はてなキーワード: ママととは
精神も肉体も壊される
努力でどうにもならない
どう転んでも歪む
まともなコミュニケーションが取れない
発達に大きく影響
どうしてもいざという時の頼り先が1人になってしまうのでスタートラインが後退する
親に余裕がなくなったり、恋人ができたりすると唯一の頼り先まで失い不良化しやすい
この場合他の親戚が頼れるかどうかでだいぶ変わる
親の常識を子は学ぶ
このような状況で本人の努力と言われても無理
なんで前日からコツコツとパーティーメニューを準備していたのに、みんなでテーブルについて一緒にパーティーできないわけ!?
M-1グランプリ観たいパパとみんなで食卓テーブル囲んで食事したいママと、そんなのどうでもいいから早く食べたい子どもと、泣きぐずりする赤ちゃんと!!!
コタツでテレビ観ながらM-1観るなんてできないのよ!!!赤ちゃんが私の丹精込めてつくったパーリーメニューをドンガラガッシャーンするんだから!!!
テレビを消しなさい!今すぐ消しなさい!
サンタっている設定といない設定のどっちがいいんだろうなってこの時期のクリスマスエピソード見てると思う
各家庭では自由でいいと思ってるんだけど、保育園とか幼稚園は確かにクリスマス会?みたいなのやるだろうし、そこには当然中の人がいるタイプのサンタ来たりするじゃん。
そういうときにいない設定でやってる家の子が「えー、サンタなんていないよ。ママとパパなだけ」みたいなことを言ってしまうのはしょうがないんだけど、じゃそういう共同幻想っていつまで守られるべきなんだとか、そもそもホントはいないものをママとパパが嘘ついてたんだってショックだった、みたいな話を見かけると初めからいない設定のほうが良いのか?とも思う…
でも、子どもの時サンタさんってほんとにいるのかも!みたいに思う気持ちも、大事にしてあげたい気もするしなー……。いる設定の家/いない設定の家が混在してるの、保育士さんとか幼稚園の先生ってめっちゃ大変そうだな〜と思う 他人事ですまんけど
幼馴染にキレてる場合じゃない、ちゃんと大好きな母親に怒ってやれ
ほんとうに幼馴染のことを想うならきちんと彼女の家庭で子育てができるように促すべきだと言ってやれ
もちろん子どものために近隣のサポートがあるに越したことはない。だけどそれは実際のママとパパが十全に責務を果たす努力をしてることが前提の話だ
俺は全然優しくない独身なのでこの幼馴染がどうなろうと知ったこっちゃない
万が一増田両親がコロナにかかり重病化したりして(マザコンなのに辛いこと想像させてごめん)子供の面倒見るどころじゃなくなっていきなり旦那も実家も頼れない状況に立たされた幼馴染が誰にどう縋るのか見物だな、くらいにしか思えないので、増田の母親に言え。幼馴染をぬるま湯につからせるなと
ブコメ稼ぎを否定はしないが、ブコメ欲しさに政権叩きとか嘘松とかし出したら私は人間としてどうかと…
だが、それすらも最近はこのサイトでダメなことでは無いと気がついたのだ
「名前を隠して楽しく日記」というのがどうにもおかしくなる。そもそも楽しく日記ならアメブロやnoteに書いている、名前をわざわざ隠したりしない。じゃあ運営の想定する「楽しく日記」とは何だったのだろう
「今日は夫と買い物 想い者持ってくれてありがと」
とか
とか
を想定していたのだろうか?
