はてなキーワード: 未来とは
子どもが卒業間近なのでもうすぐ終わるけど小学校のPTAの仕組みほんとに最悪だった。
転勤族なので何校か転校したけどどこもオリジナルにあふれたヤバさしかなかった。何なら転勤族だろうとなんだろうと重い役を押し付けてこようとする。
そもそも入会してないのに勝手に入れられてるのはなんなんだろうね。入った覚えはないのに引っ越したらすぐに集金にくるどこぞのNHKか。
体感では小学校に入って1年ぐらいは重い役を押し付けられることはないけど2年目からじわじわくるよね。
入った覚えはないから退会したいですって臨戦態勢になろうとしても、争う相手がふんわりしすぎていていまいち強く出れない。子どもを人質に取られてるからなおさらのこと。
そもそもPTA会長以下の本部を担ってる人たちもみんながやりたくない中、善意で引き受けてくれている保護者の方なんだよね。
会長も1年ぐらいしか任期がないし、いくら保護者代表とはいっても小学校の歴史を背負ってまでPTAをなくしますとかの改革はできないんじゃないんだろうか。
ちなみに自分の引っ越していた自治体ではどこも1~2年で校長も教頭も入れ替わる。
誰も小学校の仕組みを刷新することなんかできなさそうだった。だから戦後の小学校の成り立ち方のまんま今まできてる。
子どもも減って働いてる母親がこれだけ世にあふれて教職員のブラックが叫ばれて久しいのに何も変わらない。
みんな苦しいまま。
PTAなんてなくなって、そのぶん新しい役を持った教職ができて雇用も増えて子どもも大人ももっとハッピーになる未来がくればいいんだけどね。
クソみたいな家族の元育った。
ドラマの登場人物か?というくらい暴れるアル中無職の父親、全員父親の違う子供を5人も産んだアバズレオブザイヤー獲得の母親。16歳も年の離れた妹にヘラヘラしながら性的虐待する兄。学校に行かずシンナーばかり吸って気が向くと妹に万引きをさせるこちらも年の離れた姉。
私は毎日何が何だかわからないまま起きて眠っていた。心の支えは飼っていた犬猫だったが、犬はそのうち山に捨てられ猫は「人にあげた」と母が言っていた。多分捨てた。
父親は私がまだ保育園児のころに酒飲み運転で事故って人を巻き込んで死んだ。記憶にあるのは父親が暴れだしたら姉と2人、トイレに逃げ込んでいたこと。1枚だけ写真があったが、顔にも見覚えはない。知らない顔の濃いジジイだ。その写真も今は持ってない。
母親は私が小学生のころにくも膜下出血で倒れて俗に言う植物人間になった。そこから20年以上も生きて数年前死んだ。生きすぎなので死んでからも反省して欲しい。
母親が倒れたことで兄弟はバラバラになり、1番下の私は独身の母の妹に引き取られた。もちろん伯母も変わった人間だったが、母よりはマシだった。静かな人で、スナックのママをしていた。彼女のことは、好きでも嫌いでもなかった。でも少しはありがたいなと感じていたと思う、きっと。
私が中学生になったころ、ある夜スナックから自宅に電話が掛かってきた。常連のおじさんだった。
お店に来たら、伯母がカウンターで倒れていたらしい。脳梗塞だった。
すぐに発見してもらえたこともあって、伯母はごく軽い呂律の回らなさや手の動かしにくさは残ったものの、日常生活に支障のないほどに回復した。しかしさすがにスナックを続けるわけにはいかず店をたたんだ為、その後生活に困ることになる。
生活に困った伯母はパチンコ屋でひっかけたおっさんとあれよあれよという間に結婚した。
脳梗塞後、伯母は少し人格が変わって常に人の悪口ばかり言っていたし、私にも毎日切れていたので2人きりの空間に他人が入ってくることに少しホッとした。
私は、小学生のころから本や図鑑ばかり読み、机の上でする勉強が大好きだったが、中学生になるころには勉強に取り憑かれていた。学年1位でなければ伯母にビンタされるということを抜きにしても、私は常に1位でいたかった。
勉強は一生懸命するものの、きちんとグレ始めていたので不良とばかり遊び、酒もタバコもセックスもとっくに覚えていた。まぁ初めて見た男の硬くなったモノといえばクソ兄貴のモノだったけど。よくたまり場で不良たちに勉強を教えていた記憶がある。みんな素直に聞いているのが面白かった。
高校生になった頃から、「大学には行かせない」と伯母に言われ始める。私には小学生のころから夢見ていた大学があり、その為に楽しんで勉強をしていた。伯母はなぜか「奨学金などという借金も許さない」と本当に頑なで、ガキながらにマジで意味不明だった。
家に帰れば毎日叔母と言い合いになるし、別にもはやどうでも良かったがおっさんにはずっと家庭内セクハラをされていてキモかった。お風呂中にわざと洗面所に来て話しかけられる、トイレに入ると7割の確率でノックされる、セックスの話をされる、私の下着を間違えたと自分のタンスにしまっている。きもっ。
高校2年の時、頭の中でパーンと音がした。朝起きたら、パーン、と乾いた音がして、ほんとうにしんそこ何もかもがどうでも良く思った。
私みたいな人間は何をしても無駄だし、クソみたいな両親から生まれたんだからどうせ私もクソなのはわかってるし、私にはキラキラした未来などないということに突然気がついてしまった。無駄だった、全部。どうでも良いや、未来などない。
