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はてなキーワード: 推敲とは

2012-02-13

記事の内容・ブクマ面白いのは〜250ブクマまでだなぁ

ブクマ数毎に記事・ブコメの質が変わってくる

はてなウェブ上を巡回していると気づくが、ブクマ数毎に記事・ブコメの質が変わってくる。ただブクマが多ければ記事の質も比例してよいというわけではなく、数に応じて傾向がある。


1〜3ブクマ

人気ブクマには上がらず、その情報を探していた人にとっては有用情報が記事になっている。またはブクマする癖のある人がふらっとブクマしただけ。


4〜30ブクマ

その情報を探していた人にとっては「非常に」有用情報が記事になっている。特定の人ではなく、特定の分野(カテゴリ)に属する人が集まりコメント属性の近い人同士で有用意見が集まる。


31〜100ブクマ

この辺りからホッテントリに表示されるようになり、特定の分野に関係の無い人、また同じ分野でも記事の意見に否定的な人が集まってくる。id指定のディベートも起こるようになるが、「あなたはこういう意見、私はこういう意見」という互いに頬をひっぱたき合って互いに納得する、調和が取れた状態で落ち着く。


101〜250ブクマ

ブクマが二分している状態または片方の勢力にドヤ顔ケチをつけ、「多数勢力になびかない俺かっこいい」的コメントを残す人(はてな村中級者に多い)が段々出てくる。

※ただ、既に31〜100ブクマで議論が交されたところにいきなり踏み込むと、その議論が起きるまでの経緯なしに目にすることになるので「何こいつら熱くなっちゃってんの」となってしまう心情は理解できる。


このような流れなので、せいぜい250ブクマまでが記事、ブコメ共に楽しめるバランスのいい状態。これ以上ブコメがつく記事については、そのブクマ数に達するまで短期(0〜2日)か中長期(3日〜)かで質が分かれる。


250〜ブクマ(短期)

割と常識過ぎてその筋の中上級者には記事にする気すら起きないような内容(Excel で If の空白処理とか)だが、初心者には目からウロコとなるような記事はホッテントリに上がるや否や凄まじい勢いでブクマがつく。こうなると、「やり方が間違っている。正しくは○○だ」という親切心や「こんな適当な記事でブクマ数集めやがって」という嫉妬、「なんでこんなブクマついてるの」という、ブクマするお前が言うなっていう大衆忌避のブコメダイソン状態で集まってくる。こういう記事は内容だけ軽く頭にとどめておき、ブコメ阿鼻叫喚ぶりをサラっと眺めてページを閉じるのが精神衛生上ちょうどよい。自分も熱くなってしまったら負け。


250〜ブクマ(中長期)

こちらは、記事の内容がよく推敲されておリ、脊髄反射的によさげ雰囲気だけでブクマされたものではなく、内容を丁寧に読んだはてな村民が丁寧にブクマした結果で時間を掛けてブクマ数が増えているため、内容が自分に合っているのであれば素直に便乗してブクマしておくべき記事であるブコメも(ブコメ数)/ 100 ぐらいの数で記事に新たな視点を加えるような建設的・効果的な意見が上がっていることも多いので、はてな村民としては「ブクマが多いページをブクマして多数になびいたら負け」という気持ちからブクマをせずに閉じてしまいたくなる衝動にも駆られるがそこは我慢。新しい知識を得るための痛みだと思って恥を捨ててブクマした方がいい。


結論

2011.3.11震災以降、情報に敏感な人が増えたのか、昔よりも記事のブクマ数が増えてきたように思う。ユーザ数が増えることは称賛すべきことだけど、(どんなサービスでもそうだが)多くなりすぎるとノイズが増えすぎてコンテンツの質を損なってしまうことが多々ある。

だけど読むべき記事、読まなくていい記事、コメントしなくていい記事など一人ひとりで基準を持って使っていれば、(時代の流れやユーザ数の遷移に伴って基準は修正しなければならないけれど)自分が得たい情報以外に無駄感情精神力を使わなくて済むので、はてな村の皆様もぜひはてなリテラシーを高めて過ごして頂きたく。

2012-01-21

ゲーセン読めなかった。

ゲーセン出会った不思議女の子

というまとめが話題になっているけど、創作だろ、事実だろと言い合っているのもちらほら見られた。

個人的には、創作だろ、と思って、それゆえに途中からスクロールして結末読んだ。

たぶん、ちゃんと読んだら感動するんだろう。

なので内容については批判はしないけど、創作事実として提示することについて感じたことをメモっておきたい。

もちろん、

創作だと分かっているよ、その可能性はあるだろうよ、でもさ、別にいいじゃん、書いてある事が良ければ

という意見があることも分かる。本当はどちらかというと、そのポジションでありたい。


別にいいじゃん、書いてある事が良ければ」よりの考え方である根拠について。

昔、4日間の奇跡という小説を読んで文章あまり上手くないなあと思った。でも、最後まで読んでちょっと泣いた。

創作でも、文章や構成が甘くても、表現しようとするものが確かであれば評価されるべきだろうと思う。

2chまとめでも、イラスト描くようになって同じ趣味彼女もできたけどイラスト勧めてくれた親友が亡くなった話とか、

風俗嬢を好きになって親友と一緒にAV出演の契約をさせられようとしている窮地を救う話とか、

あいうの読めるし、いい話だなーって思う。でもゲーセンは読めなかった。

たとえば、あの話の導入部分で違和感を感じた箇所が二点あった。ちなみにこの違和感は4日間の奇跡の文章に感じたものに近い。

一つは、少女喫煙所で会話をするシーン。もう一つは、イラストと口にした途端、少女が暗くなるというくだり。

細かくは書かないけど、どっちも不自然だった。(そしてそれ以降スクロールした)

些細かも知れない。でも自分小説書いた事ある人なら分かると思う。

登場人物の立場だったら、どういう振る舞いが自然か、自分の好みやご都合主義が混ざってないか推敲する。

作者の偏好や、その状況の想像不足、物語の展開のため仕方なく不自然になってしまったシーン。

創作ならその不協和音を作者の稚拙さということにして、読み進められる。

ん?ここ作者の個人的な好みで展開しているよねってことも、その作者の傾向として許容できる。

だけど、それが現実にあったこととして語られると、その不協和音はどこで解消すればいい。

事実と言われれば受入れ難い展開も「事実なんだから」と否定できなくなる。「事実」にはその強要がある。

あの話は不協和音の方が強すぎた。その不協和音事実というの名のもとに感性への受け入れを強要し、受入れ難いあまりに拒否感を起こさせる。

創作と知っていれば、作者の個性技量ということにして看過することができたのに。

「そうとは言ってもあれは創作」と鷹揚に構えられないのは神経質なだけと言われればそれまでだが。

まあでも、他のまとめを押しのけてああいうのが盛り上がるのは、ギリギリ有り得ない感だからこそかも知れない。

感動したという意見が多いから本当は丁寧に読みたいんだが、なんで創作と言ってくれなかったのか。

映画ドラマ化でもされればハードル下がって見れるかもなあ。嫌がる人多そうだけど。

2012-01-02

増田に書く時に心がけていること

あえてツッコまれる隙を残しておくこと。そうしないと反応がないのであまり面白くない。

何の得にもならない落書きなんだから推敲する時間も勿体無いので、適当で良いというのもある。

2011-10-31

http://anond.hatelabo.jp/20111031200228

単語を構成する文字を間違えるのはありえない、「ねこ」をネカとは間違えようがない、というのはわかるけど

「だわ」って単語じゃないよね?

