はてなキーワード: 青春時代とは
私の場合、自分や友達と似たようなタイプの子がいて、自分の青春時代と重ね合わせて
「あーあるあるw」とか「こういう子って案外こうゆうことで悩んでるもんだよね」とか、「実はあの子もこんな心境だったのかな?」とか、そんなこと考えながら見てたらハマった。
個人的には、一期はテンプレ的なキャラクターの描き方が多くてあまりハマれなくて惰性で見てた面もあったのだけど
二期になってテンプレ的な表現が薄れて、キャラクターの深みや成長が見えるようになってどんどんハマっていったよ。
けいおん部の子たちがみんな、たまに迷惑な事もあるけど基本的にはいい子として描いてあるところに愛情を感じて良かったな。
若い頃の自分達が、あの頃よりもずっと賢くて勇気があって周りの人間を見てて行動力があって、全て最適の選択肢を選べてた場合のIFの世界の青春って感じ。
懐かしさと憧れと反省が同時におそってくる。
私の高校時代にも深澤真紀をもっと老けさせてエノキにしたような顔なのに超ぶりっ子な女の子がいて、失礼ながら「あんな勘違いな女にはなりたくない」っていつも思ってた
久しぶりに同窓会で会ったら相変わらずブッサイクなんだけど、ちゃんとした旦那さん(服のセンスが悪いけどまあまあかっこいい)と結婚して、すごく幸せそうだった
結局自分を好きになってポジティブになればなるほど人生勝ちなんだなーと思ったよ。
私ももっとバカポジティブな青春時代を送ればよかったなんて今更後悔したね
自分と他人を否定する女よりブスでもポジティブで愛想がいい女の方が一緒にいて楽しいもんだよ。きっとそのブツブツな彼女もはてなに書き込みなんかしてる私たちより全然幸せに生きてるかもねw
地方公立高校出身
いま公立高校英語教師
もっと勉強しておけばよかったな
たいして充実した青春時代でもなかったし
いま高校生と接していて
彼らの未来がうらやましくもあり、同情もする
自分の力に相応ではあった
でも人に言うのは恥ずかしくもある
でもいまの日本の状況をみていると
お金を出せば容易に入れる
しかし若者の雇用情勢は厳しく、自分の夢を実現できるのは少数止まり
それは自分が若かった頃も同じだが、さらにハードな現実が待っているように思う
就職してもいつリストラされるかわからず一方で管理は厳しくなり窮屈だ
そんな社会情勢の中、大学のネームバリューはどこまで相対化されたのだろう
まあ身分相応の就職をし生活をしている
コレでよかったんだと思うときと
コレでよかったのだろうかと後悔するときと
その間を行き来し続けている
その応援をするために自分がいる
もちろん保護者の願いをかなえることにもつながる
また法科大学院をはじめとする専門職大学院の低迷ぶりが表すように
「約束された」エリートコースの存在を単純には信じられなくなってきた
最近高校教師の世界も大学院出身者が競争してようやく入り込める状況で
現実の教育現場を目の当たりにして夢や期待を打ち砕かれる人も多い
そんな彼らの死んだ魚のような目を見ながら
いまの時代に「いい大学」にいくことの意味はなんだろうと思わずにいられない
お金をかけ期待をかける価値がいまの大学ブランドにはたしてあるのか
でも私のようなコンプを抱き続けて生きていくのもどうかとも思う
当然、夢のなかの彼女はあの時のままだ。
僕は、彼女を好きになった覚えはない。好きな人は、別にいた。結果付き合わなかったけど。
最近の学生はお盛んらしいが、僕の通う中学は大して恋愛なんてなかった。付き合うと、すぐバレるからだ。ムラ、ではないが、一地方都市の恋愛事情なんてそんなもんだ。
箸が転んでもおかしいと言うように、そんな恋愛なんぞしなくとも、みな和気藹々としていて、しかし恥ずかしいモノは恥ずかしいとして、楽しかった。
思うに、人間が恋愛するにしても、生涯の伴侶()を求めるにしても、結局はこういう青春時代の延長線上にあるのではないか。言ってしまえば、憧憬。
話がそれた。
そう、夢のなかに彼女が出てきたんだ。後輩の。
僕と彼女は吹奏楽部の同じ楽器、同じパートを担当する関係だった。椅子も隣だ。
