はてなキーワード: 洋画とは
推移を見ると、洋画が邦画を明確に上回っていたのは1990年〜2005年までなんだよな。
特に1998年〜2005年までの洋画の興行収入は飛び抜けてる。
最近になって人気が衰えたというよりも、
この期間の特異性を考えたほうがいいかもしれない。
追記。参考にしたページ貼っとく。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/5666.html
映画でも中国や韓国含めて世界中で大ヒットの洋画が、日本ではそこそこくらいの結果しか出せていないことが多い。
昔はみんな洋画を観ていたのに今の若い人は邦画やアニメ映画の方が人気だ。
それが良いとか悪いとかではなくて、戦後に急激にアメリカや欧米への憧れを強めて文化を取り入れまくった日本が、また文化的な鎖国傾向にあるのが不思議。
海外からの文化で今の日本の若者に影響を与えているのは韓国のアイドルや音楽くらいだと思う。
資料ありがとう。これを見ると確かに明確に洋画が邦画を上回ってるのは1990年~2005年なんだな。
ただ、公開本数は圧倒的に邦画の数が多かった1970年から1985年までの配給収入が邦画と洋画はほぼ変わらないことも留意したい。
これ、洋画しか見ないと言うならわざわざ「実写」なんてつけずに「邦画」を見ないと書くだろうから
アニメ映画は見てるって事だよね。
んで散々指摘されてるけど、統計を見ると「日本の男性はアニメ映画を見ている」のであって「日本の男性は映画を見ていない」のではない。
でも敢えて伏せた。そう書けば「アニメ好き男だってただ萌えキャラや声優しか興味なくてストーリーなんかどうでもいい低俗な連中だろ」と突っ込まれるから。
だから、自分とは関係ない「実写邦画が好きな男」を持ち出しつつ映画見る男の多数派であるアニメ好き男の事は伏せて
話を女叩きに持って行った、と。
実際は、増田が盾として用いた「日本の映画を面白くしたい、売れるようにしたい、海外で見てもらいたいとか思ってる、実写邦画が好きな男」
「日本の映画がつまらないのは、ストーリーなんかどうでもいいような低俗な客が多いからと思ってる男」は
アニメ好き男の事も嫌いなんじゃないですかね?
男性と女性では映画鑑賞の仕方が違うって話を何処かで見たな。たぶん「ホンマでっかTV」あたりなのであまり信用出来ないのだが
これがまあ当てはまると仮定するとこんな感じか
男性の場合、プロデューサー・監督・脚本家あたりの目線で映画を観るので、もし自分がこの映画を作るならこうしてた的な感想を持つ。
なのでキャスティング・演出・ストーリー展開あたりに注目する。
予算が潤沢な大作洋画なら色々こだわることができるので男性好みになり、逆にイメージと違うキャストに棒演技とクソCGなんてことになると男性は叩くことになる。
作品全体の質が満足度につながるので、鑑賞前では判断のつかない"ギャンブル"要素が強くなり、評価の定まった映画にしか足を運べなくなる。
調査結果を見ると「好きなシリーズ」あたりがその傾向で、「好きな原作小説」もストーリーは確実に面白いと評価できてるからかな
女性の場合、映画に出てくる誰かの目線で映画を観るので、もし自分が主人公の彼女やヒロインだったらどう思うか的な感想を持つ。
なのでいかに自分が共感できるかが重要になる。自分に近い設定だと共感度が高くなり、逆にあり得ない設定でも疑似体験的な楽しみ方ができる。
好きな俳優に自分はこんなことを言われてる、憧れの女性として振る舞うことができる、みたいな感じか?
だから好きな俳優・女優が出ている、あるいは憧れの設定などの映画であれば楽しめるし、それらの情報は事前に取得できるので映画に"ギャンブル"要素が少なくなる。
調査結果で「好きな俳優(女優も含まれるよね?)」がダントツなのはその傾向で、「予告編を見て」で映画に足を運べるというのも男性と確実に傾向が違う
的外れならゴメンね
引っ越しのため、片付けをしていたら、
書いた時を思い返すと、こんな状態でよく留年とか退学とかしなかったなあと思う。
捨てるのもなんだかもったいない、だがまたいつか見返したい、
ということで、ここに書き起こしてから捨てる。
今思うと相当追い詰められてたなこいつ…
自分はなぜ生きているのか、なぜこんなに愚図なのか。
何でもできるという虚栄心に浸って、本も読まず、有りもしない形での他人の救いを求めて、
慢性的になって、でも一人になるのが怖くて、でも和まりが怖くて、超当たり障りのない付き合い方しかできなくて、
自分の能力も上げず言い訳して、引きこもって、全てまわりのせいにして、
なんなんだ、こいつ。
やらない理由なんていくらでも浮かんで、他人を否定することばかりして、
何もしていないのになにかしている人に対して、優越感を感じて、虚栄心を満たし、
決して満たされない頭の穴にそれを流す。そんなの意味がない。
言葉ではわかっている。
ああ俺何がしたいんだっけ。今の自分のような人間になりたくない。
心のどこかで感じていたけど、結局周りに流されることしかできなくて、思考を停止させる。
結局そう思っていただけ、何になりたいかなんて考えていなかったと思う。
考えてもなれないと、なれなかったとき辛いだろうと思っていた。
何に対しても自信がなくて、結局他人が良いと思いそうな有りもしない思いを伝えて、
まあ、実家のせいなのかな、父は受験期に自殺、母親は過剰に自分の自発的行動にケチをつけ、
姉は毎日誰かしらに喧嘩を売り、一人でイライラして、癇癪を起こし、おかしいといえば、号泣する。