助動詞の一部「だ」と終助詞の「わ」に分けられるものじゃないの?厳密な用語は知らないけど。

「だは」と書く人々は、きっと「は」と「わ」の働きの違いが頭に入ってないんだと思う。

  

もともとは、数年前に「ほんま(本当に)」を「本間」とあえて変換するのが若者の間で流行ったのと同じように

あえて間違った表記にするのがカッコいい、みたいにして始まったのではないか?と私は推測しているんだけど

今となっては「だは」はアタマの弱い人を見分ける指標みたいになってるのが面白い

 

   

それとは話がズレるけど、カギカッコを正しく使えない人が結構いるのが気になる。

・その時父が「そうだよな」と言ったんですけど  と書くべきところを

・その時「父がそうだよなと」言ったんですけど  (カッコの中身にセリフ以外も入れちゃう)

・その時父が「そうだよなと言ったんですけど、~・・・・ (カッコを閉じない)

  

こんな風に間違えてるのをネット上(小町とか)でちらほら見かける。

推敲してないとかそういう問題じゃない、そもそも用法を理解してないんじゃないか?と思える例多数

2011-09-04

http://anond.hatelabo.jp/20110904204918

僕もしばらくまとまった量を書いてなかったのでリハビリしています

まりゴールをもって書くというよりは、自分が思っていること感じていることをできるだけ正確に丁寧にとらえるようにするのがいいのでは?と思います

結果としてそれが人に受けるかもしれないし、そうでもないかもしれない。

でも、まあ、書き続けるという行為の反復を実現するには、あんまり気にしないでどんどん書いて、思いついたらそのうち気に入ったのを推敲、書きたし、場合によっては追加で取材すれば良いと思います

筋トレだと思って。

2011-08-29

炎上情報操作

炎上流行ってますよね。

ツイッターmixi等のSNS情報を発信し、それが理由で炎上

フジテレビ社員横領なんかも見つかって、正直ネットは怖いなっと思います

何故、このような炎上日常的に発生するようになったのでしょうか?



7〜8年前、SNSではなくブログ流行っていたとき

当時大学生の私はサークル仲間がブログをしているのではないかと考え、

検索サイトを使って、キーワードから何人かのブログを探し当てた事があります

ネット検索するだけなんで、ストーカーでは無いのですが、

探し当てられた事を知った人たちは、正直気味が悪かったと思います

そこで、逆に自分自身も個人情報ネットに出す恐怖を感じていました。

しかし、その個人情報を出す危険とは反対に

SNSが飛躍する先駆けの

mixiの時代が始まります

mixiでは自分日記マイミクだけに公開する事ができました。

正直、内輪話をするには最適であり、

井戸端会議が根強い日本人には

最適なサービスだったと思います

移り変わりが激しいSNS業界の中においては珍しい事ですが、

古参にも関わらず、現在でも利用者は多い。

そのことが日本人向けのSNSであることの証明ではないでしょうか?

しかし、このmixiSNSブームの先駆けになったことに

今の炎上が問題化している原因があると私は考えています


mixiを利用した人はネット上に自分情報をおおっぴらに出す事に対して

抵抗を感じなくなったのではないでしょうか?

そこから

新しいSNSフェイスブックtwitterが導入されました。

フェイスブックには、今までの

SNSと大きな違いがあります

それはハンドルネームではなく、実名を用いる事です

この段階において、ネット上においてハンドルネームを用いるのではなく、

現実と同じように、実名を用いてネットに表明する。

そのような文化が生まれました。

まり、全ての発言や日記

ネット上の人格であったハンドルネームの物ではなくなり、

現実自分ものとしてネット上にも関わらず責任を持たなくてはならなくなりました。

また、ほぼ同時に流行したtwitter

日記を書くでもなく、意見を述べるでもなく、

つぶやくという新しいネットへの情報発信の感覚が生まれました。

しかし、ここに大きな危険が内包されているのです

それは  推敲  の除外です

個人情報と考えることもなく、気軽に情報を発信することができてしまう。

それ故、発信してかまわないつぶやきか、

それとも一線を越えてしまっている情報

がわかりづらくなってしまったのです


そして、

mixiにおいて存在した 自分情報解放

フェイスブックにおいて誕生した 実名制と責任現実への転嫁

twitterによって ネット現実の行き来が安易になる。

これらが炎上を呼び起こしてしまったのです


私は、むかし政治家ニュース等を隠す作業を担当していた事があります

プライベート政治家ミスをする。

運悪く地方紙匿名掲示板等に情報が流布してしまう。

このままでは、次の選挙に影響があるのではないか

そんな時に登場し、ネットから該当するニュースを隠す作業をしていました。

もちろん、一度ネットにあがってしまった以上、

情報を完全に削除する事はできません。

しかし、薄めることは可能です

商売上、具体的な作業方法は述べる事ができませんが 

基本は全て同じ。情報デブリを混入させる事です

検索サイトキーワード検索で100から、1000まで増加させる。

キーワード検索の1面から5面まで移動させる。

それだけで、情報が見つかる事はほぼなくなるでしょう。

しかし、作業が終わった後、必ずその政治家

自分の不利になる情報が出る真似はするな と

強く言っていました。


炎上している人たちは一度ネットにあがった

情報を削除する事はできない事を理解していたのでしょうか?


今、SNSを使っている人たちは本当に

その発信している情報を消す事ができない事を正しく認識しているのでしょうか?

私としては、0からです

簡単にデブリを発生する事ができる以上、

危ない情報が1でもあれば自然現象的に

それが燃え上がる事は当然な事だと思います

ネット上に情報を出すという事は、

落ち葉を広げている事だと考えてください。

時間が経って、落ち葉が枯れたとしても、

それに火をつければ燃え上がる事でしょう。

同じように、一度出した情報

枯れる事があっても、なくなる事はありません。

その溜めた情報、枯れて誰の目にも留まっていないと思った情報

一度、火をつけると爆発的に広がって行くのです

現実で、枯れ葉に火をつける行為は、

今のネットではつぶやくと言う行為です

簡単に火はつかないでしょうが

枯れ葉が多ければ多い方が、

引火した時に大きく燃え上がりやすい。

炎上を防ぐには、

まり火種を出さない事と

燃え上がる材料を出さない事が、

現実でもネットでも重要なのです

2011-08-22

フジテレビ韓流抗議デモの背景についての自分用まとめ

※長文、推敲なし、根拠薄弱、文章滅茶苦茶



フジテレビ韓流αで「美男ですね」が放送されてたときは、平均5%台で最高でも6.9%の視聴率だった。昼間の番組としては驚異的な視聴率だが、時間帯的にも凡そ奥様方が一人で見てるだけだろう。その後の「チャン・グンソク祭り」の視聴率は3~4%台だからチャン・グンソク個人の魅力というよりも、「美男ですね」が作品として出来が良かったんじゃないかと思われる。コアなチャン・グンソクのファンは、多めに見積もっても3%程度というところか。

CDの売上も、オリコンでは18万枚のセールスを記録しているけど、不思議なことに着うたランキングには一切出てこない。東方神起KARA少女時代は、CD着うたランキングの上位を占めているのに。(実際K-POPJ-POPアーティストと同じ位の人気はあるから歌番組K-POP推しはゴリ押しとは言えない)推測すると、「CDは買うけど着うたは買わない」奥様方だけが購買層で、他の層には全く浸透していない。

