はてなキーワード: パフォーマティブとは
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3920s
Sara Ahmed, "You Are Opressing Us!"
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うためのプラットフォームを与えられ続けたり、あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にするのは、権力のメカニズムなのだ。」
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める欲望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な言語行為が次々と述べられるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだという証拠を望んでいるから、である。」
この枠組みを非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスのフェミニストとして知られるSara Ahmedです。
2015年のブログ記事でAhmedは、ガーディアン紙に掲載された、これ別の書簡なんですがこれも公開書簡です、
「個人に対する検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます。
トランスジェンダーについてあるいはセックスワークについて特定の批判的見解を持つフェミニストたちが、
大学で沈黙させられているというふうに主張するものでした。ちょっとここ分かりにくいんですけど、
2015年の英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、
階級的にもそれからジェンダー・モダリティという点でも、いわば多数派の側になります。
Ahmedは、公開書簡で取り上げられている例というのが実際には、特定の見解を理由にした検閲だったりノー・プラットフォーミング、
ノー・プラットフォーミングっていうのはイギリスの運動なんですけど、
イギリスの学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れ難いと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかです、
そういうものを公開する機会そのものを提供しない、そういうのがノー・プラットフォーミングといわれるんですが、
ただAhmedは、この公開書簡で取り上げられている例が実際には、
そういう検閲とかノー・プラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実を確認した上で、
にもかかわらずこれをあえて、キャンセル、検閲、口封じ、ノー・プラットフォーミングという形で主張することで、
これAhmedの引用なんですが、
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うために
そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、
あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時に、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。
しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは、権力のメカニズムなのだ。」。
検閲され口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされていると。
だからこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされることというのは、ここではむしろ求められている。
キャンセルされたいんですね、どっちかっていうと。
次の引用ですが、
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な」、これoffensiveですね、「侮辱的な言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、
他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだというその証拠を望んでいるから、なのである。」。
だからキャンセルされると、そのキャンセルされた人ということでどんどん力が集まって、むしろキャンセルされたい。
キャンセルされるために、より侮辱的な、よりoffensiveな言葉が発せられるという、そういう仕組みができてるというのが、
Ahmedの見立てなんですね。
「この書簡は、フェミニストの発言は自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、と考えている。しかし、トランフォビアや反トランスの発言を、ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消するべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、対話などしようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議や対話」をするとしたら、「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」
学問あるいは言論の自由というものを支点とした、抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、
表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、
今日の報告では、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた様子っていうのをざくっと見てきたわけですが、
その図式が現時点で到達しているのが、自由が侵害された口を封じられたという主張が、
実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している、
クリックとアルゴリズムの時代のキャンセル・カルチャーというパワーメカニズムだ、ということになります。
だからこそ私たちは、国家や強力な組織、経済あるいは社会規範の要請などから、学問の自由というものを守ると同時に、
現代の今2022年時点の学問の自由というのが、もろ刃の剣であること、学問の自由の特定の利用には警戒すべきであるということを、
忘れてはならないと思います。
最後にこういう自由の濫用というものをサバイブするためにAhmedが提唱した戦略を引用して、私の報告を終わりにしたいと思います。
健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、というふうに考えている。
ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。
食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。
あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議あるいは対話」をするとしたら、
特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」。
ありがとうございました。
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
ペラペラと口が回るずる賢いインテリの箕輪より論破しやすそうだし
手軽に叩いて大きなリターンが見込めそうだからあそこまで苛烈に叩いたんだろ?
岡村は「かわいそうさん」ではないが、
岡村への叩きがやたらパフォーマティブで執拗なことは事実だろうよ。
岡村をこれ以上叩くなというわけではなく、
叩きの手法が罪の軽重と本当に見合っているのか、を問うている。
テレビの降板じゃなく本業である出版界での失職を求める署名運動なり
石川優実氏がやってたようにYouTubeに岡村批判の動画上げるなり
「箕輪だって前から炎上してるし俺のTLでは叩かれてる!」とかどうでもいい。
前から炎上してるのに岡村のように本業を潰される流れになってないって証明じゃねえか。
ブコメの「みんな忙しいんだよ」は最悪で、
暇だからという理由があれば本業を潰す署名運動するのを容認するのかって話になる。
「岡村のほうが知名度あるから」も嘘だよな、ボビーも知名度では負けてない。
「「実際に犯行に及んだ犯人」よりも「その行為は女性が我慢し受け入れるべきこと」という「概念」の方が脅威になりうる」
セクハラやパワハラというそれ自体では立件が難しい悪事を矮小化する思想。
特に今回の箕輪&見城の件は伊藤詩織さんのように公に訴えられない事情があるからこそ
文春リークというある種の私刑を誘発する手法を採ったわけだよな。
(さすがにA子さんのこうした事情を読み取れてない奴はいないよな?)
