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10月から新たに放送が始まったアニメ『Wake Up, Girls! 新章』
様々な面からいろいろな問題が吹き出していますが、この作品のどの辺が一番やばいのか、個人的に答えを得たので書き残します。
正直これに尽きると思います。
私自身の感覚ですが、普通アニメを見てどのような感想をえるかというのは『期待』に対してどのくらい答えてくれたかによって変わるものだと思います。
「この作品ならばコレくらいの出来の作品になるだろう。こういう結末になるだろう。と思うが、実際はどうくるのだろうか…」と言った『期待』です。
コレに対して実際に用意された作品の出来不出来やストーリーの良し悪しなどで、良かった悪かったなどの感想を言い合えるのが通常のアニメ鑑賞になると思います。
さて、ここで表題のWUG新章ですが、この作品は前述の『期待』の土俵に乗る以前の問題が発生しています。
それが見出しにもある『信頼』です。
これは別にアニメにも限らない話ですが、そもそもとしてどのような産業にも、良い悪いの話をする以前に保証されてしかるべき最低限の信頼と言うものがあります。
飲食店であれば少なくとも安全な物を出してくれるだろうという信頼。販売店ならば正規品を丁寧に扱ってくれるだろうという信頼。ライザップなら少なくとも痩せられるように全力を尽くしてくれるだろうという信頼。
これは、その事業がいいものか悪いものかという判断を下される以前に、それがなくては成り立たないレベルの最低限の土台です。一言で言うならば、視点が内向きではなく外向きになっているかということです。
もちろん、産業である以上自分たちの儲けが出ない仕事などしてくれるはずもありませんが、自分たちのことしか考えていない産業というのも同様に成り立ちません。客側がこいつらは最低限の信頼に応える意志すらないと気づけば、客が去っていくからです。
では、アニメにおける最低限保証されてしかるべき『信頼』とはなんでしょうか。
答えはいくつもあるとは思いますが、私の考える最低限保証されてしかるべき『信頼』は『いいものを作って見る人を感動させたい』と願っていることかと思います。
ここで言う感動とは別に良い感動とは限りません。胸糞悪い話を書いて心に引っかかるようなものも『感』情を『動』かす感動です。それから、感動させたい願っていればいいんです。実際感動するかどうかは、ここがきちんとできていればその後の『期待』の土俵の話です。実際のアニメ制作には期限や予算と言ったキャパシティがあります。少なくとも、その範囲の中でやれることをやろうとしてくれている。というのがわかれば良いんです。
しかし、今のWUG新章はこれすら欠けているように感じてしまいます。作品の出来もそうですが、その前の企画を動かす段階で前任のスタッフを外しながら、そこに対するフォローをまったく行っていません。結果どうなったかといえば、現在大絶賛場外乱闘が発生しています。スタッフの交代自体はよくあることだとは思いますが、やることがあまりにもお粗末です。
また、その結果として生み出された作品もまあ見るも無残なものです。旧作からいろいろなものを引き継いでいるように見せかけているが、実際はとにかく作っておけというのが感じられる適当なものです。そもそも、旧作スタッフを追い出してそのフォローもしないのに、旧作を引き継いだ作品を作ろうという精神が相当やばいと思いますが…。このように、今のWUG新章はその内外において、見るものを感動させようという意気込みすらまるで感じられないままで公開されてしまいました。はっきりいって、ここからのリカバリーは困難だと思います。場外乱闘はすぐに決着するとは思えませんし、たとえこの先のアニメのできが良かったとしても、見る側には場外乱闘を続けているしなぁ…というしこりが残ってしまい、まともな評価は下せなくなってしまいます。
正直、私自身場外乱闘は好きにやれと思います、アニメの出来がどうだろうと、所詮は3ヶ月で終わる数ある作品の1つです。まあそんなものでしょう。
ただ、不憫でならないのはこれまで信じてついてきたファンの人達です。これらはWUG新章に『信頼』すらも裏切られ、完全に路頭に迷っている状態です。これまでのWUGが好きだったが、それに携わっていて人はもう外からコンテンツを燃やしにやってきている。かと言って今の作品は褒めるに褒められない。
