はてなキーワード: 20世紀とは
どうやら村上は、この本のアメリカ版をそのとき初めて目にしたらしい。
日本では『1Q84』は2年を掛けて3巻に分かれて発表された(村上は2巻目で一度終わりにしたが、一年後にもう数百ページ付け足したのである)。
アメリカでは、一巻のモノリスとして組まれ、秋の読書イベントに発表が設定された。
YouTube ではきらびやかなトレーラームービーを見ることができ、
一部の書店では発売日10月25日に深夜営業が予定されている。
Knopf は英語訳を急がせるため、二人の訳者に手分けして翻訳をさせた。
村上にこれほど長い作品を書くつもりがあったかと尋ねると、なかったという。
これほど長くなることが分かっていれば、書き始めなかったかもしれないともいう。
彼はタイトルや冒頭のイメージ(この作品の場合は両方だった)が浮かんだ時点で、机の前に座り、
毎朝毎朝、終わるまで書きつづけるのである。
といっても、この大作はごく小さな種から生まれた。
村上によれば『1Q84』は、人気を博した彼のショートストーリー『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(英語版では5ページ)を増幅させたものに過ぎないという。
「基本的には同じなんだ」と彼は言う。
「少年が少女に出会う。別れてしまった後、二人は互いを探し合う。単純な物語だ。それを長くしただけ」
筋書きを要約することすら、少なくともこの宇宙で人間言語をもって雑誌の1記事で書くとすれば不可能だ。
青豆という少女が、タクシーに乗って東京の周縁に掛かる高架の高速道路を行く。
そこで渋滞に巻き込まれ、身動きがとれなくなる。
チェコスロバキアの作曲家レオシュ・ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だ。
「渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ」と村上は書く。
運転手は青豆に変わった迂回路を提案する。
高架高速道路には非常用脱出口が設置されている、そして、普通の人には知られていない脱出口への階段がある、と彼は言う。
本当に絶望しきっているのであれば、そこから地上に降りることもできる。
青豆が考えていると突然、運転手が村上一流の警告を口にする。
「見かけにだまされないように」と彼は言う。
降りていけば、彼女にとっての世界は根底から変わってしまうかもしれない、と。
そしてわずかではない違いとして、月がふたつあった(ちなみに彼女が遅刻した約束というのは暗殺の約束であったことが明らかになる)。
そしてその世界にはリトル・ピープルと呼ばれる魔法の種族がいる。
彼らは死んだ盲の羊の口(詳しく書くと長くなる)から生まれ、オタマジャクシの大きさからプレーリードッグの大きさにまで育ち、「ホーホー」と合唱しながら空中から透明な糸を紡ぎだして「空気さなぎ」と呼ばれる巨大なピーナッツ型のまゆを作る。
この本ではなかばあたりまで、このように浮世離れしたした超自然的ガジェット(空中に浮かぶ時計、神秘的なセックス麻痺など)が繰り出されてくるので、
私は行間にエクスクラメーションマークを置きたくなった。
この数十年、村上は自身が「本格小説」と位置づけるものを書こうとしていると言い続けてきた。
一例として彼は『カラマーゾフの兄弟』を挙げて目標にしている。
その試みこそが、三人称の幅広い視点から描かれた巨大小説『1Q84』であるように思われる。
怒り、暴力、惨事、奇妙なセックス、奇妙な新現実を抱えた本であり、
偶然ぶつかることになってしまった悲劇にも関わらず(あるいはその悲劇のなかでこそ)、
ひとりの人間の脳に詰め込まれた不思議を提示して、本書は読者を驚嘆させる。
驚きを覚える本の数々をこれだけ読んだあとでもなお、私は村上の本で驚かせられた。
そのこと自体が驚きだったと村上に伝えると、彼はいつものようにそれを受け流し、
自分の想像力を入れたつまらない花瓶でしかない、と言い張った。
「リトル・ピープルは突然やってきた」という。
僕は物語の虜だった。選択したのは僕ではなかった。彼らが来て、僕はそれを書いた。それが僕の仕事」
明晰夢を見ることがあるかと尋ねると、
覚えていられたことはない、という。
目覚めたときには消えている、と。
ここ数年で覚えていられた夢は一度だけ、それは村上春樹の小説のような繰り返す悪夢だったという。
その夢の中で、影のような未知の人物が「奇妙な食べ物」を料理してくれていた。
食べたいとは思わないが、夢のなかでは彼はそれに興味をひかれていて、まさに一口入れようというとき目が覚めた。
2日目、村上と私は彼の車の後部座席に乗り込み、彼の海辺の家へ向かった。
運転したのはアシスタントの一人である身ぎれいな女性で、青豆よりわずかに若かった。
私たちは東京を横切り、青豆が『1Q84』で運命的な下降をした高架高速道路の本物へと向かった。
カーステレオではブルース・スプリングスティーンがカバーした「Old Dan Tucker」がかけられていた。
車中で、村上は冒頭のシーンを思いついたときに考えていた緊急脱出口のことを持ち出した(青豆と同じように実際に渋滞に巻き込まれていたときにそのアイデアを思いついたという)。
実際の高速道路で、小説中であれば青豆が新世界に向けてくだっていったであろう場所を正確に特定しようとしたのである。
「彼女は用賀から渋谷に行こうとしていた」車窓をのぞきながら彼はいう。
「だから多分このあたりのはずだ」
と言ってこちらを向いて念を押すように
「それは現実じゃないけれど」
と付け加えた。
それでも、彼は窓の方に戻って実際に起こった出来事を話すように続きを語った。
キャロットタワーと呼ばれる、およそ巨大なネジが刺さった高層ビルのような建物の前を通り過ぎた。
村上はそこでこちらを向いて、もう一度思いついたように、
「それは現実じゃないけれど」と言った。
日本に滞在した5日間のあいだ、私は村上の東京にいたときとは違って、実際の東京で落ち着くことができなかった。
村上の東京、それは本物の東京を彼の本というレンズで見たときの姿だ。
客席の上の方で二塁打が打たれるたびに注目した(私がもらった天啓にもっとも近いものは、枝豆を喉につかえさせて窒息しかけたことだった)。
また、私はローリングストーンズの「Sympathy for the Devil」とエリック・クラプトンの2001年のアルバム「Reptile」をかけながら、神宮外苑という村上お気に入りの東京ジョギングルートをゆっくりと走った。
私のホテルは新宿駅に近い。そこは『1Q84』でも重要な役割を果たす、交通機関のハブ的な場所だ。
登場人物たちが好んで使う集合場所、中村屋で私はコーヒーを飲み、カレーを食べた。
そしてフレンチトーストとタピオカティーの向こうで東京人たちが交わす会話に耳をひそめた。
そうしてうろつくあいだに、村上小説が極度に意識しているものごと、すなわち、偶然かかる音楽、上昇と下降、人々の耳の形といったものを、私も極度に意識するようになった。