あとは当事者間でやってね、で済む話ならA子さんはリークなんてしてないんだよ。
それこそ箕輪や見城はA子さんのこうした後ろ暗い事情を知ってるからこそ、
どうせ声を上げないとタカをくくってああいう扱いをしたんだろ。
自分が大麻パーティに参加したという瑕疵を明かしてまで世論に問うた意図を汲めよ。
これこそ盛大にパフォーマティブに、MeTooのような活動をもって追い詰めるべき所業だろう。
箕輪のような口のうまい権力者に無理に言い寄られることを「女性が我慢し受け入れるべき」と思ってるんじゃないならな。
叩きやすい奴を叩くのは人間の常だが、それを追認していいわけがない。
そもそも岡村の件、チビで弱そうで詰めたらすぐ潰せそうだからという理由のほかにも
派手にやれば注目されて自分たちの得になるって考えは確実にあっただろ。
フーコー派は「私たちは社会的権力に欲望させられているのだ」という主張を好みますが、これは反自由主義フェミニズムと非常に親和性が高い立場です。なぜならこの理屈を使えば、自由意志の下で性を楽しんでいる女に対して「あなたはそのように欲望させられているだけの奴隷だ」と言えるからです。
いわゆるフーコー派哲学は「我々は社会的権力に欲望させられている」という主張を好みますが、ドゥルーズ派哲学は「その社会的権力とやらを生み出しているのは、結局のところ私たちの欲望なのだ」という立場を選んでいますよね。これはフーコー批判としては最も辛辣なものであるように思います。
ミシェル・フーコーの社会哲学は何でもかんでも権力権力アンド権力と言い募る戯言を通じて結局のところなにをやらかしてしまっているのか。むろん個々人の自由意志を抑圧することに貢献しているのです。少なくとも人間の自由を抑制したがる人々に最適な武器を与えていると言えるでしょうね。
ポストモダニストの代表格であるフーコー、ドゥルーズ、デリダのうち、実は最も「悪用されやすい」という意味で悪質なのはフーコーです。
反自由主義フェミに対し、彼ら彼女らは実は単なる男性嫌悪者に過ぎないと主張する人々がいるけれど、それは真実の半分しか言い当てていないと私は思います。反自由主義フェミは女の自由も抑圧したがっているのですから、彼ら彼女らは同時に女性嫌悪者でもあるのだと考えるのが自然だと思います。
エマワトソン論争は「男も男性性から降りたほうが幸福だ」VS「男は男性性から降りたほうが不幸だ」みたいな対立でしたが、そもそも男が男性性から降りたり女が女性性から降りたりするのは基本無理なので全く意味のない議論だと思いました。ありもしない仮定の下で議論するのは時間の無駄。
当時の私はエマワトソン論争を眺めて「ジェンダーがそんなに簡単にフリーになるわけないだろ。なめとんのか貴様」的なことを考えたり考えなかったり、そんな風な感情を抱きながら両陣営を眺めていましたね。そもそも論者自身が男性性も女性性も捨てていないのにムシのいい話だなと思いました。
今さらジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』を再読しましたが、いくらなんでも生物学的な性差を軽視しすぎていると思いました。これは単なる観念論ではないのか。じっさい、最終章でバトラーが称揚してみせるのは毒にも薬にもならない「パフォーマティブな攪乱」でしかないというわけです。
宇野常寛「南京大虐殺が捏造か実在か、戦後民主主義が虚妄か否か、 好きなほうを信じればよい」 (宇野常寛『ゼロ年代の想像力』50ページ)
宇野常寛は南京大虐殺について、大きな物語が失墜したから捏造か実在か「好きなほうを信じればよい」と書いた。
意味不明である。大きな物語云々という話と、歴史学における個別の実証研究に、何か関連があるのだろうか?