それをヨン様以来の大スターのように扱って、プライムタイム番組に出すからおかしな話になる。ただでさえ「美男ですね」を見てた奥様方は最大7%未満しかいない上に、家族と一緒に見てたら、他の家族の好みを優先してチャンネルを変える世帯も多い。ただでさえ韓国人というだけで毛嫌いする人たちも一定数いるわけだから、まともな視聴率が取れるわけがない。

冬のソナタ」の時は夜11時台で20%の視聴率を取ってたから、ある種の社会現象とよんでもいいが、今の韓流ドラマは「奥様の昼下がりの暇つぶし」という、海外吹き替えドラマ王道の位置しか占めていない。昼間に流すコンテンツとしては90年代ドラマ再放送よりいいかもしれないが、プライムタイムに流す意味はない。アニオタにとっての深夜アニメと同じように、少数のコアなファン買い支えしてるだけ。いきなり夜7時台に「けいおん!1時間特番」とか「まどか☆マギカ1時間特番」なんてやってたら、アニオタ以外はドン引きするだろう。それと全く同じ事を、テレビ局はやってしまった。

今回のデモ参加者の気持ちは「チャン・グンソクって誰だ?」という一言に尽きるだろう。自分が今まで全く知らなかった人が、突然大スター扱いされて、そのまま延々続いている状況だから、傍から見てたらゴリ押ししか見えないし、それが続けば続く程不快になってくる。そういう空気が充満してたところに、もともと嫌韓だった奴らが火をつければ、あっという間に燃え広がる。つまりデモ参加者の全員がレイシストというのは誤りで、彼らは本音を隠したレイシスト煽動されただけなのだ。ロンドン暴動の時にギャング煽動された一般の若者のようなものだ。だからこそ、レイシストの本音むき出しのチャンネル桜とはかなりの温度差がある。

逆に、韓流大好きな奥様方は何故抗議されるのか分からないだろう。自分の周りはみんな、同じように韓流好きな人ばかりなのかもしれない。数千人?動員したライブも体験して、チャン・グンソク人気が本物だと信じ切っている。そういう人から見たら、デモ参加者は全員が理不尽レイシストしか見えない。もうこの時点で、韓流ファンと韓流アンチはまともな議論が成り立たなくなる。

テレビ局は、本来なら昼間に地味に展開していればよかったものを、無理矢理表舞台に引き上げようとした。動機は「マイナー流行ってるものは、宣伝すればメジャーでも流行るだろう」という思い込みかもしれないし、冬ソナチャングムとき成功体験だったのかもしれない。それが、娯楽のタコツボ化とネットの普及によって、決定的に不信感を持たれることになってしまった。おそらく韓流ブームが終わっても、テレビ局が次のブームを発掘・先導しようとする度に、同じように不信感を持たれるだろう。

K-POPはもう十分に一般まで浸透しているが、韓流ドラマはもうこれ以上は無理なんじゃないか。ましてや、K-POP韓流ドラマに便乗して韓国イメージを上げるなど、到底不可能な話だ。あとはテレビ局がいつ見切りを付けるかだが、もし本当に韓流韓国政府企業が噛んでいたら、相当先まで今の状況が続く。深夜枠をアニメ会社が枠ごと買っているように、韓国政府企業韓流の枠を買ってる可能性はある。だとすれば、視聴率が悪くても韓流推しは続くし、それはテレビ局にとって合理的な経営判断と言える。コンビニグルメ番組工場見学番組のように、番組の中身まで売ることでしかテレビ局は生き残れないのかもしれない。ただそれは、タコが自分の足を食うのと同じで、視聴者からの信用をカネで売り渡しているだけなのだが。

2011-08-20

http://anond.hatelabo.jp/20110820121843

文章が無意味に冗長。シンプルにした方が納得する人や支持する人、共感する人は増えなくとも文章を理解してくれる人が増えてくれると思う。



ほんと推敲というものをしようという気力がない。ごめんなさい。

個人的には文章の意味は理解できなくても、共感やなんか心に響くもののほうが書きたいです





あとできれば文章を書く前や書いた後にhttp://ronri2.web.fc2.com/kiben.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/詭弁、あとはてなキーワード詭弁のガイドラインなんかをよく読んで、書きたいことや書いたことがこれらの不当な推論に当てはまらいかを確認してから投稿した方がよろしいのではないでしょうか。



詭弁かどうかは正直どっちでもいいです

「なんかわかるかも」って感じを、「難しいことはわかんない」って感じを

その感じを大切にしたいです。庶民感覚というか、そういうの。

んーでも、「こいつはウソを言っている」と思われたら

それはやっぱり悲しいなあ…。

トラバありがとう^^

2011-08-19

抜け殻

俺にはとりえが無い。

学も無い。親は英語も読めない中卒、俺は田舎の公立高校卒。生まれや家庭環境の悪さを自覚しつつも、全く努力して来なかった。

生活で精一杯だった。勉強するなら金を稼いで来いという大人に暴力でがんじがらめにされていた。愚かさと生活の厳しさに甘え、若いうちに勉強をする一生に一度の機会をドブに捨てていた。まあ、それも今だから思えることだ。当時は本当に金と生活で精一杯だった。高校を卒業して稼ぎが多くなるまで、マンガの本一冊でさえ買ったこともなく、ドラクエポケモンも触れず、好きな音楽も無く、ただ必死に生活していた。

年月を経て、自由なお金を手にして同世代の人々を眺めたとき、人には色々と特技やこだわりがあるのを知った。同時に、自分には何も無いのだと気付いた。

趣味も、好きなことも、得意な事もない。好きな音楽、好きなデザイン、好きな小説、好きな観光地、好きだったアニメ子供の頃に夢中になったこと、そういうものが何一つ無いということに気付いたのだ。

俺以外の人間は、好きを語るとき楽しそうにする。逆に嫌いなものに対してぶちまけたりする。俺にはそのどちらも精神を燃やす眩しい行為に思われた。自分以外の全てが上の階層にいるように感じられた。同じように見えて違う仕組みの動物なんじゃないかと思える程だった。

社会に出てからも、何をやっても人並みにできない、自分の力が及ぶ所なんてどこにもない、そうずっと思い続けていた。

そんな俺でも、いくつかの仕事を経て、少しだが自分に向いていることがあるのに気付いた。それは人に教えるということだった。多少できることを人に教えるとそれなりに成果を上げてしまう。教えるのが上手い訳ではなく、人が伸びそうな糸口を見つけるのがちょっと人より早いだけだ。人を好き嫌いで見ないからかもしれない。

しかし、自分でやるとなると抜きん出て優秀なことはない。

しかった。そして不思議だった。

人というのはあんなに活力と熱意に溢れ、感傷的で精巧な中身ある生き物なのに、全く中身のない俺に騙されてしまう。

この増田だってそうだ。仕事での実体験や少しかじった技術を元に、多少カッコつけながら最小限の推敲をして文章を書いてやれば、ブクマなんて簡単に稼げてしまう。適当に書いた文章でも二桁、それなりにかりそめの熱意を込めて書いた文章なら三桁稼げることも珍しくない。何故こうも簡単に人は騙されてしまうのか。本当の聡さも学も熱意もセンスも俺には無いというのに。

ただ熱意があるふりをして書いただけの文章なのに、人は熱意ある反応を返す。不思議だった。

しかしこうも思えた。たとえ本物の意思を持って成したのでなくとも、抜け殻のようなものであっても、それが人に影響を与えたのなら、そこでそれは表現になりえたのではないだろうかと。

随分甘い考えだな、と思う。

ネット匿名をいいことに、俺は抜け殻を撒き散らした。動画イラストを作った。ネットゲームTAに参加して記録を残したりもした。人々から返って来る反応、ゲームで競いチームワークを育んだ相手の熱意・・・ それらは本物に思えた。次第に楽しさは感じられるようになった。それでも、空しさは変わらなかった。仕事でも同じだった。自分以外の全てが上の階層にいるように感じられ、本物はあそこにしかないという漠然とした距離感は今も無くならない。

俺はずっと人が怖かった。そんな怖い人たちが、中身のない俺に反応を返してくることも怖かった。理解できなかった。人々はみな俺に騙されたふりをしているのかもしれない。なのに、俺は誰かから反応をもらう時だけ、自分の中に本物があるような気分になれた。

最低だな。俺は、人を恐れながらも、自分精神価値を感じるために人に依存している。そうしなければ、自分に何かあると思えないんだ。

たとえ本物の意思を持って成したのでなくとも、抜け殻のようなものであっても、それが人に影響を与えたのなら、そこでそれは本物になりえるのだろうか?

