はてなキーワード: ディベートとは
何処にでもあるような町中華に通っているんだけども本棚にいくつか漫画がある
今までは本棚の近くにある席に案内されることが無かったのでラインナップすら知らなかったのだが
中華屋に鉄鍋のジャンが置いてあるのちょっと面白いなとか思ったりゴルゴ13が巻抜けで置いてあるのはなんでなんだとか考えたが
意外と鬼滅や呪術みたいな新しいものもあって定期的に入れ替えているようだった
そして、その中に島耕作もいた。
数年前からやっとモーニングを読むようになった俺の中で島耕作と言うのは会長から相談役、そして現在の社外取締役しか知らない
課長や部長やらあったが一番手に取りやすいところにいたのは取締役だった
その1巻に現れた島耕作、ではなく浜坂元という男に心を揺さぶられてしまったのだ
この浜坂という男は一体何をするかと言うとネタバレになってしまうのだが
まず、初芝電産(島耕作や浜坂が務めていた家電メーカー)のロビーで社長を出せと言う。
出せないのならば同期入社の島耕作を呼べと、さもなくばここで自殺すると言って手に持っていたゴルフバックから日本刀を取り出すのだ
受付で対応にあたった社員が暫く待てと言っている間に調べるとどうやらリストラされた社員だという事が分かる
そんな場所に社長が行くわけにいかないので当時会議中だった島耕作が緊急の呼び出しを受けて説得に向かう…
呼び出しを受けて浜坂を説得する為に一体どういう人物なのかというのを初芝電産のデータベースで洗い出す島耕作
すると島耕作と浜坂元は同期入社だという事が分かり徐々に記憶がよみがえる
この2人は入社後の研修で同じ班となり更にはディベートで直接対決をしていたのだ
浜坂はここで島耕作に完敗すると以降島耕作とは眼すら合わせなくなる。
そんな縁があり浜坂は自らの命を賭けた直談判の場に社長がいなければ島耕作と名前を挙げたのだ
その後島耕作はマスコミも押し寄せる中、浜坂にロビーで説得を試みる
一時的に説得に成功し浜坂は刀を持つ手を下ろしたものの気が変わりその場で自らの喉元に刀を突き刺した
警察隊や警官隊の早急な対応により命に別状はなかったものの流れるように入院した病院の窓から身を投げて命を絶ってしまう。
このような流れの中で浜坂のとある行動に気づき心を揺さぶられた。
それは浜坂は自分の希望が通らずとも滅私奉公した、つまり会社を辞めなかった事。そして島との会話のシーンである
物語の中で浜坂の最初の配属場所がまったく希望していない部署だったという記述がある。
更に浜坂の経歴を記しているコマで浜坂がどのような部署でどのような肩書だったのかが書いてあるのだが
部署の移動が発生するまで浜坂は15年間その部署で働いたのだ。
15年経つと異動があったようだがこれも希望していた部署なのかの記載はない
更に工場長として6年働き続け最後に待っていたのはリストラだったのだ
やりたくない仕事をして会社に尽くして家族を養った人生だったが
会社に捨てられ家族にも捨てられアイデンティティを喪失してしまった。
30余年も同じ会社でコツコツと働き続けられる真面目な男なのだ
日本刀を携えながらもきちんと受付で名乗るし、説得に来た心から憎く思う島を突然襲うことなく話し合いをするのだ
そんな男からの「なぜ俺がこんな目にあってお前(島耕作)は役員になれるんだ!」と激昂するシーンで
島は冷静に「人生の5割は自分の力で変えられるがもう残り5割は他力で俺は運が良かった」という
しかし浜坂は「それが納得いかん!」というが島は「現実を受け止めろ」というのだ
この後浜坂は言葉に詰まり項垂れるのだがこのシーンで心臓のあたりがグッとなってしまった。
勿論、島の言う事は当たり前の事だ。
世の中は自分の思う通りには進まない事の方が多い
しかし、みんな心の中では浜坂と同じことを考えている事の方が多いだろう
何であいつの方が良い役職に…!なんであいつの方がいい会社に…!なんであいつの方が!!!!!!