実際、彼の小説中の説明をもとにして料理本を出版した人もいるし、
登場人物が聞いた音楽のプレイリストをオンラインでまとめている読者もいる。
村上は、明らかに喜んだ様子で韓国のある会社が西日本への『海辺のカフカ』旅行を企画したこと、
ポーランドの翻訳者が『1Q84』をテーマにした東京旅行のガイドブックを編集していることを教えてくれた。
村上は読者から彼が生み出したものを現実世界で「発見」したという便りを受け取ることがよくあるという。
たとえば、彼が作り出したと思っていたレストランや店が東京に実際ある、など。
ドルフィンホテルというのは『羊をめぐる冒険』で村上が生み出したものだが、札幌にはそれが複数ある。
『1Q84』の発表後、ありえない名字として作り出したつもりだった「青豆」という名字の家族から、村上は便りを受け取ったという。
ここでの要点と言えるのは、現実に漏れ出す虚構、虚構に漏れ出す現実というものが、
村上の作品についてはほとんどの場合、作品そのものだということだ。
作家活動の初期には、「日本人という呪い」から逃れようとしているとさえ語った。
その代わり、十代の若者として、西洋の小説家の作品を貪ることによって、文学の感受性を培った。
その中にはヨーロッパの古典(ドストエフスキー、スタンダール、ディケンズ)もあったが、
彼が生涯を通して繰り返し読んだのは、とりわけ20世紀のアメリカのある種の作家たち、
レイモンド・チャンドラー、トルーマン・カポーテ、F. スコット・フィッツジェラルド、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガットなどだ。
処女作に取りかかったとき、村上は奮闘し、標準的でない解決法に行き当たった。
そうやって自分の声を獲得したと彼は言う。
他会社の株式を保有することによりその会社を独占的に支配する会社を持株会社と呼ぶ。支配するほうを親会社,されるほうを子会社という。自ら事業を行う方を事業持ち株会社、自ら事業を行わず,他社を支配することを目的とする会社を純粋持株会社という。資本主義の発展に伴って登場する独占体の一種で,証券代位とピラミッド型支配によって支配資本の節約が可能である。戦前の三井,三菱等の財閥本社はその典型。戦後は財閥解体、独占禁止法によってその設立は禁止され,これに反する純粋持ち株会社の設立は無効とされた。
しかし、戦後50年を経た1997年、独占禁止法改正により条件付きながら解禁。他会社の株を買占めることで他会社の支配を主たる事業とするこの純粋持ち株会社を活用することで、欧米では事業の組み替え、大型合併・吸収を企業集団という枠組みで積極的に推進してきた。これに対して日本では、純粋持ち株会社という司令塔を持たない企業集団であったため、戦略的な単位として行動することはできず、日本の企業集団の戦略性の欠如、国際競争力の衰退は明らかであった。こうしたことを背景に、純粋持ち株会社の解禁が図られた。しかし金融ビッグバンの影響もあり、日本では、銀行や証券会社によって再編のために設立された金融持ち株会社が先行している。
現在懲役刑執行中の堀江氏がテレビ局の株を買占め支配を試みた事件は、戦後50年ではありえなかったわけです。以前の反省から純粋持株会社の設立を廃止していたからですね。それが1997年に解禁されてしまい、丁度よくITバブルで現れた成金達が喜びの声を上げました。それ以後、なりふり構わず世界中でカネカネ大戦争を繰り広げているのが21世紀というわけです。簡単にまとめればこのようになります。20世紀は比較的そうでもなかったが、21世紀になってからどうも「カネカネ」五月蠅いなあと感じる人が多いようなので、その種明かしをしてみました。あなたの会社は「純粋持株会社」ですか?そうでない場合はこれから恐ろしい事に出くわすかもしれませんよ。一般に言われる「子会社に入ると苦労する」という話はこういう内事情があるわけです。あの人が何であんなことを言ったのか、じわじわ分かってきますね。
★財閥
本社を中核に,持株,融資,重役派遣などによって多数の子会社群を支配する独占企業集団で,コンツェルンの一形態。世界的には米国のモルガン財閥,中国の四大家族,インドのターター財閥その他多くの財閥がある。日本の戦前の財閥は同族支配,番頭経営,政府との密接な関係を著しい特徴とした。明治以降,産業の発達とともに,三井,三菱,住友,安田の四大財閥,古河,浅野,川崎などの財閥が形成され,昭和になると日産,日窒,日曹などの新興コンツェルンが登場した。第2次大戦までの日本経済は,財閥によって動かされていたといえる。戦後,財閥解体が行われたが,1950年代から旧財閥系企業の再結集が進められ新たな企業集団が形成されている。しかし,戦前の財閥とは性格を異にし,同族支配がなく,持株支配が弱く,金融機関の融資を中心とした金融コンツェルンの性格が強い。
★政商
明治前半期に政府の手厚い保護・育成を受け,政府との相互依存関係の中で伸張した特権的商人。三井・岩崎・住友・安田・大倉・浅野・渋沢等がそれで,政府事業を独占的に受注し,特に官業払下げを受けて産業資本家に転じ,同系列資本を集中し,その多くが財閥に発展した。
★金権政治
富者がその財力を駆使して権力をほしいままにする政治。日本では明治以降,政商の活動が時の政府に大きく影響したことがあり,多くの疑獄事件を生んだ。現代的には,第2次大戦後,一党による長期政権のもとで〈政界・官僚・財界〉の権力と利権の癒着構造が形成されて,構造的汚職を生みだす金権腐敗政治を指すことが多い。
原文: Schumpeter blog: Angst for the educated(http://www.economist.com/node/21528226)
裕福な国の何百万人もの卒業生が、泣く泣く両親に別れをつげて、大学での新生活を始めようとしている。学生の一部は純粋な学問への愛ゆえに大学に向かうのだろう。しかし、ほとんどの学生は、大学で3年か4年過ごせば、そのために多額のローンを組むことになったとしても、実入りのいい安定した職に付ける見込みが強くなるのだと信じて大学に進んでいるのだ。
大人たちは常に「教育こそがグローバル化した社会で成功をつかむための最良の道だ」と子供たちに言い聞かせてきた。そしてこのお馴染みの話は次のように続く。ブルーカラーの仕事はやがてオフショアされるか機械化されてしまうし、中退したら金に困る一生を送ることになる、世を勝ち抜くのは学士号を手にしたエリートだ、と。これは証拠によって支持されている見解でもある。ジョージタウン大学の教育・労働力センターが最近発表した研究によれば「中等教育以上の学位を取得すれば、ほぼ必ず十分なリターンが得られる」という。学歴と収入には強い相関関係があるのだ。専門学位をもつアメリカ人の生涯賃金は360万ドルだが、高卒の場合はせいぜい130万ドルでしかない。さらに、学位を持てるものと持たざるものの差はますます広がりつつある。2002年の研究では、大卒は高卒の1.75倍の生涯賃金を得ているという結果が得られたのだが、今日ではこのプレミアはさらに大きくなっている。
