込み過ぎた痕跡が見え隠れして、MOTHER2ほどの面白さがなかった。
「他の犬は知らないかもしれないけど、君達が世界を救ったこと僕は知ってるよ」
と言ってもらえるような冒険がしたいんだよ。
ファンキーモンキーベイビーズの歌が嫌いだ
店で彼らの曲が流れたらそそくさと店を出るし、テレビ番組で彼らが出るとチャンネルを返す程大嫌いだ
今、ネット中で大好評叩かれ中のJPOPの中で今が旬のヒルクライムや西野カナも嫌いだけど流れても店を出たりしない(チャンネルは回すけど…)
だから私のファンキーモンキーベイビーズとJPOPに対する嫌悪感の根本は深さも強さも違うと思う
で、ずっとヒルクライムとファンキーモンキーベイビーズが嫌いな理由って同じだと思ったんだよ
これら二つは歌詞に"愛してる"だとか"会いたい"とか簡単に洒落た比喩表現もなく書いちゃうからなのかなーって思ったんだけど、ちょっと前にシーブリーズのCMでファンキーモンキーベイビーズの曲起用してたじゃん?
「♪君の顔見てると胸が苦しくなるんだよー」って感じの歌
このCM流れてた時、ファンキーモンキーベイビーズにそんな嫌悪感抱いて無かったからチャンネルも回さずに聴いてたんだけど流れて行くうちに"この歌なんか間抜けだな」って思うようになったの
で この間抜けさなんだろうと思って考えてたらあることに気づいたの
「あっ この歌なんか棒読みだ」って
それは、オタク・童貞的なこじらせた身勝手な恋愛感・世界観を全面肯定している様に感じたから。
あの花に出てくるキャラクターはどれも魅力的だし、青春群雄劇的な展開で流れる様に話を進める様とか、秘密基地とかの誰もが懐かしさを感じるファクターを入れてきたりとか、OP&EDテーマの曲は物語と凄くマッチしてたし、メンマは最終的には成仏してしまう事を物語前半から定時して、安易なハッピーエンドが無い事を示唆しながら、与えられたシチュエーションではベストと思える終わり方を提示していたと思う。
見ていて面白かったし、感動もしたけど、何でかラストは入り込めなかった。
それは、最後、みんなが独白するシーンが小舞台みたいな急展開で、そこで感情移入が少し途切れてしまったせいかな?とも思っていたのだけど、物語が終わってから色々考える内にそれだけじゃないなー、と言えてきた。
まだ考えがまとまりきってはいないので、チラ裏だけど、書いてみようと思う。
みんながメンマの死を負い目をきっかけにトラウマを抱え、疎遠になってしまう。
それを、メンマの黄泉帰りをきっかけにトラウマを解消し、関係性を再構築する、と言う物語。
もちろん、他の要素もいっぱいあるけど、話を分かりやすくする上でそう言う仮定の下に話を進めたい。
各々が抱えたトラウマを、ストーリーを通して、徐々に視聴者に提示するなんてのは非常に上手だった。
このストーリーの過程で、ポケモンを探したり、花火を上げたり、めんまのためにメンバーは色々行動を起こす。
ただ、めんま以外の超平和バスターズの面々は、極論をすれば、常に"めんまのため"より"自分のため"が上に来ていたと言う描写になっている。
しかも、それをメンバー同士で隠しているから、いつまで立っても昔の様に信頼感を築けない。
結局、それではダメだと言うのに気付いたのが最終話で、自分をさらけ出す独白につながる。
ただ、この独白の段と言うのがちょっと納得いかなくて、この時のみんなの行動って、結局、"めんまのため"に何かした訳じゃなくて、"自分のため"なんだと思う。
懺悔って、相手のためを思ってする事じゃない。
こう考えていくと、"自分よりメンマのためを思って行動した"と言う描写が最後まで描かれていない事に気付いて、驚愕してしまった。
これ、何かで見た事あるって考えたら、ヲタクとか童貞こじらせた人の恋愛感・世界観に似てるなーと思った。
具体的には問題を解決するのに、"自分が努力する"と、"自分の努力を無条件に受け止めてくれる人がいる"の二つの要素で解決が付く、っていう価値観みたいなの
例えば、恋愛をする際に自己承認欲求が強すぎて、自分のコンプレックスを全て相手にさらけ出して、それを全て受け止めてくれる、みたいなのが恋愛だと夢を見てしまう。
付き合いたてとかちょっと仲良くなっただけなのに、コンプレックス丸出しの痛い長文メールなんかを送った事無いだろうか?