顧問が合奏中に話を脱線する度に向きあってニヤ付く程度には、すぐに打ち明けていたし、その程度のユルさを持った部活だった。当然コンクールでは大した成績が出るわけでもなく(といっても僕が最終学年のときは創部以来二番目にいい成績を収めたので、個人的にはハッピーエンドだ。終わってから、みんな笑顔だった。笑い泣き。)一般的な吹奏楽のイメージ―――文化系のなかの体育会系で、毎日夜遅くまで楽器を吹き鳴らして近所からクレームがくる―――なんていうところとは、違っていた。強かったのは、合唱部の方だ。こちらは、全国常連。気合の入り方が違う。文化祭の合唱コンクールでは、ひとりふたり増えたところで大した違いが出るわけでもないのに、合唱部の人数の多さが勝敗を決める、なんて技術教諭の担任が喧伝したものだ(もちろんそんなので勝敗は決まらなかったわけだ)
また話がそれた。
そう、彼女とはそういう間柄だ。
そういう間柄でしかなく、高校は親が転勤族で、僕が引っ越した都合もあって、それ以来連絡をとっていない。もう、彼女が名前を思い出すことはないだろう。事実、僕も、今朝その夢を見て目が覚めた後、名前が思い出せず、お別れ会でもらった色紙の名前を見て、彼女をはっきりと思い出した。彼女には、先輩からのメッセージをと、後輩に一通ずつ渡した手紙がある。彼女はそれを大事にとってあるだろうか?憶測の域をでないが、彼女なら、とっていてくれるはずだ。ちなみに、僕が中学生の頃は携帯電話というイロモノは高価過ぎてまだ学生が持つには早かった時期だ。とはいえ、じゃあポケベルかというと、それは遅すぎる。過渡期だった。ゆえに、中学時代の同窓とは今もほとんど連絡手段がない。連絡網はまだ家にあるが、繋がる期待よりも、「オメー誰だよ」というような至極もっともな反応が帰って来るだろう期待のほうが高い。すべきではない。ラグビー部の男の子が何年ぶりに電話をかけてお付き合いが始まるなどというのは、幻想でしかないのだ。生存バイアスである。
せいぜい庶民に許された道は、母校の技術教諭と体育教諭が結婚してヒューヒュー言われる程度が関の山。あれから10年経つが、今も結婚生活は順風満帆なのだろうか。新婚さんいらっしゃいに出るからとか言ってたが、ついぞ見なかった。うそつきめ。
またも話がそれた。これは宿痾なので、許して欲しい。
そう、彼女とは連絡が取れないのだ。取りようもない。
しかし、そんな彼女と10年ぶりに再開した。夢の中で。意味が分からない。もとより意味などないのかもしれないが。
ちなみにこれだけの情報をありありと書いているとバレるかもしれないけど、バレても構わない。僕としては、彼女の名前が後輩といえど、10年経っていたにしても忘れていたということに軽くショックを受けており、彼女とのあれこれを書きだしておきたかったのだ。
夢の中身は、あまりに意味不明すぎて、書きだす気にもなれない。若干甘美なときもあった。しかしその甘美なとき、周囲は津波に飲み込まれたビルの屋上に位置するマクドナルドの禁煙席であり、周囲には避難してきた人でごった返しているのだから、わけがわからない。夢の中なれど、友人が何人も飲み込まれた。というか知り合いで助かったのは彼女だけだ。まったくもってわけがわからない。これを見せる僕の脳みそは何を欲しているのだろう。目覚めたとき、僕のペニスは固くなっていた。しかし、悦楽に浸るような気分にもなれず、固くなったまま引き出しを漁って彼女の記憶を取り戻し、今こうして文を書いている。もう萎れた。
ちなみに、この情報で僕が誰かというのを特定するには難しすぎると思いますが、もし誰かわかった場合、生存報告の一種として受け止めてくれれば幸いです。
3.11、僕は生き延びました。みなさんはどうですか。同窓会に誘われる手段も残していませんが、みなさんが生きているなら、十分な果報です。
届かないってのは、本当にむなしい。
青春コンプレックスに固執してる友人がいて、辛いと何度も漏らしてくるのをじっと聞いてた。
昨日「どうして俺はこんなに不幸なんだろう?幸せになりたい」と言ってきたので、つい自分の考えを言ってしまった。
・気持ちはわかるけど、過去は変えようがない。
・青春時代に良い思い出がないのは残念だけど、過去に後悔を残してない人間なんていないんじゃないか。
・どうしようもないことにこだわって、辛い辛いって言って憂鬱になるより、今、楽しいことをしないか?