まあ日本死ねが実は議員の日記で議員に監視されてる事が発覚した時点で「楽しく日記」なんてものは出来やしないだろう
それでも私はしょうもないブコメも稼げない日記を投稿し続けたいと思う
「あ、そこにあるのは……おっ、ぱいじゃないか」
猫飼いの人には是非読んで欲しい。特に、猫とのお別れを経験した人や、ペットロスになった人には響く内容になってるので。
まずはDavidという曲がどんなものなのか、先入観を持たずに聴いて欲しい。
この曲は1986年「やっぱり猫が好き」という深夜のドラマ(?)のオープニング曲だった。
やっぱり猫が好き(やぱ猫)は、恩田三姉妹(長女かや乃:もたいまさこ、次女レイ子:室井滋、三女きみ恵:小林聡美)が繰り広げる、ドラマのようなアドリブトークのような、時にはドタバタを含む深夜番組。
日本を代表するコメディエンヌが3人だけで毎週様々に起こる日常の小さな事件(主にレイ子が事件を持ってくる)をゆるゆると乗りこなす、そんな「日常系」の深夜ドラマ。事件と言っても些細なことで、寝苦しい夜に一緒に寝ようとか、すき焼き食べてたらハエが出たから外に追い出してたら、ベランダのロックがかかって閉め出されたとか、ドタバタとユルユルが融合した、本当に面白い番組だった。三谷幸喜脚本も多々あり、三谷幸喜の出世作とも言われている。この番組きっかけで小林聡美と結婚した、という伝説の深夜番組なのである。
まぁ、それはおいといて。猫が好き、というタイトルのわりに「サチコ」という猫が、たまーに出てくるだけのドラマなんだけど、このタイトルとDavidの結びつきが、試聴してた頃はなんとも思わなかったんだが、最近になって、この歌詞の意味がスーッと理解でき、このDavidの歌詞を深く理解するに至り、この曲を思い出すだけで泣いてしまう状態になってしまった(ノ∀`)
これは、解釈としての一部であり、本当のところはどういう意味で矢野顕子が歌詞を書いたのかはわからない。
でも、この曲は「やっぱり猫が好き」な人でない限り書けない曲だと思ってる。
矢野顕子いわく「Davidって誰?」と聞かれるけど、誰でもない。と答えている。ダビデだ、という説もある。
しかし、この「誰でもない」はこの歌詞を読み解くひとつのヒントとなる。
果てしなく広がる街から ひとり離れて
ここへ置いていって
静かな微笑みを 遠い日々の歌を
どんなにか つらかった日々を
あなたは 見つめた
よく笑い よく泣くあなたの 話を聞かせて
こんなに近い 同じ思いで
ここで待っているよ
聴こえるでしょメロディ みんなで待ってるよ
私のともだち Oh David
歌詞を書いただけで、もう涙が止まらなくなってるんだけど、頑張ってひとつずつ解説したい。
この曲は、亡くなった猫が飼い主を思って歌ってる歌なんだ、と。
つまり、Davidは飼い主であり、私は天国にいる猫だ、と解釈すると、この曲の意味がわかってくる。
果てしなく広がる街、というのは、猫の視点からすれば、ただの街ではなく、そこは果てのない大きな大きな街に見える。
ひとり離れて、というのは、亡くなって離れていった。
あなたの手紙、というのは、たぶん火葬する時にDavidは手紙を書いて、その猫とともに天国に持たせたものなんだろう、と。
だから、読み返すうちに思い出が蘇ってきた、と。
こんなに遠い ということに対して「時間も場所も」というのは、やはり猫の時は止まっているけど、Davidの時間は進む。だから時間も、という表現になる。
ここへ置いていって欲しいのは、静かな微笑みや楽しげに歌ってた日々。つまり、Davidにはペットロスを乗り越えて、日々を進んでいって欲しい、という猫からの願い。
どんなにか辛かった日々を というのは、多分闘病していた猫の辛い日々や、ペットロスになったDavidの日常を空の上から見つめていたんだと思う。
そして、泣いて笑って、そんな日々を思い出して「ここで待っているよ」って、天国で再会することを待ち望んでいる。
みんな、というのは、きっとこの猫より前に飼っていた猫たちのことだろう。会いたいという気持ちは、飼い主だけでなく私たちも同じだよ、と。
最後に「わたしのともだち」というのは、飼い主のことを友達のように思っていた、ということなのかな、と。
パパやママという感覚ではなく、猫としては飼い主を友達のように思ってた、っていう。
この解釈でDavidを聴くと、涙が止まらなくなる呪いがかかるでしょうw
「やっぱり猫が好き」というタイトルだけ聞いて曲を書いた矢野顕子さんが「失ってもまだ猫の心と私の心は繋がっている。寂しいけれど、やっぱり猫が好き」という気持ちでこの曲を書き上げたのではないかな、という推測が成り立った。実際はコメディ番組だから、ここまでの深い考察をするまでは、まったくそんなこと、思いもよらなかった。
自分も先代の猫たちに会いたくて、今でも泣いてしまうけど、この曲の意味をこう解釈することで、亡くなった猫への思いを整理つけてペットロスから抜け出せるような気がしている。
娘の運動会には毎年必ず参加する。