その空しさを抱えながら、今も抜け殻をここに書いている。

2011-07-08

匿名ダイアリーオールスター 2011上半期現在

ここはどんなこと書く場所なの?

どんなこと~は難しいか

どんな人がいるかを教えると




国語能力に欠損があり噛み合わないレスポンスばっかりする低学歴

統合失調を患っており「ここの書き込みは全てただ一人のニートによる自作自演」と信じ込んでるネット中毒ニート

統合失調を患っており「加害者が死にますように」と毎朝繰り返す患者

大学でも院でも一人も友達が出来なかった自称リア充

・「国家の存続のために結婚を義務化せよ、国民権利を制限せよ」との演説を繰り返すニート右翼

・薄っぺらい自編集ライフハックを貼りに来る宣伝野郎

推敲の足りない冗長ポエムを投下してスルーされる三流文芸

・「非モテ善導する頼れるお兄さん」キャラでやってくるもブクマで嘲笑に遭って暴れだす自称ナンパ

・あらゆる時間仕事愚痴を書きに来るダメ社員

・数ヶ月飽きずに無駄原子力問答を続けているノイローゼさん

自虐高収入高学歴自慢

タイケン学園

一言政治居士

ミソジニー、もしくはミサンドリーキチガイ風味)




http://anond.hatelabo.jp/20110708062030

2011-05-04

ニコニコ動画にしてみても、2ちゃんねるにしてみても、ツイッターにしてみても、というかありとあらゆるインターネット形態として、どうしてコメントを残すことが流行っているのだろう。例えば面白い動画なり書き込みがあったときに、そのレスポンスとして草を生やす行為にいったい何の意味があるのだろう。あるいは短い一言、「泣いた」とか「ご飯食べてる」とかそういうもの。その発言は、本当にする必要があるものなんだろうか。何の意図があってそんな発言をするのだろう。

無論、その一言を誰かに伝えたいというのが根底にはあると思う。そういった伝える誰かを想定した書き込みならまだ理解できる。腑に落ちないのは、そういった誰かを想定していない文章、いや文章ならまだわからないこともないのだけれど、突発的な反応とか予定なんかを発言することだけはどうにも度し難い。何で「私はここで笑いましたよ」「ここが面白いと思いましたよ」なんていう感情を記号で表さんといかんのか。表さないと気が済まないのか。その一言を書きこむ前に、その一言を書きこんでどうしたいのか疑問に思わないのだろうか。

かに初めこそ真新しさから書き込みをしたくなることもあるとは思う。でも、次第に飽きてくるものでしょうに。いや、もしかしたら飽きている人が大勢いるのかもしれない。そして、そういった何気ない意図を持たない(あるいは今のところ理解出来ない)コメントをしなくなっている人が増えてきてるのかもしれない。その減少傾向よりも新規のコメンターが多いのかもしれない。ツイッターなんてその最たるものなのかもしれない。

はっきり言って、自分が今何をしているのかとか何をどう思ったのかなんてことを呟くことに価値は見いだせない。逆に、よくそれだけの呟きに自分の思いをまとめられるものだと感動する。更に逆説的(使い方間違ってるかもしれない)に考えるに、やはりその呟きというものは突発的な短絡的な発言でしかないのである。突発的ないし短絡的な発言は、その時そのタイミングで本当にしなければならないものなのだろうか。もっと後から考えてみて整理して、そうして発言するに値するか考えてもいいんじゃないのかな。

まあそういった発言をする行為を否定するわけではないけれども。

自分個人としては、ここまで書き込んだこのチラ裏にしてみても削除を検討してしまうので理解がしにくいだけなのだ。だって、どう考えても音声だとか感情に生まれた「呟き」なり「発言」は、それを文にする際に客観的にならざるを得ないものでしょう。今現在私がどのようなことをしようとしているのかが目の前に提示された際、それに何の意味があるのか――違うな。本当はわかってるんだなあ。意味なんてないけどそうしてしまう時の心情というものが。文字にすることは自分には無理だけど、感覚にわかっている。少し落ち着いて考えて見れば、少なくともわかったような気にはなれる。そして、そのことに疑問を呈する不毛さもわかる。馬鹿馬鹿しいことだよなってわかる。

さて、ここでよっぽど問題にしたほうがいい事柄が持ち上がってきた。けど、一瞬のことだったので忘れてしまった。何につけても自分は忘れっぽいのが良くない。←この一文を書いてしまったことによって、いよいよ本格的に思考の流れとでも言うべきものが全くの別方向を向き始めてしまったので始末に終えない。上に書いてある、よっぽど問題にしたほうがいい事柄ってなんだったんだろう。なんとなく持ち上がってきたけど、また沈みやがった、ちくしょう。こんな築一経過を報告したチラ裏を発言するつもりなのかどうか、それはまた別問題なのでこの際横に置いておく。なんていうか、かくあるべき発言みたいな問題は今は考えないようにしたいし、そもそもそんなものはあり得ないのでどうでもいい(とか言いつつ、理想のあり方みたいなのを考えてみて、結局それにも欠点というか、見方によって性格ががらりとかわることがあるのでどうでもいいなんていうゴミクズじみた結論にしか達しないのだろうなあ)。また忘れた。推敲ってした方がいいのかしらん。仮にもこれは不確定多数の誰かに見てもらうことを想定した、あるいは見られてしまうことが確定的な文章なのに、こんな破茶滅茶な形態でいいのだろうか。良くないと思う自分と、これはこれで味があっていいのではないかしらんなどとふざけたことをぬかしおる自分がいる。

ああ、問題点。何となく当て嵌まる適切な言葉を見つけた気がする。

『不確定』。これこそが、先に記述したよっぽど問題にした方がいい事柄であり、ありとあらゆる物事に対した時に生じる自分問題点だ。問題点とするとネガティブすぎるかもしれない。厄介な性分としたほうがいい。そのほうがより適切。それともう一つ。ころころ興味が移り変わること。泡沫の種のようなものが次から次へと沸き上がってくるくせに、そのひとつひとつを発芽させることができない愚図であるということ。それから適切という解決策についても。不確定に対する今のところ思いつける唯一の解決策。自分という個人が不確定な波のような人間であるなら、最適を求めるのは酷(というか無理)であるので、より適切なものを探すという方向性でいいのではないのだろうか。

はあ。それにしても結局最後内省的なことになってしまうなあ。太田光みたいだ。こんなことを書くと氏に迷惑か。いや、迷惑になるほどのものでもあるまいて。

自己分析ついでにもうちょっと自己嫌悪じみたことを続けようかしらん。無計画と計画と呆気無さとハードルとか、そんな諸々のことについて。あー、でもそれっぽいキーワードを並べたら、頭の中でそれっぽい答えが出てしまたからもういいかなあ。面倒だ。でもそれでいいのかしらん。それっぽい答えで満足してしまうことが自己分析なのかしらん。