しかし、過去というガイドは未来において役に立つだろうか? むしろ、私たちは仕事と教育の関係が変化する時代の境目に立っているのではないだろうか? 実際のところ、古いパターンが変わりつつあり、今は不況によって引き起こされている西欧社会の大卒需要低迷という事象も構造的なものに転化しつつあるのだと考えるべき根拠は十分にある。数十年にわたって多くのブルーカラー労働者を揺さぶり続けた創造的破壊の強風は、今や教育エリートにも牙を向こうとしているのだ。
大卒者の供給は急速に増大しつつある。高等教育統計によれば、1990年から2007年の間に、大学に進学する学生の数は、北アメリカでは22%、ヨーロッパでは74%、ラテンアメリカでは144%、アジアでは203%に増大したという。2007年には世界中で1億5000万人もの人が大学に通い、そのうち7000万人はアジアの大学に在学している。経済的新興国、中でもとりわけ中国は欧米のエリートに対向しうるだけの大学の育成にリソースを注いでいる。この新興国では、タタ・コンサルタンシー・サービスやインフォシスのような専門サービスを業とする会社も生まれつつあり、これらの会社は新卒生を世界クラスのコンピュータープログラマやコンサルに育て上げている。詰まるところ、富かな国の最優秀層は、より少ない賃金で沢山働いてくれる貧しい国の最優秀層と競合しつつあるのだ。
同時に、教育を受けた労働者の需要のあり方もテクノロジーによって変わりつつある。この状況は19世紀に農業労働者が直面し、20世紀に工場労働者が直面したそれと非常に似ている。コンピューターは反復的な知的作業のみ成し得るというわけではない。コンピューターは、アマチュアにプロのごとく仕事をこなせるようにする力を与えるのだ。どうして生身の会計士を雇って納税申告をしてもらう必要があるだろう? そんなものは、Turbotaxを使えばわずかな費用でやれるのだ。今後、論調と言語的曖昧さを処理できる機能が備わるようになれば、コンピューターがこなせる仕事の種類は今の何倍にもなるだろう。
Paul Krugmanを含む経済学者の一部は、ポスト工業化社会の特徴は絶え間なく続く知的労働者需要の増大ではなく、巨大な「空洞化」にあるのだと論じている。この「空洞化」は、中級職が賢い機械によって取って代わられ、上級職の増加が鈍化することによって起こるのだという。MITのDavid Autorによれば、このコンピューター時代におけるオートメーション化の主たる効果は、ブルーカラー職の消失というより、ルーチン化できるあらゆる職の消滅にあるという。プリンストン大のAlan Blinderは、低賃金の仕事よりも、大卒が伝統的にこなしてきた仕事の方が比較的「オフショアしやすい」と論じている。配管工やトラック運転手はアウトソースすることができないが、プログラマの仕事ならインドに頼むことができるからだ。
大学教育は、未だに医療・法・学問といった巨大なギルドの入会資格になっていて、このギルドは安定した高賃金な職を生み出している。これらのギルドは前世紀において非常に強力な参入障壁として機能してきた。この障壁は時には正当な目的に出たものだったが(誰も床屋に手術されたいとは思わないしね)、他方で自分たちの利益を目的としたものでもあった。しかし、ギルドは次第に没落しつつある。新聞はブログとの戦いに負けつつあるし、大学はテニュア付きの教授をテニュアの無い職に置き換えつつある。法律事務所は「discovery」(訴訟に関係のある資料を探し出す仕事)のようなルーチンの仕事を、Blackstone Discoveryに代表される電子検索の専門集団に外注しはじめている。医者ですら安泰ではない。患者たちはオンラインでアドバイスを受けた上で、ウョルマートの新しい医薬品センターを利用して治療を求めるようになりつつあるからだ。
MITのThomas Maloneは、このようなオートメーション化・グローバリゼーション・自由化といった流れは、もっと大きな変化 - すなわち「知的労働の分業化」という流れの一局面かもしれないと論じている。アダム・スミスの工場マネージャがピンの生産を18の手続きの分割したように、企業はますます知的労働を細切れにしつつあるのだ。例えば、TopCoderはITプロジェクトを小さな塊に分けたあと、その細切れをフリーランスのコーダーに分配するという方式を採用している。
このような変化は間違いなく知的労働者の生産性を高めるだろう。消費者はサービスに対して高い対価を要求する専門家ギルドを避けて通れるようになるし、多くの知的労働者は退屈な仕事を外注することで自分の最も得意な仕事に集中できるようになるのだ。しかし他方で、この知的労働の再編の流れは、次の世代の大卒者の人生を、はるかに不確定で安住できないものにするのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%BD%B0
長いけど引用。
人文知の現在については、『表象』no.01(2007)における松浦寿輝との対談において、「プラグマティックな工学知とそれによる利潤追求がすべてだ」(テクノキャピタリズム)という発想の全面化により、「人文知の成立する余地が失われた」。「いまや国家もハイ・カルチャーに興味をなくしつつあるし、オタクあがりのIT成金もハイ・カルチャーに興味をもっていない」。残っているのは、「日本における動物的スノッブあるいはスノビッシュな動物としてのオタク、その幼児的倒錯」しかないように見え、実際、「幼児的退行を売り物にするカルチャーが、日本的なオタクの特殊な表現であるということで、世界的に売れてしま」う。「2000年前後に、ドラスティックな変化があった。それまでは近代文学というものが辛うじて生きていた。しかしいまやそういう意味での文学とは違うところ、いわゆるライトノベルやケータイ小説、アニメやゲームのほうが、主流になってしまった。文学もそういうふきさらしの荒野に出てしまったと言う感じははっきりする」
しかし「素直に言って、僕はそういうものは最悪だ」と思うし、「市場の論理がすべてだとは絶対に思わない」。とはいえ、それらへの「反動として、ヨーロッパ的(あるいは東洋的)な古きよき教養に戻るというのも望ましくもなければ可能でもない。亡命知識人の体現するヨーロッパとアメリカの臨界に、20世紀の人文知の最大の可能性があった。それを21世紀にどうやって取り戻せるのかというのが、ひとつのモチーフになる」と述べている。
この鋭さはやはりすごい。
これについこの前の内田樹の話がかぶってくる。
http://blog.tatsuru.com/2011/08/01_1108.php
こちらは引用しないけど、ネット上の言論が暴力的になってきているという彼の印象と、それについての言説。
で、
サブ・カルチャーが社会において力を持つということは社会の教養レヴェルが(全体的に)落ちたということではないのか?
