「北条氏」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 北条氏とは

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線を張っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。

はじめに書いたとおり、最新版教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます

追記id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)

  

  

  

追記

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかたことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2016-07-24

私の体験したオカルト体験をここに記す③

体験した出来事に対する主観と、憶測を記す。もしよかったら①から読んでほしい。

http://anond.hatelabo.jp/20160724155200

芝の神社仏閣巡りと厄除け祈祷の話。

夕方日没黄昏、ちょうど逢魔が時の頃に具合が悪くなるようになった。ふわふわして自分足音が聞こえなかったり、重力感触、足が地面を歩く動きが感じられなかったり、悪心が酷かったりする。窓の無い部屋に居れば大丈夫のようだが仕事に支障がある。対策として日光を浴びて、米食をしっかりとることを始める。根拠稲荷神なら米が良いはずだという短絡思考だ。しかし、食事を取ると異様に疲れる。時間が掛かる。

うつつに、白い籠に覆われて、体が透けて溶けてなくなり、ぶよぶよした膜のような体が骨も残さず上から下に剥がされた。芯みたいな私だけ残り、それ以外が無くなった。それから稲荷神社意識が繋がり、私は赤い線が縦に1、2本通った白い着物みたいな和服を着ていた。神様夕方や夜に出る有象無象てんぷら油を固めるように固めてポイすると良いと教えてくれた。

連日のしんどさから一人のときはべそべそ泣いていた。時々、狐が心配して頭を撫でてくれる。

真夜中にLINEで喚いて相談した友人(その節はありがとうございました)から清明神社に行ったらどうかと教えてもらったけれど遠いので、取り急ぎ東京で一番強そうな徳川将軍家に頼ることにした。増上寺と芝東照宮

東照宮近辺で何かに呼ばれている気配があって引き寄せられてそちらへ歩いたら、小山の上、鬼門辺りに小さなボロボロ稲荷神社があった。ガラガラ鳴らすための鈴の紐が切れて落ちている。地図鳥居マークがあるけれど名前が書いていない。近くの案内には円山随身稲荷大明神と書いてあった。社の中から具合悪そうな狐が闇堕ちに必死で堪えている様子で辛そうにこちらを見てきた。ご挨拶くらいしか出来ない力不足申し訳なく思う。誰でもいいから早く助けてあげてほしい。

山を下りて、引き寄せられるまま更に歩くと宝珠院という辨才天に辿り着いた。北条氏みたいなトライフォースの紋が目立つ。歓迎されているようで陽気な雰囲気だと感じた。

増上寺の勝守はステロイドくらい強そうな雰囲気。芝東照宮の厄除守も並々ならぬ感じ。勝守(弓矢)も効きそう。新しいお守りは勢いがある。気軽に持っていい物ではなさそうだが、持ち歩き始めてから逢魔が時の頃に具合悪くならなくなった。強い。有難い。





電話予約をした指定の日に地元神社厄年厄払いへ。調べたらお祓いの際はスーツのような正装をすべきらしい。堅苦しくない程度にそれらしい服装に着替えていざ。イメージでは夢で見たのと同じ、裾が広がるタイプワンピースのような白い着物を着ている。

祓い最中に何か見えないか頑張ったけれど見える物は何もなし。

動作では、最初に見えない引力で右手左手の順に組んでいた手をほどかれて膝の辺りに姿勢を直すよう誘導された。祝詞で住所氏名を唱えた辺りで、前から押されてどんどん後ろに仰け反るくらい体が傾いて、肩甲骨のあたりから歯のような根のある何かを、親知らずを抜くようにメリメリと3つくらい抜かれた。抜けた後に穴が開いているような気がしてしばらく落ち着かなかった。合間に神様大丈夫だよと笑っていたように感じた。

ストレッチ系のマッサージを受けた後くらいにはスッキリたか効果があったと思う。

2016-04-21

北条かやの「私はヘテロ女の痛みを生きている」が怒られる理由不明

文字数で切られたけど(自分にとって)不明ということです。

いや本当に。

これを聞くとものすごく馬鹿にされるだろうが、なぜ怒られるのか分からないので教えてほしい。

今までの北条氏発言である自殺してお詫び」が怒られるのは理解した。

ヘテロの痛みというのは、「どんな性自認であれ辛いことはあるよね」という意味だと思ったので

これが怒られるのが理解できない。

能町みね子氏(性別適合手術を受けた方。彼女性同一性障害という言い方が嫌いというのはさっき知りました)

への当てこすりというツイートを見たが、読んでも理解できなかった。

ただこの事を実社会で聞かないほうが良さそうだな、というのはなんとなく感じたので

増田質問させてください。

2016-03-31

こじらせてるってレベルじゃねーぞ

こじらせ女子炎上中というツイートを見かけ、なんのこっちゃと検索してみたところ、下記のまとめにたどり着いた。

http://togetter.com/li/956286

とりあえず読了。以下、あくまで一個人の意見

うーん、正直ね。事の発端となった「飛田新地に行きました!」からの「清潔だと思ってました><」→「調査ですよ^^」の流れはさほど気になりませんでした。

もちろんそれでひどくプライドを傷つけられた人もいて、怒っている人もいる。だけどそれはそれで、別にいいんじゃないかなぁと思ったんです。自分はね。

だけどそこから先がまずい。やはり炎上させる人というのは、本質的なところがずれているのだなぁと深く頷いてしまうほどに酷かった。

まず、怒っている人の意見を要約。

性風俗興味本位で飛び込み、面白おかしく語って、実際に働いている人の尊厳も踏みにじり語られた側のことは何も考えていない。」

「『アングラ世界を覗き見た!スクープ!』って銘打っておいて『まぁ自分あくま調査しただけで汚れてませんけどね^^』ってふざけんな。」

ってなところですかね。「おいおいちげーだろ文盲か」って思った人、いたらごめんなさい。(あらかじめ謝りリスクを軽減するスタンス

それにしても、これらはまっとうな怒りだ。少なくとも自分にはそう思える。そして、それに対する北条氏反論がこちら。

「気分害されたようで、申し訳ありません。切実さをもってホステスをやった私と、飛田女の子本質的に同じだと思っています。」

「私にはミソジニーがあり、それが性の商品化への関心に繋がっています。が、調査という言葉は人を傷つけてしまうのですね。」

はぁ?????????????(太字にしてフォントサイズも大きくしたい)

違うくね???????????誰も「調査」という言葉に傷ついたりしてないよね??????????????????