僕は良くそういった事をやって、ある時は相手が上手くスルーしてくれたし、ある時はそれをきっかけに疎遠になったりもした。
付き合いたてとか、そもそもそこまでの信頼感が無い時にコンプレックスを剥き出しにされるのは、相手に取って負担も大きいし、そもそもそれを受け止める義理も無い。
それを受け止めてくれるのが"好き"って事でしょう?って言うのは恋愛に幻想を抱き過ぎだと思う。
もちろん、恋愛に限らず、人との関係性の中で自分を全くさらけ出さないのなんてのはつまらないけど、それは相手と重ねた時とか相手を大事にする事で、信頼感を築いて、それを担保に少しづつ自分を出していく事じゃないかと思う。
もちろん、所謂リア充と言われる共感力が人並みに働く人はこう言うのを無意識に行えるんだけど、ヲタク・童貞的恋愛を拗らせた人はこれが全く出来ない。
相手のために何が出来るのか?これを言ったら迷惑だろうかと言う視点のリアルさが欠けてるし、欠けてる事にも気づけていない。
あの花に戻って考えた時、幼少期を一緒に過ごした仲であると言う点でメンマとみんなの信頼感の描写がある訳だけど、これは与えられた物であって、努力とか工夫をして築き上げた物じゃないよね。
あの花の話は超平和バスターズの繋がりがメインであるけれども、それを得るための他者への気遣いだとか努力とかが全く無くて、努力した点って言うのは偽りの無い自分をそのままさらけだす努力、っていう自分のための内向きの努力しか描かれていない。
じんたんの"人の事を常に考えて行動して、自分を抑圧してしまう"キャラクターに付いての描写も、実は殆ど無かったと思う。
勿論、幼少期のじんたんはリーダー格で、先頭に立ってみんなを引っ張ったり、みんなの面倒を見たりしていたんだと思う。
ただ、これらはたまたま何かのきっかけでリーダー的な立場に立った人が、みんなが望むリーダー的行動を何となく取ってたに過ぎず、やっぱり努力や工夫をして得た物じゃない。。
これは、立場を失った高校生じんたんが結局、他者のために何も出来ないし、自分の抱えている問題(不登校)すら解決出来てない事より明らかだと思う。
敢えて挙げるなら、あなるがラブホに行った疑惑の時にじんたんが立ち上がったシーンはそうだけど、何というかあれは主人公補正みたいな、まぁ主人公だったら、あぁするよね、と言うのが大きくて、アレだけで、じんたんが仲間のために努力している、と言う描写だとするのはちょっと無理があると思う。
何か色々散漫になってしまったので、繰り返すと、結局、自分のトラウマを包み隠さず独白する(自分の枠の中だけで他者を意識せず努力する)→トラウマを受け止めてくれて大円団、と言うのがイマイチだと思うのだ。
努力が常に内向きにしか向かって無くてお手軽・身勝手過ぎるし、受け止めてくれる他者への視点が欠如している。
エンディングでじんたんが高校に通う描写が出てくるけど、これだって結局、不登校と言う自分の問題を解決したにしか過ぎない。
彼らが、自分自身のためだけで無くて他人のために何か生み出した事と言えば、メンマ家のトラウマを花火によって解消した事だろうか?あれは動機はどうあれ評価出来ると思うけど。
もちろん、主人公達は高校生なのだから、他者への視点が不器用でしかるべきなんだと思うけど、視聴者のオッサン達が感動しちゃうなら、もうちょっと考えた方が良いんじゃないかな?と思った物で。
逆に言えば、最初からメンマがトラウマを受け止めてくれたら、メンバーが努力する描写が無いから、花火を上げる段になっても自分のトラウマを表に出せない→それじゃ解決にならない→やっぱり自分に正直にならなきゃいけない、と1段、下の状態からみんなをstartさせる事で、超平和バスターズの面々の努力を表現している点は上手いなーと思った。。
ドラマやニュースの登場人物たちの不幸な境遇に感情移入してみる。
たとえば恋人が事故で大けがをしてしてしまったら? 妻が認知症になったら? 生まれた子供が障害を持っていたら?
ドラマの登場人物たちは、時に困難を乗り越える。打ち負けて闇に落ちる。
自分だったらどうするか、どうなるか考える。
恋人が事故で大けがをしたら、きっと自分なら支えきれないだろう。
子供が障害を持っていたら逃げだすだろう。
もっと若いころなら、乗り越えられる気がしていたけれど。
今の俺は、乗り越えた経験よりも、乗り越えられなかった経験の方が多い。
頑張れば決して不可能じゃないことでも、逃げ道があれば逃げてきた俺だった。
現実に不幸な境遇に苦しんでいる人には、俺には頼らない方がいいって言える。
逆に言えば、コメントを喜んでいる連中は物語世界に入ることを拒絶しながら見ている。
それは、ラノベ的な楽しみ方であり、一人よりも二人、二人よりも大勢のほうがずっと楽しい。
俺が求めてるのは一人で楽しめるアニメなんだ。大勢で楽しむラノベ的アニメではない。
ここでニコ動に進出する企業が失敗ばかりしている原因が分かってくる。
つまり、ニコ動というのは全ての動画をラノベ的に、メタフィクション的に楽しむ場所なのではないか?
