今年も今日が来た。彼はもう故人であり、何をしたとて僕達に何か戻ることもないのに。
彼は数年前に死んで、いなくなって、そういえば人間ってのは死ぬ生き物だったなと僕に思い出させるきっかけを作った。
おばあさんやおじいさんになったから死ぬのではなくて、ヒトは死ぬんだな、と。
そんな彼の死後何回目かの誕生日が今年も来て、Facebook は彼の誕生日なのでお祝いのコメントをリマインドしてくれる。
故人について、人は恐ろしく忘れがちになるようである。
いや、人の死についてだろうか。ああそうか誕生日かおめでとう。とコメントを書いて投稿ボタンを押す寸前で、彼の死を思い出したぐらいだ。
投稿して彼のタイムラインを見に行けば、そこには一年ごとの更新が並んでいる。お誕生日おめでとうのセットが、年一個。
彼の家族が、彼の Facebook を閉じずに居てくれてよかった。故人に向かって生誕を祝うのは、非常にあべこべな感じがするのだが。
皆が思うままに祝っている。
悼む人。
死者はいいねを返してくれないし、なんとはなしに、誰もいいねをつけない。互いに、見ても、見てないことにして。
これほどいいねのついてほしくない、いいねをつけてほしい書き込みが、いいねをつけるべきなのに。
仕方ない。彼は死んだ。もういない。
確かに死んだ日を祝うより、生まれた日を祝うほうが、なんとなく気分もいいしね。
どう?そうでもないの?やっぱ死人的には命日が誕生日的な扱いなの?