理由→結論だと「つまり何がいいたいのだい?」と話途中で相手を苛つかせてしまうからだ。
「それはAだと思います」と言った瞬間に
「Aっていうのはさ〜」と話の主導権をかっさらわれる。
一昔前の家庭板でよく見た言い回し
lorem ipsum(ロレム・イプサム、略してリプサム lipsum ともいう)とは、出版、ウェブデザイン、グラフィックデザインなどの諸分野において使用されている典型的なダミーテキスト。書籍やウェブページや広告などのデザインのプロトタイプを制作したり顧客にプレゼンテーションしたりする際に、まだ正式な文章の出来上がっていないテキスト部分の書体(フォント)、タイポグラフィ、レイアウトなどといった視覚的なデザインを調整したりわかりやすく見せるために用いられる。
「lorem ipsum」は様々なバリエーションがあるが、もっとも一般的なテキストは以下の通りである。
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いやそういうこと、じゃなくて、「水準」って上手い下手の水準だと思ったから
要するに増田に適当な文章を書く時に、仕事上の文章と同程度に改行に気を使わない人もいるんじゃないの?という意味で
「改行も上手い下手に含まれるだろ」と言ったんだが。
今回はやわらかスピリッツ
ネタの構成自体は繰り返し気味なんだけれども、ちゃんと笑わせつつ後半の展開に繋がる伏線を散りばめてて上手いなあ。
王子ジルとヴォルクの設定、大剣より大切なものや、幼女の腹パンの件がちゃんとオチに繋がっている。
ただ、今回はネタが天丼ものが多くて、インパクトのあるギャグがそこまでなかったのが残念かなあ。
食べるかどうかの葛藤や演出が二転三転して、壮大なフェイントまでかましてくるのはやられた。
大げさで馬鹿馬鹿しい表現は読ませてくれるけれども唐突なパロディは安易に感じて、正直あんまり好みじゃないかな。
単行本のときに削られる部分とはいえ、編集までコメントで悪ノリしているのはちょっと苦笑い。
青猫の行動は予想以上に一貫しているんだなあ。
目的のためなら、過程もポリシーもそこにはなくて徹底している。
カラスがある意味で利己的に自分本位な殺しをするのに対し、青猫はあくまでヒヌマへの復讐。
殺しそのものは無頓着というか、ヒヌマへの執着と強く結びついているのが、カラスとの決定的な違いだろうか。
私は今まで数々の個人の人が書いてくれているブログに助けられて生きてきたと思っている。書いている本人は何のこともなく書いているかもしれないけれど、ふとアップしただけの写真かもしれないけれど、時空を超えてそれが必要なときに検索結果で出てきてくれることで、いろいろなことを読み取れて大変助かったことが多かった。
なので、自分の経験したことや考えていることも、人の目に触れる形でインターネット上に残したいと思った。であれば、自分のブログに書けばいいのだけれど、自分のブログを書くとなると、ある程度まとまって関連のあることを書かないととりとめがなくなってしまう。そういうことを気にしていると、書けないことはたくさんある。ではそういったことは気にせずに、日記のようにブログに書けばいいという話もあるけれど、であれば、本当に手元の日記に書けばいいのであって、そもそも自分以外に自分の経験したこと、考えたことなどを事細かにすべて知りたい人など、どんなに私と仲の良い友人であったとしてもいない。私の知り合いでなかったとしても、とりとめもない情報を同じ人間が書いたからというだけの理由で時系列で大量に同じ場所にあったところで役に立つ気がしない。やはりそういう雑多なものはどこかで誰かが必要だと思ったときに、検索結果として表示されてくれればいいわけであって、そのときにその記事の文章自体が重要なのであって、雑多になってしまったプログ全体を横断的にみてもらうことに自体に価値を感じられない。
もちろん、複数の記事に渡って同じトピックが書かれているから、ブログでまとまっているのはよいという話もある。では、はてな匿名ダイアリーでは関連のある記事がかけないのかといえば、そんなことはなく、複数の関連する記事を書きたいと思った場合は、相互リンクなりで関連するように書けばよい。ブログの中から関係するトピックだけを読むより、相互リンクされていた方が読みやすい。