結局は自分が気持のいいことしかしてないんだよねえ。ナルシズムに酔っているというか、僕ってこんなこと考える奴なんだよって喧伝したいみたいな。また同時にそうあるある自分馬鹿馬鹿しくも思っていて、いやいや違うんです自分てばそんな奴じゃないんですよははは、みたいにフォローしてみたくもあったり、フォローしている自分を自慢したかったり。堂々巡りなんだな。目立ちたいというか、言葉が出んなー、そうだ誇示、誇示したいっていう欲求が大きいもんだから、それを恥じて。

なんていうか、 誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→Endless……))) みたいなことが往々にして起きていやがる。面倒くさい。こんな奴関わりたくない――みたいな書き込みをしてまたエンドレス

これは考えているのかどうか。わからん。考えていなんじゃないのか。考えるってどういう事を言うんだちくしょー。思うことと考えることと感じること、いや感じることは違うか、思うことと考えることって具体的にどう違うんだろうなあ。ロジカル。規則に則って順序立てることが考えることならば、自分は考えることができない人間だ。いつだって思ってる。いかなる時でも考えずに思ってる。なんてメルヘンロマンチック。もう訳がわからんくなってきた。わからんっていう言葉は便利だよね。思考放棄にはもってこいだ。あれ、思考って言葉にはどっちもついているのね。つまりは考えることと思うこと。どちらもそれほど違いはないのかもしれないわねえ。それほど重要でもないのかもしれないわねえ。重要でもないことにどうしてこんなに時間を使ってしまうのかしらん。みんなから面倒な奴だと思われちゃうじゃない。まあそんなんはどうでもいいのだけど。でも、重要かどうかって、そんなに重要視すべき問題なのかしらん。重要じゃないことを云々唸りながら思い悩んでいたっていいじゃないねえ。そんな姿勢馬鹿にはできない。しちゃいけないと思うわけで。いやいや、馬鹿は褒め言葉とも言うか。もうね、いいんだよ。もう全部いいよ。どんなことをバッチコイだ。あっていいよ。悪いことなんてねえよ。あ、あって悪いことって意味ですね。ありとあらゆる事象物事ははあり得ていいのです。そのことがらがそのものごとがあることには何に罪も糞もないのです。あることはもう仕方が無いのですからね。しょうがないのです。我々に出来ることといえば、それを受け止めることだけなのです。その存在を否定はできない。疎ましく思うことも、邪魔臭いと思うことも、消えてしまえばいいと思うこととも大いにあるでしょう。危険したり、抹消してしまいたくなったり、暴力的な情動を抑えきれなくなることも多いかもしれません。でも、そんな生じ得るありとあらゆる反応レスポンスをもひっくるめて、今存在している遍く全てもの物事は存在していていいのです。というか、存在している限り仕方が無いのです。仮に今その存在を消し得たとしても、その存在があった記録は残る。記憶は残り続ける。ならば、その存在永遠に消滅し得ないのです。あるということはそういう事。あるということは時間を超越するのです。そして、私たちはありとあらゆる在るという事象の中で存在しているのです。だから、その存在を否定することは不可能。在ることは仕方のないことなのですであるからして、自分としては在ることが混在したカオスティックな状態を享受したいと思うわけなのです。更に言えば身勝手甚だしいことに、自分が心地いいと思う状態が続いて欲しいと願うわけですしかしながら、自分が心地いいなどと思う状態というものは恒常的にそこに在るのでしょうか。また私が心地いいと思う状態そのものは恒久的に不変であるのでしょうか。そんなわけはないと思います。わからないけれども。ね。結局何が言いたいんだという。暴走したこの書き込みはどう始末を付けたらいいんだろう。増田に落とせば迷惑がかかるかもしれないと危惧してしまう。ならば削除してしまえばいいのだが、それはそれで悲しい。確かにこのような無為な文章を書き綴った記憶は残るかもしれないけれど、その記録が残らない。ハネムーン写真友達に見せびらかしたい気分だ。祝女でいつかやってた。あの新婚さんは今の自分の気持ちに似ているのかもしれない。

でもどうしよう。こんなもの、チラ裏にしても性質が悪すぎる。

2011-04-29

長文うざい、君、UZAIYO!

ここ一カ月読むのがめんどくさいYO!

てか

センスねーし

せめて、投稿する前に推敲しろYO!

わかった!

書いたら、自慰してから、もう一回読んでみ、それ

よろしくー☆


(いいね!押してちょ)

2011-03-05

http://anond.hatelabo.jp/20110304083949

あなたの文を解りやすく解説したつもりは無いんだけどさ、自分もここ数年くらい、似たようなモヤモヤ感があったのよ。ずーっとあった。

そのモヤモヤあなたの、「ものすごく間延びしてる」って言葉によって、自分の中のモヤモヤがすーっと晴れたんだ。だからダダダーっと書き散らしてあまり推敲する間もなくレスしてみたんだ。キー叩きながら喜んでたんだよ。いわゆる「気づき」ってやつを得られたんだから

きっと根っこでは、同じような思考の持ち主なんだと思うよ。

2011-02-25

http://anond.hatelabo.jp/20110223195508

一般的なトピックを扱うライターに関してはたしか元増田の主張は正しいね。

ただ、一般的な知識レベルの人が簡単には参入できない専門的な分野を扱うライター場合、美文を書くことよりもライター自身が持っている知識を提示することの方が求められるウェイトが大きいので、そこまで激しくライターを批判するのはどうかな。たとえば、大学教授や特定の分野で大きな功績がある人が示した著書や文章はきわめて読みづらい/興味を持続させることが難しい文章のものが多い。彼らはライターはないので文章のプロはないという反論があるかもしれないけれど、専門的な知識を広く伝えるために文章という手段を使うことが多い以上、こういった人々はある意味文章のプロなのではないだろうか。そして、彼らが悪文なのはそこまで非難されるべきことだろうか。個人的には特定の分野で優れている人たちがわかりやすくおもしろい文章を書いてくれるのは素晴らしいと思う反面、彼らの専門分野に使われるはずの時間を割いてまで文章力を磨いたり、推敲したりするのはもったいないと思う。

もうひとつ言うならば、文章の推敲編集はまさに編集者仕事であって、元増田の主張を乱暴にまとめると「俺の仕事が楽に済むようにしろ」と言っているように聞こえる。それだけが編集者仕事はないことは重々承知しているし、リライト中に愚痴ひとつも言いたくなる気持ちは痛いほどよくわかるものの、編集作業が面倒な編集者はあまりいただけない。もし、リライト作業が完全に元増田仕事の範囲の外にあり、仕事上手にした文章のあまりのひどさを見るに忍びなく手を加えているのなら本当にお疲れさまとしか言いようがないが。

2011-02-23

ダメライターダメな文章

ライター」と名乗っている人をあんまり信用しないほうがいいというのはよく言われる話だが最近そのことを痛感している。今やってる仕事の一環として、「ほかのライターに文章を書いてもらって、それに修正を施す」という作業があるのだが、この「ほかのライターが書いた文章」というのがひどい。クズたいな文章ばっかりだ。