教養の不足、というのは、他者との距離感を錯誤する。わたし、と、あなた、の違いが曖昧にしか感じられなくなってくる。
総理大臣に『バカッ!』ということが、冗談でなくて本気で彼に伝わる、そんな感覚さえもつようになるのでは?
そして政治家もまたひとしく教養を欠き、彼らの十八番であった言葉遊びができなくなって、記者会見で泣き出す?
政治家でない私が政治家と違うのは、互いの囲まれた環境(circumstance)が違うのだから当然で、彼の言葉を理解できないから『理解しようとする』。
今そういうことを皆できなくなってきてるのではないか。
『おマエ氏ね』と書き込むひとは、案外以前より一層、本気で書くようになってきたのではないか。
二人のコトを読んでそんなことをぐるぐる、もやもや、考えた。
http://anond.hatelabo.jp/20110813025031 に対する私見。ブログに書く程でもないんで此処に。
元増田が疑問に思っているように「おいしんぼ」を加工して遊ぶという行為とカオスラウンジは似ているようにも、見える。
じゃあ何が違うのかっていうと「使った元ネタ」の出自が何かって話なんだと思うよ。
カオスラウンジのコラージュと、おいしんぼのコラージュで決定的に違うのは、カオスラウンジのコラージュの元ネタが二次創作であり、おいしんぼが商業作品である、という点。
これだけ。
ちょっと前に村上隆が自分のやってる事を翻訳だ、って言ったのをきっかけに揉めたのを覚えている人もいると思うけど、これに当てはめて考えるとわかりやすいんじゃないかな。
(村上隆翻訳事件については http://togetter.com/li/46166 http://mojix.org/2010/09/03/murakami-mukatsuku http://tsunoga.blog32.fc2.com/blog-entry-298.html らへんを読んでくれ)
「おまえら」は商業作品をコラージュしたり二次創作したり、という「翻訳」をして、それを「おまえら」の世界で楽しんでいる。
それに対して「カオスラウンジ」は二次創作をコラージュするという行為を通してアートに「翻訳」した。ついでにいうなら「翻訳」をきっかけに金儲けもしたw
そういう事なんじゃないかな、と思ってる。
アートっていうのは「権威」によって「これはアートだ」と認められる事だ、と思う。
その権威が何処かの美術館に飾られる事なのか、なんたらビエンナーレに入賞することなのか、村上隆や美術手帖に絶賛されることなのか、何処かのオークションで何億って価格で落札される事なのかはともかくとして「これは、アートだ」と認められさえすれば、便器にサインをしただけの簡単なお仕事ですらアートになるよっていうのが20世紀初頭からのアートシーンを支配している「空気」だよね。
カオスラウンジは、だから「そういう空気」が支配している世界に二次創作をコラージュするという「翻訳」をして、その「翻訳をした内容(と行為)」がアートとして認められた。
でも「おまえら」からすれば「自分たちの愛が穢された!」って事になるんだろう。
いつも自分たちが商業作品を二次創作という形で「翻訳」して楽しんでいる事と全く同質なのにね。
カオスラウンジがやってる行為とMADの違いが何処にあるのか説明出来る人はいないんじゃないかな。
元増田の疑問は、まさにそこにあると思う。
二次創作を更に二次創作するサークルもいると聞くが、それは「おまえら」の世界の中で完結する行為だから許容されうる範囲の事なんだろう。(揉める事もあるって聞くけどね)
上手く表現出来る気がしない(だから増田に逃げたというのもあるんだが)のだけれど「お互い、人の財産を奪う事の罪悪感は低いんだけど、自分たちの財産が奪われる事には敏感だよね」って事に尽きるのではないかな。(財産、という言葉は適切ではないように思うけれど、他に上手い言葉が思いつかない)
個人的には、カオスラウンジの「作品」を見ても手段も内容もたいした事ないなあ、と思う。
じゃあ何がアートとして評価されたんだろうと自分なりに篩に掛けて残ったのは「二次創作をコラージュする」という行為(水浸しもだけど)であって、それだけは既存のアートシーンには(おそらく)存在なかったと思うからだ(思いついたけど誰もやらなかっただけなんだよ、という「批判」はあるとは思うけど)
そんなわけでカオスラウンジの皆さんの今後の活動を生暖かく見守っていきたい次第でございます。
一回「やらかした」事というのは、それが何であれ、二度と繰り返せないのがアートの世界であるにも拘らず、バッシング覚悟で二次創作をコラージュするという「翻訳」をしなければカオスラウンジという集団のアートとしての価値は無価値であると言っても過言ではないだろうから。
自分の敵は自分っていうか、針のむしろを用意したのは自分自身なんだし。10年代の日本のアートシーンの騎手としてがんばってくだしい。
20世紀に発売した作品は一律1円にすべき。
「昭和のクソ」というものがあるのなら、この増田はさしずめ「平成のクソ」だな。
ていうか、「自分と違う価値観をクソだ何だと否定しまくり」って、モロに増田言うところの「昭和的時代遅れ行動パターン」じゃん。
増田の言う「古さ」ってつまりは、自分らの価値観にとらわれまくって他者を否定する行動パターンの事なんだろ。
だとしたら平成の価値観にとらわれまくって昭和を肯定しようとしない増田は存在そのものが「古い」よな。
誰かに勝利したいのが本懐で、本当は差別とかどうでもいいんでしょ?