・日曜日に、地域の小さなサッカーチームの練習があるんだ。良かったら見学にでも来ないか?
っていうようなことを投げかけてみた。
返答は「ポジティブな人間はいいよね。正論だけど、そういうことは俺はできない環境にある。この感情が慰められるわけないだろう」とだけ。
何も言えなくなった。
数年前、恋人と別れた。
破局の理由は、恋人の持つ不幸を受け入れられなかったことだろうか。
とどのつまり、人生を幸せに送りたいという増田のささやかで、かつ残酷な思いが、
重い過去に引きずられた恋人を余計に苦しめたという事実だけを残したように思う。
自分の気持ちの整理と懺悔のため、自分語りのチラ裏を始めます。
親御さんは優越感に浸る手段として、息子ーーつまり彼を周囲に自慢することを選んだ。
学業成績や習い事の発表会で不備があれば、「一家の恥さらし」には
待っているはずの夕飯がなかったり、体罰が待っていたりした。
彼はそんな親元を離れるため東京の大学へ進学し、卒業後は都内に勤めた。
増田との出会いは大学時代だったが、付き合うに至ったのは卒業後。
端正な顔立ちと明るい性格は、記憶の中の彼と全くと変わりがなかった。
青春時代に秘めていた淡い気持ちをもう一度胸に、昔話やデートを重ねるうち、
付き合い始めて一年、順調な交際の中で結婚生活を妄想し始めた幸せな増田のいる一方、
彼は体調を崩し、会社を辞めた。
長い人生なんだから、しばらく心身を休めてまた働けばいい、と増田は気楽に考えていた。
ところが、日に日に体力が落ち、調子の悪い日にはベッドから起きることすら叶わなくなっていった。
彼が不安で眠れない夜には、終わりの見えない電話に付き合った。
話題が目まぐるしく変わる受話器の隣で、窓に白み始めた空を映すころ、会話はいつも途絶えた。
毎晩の電話の中で、大学時代から精神に疾病があったこと、それが親の虐待に起因していることを聞いた。
直に治るだろうから支えよう、というお気楽な増田の考えはしばらく変わらなかった。
彼の趣味そのものが仕事となったため、内定獲得に彼は文字どおり跳ねて喜んでいた。
宿直あり•変則シフト制の新しい仕事は、増田には、彼の体力的な面、
土日休みの増田とのスケジュール面で不安があり、素直に喜べなかった。
夜勤が入り始めしばらくすると、連絡は途絶えがちになった。
毎日あった連絡は、二日に一回、一週間、一ヶ月に一回となった。
夜勤での体力的な消耗と、持ち前の生真面目さで仕事に苦しんでいるんだろうと思った。
初夏の暑いある日、お馬鹿な増田は夏風邪を引く。一人暮らしで初めての40度近い発熱。
たまたま彼の休日だったから気分転換にメールを打つも、案の定、返事はなかった。
翌日、見舞いにきた同僚に感謝する一方で、突然虚しさを覚える増田がいた。
連絡が取れず心が離れつつあるところに、赤の他人からの優しさを覚えた増田からは
彼に対する情が消えていったのだ。
同時に、少し苦痛でもあった彼との電話が取れないことに不満を抱いたことに、
やはり会うこともままならなかったため、別れ話はメールで終わった。
別れたい旨を告げると、数日後、あっさり了承の知らせが返ってきた。
彼を見捨ててしまった感がある増田には、別れてからしばらく経ったいまもトゲが残っている。
彼との交際において、どのような選択をすれば後悔せずにすんだのだろうか、
仕事で大変な時期にストレスを与えてしまい、仕事に支障はなかったのか、
自分と付き合っている間、彼はつかの間の幸せを感じられたのだろうか、
恋が冷める前に、彼のいる東京で職を見つければよかったのだろうか、
増田が見捨ててしまった彼には、これから幸せな人生が待っているんだろうか。
心の片隅にある答えの出ない問いと罪悪感がいつ消えるとも知らず、
自分の性癖が特殊で理解されないことに一定の優越を覚えるのは青春時代の普遍的な志向の一つだが、24になっても未だ同志を得ない自分の性癖は恐らく変わっているのだと思う。私はスカンクが好きだ。臭い液をぶっかけられて悶え苦しみ、吐き散らして尚臭味の取れない強烈な奴を想像し、一人でマスを掻くのが好きだ。