 物心ついた頃から不可解で仕方がなかった

 たいした文章も書けない そのくせに威張り散らしてる



ってな、黒夢の『C.Y.HEAD』という曲の歌い出しですけど、最近この部分がぐるぐるぐるぐると頭を回るものだよ。

ええ、わかってますよ。仕事相手の悪口を公的な場で言うなんて、問題があるって言うんでしょう。まあ、それもそうなんだけど、たいした文章も書けないくせにライター名乗ってる奴らに本当に腹が立つからせいぜい堂々と書きますよ。

「忙しくって原稿の質が下がってる」っていうような事情もあるでしょうが、まともな原稿を送って来られない量の仕事なら受けるべきでないわけだし、ビジネス世界は「結果責任」を負うものですから、「事情」なんてのは知ったこっちゃないね

……っていうふうにね、「仕事」というのは基本的に「事情」を無視するものなんですね。だから基本的にはあんまり僕は「仕事」が好きじゃない。とはいえ、今いっしょに働いている人たちはかなり「事情」というものを意識していて、おかげでそれほど辛くはないんだけれども。ただ「ほかのライター」みたいな、外部の人たちは、事情を共有することができないので、「あー! クズたい原稿送ってきやがって!」ということにしかならない。「事情」を共有できるような、近しい距離の人たちとのみ、仕事をしていたいものですよ。



で、その原稿がどういうふうにダメなのかというと、主に2つの側面がある。



 【1】文法が正しくない、文章が読みづらい

 【2】原稿目的意識できていない



【1】はもう、そのまんま。文法がおかしいとか、文末が5回連続体言止めになっているとか、一文が長すぎる上に修飾関係が複雑でわかりにくく、意味を取るのに困難があるとか。「こんな文章に金を払わなければならないのか……」と思うとめまいがする。何せ、それを「まともな文章」に直すのは僕なのだ。で、その作業に対してお金は一銭も入ってこないのだ。

誤字・脱字なんかは誰にでもあるミスだし、それを点検するために僕がチェックしているわけなので、そのあたりはいい。しかし文法の狂っている文章を修正するというのは、時には全体を書き換えなくてはならなくて、非常に労力である。それに、受け取った原稿は「ほかのライター」さんの「作品」であるので、あまり手を加えすぎるわけにもいかない。それが「取材」をもとにした原稿場合、あまり修正すると取材対象者さんに「自分はこんなこと言っていない」と思われてしま可能性もある。だいいち、こんな作業にあんまり時間をかけたら、ほかのもっと大切な作業をする時間がなくなってしまうのだ。こういった様々な事情を考え合わせ、うまいことバランス取りながら、修正の妥協点を探していくわけだが、これはとてつもない頭脳労働である。疲れる。



【2】は例えば、「からあげ弁当宣伝」のための原稿なのに、「天丼うまい」ということばっかり書いて来るとか。「天丼はわかったけど、いつからあげ弁当の話になるのだろう」と思って読み進めても、最後まで天丼の話しか書いていない。依頼主であるからあげ弁当会社は、そんな文章に金を払いたがるだろうか?

もっと具体的な例。からあげ弁当会社が、「我が社の優秀な社員Aくんを取材して、記事にしてくれ」と依頼してきたとする。ライターが取材に行くと、Aさんは「前の会社天丼弁当を作ったんです世界天丼弁当グランプリも受賞しました」という話を延々とする。ライターは「なるほど」と思って記事を作る。その記事のメインキャッチは「世界一天丼弁当作りました!」というもので、本文にはからあげの「か」の字もないし、「からあげ弁当を作るのにこの技術経験が活かせるはずです」といったニュアンスもない。これでは仮に「Aさんの優秀さ」は伝わったとしても、「からあげ弁当会社」のアピールにはならない。

このくらいならマシなほうで、ひどいのになるとからあげ弁当会社から依頼された原稿で、「揚げ物は健康に悪い」とか平気で書いてくる。フォローもなしで。

また、意味のない表現も多い。からあげ弁当新入社員インタビュー記事のメインキャッチに、「僕は一度も弁当を作ったことがないので、心配です」と書いて、何の意味があるのだ? せめて「初めてで不安もありますが、からあげ弁当を作るのが楽しみです!」というふうに書くのが本来だと思うんですけれども。だって自分仕事に対して「心配」してる人の作った弁当を、誰が食べたいと思いますかね?



お金の発生する原稿には必ず「目的」というものがあって、お金を出す人はその「目的」のためにお金を払うのであるから、「目的」を見失ったような原稿ダメ原稿なんですよ。そういう単純で、最も重要なことが意識できないで、どうして堂々と「ライター」なんて名乗れるのか知らん、と思うぜ。



一番、腹が立つのは「非文」ですね。「僕は決してからあげ弁当を嫌いならば食べたいとすら思い出すだろう」みたいなのが非文。こういうのを本当に書いてくるのがいる。金もらってるライターがだよ。

上の例はさすがに大げさでも、「僕が入社を希望した理由は、からあげ弁当のおいしさを世に広めるための会社です」みたいなのは、頻繁にある。推敲しろよ。推敲してこうなるんだったら、向いてないから辞めてしまえ。

「二人が向かった先は、地元で有名なスーパーに足を踏み入れた」みたいなね。

世も末だ!



ここに挙げたのは「最低限」のことで、「より読みやすく」「より自然に」「より美しく」というところを、自分能力限界まで突き詰めてこそ、プロってもんじゃないんかね。もちろん時間や諸々の事情相談してのこととはいえ、「26歳の若造吐き気を催すような拙い文章」を送ってくる、30代40代のプロライターってのはいかがなもんでしょう?



身の程を知れというか。

なんで文章書けない人がライターなんかやってんだろ?

んで、なんでそういう人に「仕事」があるんだろうか?

世の中ってのは本当にわからんもんです



身の程を知れよ。

自分の欲望ばっかり考えやがってね。

2011-02-21

http://anond.hatelabo.jp/20110221121513

かに制限されなくてもできるけど、全員に強制することで推敲する人間が増える。

つまりは全体として無駄な文章が減ることと、後は閲覧側が例えば100人の文章を読むとき10-1000字とバラツキがあるよりも皆が皆100字程度の方が比較しやすい。学校課題就活書類選考も同じ理由から字数制限があるんじゃないかな。

そして運営側としてはCPU使用率HDD占有率の節約によるコスト削減に繋がっているのかもしれない。

http://anond.hatelabo.jp/20110221122030

だってtwitterてそのためのものでしょう。それを他人に見せたいなら分かるように推敲しないとね。それはtwitterがやることではなユーザがそれぞれ好きな方法でやればいいだけで。

2011-02-02

http://anond.hatelabo.jp/20110202175659

元増田日本Googleの人たちもPFIの人たちも、中の人を割と知っている方だと思うが、一言で言えば、「実用>研究業績」っていうスタンスの人が多いよ。博士時代は論文バリバリ書いていて、GooglePFIに入社した人が多いというだけで、入社後は実用の方に軸足を移している人が多い。少なくとも、優秀な人なら、エンジニアやりながら論文バリバリ出せるって思っている人はいないと思う。世の中、そんなに甘くない。公表されている最新の研究成果を実用に活かすことは可能だとは思うし、実用の世界から重要研究成果の種が生まれることは確かだと思うが、研究業績を出す(=論文バリバリ出す)ためには、やっぱり大学のような研究に集中できる環境時間をかけて論文推敲することが必要。どんなに優秀な人でも、一人の人間は、製品の質を上げるか、論文の質を上げるか、どっちかしか出来ない。

