はてなキーワード: ニュルンベルクとは
ドイツ軍のソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組織的殺戮作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人の絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。
「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパのドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決』遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段の計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」
この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議を召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民局ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。
「ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。
1941年12月11日、日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツはアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦の様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツを戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界の世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。
ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録はニュルンベルク国際軍事法廷に証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分がゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。
「総統の意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方に追放し、その跡地に対して行われることになった…
ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」
ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域のユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツの占領国や同盟国とは別にイギリス、ソ連のヨーロッパ地域、また中立国のポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、アイルランド、トルコといった、ドイツが占領する予定だった国も含まれていた。
ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーはアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後の証言で「ヒトラーがユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実、東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害—特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務に対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所を対応させる必要があった」。
この会談の直後、アイヒマンはアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。
ガスを使った殺害はナチ・ドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画は1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式な組織として医師を擁する医療関係の諸機関(大学・研究所・病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。
かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体は特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会側から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。
しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである。
絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍の戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間で捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車か冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊なパイプが排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。
「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連のドイツ占領地域では1941年の12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。
1941年12月8日。占領下ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初の絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれた区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」
「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれた場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年春から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティ(ヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。
1941年11月。ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議でハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人である。ハイドリヒは1942年5月にチェコのレジスタンスに暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファースト・ネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官兼警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツの東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者のウクライナ兵部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近の住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。
ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室へ直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人が 処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。
ルブリン近郊のマイダネク収容所はユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。
強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国領ポーランド南部、シレジア地方に建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランド名オシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎の敷地に強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校と政治犯を収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍需工業に囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所、アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所の建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所(アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体はガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム=火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体はガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所へ移送された。他に子ども、双生児、脊髄に障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。
生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。
厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓にさらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道な所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人用バラックからは毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツ・ビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。
http://www.youtube.com/watch?v=Xxh-sS8Qoco&feature=player_embedded
1911年12月14日 ロアール・アムンセン、南極点に到着。
1914年6月28日 サラエボ暗殺事件から第一次世界大戦勃発
1915年4月22日~1915年5月25日 初めて毒ガス使用
1916年2月16日~1916年12月20日 ベルダンの戦い
1919年1月5日~10日 スペイン風邪の流行が頂点
1921年11月9日 アルベルト・アインシュタイン ノーベル物理学賞受賞
1922年10月27日~31日 ベニート・ムッソリーニのローマ進軍
1927年3月20~21日 チャールズ・リンドバーグがパリへ向け飛行
1928年11月18日 蒸気船ウィリー初演(ミッキーマウス初登場)
1929年10月29日 1929年のウォール街大暴落「暗黒の木曜日」
1930年6月30日 第一回サッカーワールドカップ(ウルグアイにて)
1932年 ワイマール共和国崩壊
1934年10月27日 毛沢東の長征
1939年9月1日 第二次世界大戦勃発
1942年9月13日~1943年2月2日 スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦い
1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦(オペレーション・オーバーロード)決行
1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判
1951年 朝鮮の人口?
1954年6月4日 西ドイツがワールドカップで西ドイツが優勝「ベルンの奇跡」
1956年10月29日~1957年3月 スエズ危機(第二次中東戦争)
1959年1月1日 キューバ革命の勝利
1961年10月27日 チェックポイント・チャーリーでの対峙(ベルリン危機)
1964年8月2~4日 ベトナムでアメリカ爆撃される(トンキン湾事件)
1967年6月5日~10日 六日戦争(第三次中東戦争)
1970年4月 カンボジア侵攻
1972年9月5日 ミュンヘンオリンピック事件
1973年10月6日~26日 ヨム・キプル戦争(第四次中東戦争)
1977年3月27日 テネリフェの惨事(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故)
1981年3月30日 ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件勃発
1985年3月11日 ミハエル・ゴルバチョフ氏、ソビエト共産党書記長に就任
1988年12月21日 ロッカビー事件(パンナム機爆破事件)
1990年8月2日~1991年5月5日 「砂漠の嵐」作戦(第1次湾岸戦争)
1992年4月1日~1995年12月14日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1997年7月4日 マーズ・ローバー(火星探査車) 火星に着陸
2000年1月1日 ミレニアム
2001年9月11日 911攻撃(アメリカ同時多発テロ事件)
2005年8月29日 ハリケーン・カトリーナ ニューオリンズを破壊
2008年10月 金融危機
2010年4月20日 メキシコ湾原油流出事故 ディープウォーター・ホライズン炎上沈没事故
2012 ?