この作品を心の拠り所の1つにしてきた人達もいるだろうに、このような状態になってしまったのは本当に残念でなりません。一応そこそこにオタクをやってきていますが、これほどまでわかりやすく音を立ててコンテンツが崩れていくのを見るのはそうありませんでした。
ここ数年の日本人の大人は、俺自身正直子供臭いなと感じるときが多い。32才の俺が20代の頃に比べると、社会の「牽引役」としての本来の感じがなくなっている。子供との区別ができなくなっている。モンスター系だのゆとり系だの、冷笑主義由来の弊害があまりに目立つ。
しかし、どこのだれがどう生活しているかもわからない実態不詳な社会とは違い、れっきとした日本社会の顔で、ましてや先進国であり、日本社会の大きな責任者でもある。いい加減社会的責任に向き合う時期だ。
かくして「来るもの拒まず」的にアダルトチルドレンの流入を受け入れ続け、いつまでも10代の趣味に明け暮れていたり、モーメントやトレンド欄に子供向けのコンテンツしか話題にしてないような話題が平気で全年齢向けに拡散される現実はいかがなものかという疑問が発生するのは当然で、日本人は、今、昔の韓国の様な幼稚な社会で非常識や反成熟でもなんでもありの状態を続けるか、それともチャントした大人らしく、公正な社会の発展と成熟化に寄与するかの「踏み絵」を迫られているわけである。その踏み絵が、あなたの目の前にばらまかれている。
まともな人間にとってみりゃそりゃあ恥ずかしいだろう。「自分は日本で社会の最先端に生きているんだ」という自尊心と、あの精神・知性の未熟さはあまりにギャップがある。でもそういう大人を大量に抱えこんでいて彼らとともに働いている現実があり、その矛盾が世界中で可視化されるんだから。中高年の多くは日本人が、世界中の大人とつながれて、前向きで、まっとうで秩序だっていて輝いていた時代を知っている。そしてそのすばらしさは全うな企業で働いている側の大人たちが一番よく感じていたはずだ。だからこそ「アダルトチルドレンまみれの悲惨な現実を見て立ち返れ」と声を大にして言いたい。
角川がクリエイターを宝とする、というのは歴史的経緯から言っても他のコンテンツベースの出版業とは微妙に違くて。
まずコンテンツありきで展開していくのが角川のやり方で、当時の雑誌、映画文化を上手い事使って
これがメディアミックスへの流れを生み、ハマって70年代以降のイニシアチブを取っていた。
つまり良いコンテンツを展開できれば作家は問わないというのは歴史的なベースがあって今でもそれは変わらないのは、雑誌の布陣を見れば判るよね。
こういった発想、一方通行な昔は良かったが今のオタク文化には合わない気がする。今は作家のキャラや作家側からの自由な発信まで含めて一つの作品とされる時代だよ。
また、合併や分裂を繰り返した結果角川内の権力闘争はすさまじいものになっている。そういう都合で最近も終わった作品がいくつかあるのも聞いてる。
今は知らないが「聖域」とまではいかないが、かなり力関係が部署ごとに違っていた。その辺の時代との齟齬、権力争いが絡んでると邪推せざるをえないよ。
ただ、芸能は良く判らないから判断がつかないが、角川とはいえここまでヒットしたコンテンツでここまでやらかすとは思えない部分がある。
ま、どっちにしてもこの件もう手遅れだろうね。委員会としての都合もあって仕方ないけど公式でああいう報告をしてしまった時点で、
"関係ないどころか大ありなんだよ。"
"刺青差別反対運動に反対または無関心な人ってのは、「タトゥー文化を迫害してる」んじゃなくて、"
"「そもそも文化なんてご大層なもんじゃないから、迫害とも思ってない」んだから。"
"前科者やスジモンが、しばしばファッションというよりは周りを威嚇するためにやってた、"
"という過去の歴史を抜きにして考えても、配慮すべき文化として認めてないんだって。"
"だから他の案件でよく言われる、「不愉快なもの見せてくんな」って論理が通ってしまうんだよ。"
"個人的にはファッション性すらよくわからないので、正直チンコの皮切るのと何が違うのって思うし。"
"宗教でやれって決まってる人がいるのは知ってるが、まあ自分には関係ねえことだわ。"
ちーがーうーだーろー!違うだろ!この頭頂永久凍土!
前段で自由の危機みたいなこと言っときながら「まあ自分には関係ねえことだわ」とかしれっとよく言うわ。
頭溶けてんじゃねえか!頭頂永久凍土のくせに!