見事な自己紹介、乙。
「その前のお前」と「その後のお前」も、当然地続きだ。
部外者ヅラはできねーよ。
オタク文化の主張は「俺たちの文化に土足で入って荒らすのは許されない」に集約される。
人格否定やら肖像権侵害に走ってるオタク文化の人間が、同人のグレーゾーンは仁義や倫理で成り立つ賜物だと主張してもへそで茶が沸くだけだよな。文化を奪ってんのはお互い様だぜ。
アート文化の主張は「両者に決定的な違いはない、アートを理解しないオタクの自意識過剰な被害妄想だ」という感じ。正直こっちの主張はよく分からん。
ウォーホールやデュシャンなんて時代遅れを引き摺り何度も同じこと繰り返すお前らより、自ら新しい価値を生み出している同人文化の方がよっぽどアートしてるだろ。もっと本気出せよ。
特に結論はない。ネットってなんでこうも余裕ないやつらばっかりなんだろうな。あるいはネットにはこういう娯楽しかないだけか。
俺は当時高校生だったが、そんな話は聞いたことないぞ。お前の記憶違いか、当時の短絡による勘違いか、本当にそう聞かされたとしたら周りがおかしいのだろう。
「当時」はそうだったのかもしれません。そもそも「原発」はおろか「事故」もろくに理解できる年ではなかったのでわかりません。ただ、その後尾ひれがついていったのは間違いありません。たとえばこれ。2006年のものです。京大の今中「先生」によるものです。反原発団体で最も有名な原子力情報資料室の資料です。
2003 年に結成された「チェルノブイリ・フォーラム」(中略)は、この20 年間の事故影響研究のまとめとして、「放射線被曝にともなう死者の数は、将来ガンで亡くなる人を含めて4000 人である」と結論した[1]。この発表を受けて世界中のマスコミが「チェルノブイリ事故の影響は従来考えられていたより実はずっと小さかった」と報じた。
つまり、20世紀の間は少なくとも千人単位ではきかない程度の死者がいると考えられていたということです。
これからは、「今中さん、チェルノブイリ事故ではどれだけの人が死んだんですか?」と聞かれたら「いまの“私の勘”では、最終的な死者の数は10 万人から20 万人くらい、そのうち半分が放射線被曝によるもので、残りは事故の間接的な影響でしょう」と答えることにしよう。
以上、私が「何千人、何万人、ともかく想像もつかない数の人が命を落としたと聞いた」というのがあながち勘違いではないと言えると思います。
理系ならば「絶対」はありえないというのが常識だから、すべてをその色眼鏡で見る。しかし普通のおっちゃんやおばちゃんたちは「事故が起こるということはないんですね」と質問して「ありません」と言われたら、それを「絶対安全」と解釈する。それが「普通」なんだ。
それは理系とかどうとかいう問題じゃないでしょ。「人間のやることに絶対があるかないか」なんてことは「常識」の問題です。「新幹線は安全です」「鉄道は安全です」「飛行機は安全です」これを「絶対安全」の主張だと思う人は「馬鹿」だといってよいでしょう。
以上、元増田が皮肉を意図していることは最初に読んだときにわかったが、知り合いが元増田の文章を間に受けて「自分も反原発派にだまされていた」と鼻息を荒くしていたので、一応、マジレスしておく。
いや、嘘をついて騙していたのは確かでしょ。元増田で言及した個別の点については反原発派やマスメディアの言動が行きすぎだったことは事実で、そのことは批判されるべきだと思いますよ。
私を含め、騙された方「も」馬鹿だというのは事実です(勿論、私だって元増田の内容から想像されるほどナイーブに騙されていたわけではないが、興味を持たなかった点については裏を取らずに「とりあえず『事実』の部分では嘘をついていないと信じておく」という対応を取ってしまったのは事実ではあります)。しかし騙された方が馬鹿だからといって騙した方が免責されるかというと勿論そんなことはない。この種の反原発派(反原発派の全員ではない。もっとも、極端でない反原発派は最近「推進派」扱いされるらしいが)を非難することが誤りとは思えません。
もちろん、元増田を「(一部)反原発派は全て間違っている、よって反原発自体が間違っている」という風に解釈されるならそれは私の本意ではありませんし、むしろそういう短絡した論理こそが私の批判したかったことの一つでもありますが、それはあなたのご指摘箇所とは関係のないことですね。
東北が「米どころ」の地位を確立したのは戦後だという歴史は、意外と知られていない。熱帯原産の商品作物であるコメは、東北では大正期まで収量が低かった。それが変わった背景は、農業技術の進歩もあるが、東京市場の膨張、戦中と敗戦後の食糧増産政策、戦前のコメ供給地だった朝鮮と台湾の分離などである。こうして東北は、米・野菜・水産物などの東京への供給地となった。
また東北は、東京への低廉な労働力の供給地だった。高度成長期の集団就職や出稼ぎだけでなく、高卒農村女性を始めとした低賃金の非正規労働者の存在が、下請け部品工場などを東北に誘致する力となった。
さらに東北は、東京への電力の供給地だった。コメが減反に転じ、過疎化が進んだ高度成長末期から、原発と交付金が誘致された。沖縄に基地が集中したように、福島と福井には東京と大阪に電力を供給する原発が集中し、他に産業のない地元の人びとが働いた。こうして穀倉地帯に原発が集中するリスクが生じた。
1990年代以後のグローバリゼーションの中で、一次産品と労働力の供給地としての東北は、アジアとの競争にさらされた。いっそうの過疎化と高齢化、小商店や公共交通機関の衰退が進んだ。点在する小集落から生活物資を買いに行くのも自動車に頼らざるをえなくなり、地域の命綱となったガソリンスタンドも過疎化による経営難で減少している。
今回の震災では、原発事故と電力危機、放射能による農水産物汚染、ガソリン不足と物流停滞、高齢被災者の多さ、部品工場の被災による部品供給網の寸断などが重なった。これらは上記のような地域で震災がおきれば、必然的に発生しうる事態である。これを想定外の複合災害のように東京のメディアが論じるなら、それは地震といえば関東大震災や阪神大震災のような都市型災害しか想定していなかった、無意識の東京中心主義の限界というほかない。
復興も、関東大震災や阪神大震災とは条件が違う。消費地である都市の復興と異なり、生産地の復興は、都市計画や防災を中心に論じても限界がある。また神戸は大阪に隣接して雇用もあり、経済活動の一時移転もできた。だが今回は、2030年までに人口3割減さえ予測されていた過疎地が生産基盤を失った。
