はてなキーワード: 一神教とは
まあ馬鹿話なんだけどさ。
ある日、啓典の宗教を信じる人々全てに、こんな啓示が下ったとする。
「日本を聖絶しなさい。日本人の血と財産と文化全てを神に捧げ尽くしなさい。ジェリコのように、ヘシボンのように、バシャンのように」
で、聖十字の旗と、聖新月の旗と、ダビデの星と、一神教を奉じる全ての軍隊が、神の名の下に日本列島に集い、
男も女も、老いも若きも、家畜もペットも、日本に関わるもの全てを神の名の下に聖絶し尽くす。
日本の財産も文化も、一円玉一枚、小皿一枚に至るまで「神に捧げられた呪われし器物」として収奪され、封印される。
…勿論分かってる。この現代で、先進国が宗教的情熱だけで、先進国一つを、絶滅させに掛かるなんてこと、あるわきゃない。
けどさ、とりあえずキリスト教の教理上でいい。「それは教理的に起こりえない」っていう指摘を聞いてみたいんだ。
日本の政治家が馬鹿ばっかりやってくると、その内日本を聖絶しに十字軍がやってきて、
自分もプログラム勉強したての頃はそんな感じだった。自分は特にオブジェクト指向のあたり意味がわからなかったなあ…。
どちらも同じ先生で、質問してもそのうちわかってくる!って言われるからそうか…ってほっといてるけど、
言語の詳しい説明はいつになったら理解できるようになるか不安になる。
最初は「おまじない」として書いてても大丈夫。要は、動けばいい。
でもプログラムをずっと書いてるとそのうちもっとトリッキーなことがやりたくなってくる。そのときに嫌でもどんなことなのか知らなきゃいけなくなる。そういうのを繰り返してちょっとずつちょっとずつ知らないうちにぼんやりしてた概念が身についてくる。
こういう概念ってわかってる人には説明できる。でもわからない人に説明するのは用語の面でも概念の面でも難しい。一神教のひとにアニミズムの考えを理解してもらうような…(ちょっとちがうか)。だから教える側も最初は「おまじない」が限界なんだよね。
プログラムの自習は自分が作りたいものがあるとか作らざるを得ない状況だとかじゃないと課題を見つけるのが難しいかも。でもとりあえず今は習った範囲でできることをいろいろ試してみてごらん。macがあるなら試しにiPhoneアプリ作ってみてもいい。作り始めるといろいろ必要になるから勝手に勉強しちゃうよ。
ピーターセンの新しい本が出たのか。買うか。
記事タイトル見て、論理的には説明できないけど「"I like dog"は確かに不自然な気がするな。"I like dogs"なら自然だと思うけど」と思ったら、それで正解なんだな。
俺も多少は英語力ついたなー。いいことだ。
これは多分そんなに高度な感覚じゃない。「文脈依存」とか言ってドヤ顔してる奴らも的外れだ。
俺の個人的な感覚だと(合ってるか知らんが)、I like...の後に来るのはカテゴリであって(もちろんそうでない場合もあるが)、カテゴリとは集合であって一般に複数個の元(要素)を持つものであるから、dogs(= 犬という集合)となる。単数のdogが集合を指すというのは普通ないんじゃないかなあと思う。
単数でカテゴリを指すのはGodくらいじゃないか。キリスト教が一神教という文化的背景つきで。そのくらい特殊なもんな気がする。
まぁそれも誤解なんだけどね。実際には、彼らが言う厳格な無宗教・無神論の人間なんてほんの一握りしかいないよね。
(最近は「いただきます」の意味すらしらない馬鹿が増えてるらしいが)
実際、海外と仕事するにあたって、それなりに日本のことを説明できるようになる必要が出たので、日本人の宗教観については英語で聞かれてもちゃんと説明できるつもり。一神教と多神教の違いから入り、日本では8ミリオンゴッズだと言い興味を引き、トイレにすら神さまが宿ると信じられているという話で笑いを取り、そこから「日本人の宗教観は相対主義(relativism)に近く、仏教とアニミズムや太陽信仰がルーズにミックスした状態でどちらかというと日常に暗黙的に(implicit)存在するのだ。だから日本人はあまりあなたがたが言うような信仰の形式は持っていないが、日本の街は比較的(遠慮した言い方)安全だし、おおよそ清潔が保たれるし、時刻にも正確だし、コミュニズムは流行らなかったし、個々の人間も職業倫理が高いのだ(と私は考えている)。」という話までするよ。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
Sexy Zoneも、Not yetも流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。
多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。
それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。
結局流行ってるもの、常識とされてるもの、普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。
俺は去年帰郷して兄弟と会話したときにRadioheadとか宇多丸とかいう単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが
そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。
だから、テレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。
ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。
思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。
ここ最近、韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。
「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。
で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。
「流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど
