・物事の本質、論理性を見ようともせず、表面的な部分や一部の事象だけを見て揚げ足を取り、批判する奴
・新しいモノ、異なるモノに対して誤った偏見の目を向ける奴
・自身の優位性を現実的に担保するモノなんてほとんど何も持っていないのに、仮想的有能感に浸って誰かを見下す奴
・何かを貶めるために、善意を手段化する奴
全部反面教師だ。
mujin 中国, 税関 コメントに「法治国家じゃないから」とか言ってる人がいてマジびびるな。日本の入管でどんだけ多くの外国人が泣かされてきたか……。 2010/10/08
http://b.hatena.ne.jp/mujin/20101008#bookmark-25421500
アホらしい。
荷物取られて「お前、共産党幹部とか税関にコネあるか?」って話が出る、とられた理由はといえば「理由はない」、という話を読んで「法治国家だなあ~」とかいうやつはいないよ(笑)。
で、それへのカウンターで「日本の入管でどんだけ多くの外国人が泣かされてきたか……。」とか意味不明。
仮に日本が北斗の拳ばりの無法地帯としても、「日本が法治国家でないこと」と「中国が法治国家扱いされないこと」に因果関係も何もないでしょ。
ようは「中国どんな無法をしていようと、日本が無法をしていれば『中国は無法』ということまかりならん」っていってるんだよね。
百歩譲って、日本政府の人間が話の主なら「お前が中国政府の無法をいうのか」ってこともまあいえなくはないけど、荷物とられてるのは一般人だよ。
一般人と政府のやり方は別。これが通るんなら、日本が一般中国人に「中国が無法だから」という理由で無法を働いていいことになる。
横だけど、色気梨女(男友達に女扱いされない女)としてはこの辺ってどこまで気にすべきなのかが気になる。
襲われたくはないが、かといって気をつけていると、
「俺ってそんなことをする男だと思われてるんだ…」とか
思われそうだしな・・・。どうしたらいいんだ。
とりあえず男友達と密室で酒を飲むことは避けてるけど。一応。
元増田です。
スポーツにおける走り込みや筋トレだって、そのスポーツをやるにあたって「なぜそうするのか」という理論を理解してこそ意味があるのであって、そこを理解せずただ走りこみや筋トレをさせたって、やらなくなったら筋肉はあっという間に落ちるだけ。
まさにわが意を得たり!のたとえ話。
本来「詰め込む」というのはそういうのをわかってやることのはずなんだが、
詰め込んだだけの知識もそれと同じで、詰め込んでいる期間だけは非常によく「できる」けど、所詮底が浅いから、やらなくなったらあっという間に忘れて、将来ほとんど役に立たない。
というものだと思われてるんだよね。情けないことに。
「わかる」ことと「できる」ことは違うんだが、日本の教育は「できる」人間を育てることに特化していて、その実「わかる」人間を育てていないと思う。
ただ、これは難しいところだと思う。とりあえず「できる」ようになってから概念いじくり回してる間に「わかる」ようになるという面もあるし、「できる」ようになる前に「わかる」ことに集中するのはかなり辛くて効率もなかなか上がらない。そのあたりのバランスは個人差もあるから難しいところなんだけど。
遠山啓なんかの功績もあって初等教育ではかなり工夫もなされているんだけれど、それでも
でも、なぜ分母と分子をひっくり返して掛ければ分数の割り算をしたことになるのか、そもそも分数の割り算とはどういうことなのか、それがわかっている人間って、実は少ないんじゃないのか?
というのが現実だからねえ。
まして、カリキュラムが欠陥だらけの中等教育となれば目も当てられないことになる。
こういう教育方法が、模範回答ばかりを求めて、自分で試行錯誤して考えられない人間を育てているんじゃないかと思う。模範回答を出すことが得意な「優等生」は、大学入試までは順調な人生を歩めるが、その後の人生で躓くことになる。
それはどうかな。むしろマニュアルを覚え込むことに従順な奴の方がリア充になりやすいと思うけどね。世間の流行にとりあえず乗っておけば大けがはしないよ。
あと、あなたが引用したnext49氏の日記はちょっと別の問題じゃないかと個人的には思ってる。むしろ「空気を読め」という風潮がそういう学生を作っているのだと言いたい。俺の体感で言うと、「自分の考えがあってもタブーに触れることを恐れる余り、それを口にすることを無意識に禁じている」ような人は結構多いし、実際のところ自分と違う意見を言われるとキレる人間は世の中に多いからそれは正常な適応だと思うんだ。大学の(まともな)研究室というのは忌憚なく議論ができる数少ない場(ということになっている)なんだが、臆病な卒論生にはなかなかそれを実感できないことは多いよ。
池谷裕二という、九九も漢字もほとんど覚えてないのに、東大薬学部も大学院も主席で入ったという人がいてだな…
その人は、数学の公式も覚えられないので、問題を解く度にいちいち自分で公式を導き出して計算していたらしい。掛け算も、九九を覚えない代わりに独自の計算法で計算しているらしい。
「わかる」ことと「できる」ことは違うんだが、日本の教育は「できる」人間を育てることに特化していて、その実「わかる」人間を育てていないと思う。
例えば、分数の割り算はだいたい皆できるよな。分母と分子をひっくり返して掛ければ正しい答えは出る。でも、なぜ分母と分子をひっくり返して掛ければ分数の割り算をしたことになるのか、そもそも分数の割り算とはどういうことなのか、それがわかっている人間って、実は少ないんじゃないのか?
