はてなキーワード: 街宣車とは
「社会がそんな表現を許さなくなったから変わるのは当然だ」って左派系が言い始めててひっくり返った。
いや、それを言い出したら、そんなものは許されないと左派系表現全部焼かれるよ。
マジで。
しかも電凸や圧力をかけてる事例まで、「社会が変わったから表現も変わるんだ」なんて言うのは卑怯だよね。
「自然に変わった」ではなく「変えさせた」んだよ。
その価値観に合わせて自然に変わるのならばともかく、無理やり返させるように圧力や嫌がらせをしておいて、
勝手に変わったかのようにいうのなら、右翼が電凸して街宣車を出しても、なんの問題もなく社会的要請で変わったことになる。
この論法。
自滅するよ。
だって、数から見たら明らかに左派系論壇のほうが表現規制にさらされてるんだから。圧倒的に。
どうなるかなあ。
当時中学生だった自分はさっぱり『愛国者達』の意味が分からなかった
その頃の自分にとって愛国者という言葉は、黒塗りで街宣車を乗り回す変な人達であって、現実がまるで見えていない、ちょっと可愛そうな人達というイメージだった。そんな影の権力を持つ結社の名前として、あまりにもダサく感じられた。
しかしナショナル・アイデンティティの高まりに伴って、今ではアメリカの歴史の裏側に『愛国者達』が存在し隠然と影響力を行使してきた、という設定を違和感なく受け入れることができる。これはもちろん「フィクションの設定」として、ということであり、現実にどうかではない。
ただ、2001年の当時は、なぜ黒幕として『愛国者達』という言葉を当てたのかが分からなかったのが、今ではよく理解できるようになったのだ。
この時期になると靖国神社が話題になるが、地方都市育ちの私にとって靖国神社は左翼と右翼の対立の地だと考えていた。
付近の道路は旭日旗で武装した街宣車が国歌や軍歌を大音量で流しながら走り回り、神社の前で左翼と右翼の有力者がそれぞれマイクパフォーマンスをし、時にはMCバトルをする。武装した警察官はその様子を遠巻きに見守りながら暴動に備えている。靖国神社はそんな場所だと想像していた。
数年前就職活動で東京へ行った時に、左翼と右翼の対立を遠巻きに見てみようと物見遊山気分で靖国神社へ行くことにした。日曜日に靖国神社へ行って暴動に巻き込まれたりしないだろうか、できれば人が少ないであろう平日に行きたかったな、と考えていた。結論から言えば、その心配は杞憂に終わった。
靖国通りは人混みや街宣車がいるだろうと考えて、九段下駅を降りてからは路地へと入っていった。富士見書房本社(現:KADOKAWA)や地方都市育ちの私でも名前は知っている白百合学園があることを除けばごく普通の閑静な住宅街であった。ほとんど人とすれ違うことなくたどり着いた靖国神社の入り口は「七五三 受付中」の垂れ幕があるだけで、政治的要素の無い至極普通の神社という様相だった。
神社の中はちらほらと参拝客がいるだけで、左翼・右翼どころか団体客や家族連れすらいなかった。神社内に靖国神社の由来を説明する看板があったが、戦死者に対して哀悼を捧げる文章が政治的要素無く書かれていただけだった。鋳物の大砲が展示されているのを見て、食堂で海軍カレーを食べて、売店へ行った時にようやく政治的要素を発見した。小林よしのりの著書がズラリと並べてあったのだ。だが、発見できた政治的要素はそれだけだった。小林よしのりには特に興味がなかったので、大砲の形をした瓶の瓶詰めキャンディーを買って靖国神社を後にした。
数年前の実体験なので今はどうなっているかわからないが、メディアが靖国神社を報道する頻度は年々縮小傾向なので、今も靖国神社は静かな神社であることに違いはないだろう。
集団ストーカーに、大きい車乗りはあおり運転冤罪をでっちあげられます。
ニュースでは、被害者役と逮捕役と通報役としか報道されませんが、実際は他にも一般車を装った仲間が、2、30人か、もっといます。
もちろんでっちあげで逮捕されて裁判にかけられるので、やってないといっても無駄です。
あおりがあおりじゃない人を逮捕しているだけなので、あおりにあおりを訴えても捕まりません。
幹線道路沿いのポスターに、「あおり運転ご用心見たら110番」という看板がありますが、インターネットで調べると、あおり運転被害者が警察に追い返されたという書き込みが多いです。
鉄道オタクの迷惑行為を批判したりDQNの非行に物申すと家の近くの道路でヤンキー車や街宣車が群れを成して騒音運転して威嚇させられたり、見せしめに近所で迷惑沙汰を起こされたりします。
私は安倍総理の私邸のすぐ近くに住んでいるんだけど、ここ最近、週末は常に街宣車やデモ隊がやってきて長い時間抗議活動をしている。(これを書いている今もデモ隊が来てる。)私は抗議活動自体は国民が持っている権利だと思うし、今の政権はそりゃ抗議活動されてもしょうがないわなとも思っているんだけど、ステイホームで家に篭っている中で、家の中にずっと抗議の声が聞こえてくる状況は正直かなりしんどい。家の中ではノイズキャンセリングヘッドホンをつけて過ごしているけど、ノイズキャンセリングヘッドホンって人の声は結構通すように出来てるみたいであまり意味がないのも辛い。
そもそも安倍総理はなぜ首相公邸に住んでいないのだろう。溜池山王の首相公邸に住んでいてくれさえすれば、富ヶ谷の住民がこんなストレスを受ける必要はないはずなのに。ついでに言うと、安倍総理が車で出かけるたびに山手通りの交通が警察によって一時的にストップされるので毎朝のように軽く渋滞が発生しているのもどうかと思うし、24時間警察バス2台体制で警備にあたっている費用って、一体年間でいくら発生しているのかってのも気になる。(そもそも首相公邸に住んでいれば発生しない費用では?)もう7〜8年この状況が続いてるし、警備費用に軽く数億はかかってるのでは...。