逆に、結局この人達はマスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。
オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。
「普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識」だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。
それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。
マスコミ、メディアが担保していた共同体幻想みたいなもの、一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから。
じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。
一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットがマスコミを殺した。
つながりあえる環境、「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境がマスコミを殺した。
かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。
それに人間は耐えられるだろうか。
「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も存在しないことに耐えられるだろうか。
だから、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。
ニーチェは「神は死んだ」といった。
「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。
「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威を根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。
日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで
なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。
だけど、「メディア・マスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。
その影響がじわじわと色んなところで見える。
「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。
お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。
それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。
その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、
そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、
クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、
反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり
すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。
表面上は、まとめブログによって、youtubeの再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが
その根底では、価値観を担保していたものの崩壊が徐々に起こっている。
スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。
これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。
すべての価値観をクールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。
「ほんとう」の価値観を求めて、匿名のコメントで殴りあうことがこれからもネット上では続くだろう。
それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。
明治以降、西洋や米国のどういう部分を取り入れたかについては、
貴方の方が詳しそうです。
私は、欧米が最も良いと思ってあの文章を書いたつもりではありませんでした。
貴方が仰るように、むしろ欧米こそが全て良いという話は嫌いです。
日本的な教育の良さは何か、欧米的な教育の良さは何かを考えないでする議論は不毛だと思います。
ただ決定的に違うのは、宗教的な態度が全く違うことは確かだと思います。
欧米の個人主義は一神教的な価値観に支えられて強化されている側面が強いと思います。
実際の信仰は別にして、生活にまでしみ込んでいる宗教的な価値観が個人の自我の発達を
個人は強くあるべき、ということは文化や宗教的な前提として発達してきた部分がある。
自我を強く強く、個人を強く強く、すればするほど日本の土壌では支えるものや人が少ない
ことになるんじゃないかと思います。出る杭は打たれる、のが基本ですから。
それでは心がもたない人が増えるのは当然だと思います。
他国と比べることの意味は、それぞれの制度の成り立ち、意味や効果を基にして、それが現下の自国の制度にどのように取り入れることでどのような展望が開けるか、という、きわめて具体的な提案の中にしかないと思うんだけど、とりあえず「西洋と違うからダメ」という議論は感傷に過ぎないよね。
が、なかなかその行為の意味や深い部分まで考えて取捨選択するのは難しい気もします。
実際は取り入れてみてやってみて問題が出てきて初めてその意味がわかる、
ということが多い気がします。
石原慎太郎都知事は3月14日、「日本人のアイデンティティは我欲。日本は津波を利用して一度我欲を洗い落とすべき。震災は天罰」と発言。