10分どころか、6時間くらいかかったorz
それに、作ったの多分アメリカ人だから、日本にとっての重大事件(オウムとか)は入ってないんだよね。ハイチ地震があるのに、阪神・淡路大震災がないのも明らかに片手落ちでしょう。
(調べてみたら、どちらもM7クラス)
「先生の現実なんて何になりますの?正義がすたれ、不正がはびこり、信をまもる者が苦しんでいる時に。ヘレンはエリスの約束を守っていましたわ、私だってよ。その時に先生の現実なんて何の役にも立ちやしない」
「分かっているでしょ?」<フェリイ>は言った、「私は決してばらの花園を約束しませんでしたよ。私は決して完全な正義など約束しませんでしたよ。(博士はふとティルダを思い出した。ニュルンベルクの病院を退院して、かぎ十字の支配する町へ出ていったが、やがて戻ってきて、やすりのようにかたい作り笑いをして言った。『恒久平和!先生、あいつらはわたしよかずっときじるしよ!』)……平和も幸福も約束した覚えはありません。私がお手伝いするのは、あなたがそういうものと自由に戦うことができるためです。私が差し上げられる唯一の現実は『挑戦』です。よくなるということは、あなたに可能なそのときどきのレベルで挑戦を自由にうけいれるかどうかということです。私は嘘を約束しませんでしたよ。そして、ばらの花園、完全な世界はうそです……もっとも、そんなところはたいくつな世界でもあるでしょうけどね……」
ハナ・グリーン(1971) 佐伯わか子・笠原嘉(訳) デボラの世界 みすず書房 pp140-141
どうもこんにちは。重度知的障害者の兄貴です(7/27「まとめ」に一部追記。「自分の苦労を他人に押しつけるな」という「書いていないことを読み取る」コメントにくたびれたので。別に自分が理不尽なほどの苦労をしたとは思ってない)。この記事とブクマみて血圧上がってます。
出生前診断で異常発見し中絶、10年間に倍増 : 科学 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110722-OYT1T00585.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/science/news/20110722-OYT1T00585.htm
まずこれ読もうね。
T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4、英: T4 Euthanasia Program)は、ナチス・ドイツにおいて優生学思想に基づき1939年10月から1941年8月にかけて行われた安楽死政策を指す。名称は本部の所在地、ベルリンのティーアガルテン通4番地 (Tiergartenstraße 4) に基づき第2次世界大戦後に付けられた名称である。一次資料には E-Aktion(エーアクツィオーン、E作戦), もしくは Eu-Aktion の名称が残されている。この政策により、20万人以上が犠牲になったと見積もられている(ニュルンベルク裁判の検察側による見積もり)。(略)
この政策の目的は、ドイツ国民の「遺伝的な純粋性」を守るためのものであり、また身体障害者や精神障害者を組織的に根絶するというものであった。障害のある子供たちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。障害を持つ成人に関しては、すでに 「Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses」の結果として強制的不妊手術の対象となっていたが、この政策の対象にも含まれた。
読んだら次にいってみよう。君らが1930年代のドイツにいたとして、自分が「ナチスに投票した4割」と「投票しなかった6割」のどちらだったか、よく自問自答しながら下を読んでくれ。
まず、こういうことが罷り通るってこと自体、日本が法治国家としてダメダメってことなんだけどね。これを読もう。
第十四条 都道府県の区域を単位として設立された公益社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。
一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの
2 前項の同意は、配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者がなくなつたときには本人の同意だけで足りる。
子供に障害があるからって中絶できるなんて書いてないよね?母体に危険がある場合か、貧乏で育てられないか、レイプ被害の場合のみだよ。日本は中絶は無原則に自由とか思ってるの、それ完全に間違い。つまりDQNカップルとかが避妊もしないでできちゃった子供を中絶するのって違法ですからね。堕胎罪ですから。一年以下の懲役ですから。覚えとけよ。
中絶する親は被害者なんかじゃない。法律的には間違いなく加害者。
そして倫理的にもそうだよ。胎児とはいえ命は命。まさにレイプとか母体の危険とか経済的理由とか、そういう「緊急避難」的なものでなければ圧殺していいはずがない。違うか?良心の呵責ぐらい持てよというのはおかしなことか?こういう連中を「被害者」呼ばわりできるとか、どんだけ世の中なめてるの?
皆さん好き勝手に、「障害者を育てるなんて無理」とか色々言ってくれるけど、言われた方がどう思うかわかってるの?中絶する両親には同情しても、中絶される障害胎児には同情しないんだね。ふーん。
もっと馬鹿げてるのが、先天的に障害がなければ障害とは無縁だとか思ってること。あのね、人間はいつでも障害者になります。事故とか病気とかね。統合失調症とか一番わかりやすいと思うけど。そうなったら「育てるの無理」とか「生きていけない」とか下らん御託言ってられなくなるよ。とにかく育てなきゃいけない、生きなきゃいけない。そこに現実があるからにはね。やってもみもせずに「できない」とか、何を甘っちょろいこと言ってるのかね?
うちの例でいうと、弟は生後僅かな間は「健常児」だったよ。ところが詳細は省くが医療ミスで脳出血起こして、それでその後遺症で知的能力のほか色々障害を負った。そんじょそこらの先天性の軽度障害者なんかよりよっぽど重いのをね。そういうことが起こりうるってわかってるのかな?出生前診断と中絶で問題を「なかったこと」にできるとか思ってる君ら、本当におめでたいよね。それとも我が家みたいなのは弟を間引けるようにすればよいとでも思ってるのかな?すごいね、まさにT4作戦だよ。ハイル・ヒットラー!君も将来歳を取って認知症になったときはアウシュヴィッツで「人道的」な「安楽死」を迎えることができると思うよ。
ちなみに、メガネ・コンタクト族の皆さん、君らの多くは近代以前だったら生存能力のない「視覚障害者」だからね。そこ覚えておくように。社会制度や技術で少なからず「障害」は「障害」でなくすることができるんだよ。育てられないとか生きていけないとか、そういうことやって見てから言ってるのかね?
で、ブクマに書いてあるので多いのは「障害者は生きていても不幸だ」みたいな話。すごいね。まさに「生きるに値しない命」だよね。ハイル・ヒットラー!