世間では、公式や計算式や九九を暗記してこなすことが基礎だと言われているが、本当はこの「なぜそうするのか」という理論の部分こそが基礎なのであって、ここをみっちり教えないといけないんじゃないのか。
スポーツにおける走り込みや筋トレだって、そのスポーツをやるにあたって「なぜそうするのか」という理論を理解してこそ意味があるのであって、そこを理解せずただ走りこみや筋トレをさせたって、やらなくなったら筋肉はあっという間に落ちるだけ。
詰め込んだだけの知識もそれと同じで、詰め込んでいる期間だけは非常によく「できる」けど、所詮底が浅いから、やらなくなったらあっという間に忘れて、将来ほとんど役に立たない。
でも、一旦「なぜそうするのか」を理解して覚えたことは、なかなか忘れないものだよ。そして、そうやって身に着けた思考法は、将来何かしら役に立つんじゃないかな。
でも、詰め込んでいる期間だけ「できる」人間を育てるやり方は、指導する側にとっては楽なやり方なんだよね。評価もしやすいし。
それに、なまじ答えが合っていてできていると、わかっているように見えるもんな。実際はわかってなくても。
こういう教育方法が、模範回答ばかりを求めて、自分で試行錯誤して考えられない人間を育てているんじゃないかと思う。模範回答を出すことが得意な「優等生」は、大学入試までは順調な人生を歩めるが、その後の人生で躓くことになる。
今年、君は卒論に苦しんだね。君が卒論に苦しんだ理由は自分でも分かっていると思うけど、常に外部に正解を求めたことにあるんだ。私が「どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。」と聞くと、いつも君は表情を凍らせて黙ってしまったね。何度も何度も「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」と伝えたのだけど、最期最後まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。はっきり言ってそれが私にとっては本当につらかった。
じゃあ俺はレアケースのほうかなw
学費・生活費を稼ぐ能力はなくったって、大学で学んだことで奨学金返還ができたり、無償にしてあげても社会へ還元してくれる貢献などの方がでかければ、積極的に奨学金を与えるべきだ。
国が豊かになってるんだからアホでも生きやすくなるのは当然
それは何か順序がおかしくないですか。「理解」していれば定型的にであろうが非定型的にであろうが応用できるはずだし、そもそも公式を忘れてしまっていても復元することさえできるはずで、逆にそれができない人は「理解」していると言えません。
http://anond.hatelabo.jp/20101009214135
結局、理解の程度の差を言い出したらきりがないんですよ。
そう思います。
ある程度「わかった」と言える目安のような段階というものはあります。
元増田さんと私では、目安のレベルが違う(私の方が低く設定している)のでしょう。
ただ、真に理解していたとしても、それで非定型的な応用ができるとは思いません。それは理解の質の問題ではなく、別の能力だと考えるからです。
教科書の証明を読んで覚えているというのは「理解」したことになりませんよ。それを一旦忘却してしまったあとで、自分で最初から作り出せる、そのレベルになってはじめて「理解」したといえます。
その例では自分のレベル分けだと「3.公式を定型的に応用する」であって「4.公式の応用方法を考え出す」ではありません。それはほとんどの場合理解している内容に基づいて考えながら、昔覚えたが今は漠然としか思い出せない典型的なパターンを「思い出す」作業でしかありません。試験で目の前にある問題に、過去問や演習問題を思い出しつつどのパターンを当てはめたら解けそうか考えるのも、忘れた公式に対して「確かこんな公式があったような」という問題を設定してどのパターンを当てはめたら目的の公式が導き出せそうか考えるのも、そこで要求される応用力には本質的な違いはありません。それは私の考えでは、あなたの言葉を借りれば、定型的な応用に過ぎず、「4.公式の応用方法を考え出す」つまりゼロから新しい応用を考え出す能力とは異なります。