復興に水をさしたくはないが、懸念されるのはいっそうの過疎化だ。グローバル資本とグローバルシティーにとって、食料と労働力の供給地は東北である必要はない。20世紀の国内分業で位置を定められてきた東北は、21世紀の国際分業競争の渦中で打撃をうけた。地震と電力供給のリスクがある東北から工場を海外へ移す動向も予想されている。町をまるごと失い、放射能におびえ、仕事と安全の未来もみえない状態が続けば、若者から先に東北を離れてゆく。この現実を直視し、日本の構造と東北の位置を変える意志を東京側も含めて共有せずには、防災都市やエコタウンの構想も新築の過疎地と財政赤字を残すだけに終わりかねず、原発に頼らない地域社会も作れない。
復興の前提は、原発事故の大局的対策だ。放射能漏れを伴う綱渡りの冷却が数ヶ月は続く。放射能の放出は3月より減ったが、再度の大放出の恐れは残っている。政府は矛盾だらけの暫定措置(飲料水の放射能基準値が原発の排水の7倍など)のつぎはぎを超え、さらなる避難拡大や経済的・国際的影響など、あらゆる事態を想定した長期戦略を公表して国民を納得させてほしい。何もしらされずに非常事態になれば、かえってパニックがおきる。「最悪の事態になれば東日本がつぶれる」と発言した菅首相なら、そうした戦略を立てる意志はお持ちと思う。少なくとも「想定外だった」という言葉だけは、世界中の誰も聞きたがってはいない。
震災後には、「がんばれニッポン」という言葉が躍った。だが震災が浮き彫りにしたのは、「ニッポン」の一語で形容するにはあまりに分断されている、近代日本の姿である。
朝日新聞4月28日 あすを探る 思想・歴史 ( via http://twitpic.com/4u59mv )
東日本の大地震を契機に、「オピニオン」を売り物にしている人たちがやたらとご乱心をして、見当はずれなドヤ顔を晒してしまっているのをたくさん見てしまった。
裏情報によるとあれはどうだとか、オタク文化が成り立たなくなるだとか、わいわいがやがや。
地震と津波の影響で、原発が壊滅的な被害を受けてしまったのは皆さんご存知の通り。計画停電等で関東全体がしわ寄せを受けていたり、東電が原発処理で醜態を晒しつづけているのも周知の事実だ。
そして、今回の事故を受けて、改めて原発の意義やエネルギー問題が議論として浮上してきた。ぜんぜんクリーンじゃないぞとか、作業員への手当がいい加減すぎるとか、放射線の影響はぜんぜんないorけっこうヤバいだとか。しかし、以下の発言のような方向にいってしまうのはどうなんだろう?
今回の異常事態で20世紀を貫いて絶対的な権威だった「科学」そのものが破綻した瞬間を日本社会は味わったのではないかと感じている。自分もその一人。今科学者や技術者が「問題は想定外だったこと。これから大地震にも耐えられる原子炉を設計すればいいまでのことだ」と言ったら…信じる?
死の影を見ず、コンビニエンスに生き、自然界がディズニー表現されている、いたって都合がいい、幼児的な宇宙に住む権利を捨てなければならなくなった。自然に謝って済むものではない。人格を超えた相手は管理できない。人間の「ごっこ」はあまりにも非力だったことがばれた。
呼吸法や坐禅だけでも相当に有効な洞察が得られるかもしれない。コンビニエンス社会はマスコミに意識を委ねるなど他律的な面が強調されるけど、便利さを捨てて自律的なライフスタイルへと徐々に切り替えていくというソリューションもあるかも。風力、太陽光以外に。
(ミュージシャンで作家、フォロワー1万5000人のモーリー・ロバートソンさんのツイート)
この手の「資本主義社会を見直そう」みたいな動きはあちこちで見かける。計画停電で都市機能が大きな影響を受けたが、そもそもこんなに電気を使う社会のほうがおかしいんだ。今の社会にある便利なものは、多くの犠牲に成り立っている。不便を受け入れて健全で質の高い社会を目指そう。
……みたいな意見。
なんだか「スローライフ」だとか「ロハス」だとかいった単語を思い出してしまう。どちらも自然志向のライフスタイルだ。競争に明け暮れるのはやめて、もっと価値のある食事に時間をかけようだとか、科学の発展で本当に価値のある何かを失ってしまっただとか、そんなような。要するに自然回帰。
そこまでいかなくても「経済を縮小させて云々」なんて言い出している人はごまんといる。
今回の原発事故を受けて、何でこんな発想になってしまうんだろう? おそらく、こういう人は元々ここういう考えを持っているんだろう。今回の事故から自然回帰的な発想に至ったんじゃなくて、「資本主義って何か嫌だな」「大事なものを失っているんじゃないか」って日頃から考えていて、安易に原発事故に繋げてしまっているんだ。
事故で問題だったのは津波対策をきちんとしていなかったことと、東電が隠蔽体質を発揮して泥沼に陥ってしまったことだ。そこで考えるべきことは、もっと確実な地震対策、津波対策はないのか、想定の精度をあげるにはどうすればいいのか、隠蔽体質に陥らないようにするにはどうしたらいいか、だ。
私には資本主義がどうこう言い出すのは、答えのだせない大きな話にして逃げてるようにしか思えない。
こういう人は何でもかんでも資本主義反対に繋げちゃって、貧しいアジアを見て「でも、ここには日本人が失ってしまった何かがある」とか言っちゃうのだろう。きみが感傷に耽っている数秒間に、水不足で死んじゃう人が何人もいて、それは科学の力で救えるんだけど。
もちろん、原発の代替案は探っていかなきゃいけない。でも、「昔に戻る」はとても安易な考え方だと思う。私には思考停止に思える。
ツイートもブログも、メールもない。電話だって出来ない。電気・ガソリン・ガスが失われ、津波に傷つけられた街では本当に昔からのやり方で物事が行われている -ペンと紙で。
コンピュータやウェブサイト、3G携帯はもちろん、20世紀の印刷出版は利用できずに、街唯一の新聞である石巻日日新聞では記事が大きな紙に黒のフェルトペンで書かれている。
現代のメディアとは思えないが、この方法は機能している。
「このような悲劇に苦しむ人々は食べ物や水、そして情報も必要としています」夕刊紙である石巻日日新聞にて主筆を務めるタケウチヒロユキは語った。「これまではテレビとインターネットでニュースに触れていた。しかし灯りも電気もなくなって、彼らにはうちの新聞紙かないんです」
近年のアラブ世界をまたがる政治的醸成が新しいメディアの持つ力を華々しく告げる一方、世界で最も「つながった」国である日本での悲劇は、時計の針を逆転させた。少なくともここ何日かは、印刷/手書きのことばが優位となった。
執筆・編集が終わると、タケウチと同僚が手作業で複製し、史上最悪の地震とそれに続いた死の津波に生き残った人々がいる避難所へと配られる事になる。