その日から家に帰るのをやめて、男の家を渡り歩いて勉強もやめた。学校はたまに行っていたけど、伯母は特になんのアクションも起こしていなかったので何も言われなかった。何度か家に戻った時は、きもおっさんがアタフタと話しかけてくるものの、伯母は私を完全無視していた。
休みがちになり、成績も一気に下がった私を心配した先生たちが何度か「困っていることがあったら相談してみろ」、こいつらに相談したところで何がどうなるのか私にはわからなかった。
1人だけいた友人と私を心配してくれていた先生たちのおかげで、卒業式には参加できなかったものの卒業証書を貰うことができた。
高校卒業後は正式に家を出て、そこからデリヘルや水商売を渡り歩き、22歳の時に介護の資格をとってからはずっと福祉の仕事を続けている。
数年前には社会福祉士の養成学校に入学し、現在は何故か結婚までして主婦しながら社会福祉士をしている。
ところで、私は18歳から22歳までに3回中絶している。アバズレ母の子供らしく、ずっと男に依存して生きてきた。
セックスを献上することが何よりの喜びであり、生きる意味だった。男がいなければ自分に生きる意味はなくなり、文字通り男がいなければ生きていけなかった。男の言うことは絶対だったし、逆らうことなどできなかった。自分のために。
3回目に中絶した時、麻酔から覚める途中に「いたい!!!いたい!!!」と子供の絶叫が聞こえて私はぎゃあと叫んで体を起こした。はっきりと聞こえた。
中絶などなんとも思っていなかった私にも、少しの罪悪感があったのだろうと思う。
22歳のある日、珍しく朝に目を覚ましたらパーンと音がした。その瞬間、自分の全てに嫌悪感が湧いてきた。自分は何をして、どこにいるのか?いつまでこんなふうに生きていくのか?自分が嫌で嫌で涙が出たを
もう取り返しがつかないことはわかっていたけど、とにかくこの渦から抜け出さなければいけないと初めて感じた。
その日から大きく変わったことのひとつが、食べ物を美味しく感じたことだ。それまでの私は本当に食に興味がなく、空腹になるので限界がきたら仕方なく何かを摂取していた。
それなのに、ふと食べたにんじんがとても美味しかった。ピーマンも美味しい。マグロのお刺身も、チキンナゲットも、お米も、何もかもが美味しかった。
食べ物が美味しい、というだけで生きている意味になる感覚だった。
もう男への依存は憑き物が落ちたようになくなり、生きる意欲が湧いていた。
そこで人生を何とか立て直すために選んだのが、介護の資格を取ることだった。
介護の仕事といえば、学歴も職歴も関係なく、ほぼどんな人間でも採用される。しかも、こう言っては悪いが働いている職員の質も良くないので、普通に仕事ができればすぐに昇進できるだろうと思った。
福祉の仕事を始めてからは、どんどん人が好きになり、比例してどんどん自分を嫌いになっていった。
普通の人間みたいな顔をした私を好きになった人たちと友達になり、そんな顔をした私を好きになった男の人と結婚までしてしまった。
私は、クソみたいな人に育てられたクソ人間のエリートであり、現にクソなのだ。育ちや過去を言い訳にし、勝手に病んで、勝手に全てを諦めて、馬鹿みたいな生活をして、人を3人も殺して、平気な顔で生きているのに。凄くヤバい人間なのに。人間以下なのに。
今になってやっと、心臓がズタズタになる。人を殺したことも、大学を諦めたことも、私を育ててくれた伯母と縁を切ったことも、統合失調症になった姉から連絡が来た時に冷たくしたことも、母親に早く死ねと思ったことも、とにかく私のなにもかもが終わってる。
私という人間は、私の周りにいたどんなクソよりも極悪で、それは誰のせいでもない、私の問題だ。
それがわかっているから本当につらい。過去のせいにしたり、誰かのせいにして生きていきたい。でも、ちがう。
優しい人の手を振り払ったり、チャンスをないがしろにしたりして生きてきたのは私自身だ。
何もかも私が悪い。
誰にも話せなかった自分のことを、ここに残した。
ほんとは仕事で更新しているXアカウントに投稿しようとして書いてたんだけど、すんでのところで思いとどまった
阪神淡路大震災が起きた時は関西で学生をしていた。生まれて初めて経験した大災害。当時はまだ携帯電話が普及していなくて、1週間経っても連絡が取れない同級生がいた。原付に有志で箱買いしたカロリーメイトを積んで、仲間の1人が彼を探しに大阪から神戸に向かった。区内の小学校を何か所か周り、ついに同級生の無事を確認。そしたら彼は、遠いところ来てくれてありがとうねぇ何もないけどこれでも食べてって、と言って救援物資を渡そうとしてきた。「断るのに往生したわあ」と一人捜索隊の彼。
当時は避難所運営のノウハウもない頃で今とは事情が違うけど、救援隊を気遣う言葉をかけたり食べ物を分けてあげようとしたりという話は能登からも聞こえてくる。時代や場所が違ってもお互いを気遣う優しい人がいる。
最近投資の話題をちらほら見かけるけど、これに関しての話題が全然出てこないから知りたい
学生の時に猶予もらってる場合、数十万円くらい年金を払ってない期間が生まれる。
追納はあくまで任意なのでしないこともできるが、その場合将来の年金が減る。
(でも月に数千円程度の誤差っぽい?)