もっとも、非定型的な応用も実際には過去の知識や経験の蓄積から何かを取り出し組み合わせて応用しているに過ぎませんから、定型的な応用との境界はそれ程明確なものではありません。ただ世の中には、努力家で(少なくとも私の考える低めの「目安」での)理解はできており幅広く定型的な応用もこなせるが、何故か非定型的な応用はさっぱりという人が少なからず存在しているので、そこには少なくとも何らかの「応用力の壁」があるようには思われます。
#いわゆる「応用力」は実は「(比較的単純な)適用力」と「(狭義の)応用力」に分けて考えた方が良いのかも知れません。
ここで挙げられている例も、やっぱり私の考えでは「3.公式を定型的に応用する」ですね。
それを教えたところで何になる
大学卒業するまでに数百万かかるのか~、でも大学卒業しないと就職ないからな~
って結局大学に通うんだよ
仮にそいつらをみんな高卒にしようと
そいつらに職はないだろうね
金を貸したとか、借りたとか。もうやだよ、俺にそんな話しないでくれよ。
あいつにはウン万貸してるんだから、このウン万はチャラだ、とか
そういうのは本人同士でやってくれ。
周りを巻き込むな。
当人同士話し合わず、弁護士を通すでもなく、ウジウジするんじゃねぇ。
かーちゃんに言われなかったのか?どんなに仲が良くても金の貸し借りはするな。って。
いい大人がみっともない。
http://anond.hatelabo.jp/20101009151903
自分は以前、親に言われたことがある。
親戚の○○さんが議員になったから、覚えておきなさい。
困ったことがあったら、相談すると良い。
普段尊敬している親が、なんだか小さく見えた。
そんなオイラはいつまでたっても自宅警備員。
おれおますぎる別増田です。
あまりにも男しかいない環境で10年やってきたので異性と同性並みの友人関係があったりもするけど、そこまで行くと完全に異性として見られてないからなー。
職場でもおっさんくさいとかどう見ても男とか言われてるし…
ただ男の人でも同じように考えている人は結構いるのであきらめずに出会いを待ってみるといいと思うよ。
うまくいくときはどう転んでもうまくいくから心配するなとしか。
返事ありがとう。
まさに「基礎を自分でしっかり」やれるような優秀なヤツに関して言えば、受験など定期テスト並の「程よいハードル」に過ぎないんだよね。ライフハッカーに優秀な人間なんていない、というのは、ホント同意。
ちょっと話を整理するけど、根岸氏・元増田、そしてオレの三者が(たぶん)共通に同意できるのは「丹念に基礎やるのは大事」って部分だと思う。これはオレも本当にそう思ってる。
で、それを踏まえて
と言ったわけで。
元増田は(b)受験ハッカーの跋扈する時代でも勝てる(a)基本型人間であり、ホントに優秀なんだと思う(お世辞でなく、受験システムへの認識の仕方を見ればそれが分かる)。でも今の日本の受験システムの勝者には「ハック型人間(受験ハックの購入ができなければ勝てなかった人間)」が多々混じっているのも事実だと思うんだ。オマケに、受験産業がますます受験ハック型になっていっている結果、ますます自分でモノを考えない受験ハッカーが増えているように感じる。そして、そのことに結構な人間が危機感を抱いてる。少なくとも、オレが少し前まで関わってた「現代の大学受験の最前線」あたりでは。
結局、根岸氏をトンデモ扱いしたり(現代の教育を取り巻く風景を無視して安易に昔の感覚で語ってるという意味で)、元増田に批判的な文章というのも、そういう危機感から生まれてくる声なんじゃないかとオレには思えるんだよ。単なる妬みや嫉みや自虐や見下しでなく。元増田にはその辺りへの配慮も欲しかったところだなあ、と。
まあ、そんなこといちいち配慮したらごくごく「無難」な文章になっちゃって、こんだけブクマがつく(愛される)記事にはならなかったかも、と考えると、非常に複雑なんだがw
女友達っていうのは、男にとってオカズであり、あわよくば肉体関係を持ってやろうというぐらいのものでしかありませんが。
もしかして、男女の間に友情があるって、本気で信じてるクチ?
そうだよ。だから僕はゲームを製造するということはバカを量産することだ、と常々言っている。