はてなキーワード: 登山とは
多分これが非難の大部分を占めていると思う。たしかに、経験のない過酷な登山や遠泳をやらせる必要はない。断じてない。
今年はブラインドダンスだったり(やらせくさかったところは非難されるべき)、様々な障害を持った人たちのダンスやオーケストラとか、本人たちが楽しそうですごく良かった。ただ、これが感動ポルノと非難されてしまうと彼らがせっかく出演してくれた意味がない。
彼らは私たち健常者と何も変わらず、私たちが楽しむことを普通に楽しみ、私たちが挑戦することを普通に挑戦するのだということを晒し者だと言われても見せてくれているのに「感動ポルノだ!」と言われるのはあまりにやるせない。もちろん彼らがやりたくなもない、出演したくもないのに無理矢理それをさせられてお涙頂戴に演出しているのであれば「感動ポルノ」であることに間違いないが、今年の企画はみんな楽しそうで非難されているそれには当てはまらないと思う。
年々過激になる距離を未経験者の芸能人が走るって本当に意味がない。感動もしない。
確かにチャリティーと銘打っているならば出演者にギャラが発生するのはチャリティーを履き違えてる。
ただ24時間をたった数時間の休憩のみでぶっ通しでMCをし、募金に来た人たちと握手してっていうのをノーギャラでやろうなんて芸能人は果たしているのだろうか。「ギャラが発生するから出ない」と言う芸能人もいてそれはそれで間違っていないけど、そういう芸能人を盾に「だから24時間テレビはクソ!!」と叩いてる人たちはどうかと思う。
それは置いておいて、ジャニーズや人気女優の名前につられて番組を視聴し募金に協力する人がいるのが事実。出演者は偽善者だのこういう時だけだのと叩かれるが、自分たちのネームバリューで視聴率を取り、数億円をの募金への協力に貢献できるのであれば彼らのその偽善は大きな意味がある。実際今年は5億いくらも募金が集まったと番組の最後に発表された。そこから彼らのギャラが支払われるというのであれば大問題だが、日本テレビが24時間テレビのために用意した予算から支払われるのであればそんなにバシバシと叩く必要はない案件だと思う。まあチャリティーと謳うのはもう辞めた方がいいけど。
結局中身のない批判ツイートやまとめ記事、某裏番組は一銭も生み出さないのに対して、何だかんだ言いつつこの24時間日本テレビをジャックする偽善番組は数億円もの募金額を募り被災地や障害のある人たちへの支援に当てることできるのだ。
24時間テレビ関係なく、障害者は差別されるし、被災地はボランティアが不足しているのです。何も生まない批判をぽちぽちツイートしても何の意味もなさないのです。批判は日本テレビ公式ホームページ1番下の意見感想のページへ。コンビニで買い物したお釣りの端数の1円でもいいから募金箱へ。愛じゃ無いかもしれないけど、その1円は誰かを救える。
第一話 ウールマルミ
ララデイ=イスマール連合王国のユースフラテルスヌ川のほとりに、豊かな村という意味のベルディナンド村に住むベルディナンド=ラホホールが今回の物語の主人公である。
ベルディナンドは登山を趣味にしている。お気に入りはベルヌース山だ。ベルヌース山は豊かな自然に恵まれ、ハシホール花や、ウミハルコの実を落とすウールマルミの大木がある。いつものようにウールマルミの大木を登りそこからベルディナンド村を眺めていたベルディナンドだったが、見慣れた景色にも飽き、ブランコを大木につけようと考えた。
思い立つやベルディナンドは大木から飛び降り、ゲリーラモのつたを採取しブランコの縄とし、拝借したウールマルミの大木の枝をブランコ漕ぎ台の大きさにカットし、再びウールマルミの大木に登る。
せっせと登っていたベルディナンドであったが、突如背筋にひんやりとしたものが走る。振り返ると、そこには…!?