翌日には謝罪・撤回したが、30日に行われた支持者向けの集会で再び「今回の震災は天からの警告」と発言。(ソースはここ)
どうしても石原氏は「日本がおかしくなったことに対する、天からのメッセージ」であるということにしたいらしい。
それがいかに思い上がった発言であるかという理由を以下で順を追って説明する。
1.そもそも天と人とはどういう関係にあるか。
そもそも天は人に対して天命を下して政治を行わせ、もし天命を受けた者が正しい政治を行わなかったら天変地異を起こして『正しい政治が行われていない。対策をしないと天命を去らせるぞ』と警告する。
2.では天命を受けた者は誰か
古い言葉に「天に二日なく、地に二王なし」という。天命を受けることが出来るのは中国の指導者ただ一人である。
天命は人から人に譲り渡すことが出来る。かつて堯舜の時代は、禅譲により前任者が後任を選んでいた。堯や舜の息子には徳がなかったが、舜から禅譲を受けた禹の息子である啓には天命を受け、王となる徳があった。
だが禹は「ここで息子に禅譲したら、万民の天下ではなく夏の一族の天下となる」として拒んでいたが、結局のところ万民は皆、啓を王として認めたので啓が王となり、以降王は親から子へと受け継がれるのが慣例となった。
ここで重要なことは、天命をどう受け継ぐかは人が決めることである。現在の中国では指導者をなにやら複雑なやり方で選んでいるようだが、それに皆が従っている以上、天はそれに介入できない。
従って、現在天命を受けているのは中国の胡錦濤国家主席に他ならない。他には存在しない。
天は(アブラハムの一神教の神とは異なり)言葉を発しない。その代わり最初に書いたとおり、天は災害を起こすことにより「天命を受けた者」に対して警告する。当然、そのやり方は天命を受けた者が警告だと受け取るやり方で行われる。
そして、天が天変地異を起こして警告する相手は「天命を受けた者」に対してのみである。天命を授かっていない、正当でない政権に対して天変地異で警告を発することはない。
4.石原発言の何が問題か
石原慎太郎は今回の震災について天からの警告であるとしている。つまり石原氏は日本人が天命を受けていると考えている。すなわち『中国に国家的正当性はなく、中華地域を治めることの正当性は日本にある』と考えていると言うことだ。
これは大変な思い上がりである。中国を治めることの天命は中国共産党が受けており、日本の天皇が受けているわけではない。石原慎太郎の中国への野心を感じる侵略的発言について、我々は断固として抗議する。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
人が作ったものではあるけど、人によってデザインされたものじゃない。いわば自然現象。
もちろん、世界各地に中央銀行があるようにある程度人によってコントロールの試みがなされてるけど、
それは海に防波堤を作ったり川に護岸を作ったりする程度のものに過ぎない。
だから、資本主義の失敗っていうのは「資本主義経済コントロールの失敗」であって、
別に洪水は川が失敗したわけじゃないし、津波は海が失敗したわけじゃない。資本主義は失敗しようがないよ。
資本「主義」って言い方がこういう誤解を生む元だよなぁ。
こちらこそ、ありがとう。
無神論だった人間が宗教に傾倒していく課程の生の声って、すごく興味深い。
(大概もう倒れ臥しちゃった後の、いい事尽くめマンセー!って声しか出ないから)
どこの世界に属していても「同じ程度の悪」からは逃れられないし、逃れられていると思っていてもそれは気のせいで目をつむっているだけだと思うようになった。テロ行為そのものは何を信じていようがあるだろうし多分、水で水死する人がいるから水が悪いんだと言うようなものなのかなあ、と思うようになってきた。
個人的には現在の日本が諸外国よりもそうした宗教がらみの悪業から逃れているのって
無神論者が多いからだと思っているので、
目をつぶっているだけで同じ程度の悪が存在している、という考えは面白かった。
具体的に何を持ってそう考えてるんだろう。
「一神教という思想があるから人が死ぬんだ、一神教が悪い」というのが
「水で水死する人がいるから水が悪いんだ」に変化したのって、
宗教が(扱いによっては凶器だが)必要不可欠だという認識が生まれたからだよな。
けどその場合の死というのは自らの行為で水死という結果がでただけなんだから
水死しても自業自得だよ、という事でもあるよな。
そこまでの覚悟が生まれたのはすごいと思う。
「だから同じ水でも、水死するような水には近づかない」にはならず
むしろその水に突っ込んでいこうとしてるんだもんな。
それって自殺願望…じゃないよな?
(水死することもあれば、させる事もあるんだから、自殺とは限らないけど)
悲劇をもたらす思想は追い詰められた人や自然現象が厳しい世界の人たちに根ざしている気がする。目の前のつらいことから救いを求める際には厳しい内容が含まれざるを得ないのではないかと。そういうものにすがりたい気持ちなんだ
「悲劇をもたらす思想」の構造については全く持って同感なんだけど、
そこから「そういうものにすがりたい」ってどう繋がってるのかな。
例えば、貧困や、弾圧。家族が殺される、ってのが「追い詰められた厳しい世界」で
「厳しい内容が含まれざるを得ない」ってのは、相手の思想の攻撃的な否定や報復の事だよな。
それらにすがりたいというのは…何を求めているんだろ?
仏教でも神教でもホメオパシーでもいいんだと思うよ。ただ、区切りとしてきっぱりとしたものを求めたいと思うと洗礼だとかの形がはっきりしているものがいいと思ってる
イニシエーションはいわば信者の釣りと確保だから、これは納得できる。
会員様だけ10%割引でお得ですよ!って会員証みたいなモンだからな。
確かに期待していた答えとは違ったよ。
っていうのも、厨二病を引き合いに出した割に元増田がカトリックになりたい根拠も
同じく厨二的な
「なんか知らないけど(知らないから)響きがカッコイイ/効果がある気がする」
でしかないって事だよね?
考えてない、って言われそうだけどもうちょっと絞って聞いてみる。
(そんな事どうでもいい。”カトリック”になりたいだけだから、なら無視してくれ)
一神教じゃない宗教でテロ行為があったとしても、それは”同じ程度の悪”とはならないのか?
”同じ程度の悪”であるのにもかかわらず、何故かつて嫌悪感を抱くほどの知識がある宗教を信奉する気になったのか
一神教ゆえに引き起こす「悪」の部分はどうやって無視できるようになったのか(=一神教でなければ起こす可能性もない)
そうした悲劇をもたらす思想だと分かっていても、尚信奉を始めようとするのは何故か
(一神教自体は別に信じていないからどうでもいい/悪い行為を行うのは個々の問題であって、その理由たる教義は無関係(一神教という思想から来た争いという事自体を否定))
アンチ一神教的なものは単純に十字軍やイスラム教がらみのテロリズムから来ていたと思う。じゃあ一神教じゃないところの人たちが恐ろしいことをしなかったのかというとそうでもないことに徐々に気がついた。包丁だって使い方ひとつで梨の皮をむいたり人の皮をむいたりなんだろうってことに大人になると気づかざるを得ないよね。その程度の浅い人間なんだけれどもさ。
まだ何派というところまで考えてはいないけれど、カトリック系がいいかなと思っている。
ぼんやりしすぎていて返事としては期待外れだろうで申し訳ない。
今はふとした瞬間に祈る相手がいるとそれが少しでも具体的なものだろうならどんなにか気持ちが楽になれるだろうか、それだけ。
んなこたーない。それは近代西洋基準での狭義の「アカデミズム」にすぎず、それは西洋だってニュートン以後徐々に形作られてきたものにすぎんよ。
東大の起源?昌平坂学問所からは普通に研究機関になってるけど?
日本で長い伝統のある大学がない(高野山大とか龍谷大とかは遡ろうと思えば平安時代や鎌倉時代まで遡れるし、仏教研究に関して言えば非常に高水準だが)のは、単に支配階級や支配イデオロギーがくるくる変わっていたからに過ぎない。不動の一神教があったヨーロッパ(やアラブ)と違うのはそこ。藤原氏の大学や金沢文庫や足利学校が長続きしなかったのは権力闘争の結果だし、それであってさえ延暦寺は信長・秀吉・家康が世俗化を推し進めるまでは学問の一大拠点だったし、そして家康の湯島聖堂→昌平坂学問所の流れは蕃書調書などを経て東大まで繋がっている。
まぁ、結構根が深いだけでなく、ややこしい問題ではあるんだよね。
それこそ原始母権社会から、セム的一神教圏で流行った父権社会への流れ、その後に発達した個人主義社会への流れ、みたいなのも全部ひっくるめて議論すべき事だろうし。
現在において、急にオタク系若者のネットワークの間で、個人主義社会以前の発想である、処女信仰(と言うより、非処女叩き)が復活し、しかもそれがどうも従来のものと、一部似ていながら、一部異なる、ってのは、考察対象としては、面白いものだと思う。
コレに関しては、もうちょっと詰めて考えてから、エントリーし直したいところだけど。
確かなのは、彼らは何かを猛烈に恐れていて、そのために処女性に価値を置かない現代の標準的価値観を、必死に攻撃せざるを得なくなっていると言うこと。
仮にそれが幻想の「お母さん」崇拝と、それを生み出す「男根」崇拝だったとしても、何故それが今になって、非モテのオタクの間で急に流行したのか。
最初に一神教の神を発明したのは、BC1300年頃のモーゼたん、もしくはその何代か前あたりのユダヤ民族の司祭の誰かさん。
キリスト教もイスラム教も信じてる神様はユダヤ教と一緒。キリストを神の預言者として認めた人たちが立てたのがキリスト教。キリストに加えてムハマンドも認めてるのがイスラム教。実は「唯一神」というのは史上ただ一度しか発明されてない、かなり変わった発想。
有名な神はイエスキリストが作り出した、全ての責任を転嫁させる抽象概念のこと。
科学などが発展していない時代に、この世の因果関係や現象を説明するのに全て神様が○○したと話したことから生まれたのだと思う。
あるいは、盗んではいけないといった共同生活するうえでの規律などを守らせるための、共通認識としての役割のために生まれた文化的な装置なのだと思う。それゆえに、神は絶対ですべてのルールでありうる。だから、神に祈れば絶対の神が助けてくれるし、悲しみも癒してくれる。一神教では、多かれ少なかれこういった類。
日本の神道や原始宗教だと多神教だけど、基本は一緒。太陽が街を照らすのは太陽の神様のおかげ。
雨が降るのは雨の神様というような・・・。とまぁ、それっぽいことを書いてみた。