30年もくすぶり続けてた火種を運が良かったの一言で片づけやがって!!!!と
本来ならば島耕作が説得する事に失敗したという、起承転結の起の中の何てことない1話だったのだろうが
私はこの男に、とても深く感情移入した。
絶対に譲れないラインとそれ以下の別にどうでもいいゾーンしかないから口論にならない
絶対譲れないラインの話をされても絶対に譲らないので口論をする必要がない
そのラインに踏み込んでくるんならもうお話は終わりですねってだけだし
そのライン以下なら一応自分の考えを伝えた上で採用するかは相手に任せるし
自分がその立場なら一応相手の考えを聞いたうえで総合して考えて決める
失敗したら俺が責任取るんだし
とはいえ研修とかでディベートとかディスカッションしてくださいって言われたら
それはそういうもんだと思ってやるけど、口論とは違うと感じている
殴り合いの喧嘩は別にしないけどボクシングならやるみたいな感覚
職場とかでたまにすげー口論するやつがいて、その意見そんなに大事?って聞くと
そういうわけじゃないけどあいつの態度が気に入らないみたいなことを言うので
それは生き辛そうだなぁと思ってしまう
ディベートの授業の話を聞くと、私が中学生のころに行われたディベートの授業を思い出す。
まだディベートという言葉自体もやっと一般の耳に入り始めたかどうか、という頃のことだ。
ゆえに教師もまだどう授業を進めればいいのかわかっていなかったのか、あるいは後に述べる理由から意図的にそうしたのか、きちんとルールが定められていなかった。本来ディベートであれば立論、質疑、反論といった流れが決まっており、最終的な勝敗はジャッジが決定するはずだが、そのときは単に何人か選抜されたグループを2つ作って話し合うだけで、同級生が傍聴してはいたが勝敗にかかわることはなく、本当に聞いているだけだった。
議題は教師が決めた。内容としては当時話題になっていた政府のミスについてだった。
私は当時すこし疑問に思ったことを覚えている。イメージしていたディベートはたとえば死刑制度の是非や、易しいところならばペットは犬猫どちらが良いかなど、どちらにも転びうる内容について話すものだと思っていたからだ。
しかし(政策の方向性などではなく)政府のミスとなると、ミスを問い詰める側が有利で、擁護する側が不利なのではないかと。実際、ニュースなどでも連日政府を批判する内容が報道され、それが当たり前だった。
それでも授業であるから、わざと片方が負ける前提で非対称的なテーマを出したのかもしれないと思い直して私は議論を聞いていた。もちろん、どうせ負けるのは擁護側だろうと思っていた。おそらくその場にいた全員が似たようなことを考えていたと思う。
彼女は、普段は教室の隅っこで一人読書しているような、地味なタイプだった。似た性質の友人と話しているところはたまに見かけるが、基本的に一人を好む静かなタイプだった。
しかしそのときはいつもと違い、鮮やかなほどによどみなく朗々と意見を語り上げていた。
自分が意見を出すのはもちろん、相手がなにか言ってもそれを否定するのではなく、「そう、その通り。しかしそれは見方を変えればこうとも言えませんか?」というように、うまく掬い上げては軌道を変え、いつしか自分が有利になるように話を持っていく。
批判側のチームの言葉からは次第に力が失われ、傍聴席はざわついた。はじめは誰も政府の行動が褒められるようなことだなどと思っていなかったはずなのに、いつのまにか「あれって本当にミスだったの?」「むしろ英断だったのかも」と政府を見直すような空気になっていた。
そんなとき、教師からディベートの終了が告げられた。理由として「テーマが一方的すぎるのは片方が不利すぎてやはりよくないと思った」というようなことを言っていたが、聞いているこちらからすれば「今更?」だった。ましてテーマ的には不利なはずのチームが場を支配しているような状況でだ。
わざわざ文句を言うようなことはしなかったが、小さな違和感は残った。
その後はまたチームが変えられ、先程挙げたようなディベートでよく使われるテーマで(やはりディベートというにはルールが緩かったが)話し合いが続けられたが、そのせいでなおさら最初のテーマの異質さが際立つようだった。
のちに自分があの頃住んでいた地区がいわゆる左翼の強い地域だったことを知り、謎が解けた気がした。
ようは、あの教師は「生徒たちが政府を批判する姿」が見たかった、そして別の生徒たちに見せたかったのだろう。あとから思えばチーム分けも、批判側は成績がよく友達も多くよく喋る、いわゆるスクールカーストの高いものが選ばれており、逆に擁護側は彼女を含め、物静かであまり人と関わらない、地味なタイプが選ばれていたように思う。
そうであればあの展開は教師にとってさぞ焦るものだっただろう。政府を批判するどころか、聞いているものまで巻き込んで政府を見直すような空気になっていたのだから。批判側が巻き返せる様子がないのを見て唐突に中断させるのも頷ける。
あれ以降、私は少しだけ引いた位置から物事を眺めることを覚えられた気がする。炎上などを見ても、ほんとうにそれは誰かが作った流れではないのか、と考えることができるようになった。もちろん過信はしないが。
そういう意味で、あのディベートの授業は有用だったのだろう。教師の考えていた結果とは大幅に違ったろうが、教師の考えていたとおりの流れになったときよりはきっと、私の人生に意味のあるものを残してくれたと思う。
うんこ味のうんこ派の私からすると、うんこ味のうんこは、独特な味があります。この味は、他の食べ物にはないものです。そのため、うんこ味のうんこを食べることで、新しい味を楽しむことができます。また、この味は、食べる人を飽きさせません。
一方、カレー味のカレー派の私は、カレー味のカレーが、健康に良いと考えます。カレーは、健康に良いとされるスパイスがたくさん使われているためです。カレーを食べることで、健康に良い効果を得ることができます。
また、カレー味のカレーは、スパイシーで味が濃いため、食べる人を飽きさせません。そのため、カレーを食べることで、食欲を満たすことができます。この点でも、カレー味のカレーが優れていると思います。
どちらが良いかは、個人の好みによります。しかし、私たちはどちらも良いと考えています。そして、このディベートを通して、お互いの好みを理解することができればと思います。
世界人権宣言が謳われたのは1919年だが100年経っても人権を親切や道徳に言い換える地獄の国のままだ
旅行した程度の外国人はね、日本には差別はない、ただずっと単一国家だったからきっとよく知らないだけ、などと甘やかすことを言うが住んでた俺は知ってる
キリスト教は女の子たちが自分の意思を相手に伝える大切さを学び、夜這いを断るようになったから、踏み絵をして禁止されてたのだということ
この国はずっと意思のない奴隷を作るために人権を否定し続けてきただけだ
何十年も知らないふりをして忘れたふりをして無視してきた差別を理解できない奴らの人権の無い国なだけ
日本人の親切や優しさは、正義や愛や人権に基づくものではない。村八分を恐れる同調圧力の強い支配、道徳に基づいた修身にすぎない
キツすぎて国際社会の一員として受け入れられるような成熟度にないよこの社会
まともな教育してくれー