おならフェチだのスカトロだのには息子がなかなか反応しない。屁だ、臭いものだと思い込めばやってやれなくもないが、どうもしっくりこない。スカンク娘というジャンルには若干反応するものもあれど、それもやはりスカンクの模倣として捉えて初めて自分の裡に興奮を引き起こす。気づいたのは小学生の頃だったが、未だ人に打ち明けられずにいる。到底理解され得ぬ性癖であることは承知で、周りのギラギラした男達のAV談義に水をさす気にもなれなかったから。
想像であることが大きな価値を生んでいる。別段、アメリカに渡って本物のスカンクの悪臭を味わいたい訳ではない。体験してみればか細い妄想が瓦解しかねないし、もしかしたら妄想に色を添える事象になるかもしれないけれど、思考の対岸の、触れ得ぬ聖域から臭ってきてほしいと思うのだ。妄撮も、本番なしの風俗も、パンチラも、いずれも巧妙に向こう岸を見遣って悦に至るものだろう。そのくらいは分かる。本物との邂逅など野暮なものだ。
人並みの恋愛をしてみても、当然至る性行為に当たってみても、スカンクの幻影が消えない。正面切って女性と、あるいは男性と向かい合ってみれば忽ちコンプレックスも氷解し、真っ当な人間になれるものだと信じたこともあった。しかし現実は、後背位で動く女や男の尻の穴からスカンクの臭腺を想起し、そこから殆ど擬似的に放たれるメチルメルカプタンに悶絶する自分を以て性的興奮を起こらしめるばかりで、事が終わって彼女や彼の頭を撫でていても恐らく人と自分の思うことは違うのだという乾いた絶望感に襲われるほかなかった。
最近暇が出来たので、図書館を巡ってスカンクに関する文献を蒐集するようになった。コピーを取り、スキャンをし、ネットでは得られないスカンクの臭液に関する情報を集め、タグ付けをし、一日の終わりにそれらを眺めてマスを掻くようになった。少年時代に何度もお世話になった動物のひみつ新訂版の擬人化されたスカンクや、シートン動物記のスカンクの社交術に記載されたメリアム氏の少年時代の経験(臭液をまともに顔にかけられた話)やコンウェー氏の元に来た少年が臭液を嗅いで失神した話や、学研の知育ずかんのなぜなぜどうぶつととり(つづき)にある、「スカンクのおならはほんとうにくさいの」というページにあった親向けの解説など、忘れもしない文字列とイラストが起こす興奮は得も言われぬものだった。
17の頃から、臭いということそのものへの興奮を見出すことで、一般的な性指向に自信を帰依させたいと願うように成り、その試みは半分成功し、人にはにおいフェチなのだと言い張ることが出来、それは自尊心を保つのにたいそう役立った。しかし現実はそのまま放っておいてはくれず、においフェチとしての自分が確たるものとして存在するに従って、呼応するようにスカンクの臭液への憧れはいっそう激しさを増していった。
ネットで自由に情報を収集出来るようになったことは、自分の性癖を満たす有用な道具を自身に与えると同時に、自分の肩身狭さを客観的な指標として与える恐怖そのものでもあった。例えば英語にある程度堪能になったことでJustin CourterのSKUNKに出会えたし、勿論YouTubeは海外のテレビ番組からスカンクの動く姿を、臭液の噴射する様を、噴射された人間が悶え苦しむ姿も現実の物として与えてくれた。ここに至っても自分の求めるものは仮想的なスカンクの臭液であり、現実の臭いという具体的な形を伴った物として自身が体感したいとは思えず、ある日はそれを矛盾として捉え自身を苛み、またある日はそれを合理として捉え自身を確固足らしめた。
そんな中、どうやら匂いを体感出来るスピーカーやプリンターのような機器がその内出るかもしれないという情報を目にし、ひどく困惑することとなった。紛れもなく現実の臭いでありながら、メディアを通して体感する擬似的な臭いに対し、自身の立つべきポジションが、自身を納得させる論法が分からなくなったのだ。体験してみて判断すればいい、行動してみて思考すればいいという言葉は的を射ていない。ひどく感覚的な、あるいは妄想的な、仮想の情熱にその端を発する私の性癖は、いつの間にか、体験したときに終わり、触れてしまえば崩れ落ち、嗅いでみれば全滅的な嘔吐感を催す、ある種自身の終焉として認識されるようになっていたから、そのような装置があってはならない、あっても普及してはならない、嗅いでやるものかと、先の見えぬ義務感を私の中に植え付けた。