日本にある情報系の企業で、論文バンバン出しているのは、NTTCS研とかIBMの基礎研究所とかだけど、そういうところで論文バリバリ出している人の話を聞くと、やっぱり、大学と似たような研究環境を用意してもらっていることが殆ど。つまり、あなたは超優秀だから、うちの企業お金大学と同じように研究してねっていうレベルの人が行って、自由な環境を用意してもらっているだけで、そうじゃない人が行っても、論文バリバリ出せるという環境が用意されているとは限らない。

2011-01-28

よく言われるが

2ch増田に粗い推考を記述すると、こぞって上から目線での指摘が入る。

ブログ掲載前などに、一度細部をわざと間違えて書いた文章を上げると、勝手推敲してくれるわけで。

さらにそいつらと議論することで、勉強になったりもする。


つまり、詰めの甘い文章と言うのは、大掛かりな釣りか、勉強目的した投稿だと思われるので、

全力でマジレスするのが礼儀じゃないかと思ったりするのだな。

2011-01-25

文章力を鍛える増田

私は文章を書くのがすごく遅い。

2000字のレポートにまるまる一日かかることなんてざらだ。

先日も、レポート課題の山に顔が青くなった。徹夜しながら自分のアホさに胸が苦しくなった。

それで、これからずっと、こんな筆の遅さで生きていくのは嫌だと、心底感じた。

子供の頃からまともに文章の訓練をしてこなかったツケを、今からでも払いたいと思った。

では、はたしてどうすれば、文章力って身につくんだろうか。

疑問が湧いたら、とりあえずググッてみる。

すると、はてブが1039ブクマもついているこの記事が目についた。



シゴタノ! — 文章力シンプルな鍛え方

http://cyblog.jp/modules/weblogs/3244



なるほど、とりあえず初めのうちは、思いのままに書くことが大切らしい

そして、思いのままに書いた文章を何度も推敲する。お手本としている人からまねしたりして学ぶ。

そのサイクルを繰り返すことで、文章を書く力が身に付いてくる。と。


また、こちらの記事でも、



わたしの愛するエンジニアライフ: 「文章力」は筋肉に似ている。使わなければ衰える

http://el.jibun.atmarkit.co.jp/jibunlove/2010/08/post-55bd-2.html



とりあえず思いのままに書く「自動筆記」

お手本としている人から真似る「文章模写」を推している。


どうやら、思いのままに書いて、推敲。文章の筋肉がつくまでそのサイクルを繰り返す。これが効くらしい

ならば筋肉がつくまで思いのままに書いて、推敲を繰り返してやろうじゃないの。


ということで、増田で、筋肉がつくまで、思いのままに執筆推敲していきたいと思う。

2011-01-19

どうだ!

って文章を書いて推敲して増田投稿

レスがつくかなと画面を見つめて、更新ボタンやF5を押したりしてわくわくしながら待っている。

自分の文章が気に入っちゃって何回も読み直し、にやにや笑ってる。

そんな僕がいる。

2011-01-18

http://anond.hatelabo.jp/20110118154843

推敲した結果、こっちのほうが自らの思想信条言語したものとしてふさわしいと判断したから

2010-12-30

ブックマークってそんな意味だったっけ

ブックマークって、自分が気に入ったページにすぐにアクセスできるように記録しておく機能だとかつては思っていたんだけど、

最近

こういう人たちが憂さ晴らしをするため便所になっている気がする。

コメント付のブックマークをして、その後自分コメントにいくつ星がついているかを確認する以外の理由で、そのページを再度開く人間が何人いるのか。

星がつけばうれしいが、自分の出したウンチのとぐろがきれいな形だと皆が褒めているだけ。それに気を良くするとか、よく考えたら頭がおかしい

斯く言う自分もそんな風になりつつある。

言いたいことがあれば、ダイアリーにちゃんと書こう。

いくらはてブコメントを重ねても、思慮深くはなれない。

自分と違う人の考えを酌んで、成長することは出来ない。

ただ脊髄反射で100文字の吐き捨てをし、ネットスラングや知ったかぶりのボキャブラリーが増えるだけ。

呟きたければツイッターでもやれ。ツイッターチラシの裏としては最適だ。

フォロワーに見られたくない呟きがあるなら、そんなものどこにも書くな。

人に見られたくないとあなたの心が感じたなら、それはつまり、ネット匿名の関係を通じて出さえ、

人前で公開すべきでない考えだということだ。

悪いことを書くとネットでみんなから嫌われるぞと脅しているのではない。ネットに書くなとは言っていない。

反骨的な考えを書く人としてネットでの自分キャラクター確立し、いくらでも書けばいい。

ただどんな考えも、「私はこう考えています」と文章をしっかり推敲して発信すると、

いやでもソースを集めたり本を引用したりするから、読解力もつき立体的な思考力もつく。

そして、読んでくれた相手の心に良きにつけ悪しきにつけ何かを残したりあわよくば真摯な意見や反発が得られるんだ。

ネットは急速にジャンクした。ほかならぬユーザーつまり私たちのせいだ。

でもそれを質の良いものに変えることもできるはずだ。それが出来るのも私たちだ。

2010-12-25

いわゆる歌ってみた勢とボカロ界隈の対立

Togetter - 「ニコニコの歌ってみたは『ハイエナに近い』とボカロPが発言。その発言への反応から見えてくる歌ってみた界隈の問題点

http://togetter.com/li/82444

http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/82444

Ohnuma Sound Lab. blog  年の瀬歌い手ボカロ界隈・これからの活動

http://komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-16.html

http://b.hatena.ne.jp/entry/komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-16.html

Ohnuma Sound Lab. blog  【追記1】前回の日記についての補足・お詫び・コメント返信など

http://komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-17.html

http://b.hatena.ne.jp/entry/komonodfkdfk.blog19.fc2.com/blog-entry-17.html

前置き

発言者である大福Pは著作権法律の問題を主張しているわけではないので、今回の増田では法律面に関する発言は一切しない。

彼の主張は

  • ミリしら」
  • アナザー
  • 「敬意無き歌ってみた(とその聞き手)」

の三点であり、一貫してモラルマナーに終始している。

用語解説

ボーカロイドを用いて作曲したものをニコニコ動画投稿している人の総称。立場上は作曲

  • 歌ってみた

ニコニコ動画の一ジャンルを形成する、言ってしまえばカラオケ投稿したようなもの。立場上は演奏者。JASRACとの包括契約により、二次創作は認可されているため、歌ってみた界隈は著作権問題をある程度回避している。

投稿者が作品の中身を1ミリも知らない作品に初見で声をアフレコするというもの。立場上は演奏者であり、ミリしらをする人をミリしらーと呼ぶ。アニメ音楽などのアフレコに使われていたが、今ではもっぱら「歌ってみた(特にボカロ曲)」ジャンルで使われる。

分かる人は分かると思うが、「ミリしら」とは方便である。最低でも一度以上、作品を鑑賞することは間違いない。初見で声を音楽に合わせて入れるというのは並大抵の人間ができることではなく、事前に何度も聞き、メロディーラインの重なりを避け、コード進行に合わせた新しいメロディーラインを構築し、リズムにある程度合わせた歌詞の選出、推敲をしているのは疑いない。

元の曲の歌詞を変えたアレンジで、ミリしらよりは原曲に近い。(私の観測範囲内の話)主に「あにま」という歌い手がしているようである

CGMコンテンツ投稿サイト

大福Pの言う「敬意なき」とはどういうことか

Togetterまとめからいくつか抜粋する。(大福P=dfk_ohnuma)