自分が統合失調症とかかじゃなくて、今思っても冷静に考えても、
どこか機能が不全な家族であることは、実家を離れて2年以上たった今でもそう思う。
こういうことを人に話したら、思い切る勇気が無いと言われたが、
根底にあるのは異質な実家をぬけだしたい、でも進路を全力で否定するような実家という状況を直視した
という状況にならないと第三者の目で見られないと思う。
家を抜け出すためにどうすればよかったんだろうか。
その希望を掲げて行動する気は湧いてきても消されたと思う。
書いても書いても、実家の居心地が悪かったからこんな事になった。ということが出てくる。
でも周りを見るといままでにそんなことが無いように見えて、とても眩しく感じる。
実際は一人ひとり違うと思うが。
でも、きっと世の中の人間はここまで卑屈な思いを経験することがなく、生まれて死ぬんだろうな。
人間なんて、意味もなく生まれて、意味もない行動をして、意味もなく死ぬ。
結局たまたま自分という意識を持つよくわからない一つの何かでしかない。
結局の所、自分の頭に湧いてくる、気にしていること、死ぬほど辛いことなんて、
文字にすれば過ぎ去ったことでしか無いことで、もう現実にはないことで、
書いても自分の頭が整理されるだけで、なにも生産性のないことだと思う。
こういうことを書き始めてから1年ぐらいかな、もうなんだかわからない。
心の病や心理学の本を読み漁った結果、
つまるところ、この3語で、自分の気持ち悪く感じていることは説明できると思う。
これを以上として見るなら、誰にも当てはまるんじゃないか、あっても何も問題ないんじゃないかと思うが、
まあ、心が長持ちしないし、一般にはそこまで尖った人間は目立っても相手にされないだけで、世渡りが下手なんだろう。
こう書いてみて、再び思うが、哀れな一人の人間の、治しにくい、典型的な問題でしか無いということがよく分かる。
何なんだろう、これからどう生きていこう。
今まで生きてきて行動してきたエネルギーなんて、
こうして文章化されるまでもやもやしていた「わだかまり」に対してでしかなく、
何も頭に入ってなく、成長していないと思う。これもまた経験なのかなあ。
ふと思い出したが、父親が自殺したあと精神科に言ったことを思い出した。
精神科に行く前から上述のような中身の人間だったのでもっと早めに行ったほうが良かったと思う。
それはさておき、治療していた頃のことを思い出して書いてみよう。
認知行動療法らしいことをしてもらったが、
欺瞞に欺瞞を重ねてきた人間の本当のトラウマなんて、簡単には認知できないと思う。
紐解くのは本当にエネルギーを使う。
PTSDは残ったものの、根底にあるのは慢性化したもので、自殺したこと関係ないと思う。
まあ自分で欺瞞をつくって、それを重ねて、それを壊して、いまも壊し続けていると思うと、
こういう人間は外に注意が向いているようで、全く向いていない。
自分だけの度が強い色眼鏡を堂々と掛けていて、映る像は自分の思い込みが強く入っている。
欺瞞はさておき、人間みんなそうなんだろうと思うけど、度が過ぎると心が持たない。
どうしても自分の色眼鏡を変えたくないっていうのは、自分が間違っているのをどうしても認めたくないってことかな。
臆病な自尊心、尊大な羞恥心に包まれていることを自覚しなければなならない。
なぜ認めたくないかっていうのは、
自分の経験上では、それを変えようとしたところで、目指すものはない。対象があったとしてもイメージできない。
そこを指摘しても、うまく言って洋画、うまく言っていなかろうが、
「今までこれでやってきた」が与える力は測りしれない。
認知的不協和を自己欺瞞(しごく勝手で都合のいい解釈)で簡単に解決したと思い込み、
それを重ねると誇大妄想に至る。
読み返すと恥ずかしくなるけど、こういうものを書き続けてきたからこそ、
やっぱ自分の頭の中を出力するのは大事だね。タイピング早くなるよ!
時間をふんだんに使って、小説や専門書、映画や漫画を漁ったなあ。
どんな作品にしろ、人間である作者がそれに時間を掛けて制作したってことが、
少しでもわかるようになったので、少しは成長したと思う。
長崎 洋画の吹替に近いのですが、洋画の吹替ほど“オーバーアクト”しても合わないんです。あ、これ世の中のほとんどの人が誤解されてると思うのですが、洋画の吹替のほうがアニメより誇張したセリフ回しで演技しているんです。実はアニメーションの演技のほうがリアルなんですよ。そこをまず世の中の多くの人が誤解してる。
監督と打ち合わせしてても「この作品はリアルにいきたいので洋画や海外ドラマの吹替声優さんを集めてください」と言われることがあるんです。でも「もしリアルにしたいならアニメの声優さんを集めましょう」というところから言わないとわかってもらえない。
これは私も音響監督を仕事にするまで誤解してたんですけど、英語の口の動きに日本語の口の動きでしゃべる言葉を重ねても上手く合わない。すごくオーバーアクトしないと英語の吹替に合わないんです。同じように韓国ドラマや中国ドラマに(英語の)洋画の吹替声優さんが来て声を当てても合わない。それは韓国や中国も日本に近い表情や口の動きだからで、そこにオーバーアクトで声を当てても合わない。だから顔出しの俳優さんが、自分が演技している感じで吹替えたほうがナチュラルに見えるはず。それと同じ理屈でリアル思考のアニメは顔の表情をあまり誇張しませんから、精神的な内面の部分で表情豊かに話すほうがリアルに聴こえる。
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