スカンクは臭い。おならと呼ばれる物はガスではなく液体。臭いの主成分たるメチルメルカプタンは都市ガスの匂いづけに用いられる物質。臭腺から噴射される液体はたんぱく質と結合しやすく、目に入ると一時的な失明を引き起こし、その臭いは風向きによっては1km四方前後に届く。マダラスカンクは逆立ちをし、そのディスプレイが成功しなければ両足を下ろし、臭液を敵の顔目掛け、機関銃の掃射のように左右へ少しブレさせながら噴射する。
これらのいずれもが、私の息子をいきり立たせ、射精に至らせ、日常生活と人格形成に支障をきたす。自分に子どもが出来ても、あらゆる方法を以てこの性癖が受け継がれることを防ぎたい。自身のように、そういった話を完全にシャットアウトされ、無菌室のような環境で育てられるようにするでもなく、潤沢にそういった図書を部屋に据えるでもなく、極めて自然に。自分の子どもには普通であってほしいと願う親の気持ちを、こうした角度からも汲み取れるのだなとふと思い至った。
http://anond.hatelabo.jp/20110423132447
私も小4から小5までそんな感じだったけど
闇討ちっていっても校庭で後ろから石を投げ、倒れたところに水筒で殴りかかっただけだけど。
当時はみんな肩からさげる硬い水筒持ってた。あれ今から考えるとすごい武器だよね。
その時は私の考えが解決策として正しいと思ってた。でも今だに後味悪いんだよな。
母親とも、なんでこんなことしたの!なんで私に相談しなかったの!とスッタモンダのケンカを繰り返した挙句
私だってやりたくてやったわけじゃない!私の苦しみに全く気づかなかったくせに親面するな!とかいってしまい
関係修復に長い時間を費やし、貴重な青春時代を大いに損なったと思う。
私もこういうふうにできてれば違ってたのかな。
一番悔しいのは、なんでこんなクズのために私の人生駄目になったんだと
今でもそいつのことを許せずにグジグジと悩んでること。
そこで自分ががんばらなきゃいけないんだけど、ついいじめっ子のせいにしたり親のせいにしたりしてしまう。
多分あなたみたいに全部降りきって次を見ることができたらもっとマシに生きれたんだろうけれど。
今の生活はあまり良いとは言えない。
そんな時に、つい私は悪くないってあいつらが悪いんだって自分を慰めてしまう。
それじゃいけないと思ってるのにどうしても憎しみや怒りで余計な体力を使ってしまう。
特にチームKが好きだ。
去年だから、チームの発足からはかなり時間が経っている。AKBといえば劇場だぐらいの知識はあったので、とりあえずYoutubeやニコニコあたりでライブ映像を見まくった。CDやDVDを買うにしても、曲が多すぎてどれから手を付けていいかさっぱり分からなかったからだ。
で、「生歌」とタグがついている動画を見て、ああやっぱこれだけ踊ってたら生歌じゃないよな、と思って、生歌を聴いてみたいと思うようになった。
普段はあるバンド(全員男)を聴いていてライブに行くのが楽しみ、ライブのアレンジが楽しみでしょうがない、という感じなので、録音音源=その場のアレンジがなくて残念だと思ったのだ。ライブならやっぱ、一言のかけ声みたいなやつでもいいからその場で出してる声を聴きたいから。
Youtubeで生歌で探した結果、右におすすめとか関連動画って出るじゃん?あれにモーニング娘。が出てきたのだ。今現在のモーニング娘。
すごい!と思った。特に高橋愛と田中れいな。ファンが作った動画だったしコメントもファンが書いてたから、それ読んでテンション上がって余計すげえな!と思った。
AKBは生歌あんまりない、ということを知って残念だった。ものすごくものすごく残念だった。
俺はライブ=そこで歌ってる、だから、ダンスしてる姿も見たいけど、やっぱり自分がいる場所で同じ瞬間に、その場で出してる声が聴きたいから。
酷なことを求めてるなとは思う。
スケジュールは詰めまくりで、あれだけ人数がいて、あれだけ踊りまくって、なおかつうまく歌えというのは、惨いと言ってもいいと思う。なんか、ごめんなと思う。
AKBとモー娘。の動画をランダムに見ながら、色んな思いがわき上がってきた。アイドルに触れるのはほぼ初めてなので、ちょっと距離を置いた視点だったかもしれないけど、まだ十代〜二十代半ばぐらいまでのこの子達の将来が幸せであってほしい、というようなものに総括される思いだった。