ピアプロで改変不可って書いてあった曲でミリしらやった馬鹿がいたのか。正直ミリしらなんて作詞作曲者への冒涜から無くなるべき風潮なんだよね。「おまえの歌詞メロディなんてイラネ 曲の知名度だけもらってくわ」って事なんだからゴミ屑の発想。dfk_ohnuma

データモラル低下というと、ミリしらとか新しい歌ってみたを新曲と言ってしまう等のマナーがなっていないという話のことですか?znc

@znc そういうことですね。あとイラストもかなりひどいです。dfk_ohnuma

来年ボカロと歌ってみたがきっちり区別されるようになるといいな。あと、界隈の人数が減ってもいいからもうちょっとまともな人の割合が増えるといいな。「ボカロが盛り上がるのは歌い手のおかげ!」とか言ってるような奴が全員死んだらいいな。dfk_ohnuma

これ以降ブログに主張が移る。

「改変不可」の曲でミリしらを行った人がいたという事実は問題外だが、ここでは割愛する。

要は「マナーがなってない」ということである。それを人数が多いことと結びつけ、質の向上を図るために界隈の人数が減ればいいのに、というなんとも大学生はバカが増えすぎたからFラン潰せよというどっかで聞いたことのあるような主張である。ただし、今回は「マナーが悪いやつ」という偏差値以上に曖昧な基準ではあるが。

話がそれるが、当然「マナー(が悪い|がなってない|を違反している)」というのは誤用であるマナーというのは言い換えれば主体的な配慮であり、それを他者に「守れよ」と押し付けるのは間違いである。この場合ルール(相互が有利になるような取り決め)が望ましい


話を戻して、歌ってみた界隈の聞き手は、彼のブログから引用すれば

ボカロが栄えているのは歌ってみたのおかげ!もっと歌い手感謝するべき!」

ボカロ曲は人が歌って初めて完成すると思っている」

ボカロPは歌い手のための曲の下請け工場

「歌ってみた拒否るPとかいたら潰すから教えれ」

などという主張をしているようである。こういう盲目信徒というのはクローズドコミュニティであればどこにでも沸いてくるウジのようなもので、潰しても潰してもキリがない。

彼らは「歌い手感謝するべき」というように作曲者に敬意を求めていることがわかる。一方大福Pもマナーを求めていることからわかるように、これは「敬意が足りないvs敬意が足りない」という、宗教戦争である

大福Pにとって、「敬意ある行動」とは、「歌ってみたりする場合、本当にいい歌詞、いいメロディだと思うなら、それを尊重するはず」というスタンスで、芸術的に見れば保守的な位置にあり、ミリしら、アナザー作曲者を冒涜したもので「ハイエナシリーズ」にすればいいんじゃないの、というこのようだ。


芸術美術表現者はかくあるべきか 第一 まずは敬意を抜きにした主張(主に脱線

先の都条例でも同様だが創作者は「自由」の名のもとで表現をする。ここに留意する必要がある。

たとえ「そんな懐で大丈夫か」と金を積まれようと、「一番いい○○みたいな作品を頼む」と制限をつけられようと、すべての表現は常に解放されているのが原則。

「こんなの○○じゃない」とか「金積んだんだから俺の望むモノ作れよ」とかいう主張も、自由が担保されていなければできない旨の発言である

一次創作から二次創作物へは、原材料を加工し、加工物を作る工程に似ている。その二次創作から三次、n次と派生するケースもある。これらは基本的にもとの創作物のカタチを「ある一定」は保持しており、影響がないということはまずない。それは音楽、思想、文章、すべてにおいてで。

ニコニコ動画視聴者コメントマイリストの数がつくため、価値が付加される。歌ってみたという二次創作から歌われた一次創作動画が評価されるケースもままある(今回の火種の原因の一つ)

また、作曲者と演奏者、聞き手は持ちつ持たれつの間柄であり、どれが一番偉いというものではない。「作ってやってる」「見てやってる」「演奏してやってる」「ホールを貸してやってる」というのは他者を従属的に捉えた主体的な意見であり、それは表現、立場の優劣に寄与することもない。芸術とはそこに参加するすべての構成員に平等な立場を与え、すべてをフラットにする。指揮者演奏団体を纏めるから演奏家より偉いというわけではない。誤解されがちだが経営者労働者の関係がイーブンであるように、指揮者演奏家もまた、イーブンな関係にある。そこに作曲者が加わっても、聴衆が加わっても、地主が加わっても、その関係は崩れない。

そして表現されたすべての芸術品も平等である。真贋を、洋の東西を、場を問わず。優劣を感じるのは、表現の埒外である評論家が何かの作品を優劣付けて評定しようともだ。そしてすべての芸術家もまた、その優劣をつける本能に苦しめられるのである。大概、中身が薄い、質が低下したなどと主張する。

とにかく、一次創作二次創作の間に、表現上の優劣はないということである創作者の間でも、もちろんのこと。

芸術美術表現者はかくあるべきか 第二 敬意と価値の問題(主に脱線

ここで、敬意を払うということは、その作品を大事に扱う、ということとする。「大事に」とは、もとの表現者の意向に従う、ということにしよう。極めて主観だが、敬意とはそういうものだ。

敬意を払うということは、それに肯定的な評価をくだす、正の価値があるということでもある。ありがたやありがたや、ということで、「有難み」というように、めったにないこと、価値の高い、ということである

正の価値がある、大事に扱うということは、人間の所産であるが、芸術以前の行動である価値、敬意というのは芸術に含まれない。それらはたとえ定量的に計られようと芸術寄与することはない。「リスペクト」して創られようとその作品に敬意があるというのは「思い込み」である

創作以前に、二次創作者は一次創作者の創作物を引用する。引用することに優劣はない。しかし、ここに敬意が入ると話が違ってくる。

敬意が入る場合、往々にして一次創作者>二次創作者という大小関係が生まれる。芸術では対等関係にあろうと、人間の間に序列が生まれる。創作物との間柄にもそれは用いられ、もっぱら二次創作者は立場が下になる。だから芸術内でも引用したものは上になり、引用して創られたものは下と「見做される」

「配慮」は、自分の立場があなたより下だという意思表示であるあなたに敬意があります、という意思表示である。有難い機会ですということだ。

から、「マナーを守れ」「配慮しろ」というのは「大事に扱え」というのと同義であり、大事に扱ったとしても、そう見えなければ「大事に扱ってない」と思われる。

そしてそれはけして守る必要がないものの、ときに強制されるものだ。



からこそ、撤回こそしたものの、大福Pはいとき音痴」にまで言及し、「大事に扱ってない」という判断を下したである

からこそ、今も「メロディーラインや歌詞を変えること」は「作品を大事にしていない=敬意を払ってない」という解釈をしているのだ。

だがそれは、芸術以前の問題である

推敲後、追加予定。

おわりに(書き下しすぎて長くなり過ぎたため、明日あさってに推敲予定。主に脱線しているあたりは一括削除するかも)

今回の騒動は芸術以前、すなわち表現の埒外の問題である

しかし、大福Pは表現の枠内に押しこみ、自分基準のマナー創作物の中身まで相手に強いている。

彼は表現参加者にして、自由の犠牲者である

器量が狭いばっかりに、沸点を切ってしまった。

配慮、マナーとは他人に要請するものではない。

表現に配慮を要請するなど、もっての外である

品位ある行動は各人努めたいものだ。

しかしそれをするかどうかもまた、各人の自由の範疇である

信教したいが、異教徒の攻撃が怖くて活動できない、異教徒規制するか?

創作物の区分陳列はできても、集団をマナーの出来不出来で区分整除することができるか?

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- 派遣ならen
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