ヘレン・ケラーから乙武洋匡にいたるまで、いろんな人がそんなの迷信だ、とどれだけ説いてもわからない人はわからないんだね。確かに障害者は生きて行くに「不利」があるよ。でもそれは絶望的なものってわけじゃない。
それこそ上に書いたみたいな目の話をするならさ、メガネ族・コンタクト族は既にパイロットや宇宙飛行士になる夢は絶たれている。矯正可能な近視・遠視・乱視だって立派な「身体障害」であることの証明だね。しかし、あなたそれで人生に絶望する?しないよね。程度の差はあれ障害者の人生って同じことだよ。そしてその「不利」の程度を弱めていくのは「健常者」のつとめだよ。あなた自身やあなたの親兄弟や子供がいつ障害者になるかわかったもんじゃないんだから、それは「保険」と同じようなものだ。それを問題視するならT4作戦発動するしかないね。ハイル・ヒットラー!
あと、ブクマに目立ったのが「この日本の国で障害者を育てる事なんてできましぇ~ん」みたいなの。ふざけるな。
みんな育ててるんだよ。多かれ少なかれ苦労してな。別に同情なんていらん。だがな、その「苦労」の中身にはお前らみたいな連中の無理解と偏見が少なからぬ比率で混じってることぐらい覚えておけよ。
でな、「日本の国」の制度が悪いのは(7/27追記:本当にそこまで悪いとは思わないが、まあ完璧ではないので一応「悪い」として)誰のせいか知ってるか?お前らのせいなんだよ。曲がりなりにもこの国は民主主義国家だ。主権者は国民だ。この国の制度は国民が作るんだよ。それをやってこなかったツケが回ってきてるんだよ。
ただし勿論、当事者でなければわからないことは色々ある。例えば世の中のエスカレーターは大抵は「上り」ばっかりだが、足の悪い人にとっては「下り」こそが重要だというのは自分がケガしたり身内に足腰弱った老人がいないことにはわからんだろう。逆に言えば、当事者が声を上げるというのは民主主義国家における国民の権利であり、義務でさえある。そういうことを石頭のお役人やら政治家やらに硬軟とりまぜて教え込んでいくことで、障害者が生きやすい環境というのは少しずつ整備されていくんだよ。
何?この国は民主主義でもなんでもないって?そうだね、すべてはアカとユダヤの陰謀なんだ。ハイル・ヒットラー!
長々書いたが、俺の言いたいことは要するにこういうことだ。
この辺のことをよく考えた上で、諸君がナチス的な思想をさっさと卒業してくれることを祈るばかりだ。
はてなの連中は普段リベラルぶってるくせに障害者問題になると本当に差別的でカスだと思ってきたが、本当になんとカスの多い事よ。
なんでそこまで先天性の障害が特別だと思ってるんだ?お前の子供が病気や事故に遭わないとなんでわかる?「健常者」であっても犯罪者や引きこもりやニートにならないとなんでわかる?その覚悟なしに子供を生み育てようとか思ってるわけ?それ、ほとんど確率の問題だぞ。
大抵の障害児はそんなケースに比べりゃずっと楽だぞ。障害児なんて育てられないというんだったら、病気や事故に遭った子供、あるいはDQNやニートが親の子供も育てられないから育児放棄して殺してもいいって話になる。お前らが言ってるのは要するにそういうことだ。なんでその程度の想像力もないの?
要するにお前らの「育てられない」なんてのは「ボクちゃん、こわいの、できないの~」って子供がダダをこねてるのと同レベルなんだよ。子供に先天的な障害がなくたって四苦八苦。親になるってことはそれだけ大変なことなんだよ。その覚悟を持て。
以下、目立ったブコメに返信(7/27追記 以下、ブクマの傾向を見て適宜加筆・修正・削除する)。
md2tak 障害というか知障ね。理性なき者は社会合意できないから社会の倫理に委ねられる。「俺ができるんだからお前もできる」はマッチョな意見。少なくとも社会保障の議論を。コストの話になると経済的理由が適用できちゃう 2011/07/25
「知障」とか差別用語使いやがってカスが。だいたい読売の元記事は知的障害に限った話じゃないだろう。
ああ?何がマッチョだぁ?ふざけるな。うちの場合みたいに後天的に障害を負うことだってあるんだよ。そんなとき「ボクちゃん、こわいの、できないの~」って言ったらどうなるんだ。育児放棄、児童虐待、殺人だ。違うか!違うなら言ってみろコラ。社会保障なんて曲がりなりにも日本にはあるわいボケ。調べもせんとなにを贅沢ぬかしとんじゃカス。障害者の親が全員金持ちだとでも思ってるのか。障害児を養うと明日の飯に困るような貧窮なんてないわ。
sankaseki だからと言って、本人に「障害を持ち人生を歩む」と 親に「障害を持つ子供の親」という重責の強制はできないと思うがな。ややもすると「自分がやっているから他人もやれ」という押し付けに見える
じゃあ、うちみたいな後天的障害の場合はどうするの?「押しつけ」だとか能書き垂れて育児放棄とかできるわけ?だいたい「親」であること自体が超絶的な重責なんだよ。障害があるかないかなんてそれに比べたら微々たる差でしかないだろうが。つーかうちの親をはじめ障害者の親なんて別に「重責」に耐えた偉人なんかじゃないぞ。その辺のオッサンオバサンだよ。その辺のオッサンオバサンができることをやれというのが過重な重責なんかだとは思えない。
自分の子供を殺してまで守る家庭なんて守る価値なんかないわ。しかも「良心的」とかどこまでカスなんだお前は。それは「ポア」の思想だよ。
p__o__n 私は障害者になりたくないし、子供が障害者として生まれて欲しくないし、可能な限り障害が治れば良いと思う。これを優性思想だと言われればそれはしょうがないです。 2011/07/25
いや、それはそういうもんでしょう。社会を生きて行くに不利があるからこそ「障害」なわけで。矯正可能な近視がもはや障害とは呼べないのと同様に、「障害」は克服できるもんだし、そうすべきなんだという話ですよ。
虐殺の考え方も人類の中で脈々と受け継がれてきたものだね。これはもっと受け継ぐべきだね。ハイル・ヒットラー!