AKBにはある種の痛ましさがある。今しかないのだ、今だけなのだというような、女性アイドルなら仕方のない刹那感。そして背後の操作が非常にうまい。楽屋裏も込みで売っている、そしてそれを皆暗黙の了解で呑んで今を追いかけている。
モー娘。にはそれがあまり感じられない。戦略上それを見せないということかもしれないが、タフでストレートなパフォーマンスだ。その場で見せられるもののみで勝負しているように見える。
また、モー娘。にはやはり「世間一般の目線は全盛期は過去であった」がつきまとう。あまりそこに悲しみがないのが不思議だが、世間の目やメディアの目はそうだろう。斜陽ながらも戦う王者だ。いや本当に、シングル曲のタイトルとかはマジでかわいそうになるぐらい酷いけど、ライブの彼女らは本当にかっこいい。乱れることもちょっと外すこともある、生の声の力はすごい。
AKBは今もまだ「これから」だ。後発が先発よりも優れているのは常に大前提(だと個人的には思っている)なので、もっと伸してくるだろう。まだ彼女らは挑戦者だ。展開も先発の成功/失敗に学んでがんがん行ける。バラエティや冠番組で見る彼女らは、側面をもっと見たい知りたいと好奇心をかきたてるし。
AKB vs モー娘。のバトルを見られたらすごくいいんだけどなと思っている。
楽曲面だけを見ればAKBがかなり勝っていると思うので、モー娘。のプロデュースをもっと頑張ってほしい、その上でアイドルの二強状態をものすごく見たい。
モー娘。というかハロプロ全体をざっと見ていて思ったが、本当に、本当に、残念なのである。つんくもうちょい考えろ。なぜだ、なぜお前は同じ男なのに分からない?
直接的すぎるんだ、モー娘。の歌は。いくらメロディーラインが美しくてもタイトルや歌詞で萎える。ど真ん中っていうのとそのままっていうのは違うんだよ…そしてなぜかやや古い。古典や青春の輝きぐらいまで古くなくて、絶妙に「思い出すと恥ずかしい」レベルの古さをなぜかずっと保っている。いくつなんだよお前は。
秋元康はそのあたりめちゃくちゃにうまい。ストレートなテーマを、その単語を使わずに思わせる、そういうのが本当にうまい。青春時代を鬱屈して過ごしました、かわいい女の子に憧れてしょうがなかったけどそれだけでした、そういう思いをワンクッション置いてぶち当てましたみたいな、まあ共感するのだ。有り体に言うと。
それが意図的なものだったとしても、気持ちよく乗っかってしまえるなら関係ないし。曲に乗らないでも詩として成り立っているというか。
俺は勝ち負けを笑いたいんじゃない。弱肉強食の世界だって言うのは分かるけど、ファン同士でワナに引っ掛けてライバルのアイドルを落とすようなのは嫌だ。
いい曲が聴きたい。アイドルにしか歌えないいい曲っていうのは確実にあるから、アイドルが歌うその姿に見惚れたい。歌に入れ込みたい。プロデューサーにはこっちの心をくすぐってほしいし、その歌にどっぷりハマらせてほしい。仕事の疲れいやしたい。
いつまで彼女達のことを、このアイドルグループの中で見られるのかなと思うと、涙が出そうになることがある。女性アイドルは後から後から幼い後釜が出てきて、活躍できる期間は大体短くて、そのことを思うと悲しくて仕方がない。
東京大学ご入学、おめでとう。
これからは残された青春時代を謳歌しながら、自分のやりたい勉強にむかって突き進んでいくことができます。勉強したいことがない人も、友達と酒を飲めばそのうち見つかるので気にせずにキャンパスライフをエンジョイしよう。
それぞれの興味関心が違うので、絶対に受けるべき授業ってのはホントはないと思う。
どういう授業に感動するか、好奇心をくすぐられるかはひとによってまちまちだろうから。
それでも、大学人になるにあたって、大学の空気に慣れることも必要なように感じる。
その点で僕は、総合科目Aの「科学史」、小松美彦教官の講義をおすすめする。
東大の先生ではないのだけれど、毎年夏学期に行われているから、彼の定年まで続くのだと思われる。この授業にぜひ潜ってほしい理由は、次の3点である。
まず、この授業は「科学史」ではない。まごうことなき「生命倫理」の講義である。
彼の専門領域である「臓器移植」の問題をてがかりに、「死」についての見識を深めていく。
『高校教師』という昔のテレビドラマを見せられ、最後に愛の逃避行をしたふたりは「死んで」いるのかどうかを問う。