「情報を手に入れるのに必死なんです」津波が自宅の一階に押し寄せて以来、10日間オフィスで寝泊まりを続けるタケウチは語った。
16万都市の1/3に電気教kっゆうが再開され、タケウチの新聞はペンを置き、印刷を始めた。ネットはまだ使えない。月曜の一面では「奇跡の救出劇」、80才女性と16才の孫息子が瓦解した石巻の自宅から日曜日に救出された物語を讃えていた。
海岸線を仙台に下ると、かつて賑やかだった100万都市では、デジタルによる意見は停止している。「こんな状況では、紙(媒体)の力は他(のメディア)にはない」街を代表する新聞である河北新報の社長でありオーナーでもある一力雅彦は語った。ほとんどの店が閉じた今では、ラジオの電池を買う事ができない。
この地域の電気供給が崩壊し、仙台のコンピュータやテレビはシャットダウンされたが、一力が持つ仙台の新聞はその間も発行されている。津波の日には1ページの号外さえ届けている。
情報に飢える住民は、(一力)社主に「生活を守るために私たちの新聞に頼っている」と話した。大災害についてだけでなく、毎日の生活に関わる情報が提供される。どの店に食べ物があって、どの道で瓦礫が除去されたか、どの銀行に現金があって、有名酒販チェーンのどの店が再開したかなどについてだ。
石巻は仙台よりも小さく、被害は長引いており、日日新聞は津波の後の2日間は発行できなかった。6人いる記者のうちの1人は、仕事から戻る途中に車にのったまま飲み込まれた。彼は生き残り、数日を病院で過ごして現場に戻った。
主筆であるタケウチは、3月11日午後2時46分に地震に襲われた時にはオフィスにいた。その日の入稿を終え、紙面では1面には石巻の「隠れた魅力」についての記事が飾られ、役所の担当者は病院やその他の施設を改善する約束をしていた。
地震は2階建ての新聞社社屋を揺さぶり、激しさのあまり蛍光灯は天井~落ち、ファイルキャビネットは床の上で横滑りした。
最初の手書き版は3月13日に準備され、「可能な限り正確な情報を得られるよう努める」誓いが特集された。日本中から集められたレスキュー隊の到着と被災地域の広がりが伝えられた。石巻では海辺の家屋やビジネスはぶち壊された。3万を超える人々が避難所に逃げ込んだ。「今や被害の全貌が明らかになった」という見出しがつけられた。
明くる日、身元が確認された34地域の人々の名前と年齢が載せられた。絶望の兆候でもある、スーパーでの略奪も伝えられた。
しかし紙面では、打ちのめされた人々の気持ちに拍車をかけるようなものよりも、明るい話題が努めて選ばれたとタケウチは言う。「希望につながる事を探しています。これが私たちの考え方です」 「数が増えるばかり」という理由で、死者名の掲載は取りやめとなった。1300以上の遺体が確認されている。
「こうした努力が電子メディアの不在を補う上で役立っている。電気や水、十分ではない食べ物での生活はうんざりするくらい大変です」石巻の25才になる、イシカワユタカは言う。「でも最悪なのは情報がない事です」メールやネットサーフィンが恋しいと彼は語った。
言う事を聞きつつ、正論を言ったら干されるのでぐっと堪え、
取引先のタヌキにも頭を下げつつも、さらに新人に陰口をたたかれ、
でも妻に奉仕しなきゃまた喧嘩になったり発言小町に書かれるから
安い発泡酒で我慢して、それで寝る。
起きたらまたギュウギュウの電車に揺られ、
今朝の電車で触れた女子高生の匂いを反芻する。牛のごとく何度も。
そんなこんなで稼いだ金がどこに消えるかと言うと、
ケツにぶちこんでやろうかと思ったりするんだけど、
そんな勇気はもちろんの事、クビになっても転職して成功するスキルなどがないので、
昼休みにモニタの前で、「たまごや」の弁当のおかずのすき焼きを味わい、
わずかな幸せをかみしめる。そんな日々。
「きみは資本主義奴隷だね」と言われたとしても、「はい」としか
答えることが出来ないわけで。
未来人は続けて、
「歴史の教科書で読んだんだけどさ、20世紀後半から21世紀半ばにかけて、
画期的だったんだってね。いや、むしろサラリーマンが勝ち組とか
ギュウギュウの乗り物に押し込められても文句を言わせない
と言ったとしても、私はハイとしか答える事ができないわけであって。
朝の電車で女子高生と合法的に密着できることです!と真面目な顔をして
主張したいんだけど、主張しても捕まりそうなので、言えない。
あとはオフィスグリコで「パキッツ」をゲットしたときだったり、
朝の電車の女子高生との密着だったりってのが、奴隷の私の一番の幸せだったりする。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
本の後ろの袋とじについてるシリアル番号を出版社のページで入力するとDLできるとかいうような感じで。
2ちゃんにシリアル番号アップされたらDLし放題、とかになっちゃうといけないから、DL回数の制限とかは必要かな。
そうすると使い勝手からしてDRMフリーデータであって欲しいな。
DRMフリーだとP2Pとかやられ放題になるっつーなら、もう音楽や映像メディアはとっくにそうだしどのみち自炊普及してったら本だってそうなるだろうし。
っていうか本の背中をバッサリいくって、自分で金出して買った本とはいえなんか罪悪感あるんだよね個人的に。
それなら印刷所も当面は仕事減らないし、どうせ素人自炊されるなら最初から作者・出版社側の提供したい高品質データを見てもらったほうがいいと思うし。
ただ出版社のサーバ維持費とか袋とじ付けることのコスト増がどうなのか分からんけど。
ってか俺が知らないだけで似たような試みって既にあるのかな。
2005年とかのスレが普通に残っていて、延々このような議論が交わされている…
156 :7分74秒:2006/02/24(金) 07:17:56 ID:kWBDKT0o
消費に即したパッケージングを施し、(それが故意でなくとも消費から生まれる事には変わり無い)
最小のものから部分を定義して全体が作られた完全に不自然な音楽が、
現代音楽を意識的に受け継ごうとする輩によって不自然なまでに作られている。
それらに「アートっぽい若者」が踊らされている、これは紛れもない消費の体系であり、
現代音楽の可能性などではない。可能性というものは後に現れてくるもので
もしそう出来るものなら、それは可能性ではなく
可能性にとらわれているだけの事である。
160 :7分74秒:2006/02/25(土) 14:47:13 ID:Kmbr99+u
>>156はもうちょっとちゃんといろいろ聞こうね。イメージだけでしゃべってるでしょ?