egpehcbd 西原の夫が「もし障害児だったら?沢山産めばいい、そうすれば弟妹が助けてくれる」と語ったというハナシがあったと思うが、あれはたいしたものだなと思った。
いえ、それは結構微妙です。障害児の兄弟にもそれぞれの人生があるわけで、親から「助けてくれる」ことを期待されると非常に辛いです。元々子供なんて親に全面的に「助けてもらう」存在なわけで、自分のことで精一杯なわけですから。
私の場合は余りそういうことはなかったですが、それでも無意識のうちに「親に負担を掛けないように」と過剰に空気を読む癖がついたりで色々苦労がなかったわけでもありません。これに親の過剰期待が加わっていたらと思うとぞっとします。
とにかく、特定の子供に他の子供を奉仕させるというような考え方はよくないです。これは障害の有無に限ったことではありませんが。
tikani_nemuru_M 個人レベルの優生思想と共同体レベルの優生思想は異なる。また、経済的理由による中絶が認められていることで、現実には「どんな理由で中絶してもいいよ」といっているのと同じ。 2011/07/25
そんなわけがない。例えばビル・ゲイツが「経済的理由」を持ち出せば当然しばき倒されるべきだろう。また、個人レベルであろうとそれが共同体内で容認されるなら同じこと。胎児どうこうでその意味がわからないのなら「寝たきり老人を介護なんてとても無理だから姥捨て山に放り込んでもよい」という法律ができたとしたらどうなるか考えてみればよい。それをナチス的と呼ばないとすればそいつの頭の構造こそがナチス的だろう。
産む前からそんなに信頼できないことがわかっている男の子供なんて最初から産もうと思うなというだけの話だし、母親だけに責任を押しつけているわけでもないし。
tswi (略)生命倫理について何ら学問していた形跡が見えず、反射的に自分が正しいと思うことを書きなぐっているだけという印象。 2011/07/26
そんな「学問」様を語ってるつもりはないんでね。こちらは当事者としての率直な実感を述べている。それを蹂躙する「学問」様ならば、実験事実を無視する「科学」と同様無価値だろうよ。
mujin これは完全に同意。イヌのときは「病気になって育てられないならイヌを飼う資格はない」って言われて、なんで人間のときは「育てきれないなら仕方ない」「生まないほうが子どものため」になるのか。森岡正博を読め。 2011/07/2
愕然としました。確かに、犬や猫の話なら普通にわかってもらえますね。要するにみんなそこまで子供が嫌いなんですね…。
annoncita うちは中間所得層のちょっと下だと思うけど、日本では結構やっていけるものですよ?重度障害児がいても。(略)
全くその通りですね。日本で「障害児を抱えてやっていけない」なんてのは大嘘。
junmk2 この問題については障害者側の人よりも、本当の本当のそもそも論を考える側の人の方が、社会的に不利で意見を表明できない。(略)
じゃあその「そもそも論」というやつを述べてみろよ。この件で「障害者を差別するな」以上に「そもそも」なことがあるものか。あるわけがない。
つまり、生きるためにコストを払うのではなく、コストを払えなければ死ねということですね。ハイル・ヒットラー!
自分が親として「普通の人」以下だと思うなら子供を持たなきゃいいんです。でなきゃ「普通の人」並に慣れるように努力しなさい。障害云々と関係なく当たり前でしょそんなの。
yoko-hirom 増田は自分の記事をご両親に読んでもらって意見を聞いてみては?/増田は幸せそうに見えないし,出産前に挫ける人がいても仕方ない/健康面の問題で心中や自殺を選ぶ人もいる。増田はそれらの人を非難するか? 2011/07/26
それ以前に出生前診断の話なんてガキの頃から家庭内で頻出の話で、「論外」という共通認識。そんな話ができないような家庭環境どころか、親の方が俺を教育しようと熱心だったよ。それから俺は十分すぎるほど幸せだ。まあ、こんな断片的な文章から俺の人生の幸不幸を推し量れると思い上がったあんたが俺の増田記事(障害ネタはこの一件だけ)にことごとくアホなコメントしてくれるのは全然想定外でも何でもないが。そして自殺は自分が死ぬだけだが他人を巻き込む心中は非難されて当然。
Crone 増田の怒りも分かる。でもただでさえ不安定な中、自分のせいかもと苦悩する妊婦さんへの共感なしには届かない。(略)
「自分のせい」とかいまどき思う人がいるとしたら勉強が足りないの一言でしょう。
たまたま、それが日本の刑法に記されていなくても、外国人などのマイノリティーを差別し、恐怖におとしいれ、生存権を奪い、追放することを正当化するような言動は、犯罪である*1。
*1:たとえばナチス政権下のドイツで、反ユダヤ新聞『シュテュルマー』の発行人をつとめたユリウス・シュトライヒャーは、ニュルンベルク裁判でユダヤ人迫害を煽動した罪で死刑判決を受けた。
いや、刑法によって定められていないのであればそれは日本国内では犯罪ではないよ。あなたの論議は
1) 他の国ではAである。
2) 日本ではAではない。
3) 日本もAではなくてはならない。
4) 故に日本でもAであるべきだ。
5) よって日本でもAである。
の構造をもっているけど、明らかに間違いだよね。あなたは今回の場合はヘイトスピーチは悪であるから問題ないけど、逆に他国が差別を推奨していた場合はどうするの?論理学的にあなたの論議は間違ってるよ。国際法とかそっちらへんで違法性を立証した方がいいんじゃない?