「帝銀事件」という日本を騒がせた事件を取り上げ、人体実験のありかたを問う。
最後の授業では『あしたのジョー』がどういうマンガかを語り、1時間以上延長する。
それらはすべて「生命」というタームで結びついているのだが、高校まで単調な座学を受けてきた人間には意味不明に感じると思う。
そしてこれらは、基本的に教官の意図を強要される。教官の意図と異なることを言えば、なぜかキレられる。寝てたらチョークを投げられる。なんとも理不尽な授業である。
しかしそうした教官の高圧的な態度に、反逆できる機会が与えられている。
教官ははじめにこう言うのである。「テストは『授業受けた人用』と『授業受けなかった人用』の2種類を用意する」と。
つまり授業に一切出なくても、初回とテストさえ行けば、単位は取得できるのである。ここに、大学という組織がどういうものなのかが凝縮されているように感じる。授業はすべて、「教官のターン」なのである。「教官のターン」を不快に思うなら、授業に出なくてよいとあらかじめ公言しているのである。
その代わり、「受講者のターン」である「期末テスト」には出席を求められる。「受講者」は、授業や教官の著書に対して、反論を記すことが認められる。見事教官をうならせたら「優」、とりあえず書いたら「可」である。明瞭である。
テストは、教官と受講者の勝負なのだ。教官が下す「優」は、「お前の解答には納得させられた」という白旗とほぼ同義なのである。
授業に出なくてもよいという教官のスタンスは、彼が全共闘世代であることにも関わっているように感じる。いまや大学教官の下す「優」「良」「可」「不可」に振り回される学生が、支配に対し反逆した時期が45年ほど前にあったのである。彼の授業は、その時代を追体験させてくれるようでもある。
大学に反逆したものの多くは、今や予備校に流れている者が多い。小松教官が、東京大学出身であるのに東京海洋大学教授であるという肩書にも、何かあるのではないかと勘繰ってしまう。
大学というところは、授業だけ考えたらぬるいものである。だから「意識の高い学生」は、やれ学生団体だの、サークルだのバイトだのに力を入れ、大学という組織の無力さを呪う。
しかしそうではない。大学の授業(講義)ひとつ取ってみても、議論を活性化させるタネが転がっているのだ。ゼミのアットホーム(優しい・厳しいを備えた)な雰囲気も大学の醍醐味であるが、マス授業の緊張感も味わってもらえればと思う。
東京大学ご入学、おめでとう。
これからは残された青春時代を謳歌しながら、自分のやりたい勉強にむかって突き進んでいくことができます。勉強したいことがない人も、友達と酒を飲めばそのうち見つかるので気にせずにキャンパスライフをエンジョイしよう。
それぞれの興味関心が違うので、絶対に受けるべき授業ってのはホントはないと思う。
どういう授業に感動するか、好奇心をくすぐられるかはひとによってまちまちだろうから。
それでも、大学人になるにあたって、大学の空気に慣れなけれないけないように感じる。
その点で僕は、総合科目Aの「科学史」、小松美彦教官の講義をおすすめする。
東大の先生ではないのだけれど、毎年夏学期に行われているから、彼の定年まで続くのだと思われる。この授業にぜひ潜ってほしい理由は、次の3点である。
まず、この授業は「科学史」ではない。まごうことなき「生命倫理」の講義である。
彼の専門領域である「臓器移植」の問題をてがかりに、「死」についての見識を深めていく。
『高校教師』という昔のテレビドラマを見せられ、最後に愛の逃避行をしたふたりは「死んで」いるのかどうかを問う。
「帝銀事件」という日本を騒がせた事件を取り上げ、人体実験のありかたを問う。
最後の授業では『あしたのジョー』がどういうマンガかを語り、1時間以上延長する。
それらはすべて「生命」というタームで結びついているのだが、高校まで単調な座学を受けてきた人間には意味不明に感じると思う。
そしてこれらは、基本的に教官の意図を強要される。教官の意図と異なることを言えば、なぜかキレられる。寝てたらチョークを投げられる。なんとも理不尽な授業である。
しかしそうした教官の高圧的な態度に、反逆できる機会が与えられている。
教官ははじめにこう言うのである。「テストは『授業受けた人用』と『授業受けなった人用』の2種類を用意する」と。