もしそうでないなら
最小のものから部分を定義して全体が作られた完全に不自然な音楽
このままじゃツッコミどころおおすぎで書ききれんし、僕の誤解かもしれないから
書き逃げじゃないんなら、よろしく。
161 :156:2006/02/25(土) 23:10:36 ID:XmwstdFo
>>160
所謂西洋的な解体をもとにあの時代に現れた音楽(今で言う現代音楽)
のような役割を持った音楽の出現を現代において意識的につくりだそうとしても、
私が批判の対象にしているものは、そういう事を意識的に、
かつ金を絡ませてやっている輩の事です。
163 :160:2006/02/26(日) 00:06:09 ID:W+LzncDc
そうやって、あなたは私に対するイメージをつくり、そう断定的に仮定してしゃべっている訳です。
だから最後に誤解かもしれないから、ってフォロー入れたつもりなんだけど。
2chだと>>156みたいなツリなんていくらでもあるからね。
それで気を悪くしたんなら悪かったと思うが。あとやっぱり「そういう事を意識的に、
かつ金を絡ませてやっている輩」って具体的に誰のことか分からん。いまどき
そんな前世紀的な芸術のとらえ方の人が実際にいるの?頼むから理屈オチでないなら
名前を挙げてくれ。
164 :160:2006/02/26(日) 00:07:01 ID:6kek95OQ
まず一番の勘違いとして、あなたが古典的な芸術観にとらわれすぎているから逆に、
スレタイの「エレクトロニカは21世紀の現代音楽」をエレクトロが
現代音楽っていう言葉に”新鮮”はあっても”進歩的”っていうニュアンスはいまや
ただ楽器が変われば新しいフィーリングが生まれる。20世紀にいろいろな音楽を通過してきて
いまや西洋の古典的な楽器では現在のリアリティは表現できないんじゃないだろか、
別にそれを断定したいんじゃなく、音楽を作る上でのそういう切り口があるってこと。
あと「いろいろ」で僕の考える今のリアリティとしては是非押さえておいて欲しいと思う、
”村上隆”についてご意見伺おうか。ちなみに言っておくと、僕は肯定派。
もちろん村上は通過してるよね?
あなたの意見はどーも教科書や本を読んでるだけで、今現実にアートと向き合ってる人の
意見にかんじないんだよなー。現場の人ってあなたが言ってるくらいのことはみんな
分かった上だと思うけどねぇ。
村上は美大を問題にしてるが一番問題なのは小中高の美術教育だと考える
村上が批判するところの『自由主義』≒内発的なものを表に表現することこそ美術の真髄であるという思い込み
小学校はともかく中高でそういう教育を行うのは問題なのではないか
日本の美術教科書は他国と比較すると異様に薄く内容的にもかなり異なる
典型例として
自分を見つめる
とNGが出る
褒められる絵
美術教師・教科書が褒める絵のスタイルには傾向があり、顕著なのが風景画における印象派
心ひかれた場面に出会ったら絵に表してみましょう
光や影、広がりや奥行きを各画面の構成や色彩で工夫すれば、印象深く表すことができます
→印象派
日本の美術教育は印象派が美術の最先端だった頃に開発された技法が輸入され太いチャンネルになっている
その結果として印象派的な書き方を教えることが日本の美術教育の一つの王道を成している
分厚い
美術史を丁寧に教える
ルネッサンスの項では遠近法が開発され、そうした理論の注入が行われた結果それまでの中世の絵から
どのように変わっていったのか、等が論理的に
20世紀の項では
ピューリズムとかシュープレマティズムなどマニアックな流派まで結構詳細にどういう背景を持って
どのような流れで出てきたのかを触れる
半分は美術史をやり残り半分は実作
例えばエジプトの壁画、ファンアイクの絵、マチスの絵に到るまで丁寧に模写をした上で
それがどういう時代背景の元にどういう技法で描かれているかを自分なりに読み込んで
まとめる、ということを行う。
日本でも美術史をやらないわけではないが、それは日本史世界史の授業で行い
美術の授業とは切り離されている
基本的に向こうでは美術史と自分で描くこととを両輪のように組み合っせてやってる
美術というのは歴史があり、何が「美しい」と思われてきたのかは時代時代によって
かなり変わってきている。
歴史の積み重ねがそれを作り上げている。
それは宗教だったり政治であったり、そういった権力のもとで作られてきたとか
あるいはフランス革命により王政が打倒された結果、描くモチーフが王侯貴族から市民に変わっていったり
そういう技法まで含めて流れがあり
我々が何を美しいと感じるかというのは、実は自分が生きた時代に人々がそういうものを
美しいと思うように訓練されたから、そういうものを美しいと思うのだということが体得されてゆく。
ある人がなにかを美しいと思う、それは何か訓練された結果美しいと思うのではなくて、
あくまで内発的ななにものにも影響されないそういう感覚があり、その美しいと思ったその感覚、
あるいはそれを表現することそのものが美術なんだという風な、いわば洗脳を受ける結果として、
自分があるものを美しいと思うときに、例えば広告とかTVCMとかの結果としてそういうものを
美しいと思うようになっているにも関わらず、内発的に美しいと思っていると誤解している
ところが発生しかねない。
疲れたんでここまで
以下、日本の美術教育のこのような特殊性のルーツはなんのか、等々
またこういった『自由主義』が美術教育の専門家ら自身にも問題だと認識されていること、
にもかかわらずこーなってんのか、日本美術教育がどのように位置づけられてるからなのか、等々。
更にかつて現在の美術界同様な状態だった日本の建築界が磯崎新の仕掛けによりどのように
変わってゆき、現在のような5~6人のワールドクラスを輩出するまでに変わっていったか、等々
村上は磯崎が建築界で起こしたことを美術界で起こせるのか、等々
と続く
とにかく根拠が実感だけの村上さんよりはるかに具体的で面白かったんで、こんな糞エントリじゃなく