第一に他国の法律を少なくとも日本にいる日本人に課すことはできないよ。少なくともヘイトスピーチは倫理的(そもそもどの倫理の考えを適応するかで答えが変わっちゃうけど)に間違っているのであって少なくともあなたが言うように刑法で禁じられていないのであればそれは犯罪ではない。民法でがんばったほうがいいんじゃない?
目の前でこのような重大な犯罪が行われているとき、全力でそれを阻止するのは、我々の責務である。それが日本の法律で犯罪とされていないのは、単に国家が怠慢であるか、ヘイトスピーチを内心で支持しているからである。だから、無能な警察権力にかわって犯罪者を逮捕するのは当然の市民的権利であり、日本国民の義務である*2。
そんな責務ないよ。もしも法で定められているのだったら教えてほしい。
1) 目の前でBが行われている。
3) 倫理的に間違っている行為は犯罪だ。すなわちBは犯罪である。
4) 犯罪は阻止されなければならない。
5) 我々は犯罪を阻止する義務を負う。
6) 故に我々がBを阻止する行為は正当化される。
みたいな感じかな。まず第一に3は明らかに間違いだ。各個々人の価値観で勝手に他人の行為を犯罪と決めつけることはできないよ。もしも俺が偏屈的なまでにハイヒールが嫌いですべての女性はハイヒールを履くべきでないと考えてるとしよう。それで少数派だけどある程度同じ考えをもっている人々と集まって団体を作ったとしよう。私はハイヒールは履くことは間違いだ!と思っている。故にハイヒールを履くことは倫理的に間違いだ。よってハイヒールを履いている女性は犯罪だ。よって我々はハイヒールを履く行為をいかなる行為をもってしても阻止しなければならない。
・・・うむ、あほらしい。少なくとも論理学的な見地としてあなたの論議は間違い。そもそも私刑は禁止されているからあなたが憲法違反だよ(憲法三十一条)。
次に国が怠慢なのではなくあなたが怠慢なのでは?少なくとも我々は間接的に立法権を持っているはずです。あなたは該当者に立ちヘイトスピーチを禁止する法律を唱えたっていいはずです。なのになぜそういった行為をしないのでしょうか?自らの怠慢を棚に上げて他者を非難する行為を私は恥ずべき行為だと思いますが。国家が民意を反映しないと思うのであれば国会議員を変えればいいだけのことでしょう。あなたは愚かな国会議員が当選しないために何らかの努力をしたのでしょうか?無意味だと決めつけて何もしないのに他者が愚かであり自分が正しいと思う行為こそ人種主義や選民主義の先駆けになるのではないのでしょうか?
次に私刑は禁止されてるから勝手に逮捕しちゃダメだよ。あなたの考えは無政府主義と似通ったものがあることに気づいた方がいいと思うよ。
まぁ、いちいち残りの部分に茶々入れるのはめんどくさいからやめておくけど言ってることはチャンチャラおかしいから。あなた自身の言動がヘイトスピーチは間違っているという考えの妥当性を弱くしていることを気づいた方がいいよ。
そりゃおめぇ、「子供の人体実験」ちゃあメンゲレだからよ。wwwおっと、言葉が乱れたね。
まぁ、これら事件についてはIMTで裁判もされてるよ。http://www.ushmm.org/research/doctors/index.html
http://www.jlaw.com/Articles/NaziMedEx.html
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/vuniv99/exp-lec3.html
実は俺もよくわからん。wどうも人体実験に関する基準が、これを機会にできたようだね。
で、その記録に残っている人物はどんな生活をしていたかな?
>低コストで灰になるまで殺処分できるんなら殺した方が安上がりじゃないですか。
へー、低コストで殺処分できるんだ。いや、知ってて書いてるわけだよ、ここは。w
>あるいは、収容所がソ連の手に落ちるとしても「死んでしまってもかまわない」ユダヤ人なら、放置してソ連に殺されようと知ったこっちゃ無い、SSだけ逃げればいい
なんでソ連軍に殺されるの?収容所の実態が知れてもいいの?一応、国家機密だったと思うが。
>44年に大規模な移送がありますが、同時期にガス殺の証言があるんですよね。
大規模な移送ってなに?ハンガリーユダヤ人のアウシュヴィッツへの移送の事?そりゃ、アウシュヴィッツのクライマックスだからなぁ。
http://www.annesrosechurch.com/yudayahangari.htm
>そういう派閥があるというのは対立しているという事にはなりませんか。
派閥じゃないんだがなぁ。それに真贋で議論があるわけじゃあ無いよ。「ホロコースト」が「ホロコースト」となったターニングポイントはどこだ、ちゅう話だね。ちなみにターニングポイントについて結論が出ているワケではない。今のところ主流となっている説があるてだけの話。個人的なことだけど、「歴史修正」の可能性があるなら、ここらへんがポイントだと思ってる。でも誰も突っ込まない。w
>文書の偽造の有無とかでなく明確にヴァンゼー会議についての事を語ってるとしか考えられませんが。
ええ、俺もそう思いますがね。じゃあ真贋に関する論争は今現在は無い、てことで。
>違いますね。別の本です。
http://revisionist.jp/pressac/pressac_02.htm
ここの冒頭参照。プレサックの代表的研究は基本的に2つ。「The Machinery of Mass Murder at Auschwitz」だけでなく、このシリーズは建築家ペルトとの共著。日本語訳はこれ。
http://revisionist.jp/pressac/pressac_01.htm
そう理解しているんだけど、違う?