加えて宇野は、自身の利益に直結する論争ともなれば、東浩紀を「嘘つき」だと批難する、実証主義の立場から反論した。
wakusei2nd:
嘘をついて自分の罪を後輩になすりつけ、それを彼我のフォロアー数の差を利用して論点をずらし、ストーリーをでっちあげてのりきろうとする人には無論ライダーの資格はない。無論会社社長や文学者の資格も。
東浩紀のツイッター論争テクニックは、とにかく自分の捏造したストーリーをフォロアー数の差を利用して喧伝する、というもの。だから今回も読者に証拠まで突きつけられているのに、そこはスルーして全力で別の話題にシフトしようとしている。もう誰もそんな手には乗らないし、呆れてものも言えない。
自身の利益保護についてだけ「実証研究」を求めるのは、明らかにアンフェアだろう。
youtubeに上げられた動画を見れば、宇野は笑いながら東浩紀に相槌を打っている。
東「知ってる?黒瀬が俺に言ったの。カオスラウンジのメンバーの一人は年収7000万なんですよ」
http://www.youtube.com/watch?v=qyV1okRD1rU
よく読めばわかるけど、この文字起こしは「宇野が黒瀬の年収は7000万と語った」などと書いてないよね。
そして東浩紀は、「宇野が黒瀬の年収は7000万と語った」などと責任転嫁していない。
宇野のいう「自分の発言を本気で僕(及びその友人筋)のせいにして押し通すつもりだった」という東浩紀像は、どうみてもフェアじゃない。
それに、あなたもustreamで「7000万ちょっと黒瀬君名言すぎるよそれはw」と参加しているじゃない。
自身も制作と流布に関与しているのに、<東の7000万発言がデマだとは知らなかった>という自分の(法律的な意味での)「善意(・知らなかった)」だけは絶対の前提にする。
しかし東が「善意」から“カオスラウンジのメンバーの一人”の年収を間違ったり忘れていたりしたかもしれない、という可能性は全否定する。
これはフェアな思考じゃないでしょう。
流布における瑣末な間違いを、さも論敵の能動的で極悪非道の悪意のごとく、繰り返し執拗に印象操作するのはどうなんだ?
どうやら、宇野常寛自身の「小さな物語」だけは圧倒的に正しいようだ。
しかも、東浩紀に対してだけではない。これまでも宇野の信じる小さな物語を害する『小さな物語』を語る相手には、高圧的な恫喝をくりかえしている。
「宇野常寛の想像力とかの批評」批判として成り立っているのかいないのか
はあ? そんなこと言った? あなたこそ勝手に人の主張を誇張して批判して悦に入っているだけでしょ?
RT @teramat セカイ系好きな連中はオタクのマザコン野郎でレイプ願望もってる、って冷静に考えるとありえないでしょw
wakusei2nd 2011/01/19 00:09:58
挙句の果てに「トンデモ」認定されました。批判する対象の主張を適当なイメージに基づいて罵倒して、ご満悦の人に。うわー。
RT @teramat 【結論】宇野さんはコンスタティブに読むとトンデモ。しかし「あえて」やってるのだとしたら、つまりパフォーマティブに読めば、これほど影響力のあ
↓こんな雑で恣意的なマッピングで無数の作家や読者を貶めてきた奴が、よく言えるよ。
http://nariyama.sppd.ne.jp/comment0707b.html#070722
これでも宇野常寛の自己イメージは「適当なイメージに基づいて罵倒して、ご満悦の人」ではないんだろうな。
どうやら、宇野常寛自身の「小さな物語」だけは圧倒的に正しいようだ(大切な事だから二回言いました)。
これらの振る舞いって、どうみても彼が批判する「決断主義者」そのものでしょ。
東浩紀氏は、「自分の思い通りにならない玩具は床にたたきつけて壊す」という人で、周囲に対してそんなコミュニケーションを繰り返してきた。しかしそれでは仕事仲間からも、読者からも信頼されない。僕はそのことを彼から反面教師的に学んだ。
wakusei2nd 2011/06/12 13:17:49
その結果が、今の「裸の王様」的な「東浩紀3.0」で、挙句の果てに堂々と嘘をつき、他人を陥れ、それが追求されても誤魔化すようなことを平気でやるようになってしまった。震災以降、言動が以前にも増しておかしくなってきたが、ついにここまで墜ちたか、と思う。
wakusei2nd 2011/06/12 13:19:40
そう思って周囲(僕含む)が、「東さんはそういうキャラだから」と彼の横暴と嘘と卑劣さを結果的に承認してきた。それがこのような事態を招いているのだと思います。RT @soujibucho: @wakusei2nd 東さんが子どもっぽいところがあるのは今に始まったことじゃないし