次回 オルハナタティブ お楽しみに
インターネッツにわか知識マンと荻上チキ(同一人物かもしれない)がよく口走る台詞であるが、どうも正しくはないらしい。
欧米の道迷いに関する書籍「mountain navigation」には以下の記述がある。「
work your way slowly downhill folowing streams, as these tend to lead eventually to havitation」とあるように、川筋に下っていけば、やがて居住地にたどり着くという考え方もある。
とあり、川が必ず人間の領域に接しているのであるから川を回避するのは必ずしも得策とは言えないということだ。
但し、日本の山である場合には川は必ずしもslowlyではなく急で滝もあるというのはその通りだが、反対の登る時を考えると、「登ったからといって必ずしも登山道に復帰できるとも限らず、寧ろ悪路により滑落するリスクもある」のであり、そもそも山の中腹以上であるなら登山道に復帰するまでは短いが、山裾であると尾根であってもヤブが多いためそのもの移動に危険性とコストが掛かり、道なき登山は無意味であると考えられる。
これらのことにより、本書では「登るのが良いとも下るのが良いとも言えない」と結論付けている。
増田のゆる登山家供も、試しに山で迷った時などに荻上チキだったりインターネッツにわか仕込み知識で二重に遭難しないようにしろよ。
登山事故が起きる度に「だから○○しておけば」「技術不足だったんだ」「運が悪かった」「準備、技術不足」とタラレバを言い出すのが今の登山界の実態。
山小屋などで働いてて登山道を整備し、時には登山者の救助を行う人がタラレバを語るのはわかる。悲惨の実情を目の当たりにしているかわかる事も多いと思う。
それ以外の人はなにか行動おこしたのか?ニュースみて背景も知らず批判的な意見をいうだけ。次事故が起きないような取り組みをしたのか?
友達に誘われて山コンに参加したら、介護士や販売員、肉体労働者などの低所得層ばかりだった。
参加費が3桁のイベントだったからか、ホワイトカラーの仕事をしている人が0人で驚いた。
誰もトレッキングシューズを履いていなかった。
恐らく年収は400万円以下。
低所得同士でうまくいくのかと思いきや、そうではなかった。
なんと帰り道に女性陣は「いい人いなかった~」と言っていたのだ。
実家でぬくぬくと暮らしている女性は現実を知らないため、理想だけは高いのだ。
ただ、自分自身が低所得だから参加費の高いイベントには行けないのだろう。
普通の会社員がいるイベントに参加すればいいのに、そこまではできない様子。
どこか僕は幸せになれると思っている、今こうしているのは、不幸に続く道だということを理解できていない。
悪を誇示しているけれど、自分の善を誇示するよりも、悪を誇示する方が楽だからそうしているだけの、弱い人間だから。
僕は彼女ほどに自信がない。
幾度となく聞いてきた「お願い! シンデレラ」を聞いて、こんなにも心を揺さぶられる日がくるとは思っていなかった。
2018年7月31日のおねシンのソロバージョンがスターライトステージで更新された。
今日更新されたアイドルは安部菜々、棟方愛海、相葉夕美、佐藤心の四人。
デレマス全体を代表する楽曲であり、何度も何度も聞いている、おねシンを改めて聞いて
こうも、僕の願いとリンクしてシンデレラになってほしいと思ったのは初めてだった。
14歳の女子中学生でありなら、女性の柔らかい部分、彼女の言葉でいう「お山」をこよなく愛している。
彼女に事前告知なく突発的にボイスがついたアニメのシンデレラガールズ劇場第二期二十三話「棟方愛海 最高峰に挑め!3番勝負!」では、
棟方愛海が同僚のアイドル三人にお山を登らせてくださいと懇願する回だった。
お山登らせてください、というのは健康的なハイキングや登山ではなく、要するに乳を揉まさせてくださいという意味だ。
こんな調子で、彼女は登場するたびに同僚のアイドル、事務所のアイドルではないアシスタントの女性、果ては触れ合い会と称してファンと、
とにかく女性のお山、胸に興味津々なアイドル、それが棟方愛海である。
どうだろう。
はっきりいって、危うい設定だと思われたかたも多いと思う。
当たり前だが、同意なくおっぱいを触るのは、女性同士であっても犯罪になりうる。
そうですね。
と、自信が出演したデレステのHARURUNRUNイベントで言っている通りである。
けれども、彼女が初登場したシンデレラガールズ劇場第70話「北海道から来ました?」では、白菊ほたるの胸を同意なく触っているようにも見える。(該当箇所はコマの外で描写されていないため、真相は不明だが)
そして、この同意をとるプロセスも、一歩間違えれば犯罪になりうるかもしれない。
そもそも「恋愛関係にある相手や結婚している相手以外の女性に、胸を触って良いか? と合意をとる」という行為自体、互いの地位に権力の勾配があればセクシャルハラスメントだ。