それと国際赤十字の件ね、キャッシュですまんね。URLをコピペして読んでくれ。
http://72.14.235.132/search?q=cache:zukdWsAylsAJ:www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/nishitan/doc/01998-redcross2.htm+BBC+%E8%B5%A4%E5%8D%81%E5%AD%97%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%85%89%E3%81%A8%E5%BD%B1&hl=ja&gl=jp&strip=1
ツンデルの裁判にしても、1.2審で敗訴してるんだから、ツンデルの配布したパンフレットが虚偽である、て判決がでたんでしょ?違う?
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。
増田に書く理由としては、ひとつめ、専門外のことに長く関わるつもりがないこと、ふたつめ、連休の出先で手元に一冊の参考書籍もなく、HDDとネット上のソースだけを参考に書いたエントリなど、歴史を専攻したものとして、しかも専門外のものとして、とても胸を張って提示できるものではないこと、みっつめ、それゆえ、ホームに書いたら全て書き換えるほどの修正をせずにはいられないだろうが、その気力も時間もないこと、よっつめ、しかし、あれを「論文」とすることには憤りを覚えたので、せめて学問を知る人にはトンデモはトンデモであると伝えてみたかったこと、いつつめ、増田であれば上記の点をそれほど気にやまずに済むこと、このくらいでしょうか。したがって、私のエントリはいわゆる「ちらしのうら」です(文献表記がみにくいのもわざとです。すみません)。私はさくっと書き逃げする卑怯者です。内容がいかがわしいのも推敲が甘いのも全て私の責任です。でも、もろもろの言い訳によって逃げられるものではないですよね。ああ。
さて、前回のエントリでは、後半にさしかかったときにから睡魔に襲われ、最後は「藁人形叩き」ばかりになってしまいました。ようやく投稿できたと思ったら、字数超過で記事を分割せねばならず、つづきでは田母神氏の論文タイトルを間違えてしまいました。謹んで失礼をお詫びします。いろいろとミスがあろうと手をいれるつもりはなかったのですが、批判する論文タイトルの間違いはいくらなんでもひどいので、訂正します(ついでに「シンガポール華僑粛清事件裁判記録」後編のミスも直します)。これも後出しですが、原文が縦書きの漢数字は、横書きなので適宜英数字にしています。
では、気をとりなおして「藁人形叩き」ばかりをしていたところに補足してみたいと思います。最後に与太話の蛇足ですが雑感を述べてしめます。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
(前回と同じく、はてな記法による引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)
第2次世界大戦開戦の時点であっても、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが自治領化・独立した例がありますね。フィリピンでも独立を前提とした自治領政府が成立していましたね。
また、どちらかといえば植民地統治体制の比較の話ですが、自治・独立とまではいかないまでも、現地の住民を支配機構に採用していく次のような例もありました。
「1920年代より英国はビルマに赴任するICS〔引用者注:インド高等文官の略称〕に英国人のみならずビルマ人も採用すべく方針を変え、その結果1939年末の段階で、ビルマにおける全高等文官のうちビルマ人は32.8%を占めるに至った」(根本敬「英領期のビルマ人高等文官(ICS/BSC)とタキン党」『東南アジア史学会会報』63、1995年、17ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004924657)
それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。
1940年代において、宗主国が疲弊し、植民地の独立運動が高揚したのは確かなことでしょう。ただし、歴史学の領分は、「もしも」を考えるというより、その過程をつまびらかにして、それぞれの要因や重要性を検討することにあります。
まず、開戦の詔書には「東亜ノ安定」「世界ノ平和」「万邦共栄」「東亜安定」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」という表現はありますが、肝心の戦争目的を述べている部分は、あくまで「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切の障礙ヲ砕碎スルノ外ナキナリ」(「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」1941年12月8日、アジア歴史資料センターレファレンスコードA03022539800。引用部分の漢字は適宜新字体を用いました。センターホームページの検索バーに左記のレファレンスコードを打ち込めば該当資料のページへ飛べますhttp://www.jacar.go.jp/)ということであり、「アジア諸民族の解放」、「植民地の解放」、や「独立」といった文言は一切ないことを指摘しておきます。文面上はまさに自存自衛の戦いをうたっており、解放の約束は明文上ではなされていません(ちなみに、みればわかりますが「八紘一宇」もないです)。では、実際、アジア諸国にどう接し、現地住民はどう対応したのか、前回は文献名をあげただけのものから少し引用しておきます。
「ビルマは1943年8月1日主権を有する独立国家となったが,真の独立を求めるビルマ人にとってそれは,’’偽の独立’’,’’メッキの独立’’にすぎなかった。ビルマ人は,独立が’’空虚’’であることを知っていた。この当時の日本人に対するビルマ人の態度は,「愛していなくても我慢して接吻する」ようなものであった」(大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、360ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf原文の注の番号は引用者が削除しました。以下の引用文でも同じ)。