私が娘の帽子をもらって入場門の列に並ぶと、周りは誰かの父親ばっかりだった。応援席では誰かの母親が頑張れって応援してて、児童席では私の娘が真顔でこっちを見ていた。私は元々運動は得意では無いので、保護者競技は余裕で最下位だった。
退場列の中で、他所の家庭の声援を聞きながら、ふと、ここに夫がいれば良かったのに、と思ってしまった。
「(生きて)いれば良かったのに」に高速変換される。そして「もういない」と続く文章を自覚した瞬間に、突然いろんな言い訳と後悔と思い出がどばどば溢れてきて涙が止まらなくなった。
肩凝りがやばいって笑う夫に湿布を貼ったこと、なんてマヌケなんだろう。コロナ禍なんて気にせず病院に連れて行けばよかったのに、せめて私がもう少し早く仕事から帰っていれば良かったのに。
救急車の赤いライトが眩しかったこととか、病院のよくわからない部屋の前で立ち尽くしたこととか、喪服代わりの黒いワンピースを着た2歳の娘とか、お寺の手配とか、元義両親との今後の会話とか
夫と過ごしたなんでも無い日のこととか、
一瞬で色々なことがフラッシュバックした。
四十九日の時に元義両親から「あなたは強いね」と言われた。ずっと取り乱さず、落ち着いていたね、えらかったね、と。元義母が泣きながら「あなたみたいに強くなりたい」と私に言った。私はずっと呆然としていた。私が落ち着いているように見えたのは、彼が死んだ実感がずっと無かったからだ。ずっと他人事のようで、現実から目を背けて、淡々とふわふわとしていた。でも何故か体重は12kgほど落ちていて、実の両親は私を見て何故か泣いていた。
そして約3年後の今、娘の運動会で保護者競技後に、私は何故か死ぬほど取り乱している。
夫のことは、もうどうにもならないとわかっているはずなのに、涙が止まらず、目の奥で水風船が爆発したみたいだと思った。
たぶん私は自分の地雷を自分で踏んでしまった。それも娘の保育園の保護者競技の退場列の中で。よその家庭と自分の家庭を無意識のうちに比べ、夫がいない実感に自爆した。
運動会の帰り道、首から金メダルを下げた娘に、「○○ちゃん、はしるのにがてなんだね」と言われて、ごめん、と謝った。べつにいいけど、と娘が返す。
娘は、夫が死んでからしばらくして何故かママと呼んでくれなくなった。私をママと呼ぶ人は少数派だからか、私の実両親や実姉のように、私を「○○ちゃん」とあだ名で呼ぶようになった。あだ名で呼ばれる度に、この子にかけた心労とこれからを考えると地味に辛くなる。娘はもう父親を覚えていない。
元義両親との会話を思い出す。
元義両親とはまだ仲が良くて、「20代で、まだ若いんだから、」と再婚を勧められる。
元義両親はずっと優しい。本当に私の人生を思ってくれていて、早く再婚した方が良いと言う。けれど、もうその話をしないで欲しいと断っている。死んだ人の代わりを探すなんて、宝物の無い宝探しみたいだと思う。こんな発想しかできないから、このままでいるべきだとも思う。
保護者競技の写真、走ってる時の私の顔が必死過ぎて、本当に不細工だった。展示するのをやめてくれと思った。
買った写真を見ながら娘が「⚪︎⚪︎ちゃんがうんどうかいにきてくれてうれしかったんだー」と言う、言ってくれる。それが、本当に自分勝手な自惚れだけど、救われる。私も嬉しかった。
文春によると羽生は安倍首相とも懇意で、安倍首相に「地元から嫉妬されている」と愚痴った事もある、とあったが。
(文春は、だから同じく安倍首相と繋がりのある一族の女性と繋がったんだろう的な論調だった)
同じ陰謀論なら「政治的な理由で周りが宛がった見合い婚で本人たち同士には元から愛情など無かったからすぐ壊れた」って方がそれっぽいけどな
羽生はその辺礼儀正しいので、自民党絡みの人付き合いに抵抗がないのであれば、入籍発表前に公表を控えるよう山口の地元に直々に頭を下げに行ったと思う。
自分方の仙台に住んでる祖父母(母親が自分から電話する程度には仲が良い)にすら挨拶に行かないどころか結婚相手の事も話してなかったくらいなんだから
つーか結婚相手や親族にこんな態度をとる人間が「礼儀正しい」の?さすがオタは感覚が違うわ
通勤には大きめの駅を通るので、毎日のようにクリスマスに彩られた街を見なければいけない。買い物に行けばどこもかしこもクリスマスソングが流れている今日この頃。
そんな街を通ってクリスマスを実感するたびに気が滅入る。
別に彼氏がいる年もいない年も、クリスマスに彼氏がいなくて悲しいとか、焦るとか、そういう感情は一度も抱いたことがない。
私にとってクリスマスと恋人というのは結びついていないからだ。
私がクリスマスを感じるたびに憂鬱になるのは、一人暮らしを始めた去年から。
もうファンヒーターと暖房で暖められた、少し灯油の香りがする部屋で、ママの作った少しだけクリスマスっぽい料理とケンタッキーのチキンを囲みながら、ママとパパがそれぞれ用意してくれた、クリスマスの包装に包まれた2つのプレゼントを開けて、いつもよりちょっぴり早く寝て、サンタさんのプレゼントを待つクリスマスは手に入らないのだと絶望感に襲われる。もう私は、サンタさん側にしかなれない。ずっとサンタさんを待つ子供でいたかった。