権力の勾配がなかったとしても、街中で見知らぬ女性に突然「胸を触って良いか?」と尋ねるのは、警察を呼ばれる。
おっぱいを触るというのは、それだけ今の日本社会ではハードルの高い行為なのだ。
どうして、こうも僕はそんな危うい彼女に惹かれるのか。
当たり前だが、アイドルマスターシンデレラガールズに登場する棟方愛海以外の180人以上のアイドルの中で、
中には人見知りでむーりぃーなアイドルや、感情をあまり表に出さない寡黙の女王なアイドルもいるが、それらと人が嫌いには大きな隔たりがある。
そういう意味で、この「人が好き」というのは、あまりにも当たり前な要素だ。
だけれども、棟方愛海の好きには、性的な意味の好きが含まれている。
人にとってそこは特定の自分が決めた相手との合意があって初めて至れる行為と、今の日本の公序良俗が決めているのだ。
そうでありつつ、棟方愛海にとっての最難関のお山とは「「ありがとうー!」の意味に近い「好き!」であって恋愛の「好き」とは違う」と「同じこと」だと語っている。
彼女には、恋愛関係を結んだその先にある性行為の一環として胸を触るべきである、というような、僕みたいな人間が思うちっぽけな倫理観はない。
ただ、そこにある、お山を触りたいだけなのだ。
大きい。
ただただ、大きい。
僕のちっぽけな欲とは格が違う。
本当に大きい。
僕は、他人と仲良くできた試しがない。
根本的に自分みたいな人間を誰かが好きになるわけがない、と思っている。
僕の中に強くあるのだ、僕みたいな人間を好きになる人はいないと。
性行為はその先にある行為なのだから、僕には一生縁のない行為なのだと。
(ソープに行け的な話は全く意味が違うし、行ったことはある、そういう話を今していない)
そして、そんな自分が誰かに好意を向けることもまた、おこがましいとしか思えない。
僕が誰かを好きになるということは、その誰かにとって不快で気持ち悪くて、犯罪なのだ。
それでありながら、僕は性的にムラムラすれば、風俗に行くこともある。
イライラをムラムラに変えては、女性がひどい目にあうポルノを楽しむ日もある。
これが矛盾でなければなんなんだ。
そうして、そうさせる僕の中の男性性ともいうべき忌むべき概念が心底嫌いだ。
けれども、それはもう分かち難く僕の中に根付いている。
おっぱいを触りたいなあ、と思ったら、触らせてくださいと交渉する。
そうしたときに、自分が嫌われたらどうしようなんて、うじうじと悩まない。
否定されたら否定されたで、それだけの話と割り切っている。(ように見える、本当はどうかはわからない)
とても、羨ましくて、とても眩しく見える。
僕は、そうやって、他人を好きだと言えない。
そういうことで、その誰かの気持ちを暗くさせてしまうとしか思えないから。
そんな彼女が歌う、おねシンの「心にシンデレラ、私だけじゃ始まんない」はひどく重く聞こえる。
棟方愛海がただ一人で無人島に漂流したとき、そこにいるのは棟方愛海だろうか?
究極的に言えば、それは違うナニカになると僕は思っている。
棟方愛海は、自分とアイドル、自分とアシスタント、自分とファン、自分とプロデューサー。
島村卯月が世界最後の人間になっても、彼女が笑顔でいれば、それは島村卯月だ。
渋谷凛が世界最後の人間になっても、彼女が蒼ければ、それは渋谷凛だ。
本田未央が世界最後の人間になっても、彼女が三つ星ならば、それは本田未央だ。
だけれども、棟方愛海は違う。
棟方愛海が最後の一人になったら、それはもう棟方愛海じゃない。
最後の一人になって「お山をもう登れないこと」を嘆く棟方愛海は、もうそのイデアを喪失している。
だから「私だけじゃ始まんない」のだ。
断じておきたいが、これは、一人じゃ輝けないといっているんじゃない。
愛海のその、人を好きな様に僕は惹かれているといっているんだ。
僕は、性欲が嫌いだった。
こんな欲で誰かを不幸にするぐらいなら、どこかに消え失せて欲しかった。
だから、女性もこのような欲を抱くことがある、そしてそれをどこか身勝手に露呈することもある、ことを例えそれが創作物の上だとはいえ、自由にしている彼女の様がとても魅力的だった。
自分のように、内心にこのような欲を抱えることを恥じたり悩んだりしない様が魅力的なんだ。
そして彼女個人であって、その主語をそれ以上に大きくしては、絶対にいけないのだけれど。
そう、この主語は大きくならない。
もし、僕が女性なら、この主語を二つに増やせられる可能性があった。
僕は汚らわしい男だから。
彼女に寄り添って、嬉しいことを掛け算して、辛いことを割り算することもできないから。
彼女を否定する言葉に「いやでも実際私は女だけど、女性の胸を触りとと思うよ」と彼女を支えることすらもできない。
僕が汚らわしい男だから。
好きなんです。
好きでいる間だけは、眩しいから自分の中の気持ち悪いのが見えなくなって、ただただ嬉しい気持ちでいっぱいになります。