引っ越しのため、片付けをしていたら、
書いた時を思い返すと、こんな状態でよく留年とか退学とかしなかったなあと思う。
捨てるのもなんだかもったいない、だがまたいつか見返したい、
ということで、ここに書き起こしてから捨てる。
今思うと相当追い詰められてたなこいつ…
自分はなぜ生きているのか、なぜこんなに愚図なのか。
何でもできるという虚栄心に浸って、本も読まず、有りもしない形での他人の救いを求めて、
慢性的になって、でも一人になるのが怖くて、でも和まりが怖くて、超当たり障りのない付き合い方しかできなくて、
自分の能力も上げず言い訳して、引きこもって、全てまわりのせいにして、
なんなんだ、こいつ。
やらない理由なんていくらでも浮かんで、他人を否定することばかりして、
何もしていないのになにかしている人に対して、優越感を感じて、虚栄心を満たし、
決して満たされない頭の穴にそれを流す。そんなの意味がない。
言葉ではわかっている。
ああ俺何がしたいんだっけ。今の自分のような人間になりたくない。
心のどこかで感じていたけど、結局周りに流されることしかできなくて、思考を停止させる。
結局そう思っていただけ、何になりたいかなんて考えていなかったと思う。
考えてもなれないと、なれなかったとき辛いだろうと思っていた。
何に対しても自信がなくて、結局他人が良いと思いそうな有りもしない思いを伝えて、
まあ、実家のせいなのかな、父は受験期に自殺、母親は過剰に自分の自発的行動にケチをつけ、
姉は毎日誰かしらに喧嘩を売り、一人でイライラして、癇癪を起こし、おかしいといえば、号泣する。
自分が統合失調症とかかじゃなくて、今思っても冷静に考えても、
どこか機能が不全な家族であることは、実家を離れて2年以上たった今でもそう思う。
こういうことを人に話したら、思い切る勇気が無いと言われたが、
根底にあるのは異質な実家をぬけだしたい、でも進路を全力で否定するような実家という状況を直視した
という状況にならないと第三者の目で見られないと思う。
家を抜け出すためにどうすればよかったんだろうか。
その希望を掲げて行動する気は湧いてきても消されたと思う。
書いても書いても、実家の居心地が悪かったからこんな事になった。ということが出てくる。
でも周りを見るといままでにそんなことが無いように見えて、とても眩しく感じる。
実際は一人ひとり違うと思うが。
でも、きっと世の中の人間はここまで卑屈な思いを経験することがなく、生まれて死ぬんだろうな。
人間なんて、意味もなく生まれて、意味もない行動をして、意味もなく死ぬ。
結局たまたま自分という意識を持つよくわからない一つの何かでしかない。
結局の所、自分の頭に湧いてくる、気にしていること、死ぬほど辛いことなんて、
文字にすれば過ぎ去ったことでしか無いことで、もう現実にはないことで、
書いても自分の頭が整理されるだけで、なにも生産性のないことだと思う。
こういうことを書き始めてから1年ぐらいかな、もうなんだかわからない。
心の病や心理学の本を読み漁った結果、
つまるところ、この3語で、自分の気持ち悪く感じていることは説明できると思う。
これを以上として見るなら、誰にも当てはまるんじゃないか、あっても何も問題ないんじゃないかと思うが、
まあ、心が長持ちしないし、一般にはそこまで尖った人間は目立っても相手にされないだけで、世渡りが下手なんだろう。
こう書いてみて、再び思うが、哀れな一人の人間の、治しにくい、典型的な問題でしか無いということがよく分かる。
何なんだろう、これからどう生きていこう。
今まで生きてきて行動してきたエネルギーなんて、
こうして文章化されるまでもやもやしていた「わだかまり」に対してでしかなく、
何も頭に入ってなく、成長していないと思う。これもまた経験なのかなあ。
ふと思い出したが、父親が自殺したあと精神科に言ったことを思い出した。
精神科に行く前から上述のような中身の人間だったのでもっと早めに行ったほうが良かったと思う。
それはさておき、治療していた頃のことを思い出して書いてみよう。
認知行動療法らしいことをしてもらったが、
欺瞞に欺瞞を重ねてきた人間の本当のトラウマなんて、簡単には認知できないと思う。
紐解くのは本当にエネルギーを使う。
PTSDは残ったものの、根底にあるのは慢性化したもので、自殺したこと関係ないと思う。
まあ自分で欺瞞をつくって、それを重ねて、それを壊して、いまも壊し続けていると思うと、
こういう人間は外に注意が向いているようで、全く向いていない。
自分だけの度が強い色眼鏡を堂々と掛けていて、映る像は自分の思い込みが強く入っている。
欺瞞はさておき、人間みんなそうなんだろうと思うけど、度が過ぎると心が持たない。
どうしても自分の色眼鏡を変えたくないっていうのは、自分が間違っているのをどうしても認めたくないってことかな。
臆病な自尊心、尊大な羞恥心に包まれていることを自覚しなければなならない。
なぜ認めたくないかっていうのは、
自分の経験上では、それを変えようとしたところで、目指すものはない。対象があったとしてもイメージできない。
そこを指摘しても、うまく言って洋画、うまく言っていなかろうが、
「今までこれでやってきた」が与える力は測りしれない。
認知的不協和を自己欺瞞(しごく勝手で都合のいい解釈)で簡単に解決したと思い込み、
それを重ねると誇大妄想に至る。
読み返すと恥ずかしくなるけど、こういうものを書き続けてきたからこそ、
やっぱ自分の頭の中を出力するのは大事だね。タイピング早くなるよ!
時間をふんだんに使って、小説や専門書、映画や漫画を漁ったなあ。
どんな作品にしろ、人間である作者がそれに時間を掛けて制作したってことが、
少しでもわかるようになったので、少しは成長したと思う。