いやもちろんフィクションに限ったことだけど。
この楽しみ方に合致するのは、物語世界に入り込む必要がなく、また入り込んでくることを望んでもいない題材が必要だ。
いわゆる萌えとか、4コマが原作みたいなやつ。まぁラノベ原作なら何でもいいような気もするが、ラノベがラノベとして機能するのは地の文なんだよね。
地の文を消しちゃったアニメ化は全くラノベ的ではなく、チープなファンタジーもどきになっちゃう。ハルヒがラノベ的な性質を持ったまま成功したのは、キョンの語りが地の文だったからだ。
キョンの語りがなければハルヒは全く違った評価を受けていたかも。
ここでAVも説明できそうな気がしてきた。
通常のAVというのは、フィクションと同じくその世界(セックスしてる映像世界)に入り込んでみてる人がオナニーするように出来てる。
これをそのままコメントつきのニコ動にもってきても全く意味が無いのは、ラノベと同じだ。
つまり、コメントは「物語世界から一歩引いてあれこれおしゃべりする」ものなんだから、AVが普通にAVやったらコメントどころではなくみんなシコシコするのに忙しくなってしまう。
そこで重要なのは、メタAVとでも言うべき、通常のAVから離れたものになる。
一番簡単なのは出演者がブサイクであるということだろう。ブサイクなら、その映像内世界は全部「AVっぽいものを並べただけ」になり、ブサイクなAV女優が「感情移入させない装置」として働く。
だから、これはニコ動的であるといえる。ブサイクなAV女優ではシコシコしようがないし、ネタとして楽しむ(=ラノベ的に楽しむ)のが本来の活用方法ということに。
でも結局のところ、ラノベ的に見る、ネタとしてみるというのはその人の姿勢なんだから、コンテンツは関係ない。
ただ、通常通り物語世界に没入することを求める従来型のフィクションをニコ動で「ラノベ的に」見ようとすると、ラノベ的に見ようとはしていない人々がいるのでコメントが荒れたりするということだけだ。
無論、俺も「ネタとして楽しむ」人々に対して「もっと普通に見れないのか」と荒れる元になるようなコメントをしてしまったことはある。
http://anond.hatelabo.jp/20110826204007
「親になれば分かる」は間違いだよ。
実際は「まともな頭を持っていればいずれ分かる」。
なんで人の親がよく「親になれば分かる」と言ってしまうのかというと、その人は親にならない人生を選んでいないからだ。
いちいち色んな事を「これは親にならないと分からない事なんだ」と思い込んでしまってるんだよね。
親の言う「親になれば分かる」事ってのは他人に感情移入が出来る程度の頭を持っていれば、親にならなくともいずれ分かるような事ばっかりだ。
だから元増田はそんな親の勘違いな言葉に縛られなくてもいいと思う。
好きに生きればいいよ。
「きみはじつにばかだな」って言いたい気分だけど、ばかじゃないんだよな、ばかですらない。馬鹿といえるのは相手が人間である場合だからね・・疲れてきた(w
ただどういう動きなのかは理解した上で「怖い」と思えたら
これはあなたの発言だけど、これは人の気持ちを理解したいという心の動きだと俺は理解してる。
だから、
人の気持ちになって考えれば分かる
と書いた。
本当はもう少し長文だったが、はっきり言ってこの一言に集約されるから無駄だと思いつつもそう書いた。
そしたら驚くべき反応が返ってきた。
要するに「俺と同じ感じ方をしろ」だよね
この反応から察するに、この人は他者と自分が同じ人間であると認めていない。と俺は判断した。
人間というのは、どんなにたくさんの個性的な人がいるように思えても、精神が正常であるならばすべての人の気持ちは理解できる。
なぜなら、言葉や動機を超えたところにある感情は人間であるなら誰しもおなじものを持っているからだ。
なぜ人は小説で泣けるのか、それは小説の登場人物の気持ちになって考えることでその人の心の動きを感覚的に「わかる」からだ。その結果として涙が出てきたり喜んだりする。
あなたにはその前提が理解出来ていない。人はみんな違う、しかし人はみんな人類という一つの種なのだということを忘れてる。
それが分からないから、とんちんかんなことを言い続ける羽目になる。
俺の考えをあなたが理解した結果がこれらしい。笑うしかないな。
なぜか気持ちという単語が「価値観」に、分かるということが「同意する」と言う風に言い換えられている。
価値観ではなくそれよりもさらに深く広いその人そのものの気持ちが重要であり、それに同意するのではなく文字通り「一つになる」ことで感覚的に「分かる」という状態になることが必要なんだよ。
価値観と同意という意味不明な単語の使い方はつまり、あなたがそういう風に普段から理解しているということ。
こんなんじゃ人の気持ちを理解出来ないのは当たり前。他人に感情移入すること最初から拒絶してるんだから。
それなのに面白いのは、
ただどういう動きなのかは理解した上で「怖い」と思えたら
という風に、言葉で説明できる「知識」だけは欲しいようだね。
そんなものは「感覚」なんだから到底文章になど出来ないし、したとしても非常に限定されたつまらない文章になってしまう。
まぁでも、情緒的な教育がなされなかったのはあなたのせいじゃないから、他人と軋轢をうまないように生きればそれでいいんだろう。
俺から言えることはもう何もありません。
あーこの文章読んで分かった気がする。
人と同じ感じ方をすることを恐れてるって感じだな。