そして追納は猶予期間から10年経つと期限切れでできなくなってしまう。(何故この期限があるんだろう?なければもっと追納する人増えそうな気がするけど)
支払い期限が迫ってきてしまっており、悩んでいる。
正直支払いたくない。数十万円って高いよなあ……月数千円年金が増えるくらいなら貯金した方が良い気もするし、なんならもっと有意義なことに使いたい。巷で言われているNISAとかidecoに使った方が良く見える。
ただ、なんか年金を支払ってない期間があるのが気持ち悪いというのと、将来年金が減るという事実に少なからずプレッシャーを感じており払った方が良いのだろうか……という気分にもなる。
30年以上後の未来とかなんもわかんねー
実家で母親と3人で暮らしてる姉と歳が10以上離れてる弟がいるんだけど母親が要介護になったり働けなくなったりしたら終わりなんだよな
2人とも朝起きれないから弟は不登校で姉は仕事クビになるだろうし姉はヒステリーだから小学生みたいな内容で本気で喧嘩するので2人きりになったらマジの殺し合いになりそう
実は、私たちのチームが一生懸命取り組んできたプロジェクトで素晴らしい成果を獲得し、それをお伝えできることに心から嬉しいです。
おめめが輝いちゃうほどの瞬間が今訪れています。これまでの努力と挑戦が実り、私たちの未来が明るい光で満ちています。まさに夜明けのような瞬間ですね。
このプロジェクトでは、まるで育成ゲームのような日々を過ごしました。新しいアイデアや解決策を見つけ、それによって成果を上げることができました。発見に溢れ、成長する過程で、私たちは個々に立派になりました。
ただし、全てが順調だったわけではありません。時折、不甲斐ない結果となり、残念な思いをした瞬間もありました。しかし、それを乗り越え、逆境から学び、成長することができたことが、私たちにとって貴重な経験となりました。
今日はその成果を発表する日であり、私たちは感慨深い気持ちでいます。今まで寒さを感じたことはないような、心温まる瞬間です。その喜びと感動で、涙腺が崩壊するかもしれませんが、それもまた喜びの一環です。
皆さんと共有できることに心から感謝しております。これからも新たな挑戦に向かって進み、更なる発見と成長が待っていることを楽しみにしています。ありがとうございました!
おはよう、みんな。
[B! 報道] 政党支持率「支持政党ない」45.0% NHK世論調査 | NHK
代筆屋(だいひつや)、第三者の立場になってお伝えするつもりですが、つっこみどころ大渋滞で、お許しいただければと思います。
最近、この頃、何かと世の中は賑やかですね。まず、開封動画というものが流行っているそうで、商品を開ける瞬間を共有することがどれだけ楽しいか、皆様もご存知でしょうか。驚きや喜びが伝わる瞬間、それを共有することでコミュニケーションも深まりますね。
8時は深夜ともいわれるこの忙しい時代。そのせいで汚れ仕事を任されたり、誰かにやらせないと後始末が面倒だったりします。でも、やればできるよ。自分が何かを始めることで、新しい可能性が広がります。
今、私がここにいるのも、そんな可能性を感じているからかもしれません。主な用語を紹介しながら、皆さんとともに未来を切り拓いていければと思います。
代筆屋とは、他人の代わりに文字を書く人のこと。第三者の立場になって物事を見ることで、新しい視点が生まれます。つっこみどころ大渋滞の中で、笑いや気づきを見つけることが大切ですね。
開封動画は、日常の小さな瞬間を特別なものに変える力があります。この頃、そんな些細な瞬間にも意味が詰まっていることを感じませんか?
8時は深夜、この社会の疲れを感じる瞬間かもしれませんが、その中で汚れ仕事を任されることもあります。しかし、誰かにやらせないと後始末が面倒なこともあるでしょう。そんな時こそ、やればできるよと前向きな気持ちを持ちましょう。
主な用語を紹介しましたが、これは私の一部の表現に過ぎません。皆さんも自分なりの解釈や用語を見つけ、新しい可能性に気づいてみてください。未来は皆さんとともに広がっています。ありがとうございました。