「日本の『朝日新聞』は、この作戦について、「皇軍航空部隊の空襲は一見、印度民衆の苦難を一層増大せしめるかに見えるが、爆弾の雨の中に、皇軍の印度独立運動に対する無限の慈愛と支援が含蓄されている」と書いていた。まことに「含蓄」の深い論評だったと言うべきであろう」(中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、190ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf)。
「本稿では不十分ながら、日本の大東亜共栄圏=アジア主義のプロパガンダが、そして、その大枠の中で動いたチャンドラ・ボース等の活動が、インド社会との接点を持てずに、空回りしていたことを明らかにしえたのではないかと思う」(前掲中里論文、195ページ。ボースたちについては、197ページの注6、200ページの注22、202ページの注26、208ページの注80も参照)。
インドネシア、フィリピン、ベトナムの抗日闘争について、詳しくは論文本文を読んでいただきたいのですが、結論としては、
「要するに、東南アジア諸国の反植民地・民族独立運動は、太平洋戦争と日本の侵略によって生じた情勢やその他条件を、主体的、積極的に活用して日本に対応し、戦前に比して飛躍的な成長を遂げた。そして、このことは、戦後における東南アジア諸国の民族独立運動の高揚や民族独立の達成の決定的要因となった。この意味において、太平洋戦争と日本の侵略は、東南アジア諸国の民族独立運動史における一大転換点であったということができよう」(谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、395ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870原文にあった傍点は除いた)。
以上でつっこみの補足は終わりです。現下の情勢については特に言及しません。
さて、今回のエントリ執筆の目的としては、可能な限り速やかに「論文」が論文になっていないことを示すことでした。大事なのは「内容」とおっしゃるのは結構ですが、学問的に批判可能な形式(もちろん既存の研究にとらわれない革新的な独自形式でも、読者に史料を提示できればかまいません)をとらないものは、「無敵な人」の独自な「歴史観」の告白にすぎないでしょう。それに価値を認めるのは個人の自由ですが、学問や教育の場に持ちこむのはお門違いです。そのような姿勢では、いつまでたっても歴史学における扱いはトンデモのままですよ。もちろん、大学や研究所にいる専門家でなければ歴史の話をしてはいけないということではないです。「昭和史論争」を引き起こしたのは歴史研究者ではありませんでした。しかし、自己の見解を教科書にのるような通説となさりたいのであれば、専門家と同じ舞台に立ち、その批判に応答しなければならないでしょう。「つくる会」はその舞台に立つ気はないと宣言した結果どうなっているでしょうか。今なら学術雑誌に投稿しなくても、インターネット上でいくらでも長文の論文を発表できますよね。
一般に、歴史研究者は、四年生大学で専門的なトレーニングを受け、さらに修士課程二年間、博士課程三年間以上を費やして史料を読み込み論文を紡ぎだしています。それでも、個々の論文の結論で言えることはささやかなことです。また、研究会・学会・書評などの形でお互いに切磋琢磨しています。それぞれが広範な史料に目を通しているからこそ、個々の研究がその時代の歴史像のどこに位置づけられ、どの部分がその時代の特徴をよくとらえられているかを議論できるのです。自分の個別研究が歴史研究の大きな流れのどこに位置づけられるのかをとらえるため、歴史を学ぶ標準的な手順としては、まずは先達がエッセンスを詰め込んだ教科書、概説書を読み、そこから主要な研究文献やレビュー論文、目録等を漁って研究史をたどり、そこで用いられている史料を読み、先人の研究の妥当性を検討したり自己の問題関心を追求していくのです。木簡のように新しい史料が見つかったり、機密文書が公開されたりして史料が増えれば、それがどのように従来の見解に修正を迫り、新たな知見を付け加えるのか議論します。そのような積み重ねのなか、通史は更新され、教科書の記述も変わっていきますが、このことをもって歴史は定まりないものだから最新の研究成果も独自研究も変わりないということは的外れでしょう。それはかえって科学としての歴史学が機能している証拠にほかなりません。
さて、歴史学者全体がイデオロギー的に偏向している、現行の教科書は自虐史観・マルクス主義史観に基づいているという「つくる会」の主張もありますね(それでいて『国民の歴史』のように、専門家の研究から剽窃したりするの会員もいるのは厚顔無恥ですね。参照、尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年、あとがき)しかし、戦後長く標準的な高校教科書として採用されてきた山川出版社の『詳説世界史』の執筆者には林健太郎(故人への敬称は略します)が含まれていました。日本史にしても伊藤隆氏が編者であった『近代II』を含む、『日本歴史大系』山川出版社、1984-90年、が、受験前に初めて読む通史だった私などには、学会の主流がマルクス主義史観など妄言にしか聞こえません。岩波だから駄目などという意見も見ることがありますが、最新の『岩波講座世界歴史』岩波書店、1997-2000年、では、古代・中世・近世・近代という時代区分はもはや採用されていません。そもそも研究の場では、評価は自分の目で確かめてから下すもので、事前に確定できるものではないのです。
「いずれも〔引用者注:本文でふれられている臼井勝美氏、酒井哲哉氏の研究のこと〕,侵略の時間的連続性〔引用者注:満洲事変から日中戦争へ〕を,陸軍の遠心性,すなわち現地機関の好戦性や暴走に帰さない画期的な研究であった」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、67ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する」なんて本質論は、学界ではなされていませんよ。人事面でも、システム設計・運用面でも、上部の問題は大きかったですよね。私みたいなものにも自衛隊に信頼できる友人はいますので、余計に上が軍の失敗を反省するそぶりもみせないのは問題と感じるわけです。
最後に、余計なお節介でしょうが、歴史学入門、史学史についていくつか参考文献をあげておきます。ご興味のある向きは手にとられてみてはいかがでしょうか。