「結果的に承認してきた」とか言って、宇野は全ての罪悪を東浩紀に押しつけているけど、
例えば↓大澤信亮を東浩紀が批判したとき、宇野は 主体的に大澤バッシングに便乗している。
「責任を仕事で取る方法を探すつもり」)なんて曖昧模糊とした事を言う前に、まず公然と大澤信亮などに謝るのが、
もしも反省しているなら自然な感情だと思う。( http://twitter.com/wakusei2nd/status/79915073577025536 )
吉六会/AZM48による 大澤信亮+文芸誌へのクロスカウンター
大澤信亮: 枝葉末節をつっついて本題をなし崩しにする汚いやり口はよくわかっています。僕はべつにあなたたちを憎んでいない。
ただ、誰かに釣られて振るってしまった暴力をなかったことにせず、内省してほしいと思うだけです。
叩けそうなものを叩いてすっきりする敗北の人生や、子分として忠誠を示し続ける惨めな生き方を克服し、個として生きてほしいだけです。
要するに、全然信頼できないんだよこの人の言動。
決断主義批判していて自分が決断主義者だし、東と宇野というホモソーシャルな関係でとんでもない言葉の暴力の応酬に発展した点で、
同性間の友愛をもちあげてみても説得力が無いし。
宇野氏はまた、
「今回の震災で明らかになったのは、こういう事態が起きたときには、今あるリソースをどう活用するかが問われるということ。そういうときには、原理論ばかりをふりかざして、テンプレ的な批判を繰り返しても話はまったく進まない。中間的なものを考える想像力の不足を感じる」
これもね。
さっさと相反する2つの批評家をつなぐ「中くらいのもの」への想像力とやらを発動してくれよ。
議論における寛容さを。
口だけかよ。
その「科学的」の扱いをめぐってゴタゴタしてるという話ではないのか…?
この二つの問題は、少なくとも科学の側からは明確に分けられるし、科学者は自覚して、そこを分けて振舞うべきなんだけどな。
こういう態度じゃもうダメだよね、科学者も社会的責任果たさなきゃっていうのが現代の科学技術社会論とかの主張で、それに対する支持はどちらかというと大きくなりつつある。もちろん事実として、見向きもしない科学者は多いけどね。
他の人も言ってるけど、菊池誠さん(阪大教授)とか、最近科学者もけっこう発言するようになってきている。日本物理学会でニセ科学問題にどう対処するかってセッションも開かれたぐらいだし。
多分以下のようないくつかの問題がからみあっているのでややこしくなっている。
まあ、それを解きほぐすのが倫理学の仕事だといえば、その通りなんだけどね。
元増田の言ってることは「戦線を限定すべき」という意味では大賛成なんだけど、「倫理」とか「知的誠実さ」とか言わない方がいい。話が拡散するので(実際スレッドを追うと拡散してる)。
単に「科学的手続きを踏まえていないものを科学と呼ぶな」って言えばいい。
「科学的手続きとは何か」というのはある程度わかりやすく説明できる。>その手の本はいろいろ出てるので興味のある方は読んでください
ややこしいのは、「科学的手続きを踏まえていないものを科学と呼ぶな」というパフォーマティブな言明は何を意味するのか、ということ(誰が言うべきか、そもそもなぜ言うべきなのか、言ったら効果があるのか)。
で、さらにややこしいのは「じゃあ科学とは呼ばないよ。科学的手続きを踏まえていないものを「世界の根本原理」と呼んで広めることにするよ」となったときにはもう、「科学的手続きを踏まえていないものを科学と呼ぶな」という言明は無効化されちゃう。そこでさらに深追いして「科学的手続きを踏まえていないものを口にするな」なんて言っちゃったら我々の日常的コミュニケーションのほとんど全てがひっかかっちゃうからね。
法律に触れるようなことはもちろん法律で裁けばいい。でも、そうでないもの、グレーゾーンなものは難しいよね。「ある人を救うためにナイフで刺すことがベストな方法」って思ってる人が本当に刺しちゃったら犯罪ってことで処理されるし、ある種の代替医療とかはそれに近いところまできちゃってるのかもしれないけど、水伝なんかはそうとは言えないからね。
確かにあれで授業を受けた子どもは、色々な意味で「機会損失」があるわけだけど、それは法には触れないし、「科学」というラベルを外せば先の批判は無効化されるから、あとは「議論」していくしかないんだよね。科学に対する価値観の違う者同士で。