割礼が宗教的な儀礼だからという理由で法律で義務化されたとしたら、おかしいでしょ。
同じように、刺青が配慮すべき文化として認められないからという理由で、タトゥーイストを違法化するのは、おかしいでしょ。
読んで欲しいわけじゃないので支離滅裂です
誰かに言いたいのに楽しみを前にしてる人達の前で言うととてもじゃないけど、担当のオタクのイメージ下げられそうで言えないので誰かは見るかもしれないここでぶちまけます。
またこんなこと書いたら越境のときみたいにアニメはじまる前にネガキャンとか言われるのかな
ネガキャンとかじゃなくて運営に物申すことと同じことを言っておきたい
ひとりよがりの僻みと思われても実際そういうとこもあるけどやっぱりなんか言わなきゃやってられん
この怒りが少しでも冷めたりしたらすぐ消します
最初からいるみんなも途中から出たところもみんな大好きなんだけど、
担当として応援してるのは最初からいるよに後から声がついただけで露出が少ないユニット。
後から付いた組は個性強いから最初は馴染みやすいところから売ったみたいな意見も見た。ゲームの顔のクセがすごいからそこ強調したかったのかなあ。でもファンにはそんなの関係ねえ〜〜平等にしろ、機会を減らすな
露出少ないのを嘆いたらなぜかいつも同じユニットの人に格差があるなんてしょうがないでしょって言われる。うるせえこっちを排除すんな。自分の担当がそうじゃないからそう思えるんだ。当たり前だけどこんな苦しい思いをするために担当にであったわけじゃない。
ソロは全員出た(出る)し、今まででたものは全部聞いたけどソロなのかキャラソンなのかあやふやな歌詞の曲がたまにあったり言葉がおかしいのあってつもりつもって爆発しちゃいそうだわ。降ろせとは言わないけどなんでこれを通したんだ
数曲のせいでこのシリーズはソロではないのかなと思うようになってしまった
きいてない人にこのシリーズは全部ソロだってすごい言われたけどよく聞いてみて、ソロだったらこんな歌詞歌わねえからっていうのあったから。間違い探しかよ。曲はいいのにな。
そういえばシャッフルもなんでこっちいないのにこっちの大事な曲歌われないといけないんだって意見見た。わかる。でもなんかこのユニットじゃないと歌えないみたいなの多いから(それがいいか悪いかはまた別。)こっちからは選ばれないだろ。と思ってたのが中間では出てたりして。
もうつかれた。
なんか作品の顔のユニットに負けねえみたいなことを言ってた気がしたんだけどでも露出多いから言えたんだろうな……
正直元々あるところと作品の顔的なユニットはアイコンとしてわかりやすいからどんどん露出増やして知ってもらう機会もダントツにあっていいと思うしそれはあるべき格差とも思う
けど、そことだけでなく、そこの次に声がついただけの最初から平等なはずのユニットと、後から付いただけしか違いのないユニットの露出の差もそれによる曲数の差がどんどん増えていって悲しい。
少ないところの声の人たちが引け目に思ってるだろうとは思ってないし全くもって声の人たちの力不足だなんて思わないからこうやって言えるんだけど、現状、よくわからないけど驚くほどの格差によって土俵が違うみたいになってしまっているから辛いし辛いしただただ辛い
誰の力不足でもなく見込み不足じゃない?
ゲームの顔からアニメのスタメンで顔を増やしてこっちもいずれ対等になれるのかな。なれたらうれしい。なれるはずなんだけど。
ここまで読んでもし万が一同じ思いをしてる人がいたらみんなで運営に言いましょうね。みんな大好きだけどだから余計こんな格差があってはならないと思えて辛い。別事務所も、そういうのたくさんあったとも言われるけど。初めて便乗だけじゃない真っ向から好きになったところだからやっぱりこんなのおかしいよーと思えてしまう。
毒親育ちってなんだ?と思い色々調べてみると、あまりの稚拙さに吐き気がした。
毒親とか言うワード。これが流行ったのは、ゆとり世代が発言権をもつようになったのが大きな原因だろう。
ゆとり世代が台頭してきた時期と、この毒親ブームが来た時期というのは合致する気がするし、所謂毒親育ちの特徴と、ゆとり世代の特徴もぴったり合致する。
自分の考えをもたず、責任は他者に押し付け、マニュアル通りの仕事しかできない。自分の都合が悪くなったら他者に押し付けるという考えが、今度は育ててくれた親に向けられた結果生まれたのが毒親だと思う。
こんなこと言われる親が不憫でならない。
自分が生を受けれたのも、衣食住の面倒見てもらったのも、言葉教えてもらったのも、人間として生きるための基礎の施しをしてくれたのは親のおかげだというのに、そんな大恩人の親を『毒』とは。
大恩人の親には、基本的に子供は服従しなければならない。これが親に養ってもらっている・寄生している子供の、当然のカタチだ。
『脱毒親ビジネス』もだいぶ賑わってそうだけど、そんな書籍を読むよりも、まずは自らの落ち度を認めて大切な親を敬うという風に考えを改めることが、一番の自己啓発になる。
前提条件: 東京の市部に住んでいる。糞みたいな街だ。シン・ゴジラを見たところあらゆる点で被害を受けていなった。ふざけんじゃねえぞ、たしかにこの市には何も壊して絵になるものなどない。
子供に名前をつけるにあたってだいたい以下のようなことを考えた
とはいえこれが全部満たすことは難しいので、画数はかなり多くなってしまった。 16+8 。自分は字を書くのが下手なので自分の子供の字を手書きでうまく書けないという事態になってしまっていてひどい話である。
このようなことを考えるに至った最大のきっかけというのがあって、新宿の東急ハンズのエスカレーターのところで、渋谷区の小学校の児童にかかせた消防車の絵の展覧会というのが行われていた。そこでは小学校ごとに絵がまとめられていて、渋谷区のなかでも都市的ではない地域の小学校の児童の名前は全然読めなくて、私立小学校の児童の名前はめっちゃ読めるみたいになっていた。故に私立の小学校に行かせたい!!!とかではなくて、名前で子供の人生が決まるわけではないが、観測者の教養度に応じて名前の見え方が変わるようにしておけば子供の人生において余計な障害が減るのではないかと思った。子供の人生がどんな人生になるか分からないし、できれば全然俺が興味も関心もないようなわけわからん人生になってほしいのだけど。レゲエで天下とるとか。ただ俺の希望など子供にとってはなんの関係もないことではある。