世の中には色々なサービスがあるので、当然ここと似たようなサービスはたくさんあるのかと思ったけれど、私の調査力が足りないのかもしれないが、日本語でも英語でもそれらしいものを調べてみたけれど、意外とそんなにはなさそうだ。海外ではTelegramというメッセージアプリを出している会社が、 http://telegra.ph/ というサイトを作っていて、匿名ブログがかけるようだったが、ニュースになっていたのが2016年11月だったので、やはり新し目のよう。ハンドルネームだけで、本名を出さないでブログをやるという意味ではなくて、それぞれの記事に書いた人が誰なのかという情報が表向きには全くつかないという意味での、本当の意味での匿名ブログ、思ったよりなかなかない、面白いサービスだなと思う。
そもそも突き詰めて言えば、インターネットに完全な匿名性はないと思う。今時なんだかんだで、すごくがんばれば、システム的に考えて、いろいろな情報からつなげていけば、どこかしらで突き止められるはず。ただそれをするにはあちこちのデータを突き合わせる必要があって、それを各運営会社が誰にでもさせないから、普段はある程度は見えないようになっているだけで、本当の本当に匿名がよければ、それこそ、インターネットにもクラウドにもiphoneにもスマホにもGmailにも、全くかかわらない生活をするしかない。けれど、現代ではそれはかなりの少数派なのではないかと思う。相当徹底している人でないと、便利さと引き換えにプライバシーが危険と思えなくもないなぁという状況に身を置いているのではないだろうか。
はてな匿名ダイアリーで言うと、やはりはてなIDの登録が必要なので、背後の管理会社さんの方では、どのIDの人がどの記事を書いているのはまるわかりに違いない。
確かに”匿名”ということで誹謗中傷に使う人がいて、こういったサービスを良くないという人もいて、たしかに、それで被害にあっている人は本当にお気の毒だと思うけれど、サービス自体のコンセプトとしてはやっぱりあって欲しいものだと思う。
(誹謗中傷を投稿する人は背後で管理会社にわかったとしてもそれを問題としていないのか?それともわざわざ人の悪口を書くために新しくID登録をしているのか?私の技術では計り知り得ないが、被害にあっている方は大変苦労されていると思うので、もちろんそういったことがなくなる仕組みがあると良いと思う。)
ブログを書かない人でも、いや、そういう人こそためになるコンテンツを持っていると思う。特に世界に唯一無二な日本のローカルネタは、そういうことを知っている年齢が高くて、インターネットを怖がってブログをしなさそうな人ほど、たくさんご存知だと思う。管理会社にはわかるという意味では100%の匿名性ではなくても、管理会社の人は無碍に公開したりしないから、そういう方こそ、この匿名ダイアリーに記事を書くことをはじめてみると良いのではないかと思う。はてなIDはメールアドレスがあれば作れ、そのはてなIDとパスワードを使って、はてラボのサイトの方からログインすればすぐにこのような記事が簡単に書けます。誰かにメールを書く感覚で、もっと気軽に色々なことが書かれるようになればなるほど、情報が検索できるようになるから、社会貢献と思って、どうでしょうか?
W-ZERO3を忘れてもらっちゃ困るよな
男性自身で行動しろ、というまでもなく既に行動しまくってるあいつらに頼れよ
漫画やアニメにも抗議してる奴ら(男女板のスレにあったが、漫画の作者だか出版社だかに男性差別描写がないようハガキを書いてるんだと)
ついにはごく少数とはいえ、萌アニメの氾濫は男が出てこないから男性差別だ!とか言い出した奴らに
これだけ、あえてマスキュリズムとは言いたくないあいつらはこれだけ目立ってるのに、なんで女性やフェミだけが男女平等の責任を負わされ、行動しなきゃいけないことにされるんだ?
いつだって、男性差別の訴えには「そうだそうだ女尊男卑!」女性差別には「男性差別もあるのに言われない!女尊男卑!」だもんな。ネットは
あと、蓮舫が男女逆ならやめさせられてる!っていうけど、
誰一人辞めてませんが?
横からだからよく事情知らんが、「改行」って文の上手さに含まれるって解釈もあるんじゃないのか?