飛田の話に「清潔だと思ってたのに」というリプが来たことに対し、「飛田=不潔」という侮蔑的考えを否定せず「調査ですよー」と返した意図を教えてください。

というものすごくわかりやすく噛み砕いた質問に、どうして

>ご気分害されたようで、申し訳ありません。切実さをもってホステスをやった私と、飛田女の子本質的に同じだと思っています

という返事ができるのだ。

本質的に同じだと思っています」だぁ?「不潔」という侮辱的な考えを持たれている飛田女の子に「いや^^自分は清潔だし^^あくま調査だし^^」と答えた人間がなんでそういうことが言えるのか。どういう神経してんだ。

別にさー、「ああいった不潔なところでしか働けないなんてカワイソー」でも「自分にはあーゆーことできないわーwww」でも、それが自分意見だというのであれば(賛否はあれど)いいと思う。それが自分発言だというのであれば。

でも、根底でそういうこと思っていて、それをうかがい知れる受け答えをしておきながら「自分彼女たちと本質的に同じ存在だ」あまつさえミソジニーがあり」と来た。

それはちょっと卑怯なんじゃないですかね。自分ばかりいいところに立たせておいて、体を張った感出そうとしてるだけだよね。

その後に続く「こじらせ女子」のワードをめぐるあれこれを読んでもね、全部無責任なんですよ、この人。

「私が弱かったから」

「(こじらせ女子という単語を使ったのは)大人の事情なんです......すみません(´;ω;`) 私としては、こじらせ女子という言葉は使いたくありませんでした。」

「誤解されてる」

「本当に嫌われてしまったようで悲しく、ふがいない」

「敬意を払って使っているつもりなのに、伝わらない。」

「物書きとして失格だと感じています。」

この無責任さ、言い訳オンパレードっぷり。逆にすごいぞ。

「違うの~~誤解なの~~私のせいじゃないの~~~嫌われて悲しい~~~私のことわかってくれない~~~ふえぇ><><

だぞ。いたなぁ、小学校ん時、そういう女子

雨宮さんの、非常に理路整然とされた言葉を受けて、なんでこんな感情レベルの(それも小学生かという稚拙な)反応になるのか。

この人、本当に文字書きか?人の文章理解できているのか?

そしてそこから衝撃の展開を迎える。

「死んでお詫びしようとおもいましたか死ねませんでしたすみません

ファーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

おいおいおいおいうそだろうそだろライター?!これでライターなんですか?!文章を書いて!!お金をもらう人が!!!そりゃねえだろ!!!!!!!!!!!!!!!

すごい。これはすごいぞ。面白すぎてちょっと困る。

これを書いたのが三十歳こじらせ女子?嘘でしょ、こんなの中二病真っ只中のメンヘラ十代の言うことと完全一致じゃん。

フリーで生きてく覚悟がある人の文章には、切実さがある。

これは北条氏ご本人の言葉引用である

仮にもそんな信条を掲げてライターやってる人間が、場を和ませる冗談でも逃げの一手だとしても「死んでお詫びしようとおもいましたか死ねませんでしたすみません」って。

ちょっと最低にもほどがあるんじゃないでしょうかね。どうなのそれ。ひょっとしてギャグなの?

お金をもらって書く文章と、Twitterで垂れ流す文章は違うって、そんなことは当たり前だけどさぁ。そういうことすらスポーンと抜け落ちる強烈かつ卑劣発言じゃないですか。

ちょっと女子~~~~~~~~~自分発言責任を持ちなよ~~~~~~~~~~~その逃げが許されるの中学生までだから~~~~~~~~~~~~。

あーあー、もうこの人が今後書く文章、なんの魅力も力も持てないんじゃないですかね。わからないけどね。

自分は「リスクとか^^^^^あっ、そういうのいいんで^^^^^^」という人種なのであいまいに書き捨てますね!匿名だし!!

死んで詫びちゃうか~~~そっか~~~「リスクを取ってペンを取ります(キリッ」てしておいていざつっこまれたらそれか~~~

所詮

その程度の

リスク文章じゃん。

(太字にしたい)

は~がっかりだわ。いっそ噛みつくなり総スルーするなり自分擁護する人間にすり寄るなりすりゃ炎上を見守る側としては面白いのに。それすら興ざめさせるこの最低な逃げ方。

しかしこれで北条氏は「こじらせ女子」改め「かまってちゃんメンヘラバカ女」の烙印押されちゃって、今後の仕事とか大丈夫なんでしょうか。ちょっぴり心配

いざとなったらマジで飛田新地で働いてくれば、もっと臨場感たっぷりに魅力的な話が書けるかもね。がんばれ❤がんばれ❤

PS.個人的に「北条氏美人から嫉妬してる(キリッ」は相当笑えました。北条氏はぜひそういった取り巻きによちよちぎゅっぎゅされて慰められて生きていくと快適だと思いますよ^^

以上。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん