はてなキーワード: 母権とは
まぁ、結構根が深いだけでなく、ややこしい問題ではあるんだよね。
それこそ原始母権社会から、セム的一神教圏で流行った父権社会への流れ、その後に発達した個人主義社会への流れ、みたいなのも全部ひっくるめて議論すべき事だろうし。
現在において、急にオタク系若者のネットワークの間で、個人主義社会以前の発想である、処女信仰(と言うより、非処女叩き)が復活し、しかもそれがどうも従来のものと、一部似ていながら、一部異なる、ってのは、考察対象としては、面白いものだと思う。
コレに関しては、もうちょっと詰めて考えてから、エントリーし直したいところだけど。
確かなのは、彼らは何かを猛烈に恐れていて、そのために処女性に価値を置かない現代の標準的価値観を、必死に攻撃せざるを得なくなっていると言うこと。
仮にそれが幻想の「お母さん」崇拝と、それを生み出す「男根」崇拝だったとしても、何故それが今になって、非モテのオタクの間で急に流行したのか。
逆説的だが。
そもそも父権社会が生まれる前の、母権社会における処女というのは、今みたいな清らで優しいなイメージとはほど遠いものだったようだ。
処女神は地母神の対義的存在であり、まぁ端的に言えば、流血と死を好む、闘争的でヒステリックな存在だ。
例えば偶然迷い込んで自分の裸を見ただけの男を、残酷な手口で殺す女神アルテミスだとか、
血と死にまみれた道を自分の領分として、平気で歩き進む娘だけが、処女神のよりしろとして選ばれるクマリだとか。
荒ぶる御霊のご機嫌をとって、味方に付けるというアニミズムの発想から、彼女たちは崇拝されるのだが、基本的にはとても残虐な、あらゆる男を自らの処女性を犯す穢れとして殺害しかねない存在。それが処女神だ。
これ、処女厨が忌み嫌い、思い描いているらしい「フェミニスト」の絵にぴったり嵌る。
で、彼女たちを優しく穏やかで、男達を包み込み、育む豊かな存在である「地母神」にする手段があると、昔の人々は信じた。
処女とセックスすることは、荒ぶる神である処女の怒りを買うことだから、彼女たちに対抗できる呪力が強い、呪い師や長みたいな人が、村の処女と一度セックスして、それから他の男とセックスしてもイイコトになる、みたいな風習もそこかしこにあったらしい。
要は、もう男を受け入れて、優しくしてくれる地母神になったので、セックスしても祟り殺されないよ、ということだ。
これが男根崇拝にも繋がるのだろう。すなわち男根には、女神達をコントロールできる呪力があるという信仰だ。
ところが現実の女はそうはいかない。
女にとっては最初のセックスなど、他のセックスと同等以上の価値はない。別に特別でも何でもないという。
男根には、女をコントロールできる呪術など何も備わっておらず、ただの生殖器にすぎないのが現実だ。
セックスしてもセックスしても、地母神にはならず、処女性を失わない現実の女が、多分処女厨は恐ろしいのだ。
なぜなら、セックスに女を母に変える呪力がないことを、すなわち「自分だけを愛してくれるお母さん」を新たに獲得する術などないという事実をつきつけてくるからだ。
さらに不公平感も誘発する。
女の子宮は生命をコントロールする力を持ち、男の男根はその女をコントロールする力がある、という幻想が、「男も女も生命の営み、流れに影響する呪力がある」という幻想の源だった。
だが、実際に男根に呪力がない現実がつきつけられているにもかかわらず、「女の子宮は生命をコントロールする権限」だという幻想は、未だ効力を失っていない。
人工精子は作れても人工卵子は未だ作れないし、人工子宮は未だ夢のまた夢だ。
昨今は病院で出産するため、嬰児殺しは簡単に出来ないし、そもそもそうしたいのなら堕胎するのが普通だが、その気になれば女は一人で産んで、その子供を捨てることも、完全に不可能ではない。すなわち、確実に出産に立ち会えるという保証から、生まれてくるべき生命とそうでない生命を決める原初からの権限を、未だ女達は失ってはいない。
(母権社会であった日本では、生まれてくる赤子を育てるか否かの決定は、出産の儀式のうちに組み込まれており、当然その判断は母親や義母などの、出産の儀式に参加する女達で決められた)
少なくとも処女厨たちはそう思っているのではないだろうか。