改行の仕方だって下手なやつは下手、上手いやつは上手いはあるよ。
父よ
いま一人親で私を養ってくれていることは感謝している
家事の面やお金の面、雨風の強い日でも凍えず眠れるのは貴方のおかげである
しかし
ひとつの例外、特殊例を持ち出して私に当てはまることを強要しないではいただけないだろうか
母よ
私を産んでくれたことや父に相談できないこともフランクに聞いてくれることには感謝している
しかし
父との離婚についてはもう少し迅速に行ってくれても良かったのではないのか
自分で言うのは甚だおかしな話であるが 私の中学・高校生活を犠牲にするほどの価値が6年間の離婚訴訟にあったのだろうか
大人たちよ
多く問題を起こした私を見放さずに現在まで見守ってくれたことには感謝している
しかし
私の話をきちんと聞いていただくことを、約20年間で一回くらいはしてくれても良かったのではないか
私の話をいったん聞いた上でどこがおかしいか、ということを教えてほしい、話し合いたい10代だった
頭ごなし、「聞く気も義務もないから聞かない」ではなく、子供としてではなく、「人生の後輩」として扱ってほしかった
友人たちよ
しかし
私のいないところで私のことを叩くのはやめていただけないだろうか
目の前で言われることに耐性があるわけではないが、口裏を合わせ物を隠したり捨てられるよりは改善する気持ちになるものだ
悪意がないとしても嫌である、という旨を説明しても、盗撮して、SNSにアップロードするのを繰り返すことをやめていただけないだろうか
私は貴方たちに小ばかにされるために趣味を楽しんでいたわけではない
皆よ
私を生かしてくれることは冥利に尽きる
しかし
私の主張を一切受け入れる必要はないから、理由をもって否定していただけないだろうか
顔も、体型も、頭脳も、性格も、能力も、器量も、扱いやすさも、何もかもが人様に劣る私であるが
落ち込むことを
足踏みすることを
主張することを
許してほしい
私には、一点の長所と一点の短所を相殺させるという発想にこれまでの人生で至ることはなかった
「飛び降りれば万事解決」の思想にはどうしても至らないのである
ではなく
「車酔いになる人を極力減らす運転をできれば完璧ではないのか?」
「完璧でなくとも、理由をつけて短所をなくそうとする努力を惜しむことはダメなことではないのか?」
と 考えてしまう
この問いについて私の意見を抑圧せず
なぜだ
やはり
誰も私と話をしたくないという
裏側で言われていた通りのことなのか
一生受け入れられない異端児なら、そのように自覚して生きるしかあるまい
決意しなければ
ああ
てか「彼女が出来ない男」と「彼氏のできる女」が深く関わるというのがそもそも間違い。
「彼氏の出来ない女」とだけ関わってればいい。
所謂喪女的な人は、彼氏ができないだけ合って「一般的な感覚」とやらからすれば不適切な言動も多いのかもしれんが
こうやって現実で関わりのある非モテ男相手に明確な敵意を剥き出しにすることはあんまりないように感じるよ。
こっちも非モテゆえ「一般的な感覚」なんて持ち合わせてないからそれ基準で良くないとこがあっても気にならんし。
モテる男の方がモテない女を攻撃するというのもあって、なんか所謂キラキラ系にキャッキャされてるような男が
オタク女子を攻撃して、怖がらせていたのもあったんだよな。あれなんか明確に「男が女を不当に扱ってる」わけだし相当やばいんだろうけど
それでも「モテるやつがモテないやつを攻撃してる」という形式に沿ってるから許されるのだろうか。
ここで言う恋人ができるできないというのは、簡単にできるとかそういう意味だから、偶然一人だけできたけどすぐ別れて何年も独り身、
文そのものの上手い下手じゃなくて改行の話だぞ
彼らは若い男だ
若い男ほどネットの影響でミソジニーが激しく、性犯罪への許容度が高い気がする
現に韓国で性犯罪が多いのは、兵役のない女性への嫉妬が大きいと聞いたことがある。日本もそうなるんじゃないか?
前に見たまとめサイトの記事には、「女尊男卑を正すためにレイプした」って記事があり、釣りかどうかはわからないがコメ欄には1への賛同も多かった
日本のこれからが怖い
さすがにこの文章を上手いとか読みやすいとかいうのは褒め殺し目的で書いてると思う…
フリーランスの仕事が本当に出来ているのか(他のだらしなさも合わせて)疑問だ。
まあ、図に乗った後で梯子を外されたらここに何と書き込むのかは少し楽しみだわ
今年も今日が来た。彼はもう故人であり、何をしたとて僕達に何か戻ることもないのに。
彼は数年前に死んで、いなくなって、そういえば人間ってのは死ぬ生き物だったなと僕に思い出させるきっかけを作った。
おばあさんやおじいさんになったから死ぬのではなくて、ヒトは死ぬんだな、と。
そんな彼の死後何回目かの誕生日が今年も来て、Facebook は彼の誕生日なのでお祝いのコメントをリマインドしてくれる。
故人について、人は恐ろしく忘れがちになるようである。
いや、人の死についてだろうか。ああそうか誕生日かおめでとう。とコメントを書いて投稿ボタンを押す寸前で、彼の死を思い出したぐらいだ。
投稿して彼のタイムラインを見に行けば、そこには一年ごとの更新が並んでいる。お誕生日おめでとうのセットが、年一個。
彼の家族が、彼の Facebook を閉じずに居てくれてよかった。故人に向かって生誕を祝うのは、非常にあべこべな感じがするのだが。
皆が思うままに祝っている。
悼む人。
死者はいいねを返してくれないし、なんとはなしに、誰もいいねをつけない。互いに、見ても、見てないことにして。
これほどいいねのついてほしくない、いいねをつけてほしい書き込みが、いいねをつけるべきなのに。
仕方ない。彼は死んだ。もういない。
確かに死んだ日を祝うより、生まれた日を祝うほうが、なんとなく気分もいいしね。
どう?そうでもないの?やっぱ死人的には命日が誕生日的な扱いなの?