どこに住もうと自由と言われればそれまでだけど、多くの首相が首相公邸に住んでたことを考えると、やっぱりちょっと変なのでは?と思ったりする。せめてこういう時位、首相公邸に住んで仕事に取り組んで欲しいと思うのは贅沢なのでしょうか。
いやね、それらの新聞って社是として左巻きの記事を載せているわけじゃなん。
それ自体は(嘘をついてない限りは)構わないと思うんだよ。
読売や産経のような逆パターンもあって、その両方を読むのがメディアリテラシーって考えもあるし。
けど、この現代っていう日本含む世界全体では、若者っていうのは総じて"右傾化"している。正確には、リベラル離れが明確になっている。いまの60代が街宣車の連中を馬鹿にして、40代がネトウヨを馬鹿にしてきたように、20代はヴィーガニストやツイフェミを馬鹿にする。
どうも右とか左とかいうより、イデオロギーに同調しなくなっている、と見るのが最も正確らしいが。
そうなったときに、左寄り報道っていうのは大幅に不利だと思う。右寄りよりもだ。
なぜなら、報道がイデオロギーに寄った記事を書いてきたのは、想定読者層に寄った記事を書いてきた面があった。リベラル層の読者はリベラルの記事を読んで気持ちよくなったし、保守層の読者は保守の記事を読んで気持ちよくなった。でもイデオロギーを読者が信じなくなったときに、保守紙には日本ホルホルの気持ちよさが残るのに、リベラル紙には何も残らない。まさか中韓ホルホルの気持ちよさで読者をつなぎとめるのか。それを実際やっているかもしれないが、いかんせん親中韓派だけをターゲットとするのは母数が少なすぎる。
そんな訳で、左巻き記事には、まずマスゴミとか偏りとか馬鹿にされる頻度が増えていく(いる)。それによって売り上げが減るし、多分一番致命的なのは新入社員の質が落ちていくこと。その世代を代表するような優秀なやつが応募を避け始めたり、入ったとしても早期に退職独立したりしだすと思う。
その時に上層部は方針を転換するか? しないと思う。だってイデオロギーだからだ。読んだルポによると、そもそも朝日新聞がアカ寄りになったのは、70とか80年代に社内で派閥抗争があったらしいぞ。それがいまさら変わらないよね。昇進させるのも思想が合致する社員にすると思う。
でも思想が合致する社員が優秀である確率は、今まさに下がっているはずだ。
グレタ・トゥンベリをみてると美少女賢者の預言者扱いしてるメディアがたくさんいる。
バッカじゃねえのかなあと思う。
10代前半のジュニアアイドルが、反原発を打ちだしたら左派系メディアやご意見番が一気に持ち上げて、街宣車に乗せたりいろいろ喜んだってあれ。
彼女がその後どうなったのか、覚えている人がいるだろうか? ちょっと調べてみたら、理学療法士になっていた。
要するに政治運動に持ち上げられる生活を離れ、きちんと別の道を歩むことができるようになっていた。
グレタさん本人もこの扱いに辟易し始めてるらしい。彼女のいうことは年相応の少女の物であり、はっきり言ってそれに大人が右往左往するのは愚かだ。ただの偶像化であり、グレタ本人ではなく、政治主張に合致する偶像がいたから利用しているだけなのだ。彼女の意見など真新しいものではない。ただ、少女が言ってるということに多くの偶像化の利用価値があるだけだ。
が、彼女もそのうち大人になり、自分の人生を歩むことができるのだろうか。
そこが不安だ。
○ご飯
○調子
むきゅーはややー。午後3時ぐらいから爆音を流す街宣車がたくさんで頭痛くなっちゃってぐったりしてた。むきゅー、なんか今月はずっと調子悪いな……
面白かった。僕の好物がテーマに据えてあるという点を差し引いても、とても面白かった。
奇想な殺人と、それを解き明かす丁寧なロジック、そしてそれを彩る名探偵。
山火事が迫る館で発生した殺人事件を解決する話で、名探偵が解くべき謎と名探偵が解くとか解かないとかない今目の前にある命の危機、この二つの側面が描かれている。
この方式は、名探偵を絶対の神という定義に起き続けることの難しさを、物語全体で示すことができていて、僕は割と好きな舞台設定だ。
特に今作では、名探偵の定義を揺さぶるいわゆる「名探偵の苦悩」に、相当な尺を割いているだけあって、この話題が大好きなので、とても楽しく読めた。
物語を締めくくる最後の慟哭は、物語の最後ではあっても、このキャラクタたちの最後ではあってほしくないと祈りたくなる、辛くて悲しいけど、先を期待させる締めくくりだった。
ミステリ界隈には数多くいる悩める名探偵にまた一人魅力的な名探偵が増えたことを、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかはわからないけれど、
少なくともこの作者の他の作品や今後の作品を追っていくのが楽しみだ。
これぐらいはやっとかないと流石にね。
クリア。
なんか最後の方駆け足すぎて、本のページを読み飛ばしてしまったような妙な感覚だ。
SMのときは割と長文の感想を書いた記憶があるけど、今回は…… ちょっと割と真面目によくわかってないから、書きようがないな。
クリア後のシナリオをこなしたら、どうしようね、レートやる? うーん、Home解禁後でも、いいようなわるいような。
ソードも買ってあるので、もう一周ってのもなくはないな。