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年。(CiNiiの定額許諾を契約している大学関係者は、下敷きとなった論文をDLできるかもしれません。私は今DLできる状況にないので保障はしません)
小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109(9)、2000年。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0002622266
歴史科学協議会編『卒業論文を書く―テーマ設定と史料の扱い方』山川出版社、1997年。
今まで述べてきたような研究の積み重ねに対し、自説の根拠もまともに示さずに自分の意見を広めたいと主張する行為がどういうものか、一度お考えになっていただけたら幸いです。
また見苦しい長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝します。
(追記)さすがに人名の誤記は看過できないのでミスを修正しました。
(再追記)引用文の出典が抜けていたのも直しました。すみません。
(再々追記)直ちに答えられるトラバをいただいたので応答します。ホロコーストの研究の進展について次の文献を参照してください。
芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判」『史論(東京女子大学)』55、2002年。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008575897
誰にも言いたくないけど、誰かに言いたいから増田に書く。
先日、飲み会で朝までコースだった俺は、ふらふらと帰路を急いでいた。
前日の内に飲んでおいたウコンのおかげか、気持ち悪さはそれほどでもなかったが、ただ酒はまだ残っており世界は若干歪んでいた。
その歪んだ視界にふと入ってきたのは一件の松屋だった。普段、俺は飲み会帰りの牛丼とかラーメンとかはついぞ食ったことがない。
というか、飲んだ後の胃袋にそんなもん入れたら確実にリバースする。
ところが、その時の俺はどうかしていたのだろう。
そんなに腹も空いてないというに、松屋へと入った。店内は浮浪者風の人や、朝まで働いたのか疲れた顔のガテン系が数人いる程度だった。
そして、目の前に届く牛めし並と味噌汁。一口目で無理だと悟った。ここで諦めればよかったのだ。しかし、その時の俺はどこかおかしかった。結局、完食はならずも、八割は食べ、松屋を後にした。
腹もふくれ、俺は意気揚々と家目指す。そのために愛機のYF??20(チャリ)を停めた、パチンコ屋に向かった。
しかし、ここで痛恨のミス。そのパチンコ屋は営業時間が終わると店舗前に駐輪してある自転車を全て地下の駐車場に入れ、その上で駐車場のシャッターを閉めるのだ。恐らくは、俺のような店を利用しないくせにチャリだけとめるような奴対策だろう。おれはこのシステムを完全に失念していた。
シャッターの前で五分ほど、orzとなっていた俺はその後の対策を練った。
ここから家まで歩くのはめんどい。しかし、パチンコ屋開店まではゆうに二時間はある。
悩んだ俺は、結局近くの公園で仮眠を取ることにした。7月も下旬、とりあえず死ぬことはないだろう。
近くの公園でいい感じのベンチを見つけた俺は、ウホッいい男、と声を掛けられやしまいかとドキドキしながら眠りに着いた。
今思えば、おとなしくタクシーで帰ればよかったと切に思う。どれ程、時間が経ったのか正確には分からないが、一時間くらいだったと思う。俺は突然、声を掛けられた。
阿部さんキターーーーーーーーとかは思わず、ただ驚いて目を開けるとガテン系のあんちゃんがそこにいた。
どうやら彼の話によると、俺の寝ていたベンチは前日のイベントで使われたものだったらしい。よく見ると寝る前は設営されていたテントとかもきれいに片付けられている。そう、このあんちゃんはイベントの片付けの業者だったのだ。事情をはあkした俺はサーセンwwwフヒヒwwwとか呟きながらその場から逃走。今度は公園備え付けのウホなベンチを再び見つけ、そこで睡眠を再開しようとした。
ところが、
さっきまでの爆酔っぷりはどこへやら、全然眠れない。それどころか、ここへ来て気持ち悪さもMAXで、こみ上げてきたものを横になりながら俺は嘔吐した。なんというサルトル。いや、本当にやばかった。それに加え夏の朝の爽やかな風が腹に当たったのか、急に腹も痛くなってきた。おそらくは飲んだ後、弱った胃腸に牛めしとか押し込んだのもあるだろう。こりゃ、やべぇ、、無理だと判断した俺はYF??20(チャリ)の回収を断念、タクシーでの帰宅を決意した。
交差点で拾ったタクシー、運転手は初老の物腰やわらかな男性だった。家の住所を告げると、車はすべりだした。
ところがここで試練が訪れる。夏の朝から蒸す日、おそらくは運転手の気配りであろうが、車内の冷房はかなり強めである。
腹部へと直撃する冷風。もはや我慢の限界だった。結局すこし、でた。
あぁ、と思いながら被害を最小便に留めるため俺は括約筋をフル稼働させた。程なく家に到着、1130円を投げるように払った俺は自宅であるマンションへとダッシュした。
今思えば。
この間違い続きの朝で、あのダッシュが一番の間違いだったように思う。
なぜ、あの時冷静になれなかったのか。腹部に刺激を与えず、ゆっくりと歩けば助かった命だった。
あるいは最悪、人目に付かぬ場所でことを済ますことだって出来たろうに。
なぜ、それらができなかったか。悔やんでも悔やみきれない。
その後、高校の時の体力測定以来のダッシュでマンションのエレベーターまでは辿り着いた俺は、もう限界だった。
すべてが終わり、始まろうとしていた。しかし、それでも俺はそのエレベーターに乗るしかなかった。それしか出来なかった。
自分の階のボタンを押し、上昇を待つ間、とうとうそれは来た。上がっているのに、下がってきた。
そして、一度堰を切ったそれらは留まることを知らず、まさに濁流のように押し寄せてきた。
エレベーターから自宅前、そして自宅トイレへと続くその道はシャイニングロードと呼ぶにふさわしく、金色に輝いていた。
湧き上がってくる香りは、完全に牛めしのそれだった。
その後、20分ほどトイレでうずくまった俺は、さすがにエレベーターから廊下から家の中まできれいに掃除した。
泣きたくなった。早朝だったので人に見られてない(多分)ことだけが救いだった。
まぁいろいろあったけど、それでも元気に生きてます。