つまり授業に一切出なくても、初回とテストさえ行けば、単位は取得できるのである。ここに、大学という組織がどういうものなのかが凝縮されているように感じる。授業はすべて、「教官のターン」なのである。「教官のターン」を不快に思うなら、授業に出なくてよいとあらかじめ公言しているのである。
その代わり、「受講者のターン」である「期末テスト」には出席を求められる。「受講者」は、授業や教官の著書に対して、反論を記すことが認められる。見事教官をうならせたら「優」、とりあえず書いたら「可」である。明瞭である。
テストは、教官と受講者の勝負なのだ。教官が下す「優」は、「お前の解答には納得させられた」という白旗とほぼ同義なのである。
授業に出なくてもよいという教官のスタンスは、彼が全共闘世代であることにも関わっているように感じる。いまや大学教官の下す「優」「良」「可」「不可」に振り回される学生が、支配に対し反逆した時期が45年ほど前にあったのである。彼の授業は、その時代を追体験させてくれるようでもある。
大学に反逆したものの多くは、今や予備校に流れている者が多い。小松教官が、東京大学出身であるのに東京海洋大学教授であるという肩書にも、何かあるのではないかと勘繰ってしまう。
大学というところは、授業だけ考えたらぬるいものである。だから「意識の高い学生」は、やれ学生団体だの、サークルだのバイトだのに力を入れ、大学という組織の無力さを呪う。
しかしそうではない。大学の授業(講義)ひとつ取ってみても、議論を活性化させるタネが転がっているのだ。ゼミのアットホーム(優しい・厳しいを備えた)な雰囲気も大学の醍醐味であるが、マス授業の緊張感も味わってもらえればと思う。
…を聞いた。正確には聞かされた、だが。
ほう、具体的にはどんな風に?
タイムスリップ物とか書いてくるんだけど、これが滅茶苦茶なんだよ。
主人公が自分の両親の青春時代にタイムスリップするって設定で、舞台が昭和50年代なのに、主人公は現代から持ち込んだiPhone(っぽいスマートフォン)で電話したりツイッターを使ったりしてるんだぜ。
ははは…。
笑い事じゃない。
おまけに、その点を指摘しても投稿者は何が悪いのか理解出来てないんだぜ。聞けば○○(全国レベルの知名度がある私立)大学の文芸系サークル所属ときたもんだ。俺が学生の頃はそこは難関校だったはずなんだけどなあ。
で、その学生さんはどうした?
僕は処女厨なのか、そうではないのか。
--
(前提として、僕は既に性体験を終えている。)
童貞だった頃、『セックスは一生を添い遂げる覚悟のある人としかしないもの』という『セックス=結婚』と言っても差し支えない程の考え方をしていた。
浮気を50回以上繰り返した我が父…
中学の頃、友人宅に遊び行ったら友人カップルが俺がいるのにセックスを始めたこと…
友人の「1日で10回が限界だわ」という謎の報告…
全てが不思議だった。
自分のタイプで、気が合って、好きになって…何ら変なことでは無い、普通のことである。
青春時代に青春を送らなかった僕の行動力は、それまでの人生で最高に爆発した。
恋愛は楽しかった。いつものセーブが効かず、暴走してしまうのだ。
なんだかんだあって、僕は童貞ではなくなった。
初めての行為を終えた後、えらく自分が汚れた気がした。
女「好きってさー、どういう意味なのかな?」
何故か。
そう感じたのかも知れない。
『好きな人と添い遂げた』
というのもあったが、直感的に感じたのはこれではなかった。
貞操観念が、欲望に負けた瞬間である。
セックスという甘い欲望の味を覚えた後は、繰り返し食べたくなるものだ。
それからの僕は、気持ちよさを、体を、心を、コミュニケーションを求めるようになった。
仲良くなる為に、相手を知る為に、セックスという手段を取る。
セックスによってお互いを開放した状態は、子供の頃の無邪気な気持ちに似ていると思う。
僕はすぐに裏切られ、人間不信に陥ったものだ。
『過去なんて気にしない、受け入れるよ』
なんていう言葉も浮かんだが、僕に気持ちの無い相手に、そんなこと言えるはずがなかった。
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社会人になってからというもの、これまで幾度となく将来のことを考えてきた。
・趣味
・性生活
・結婚
・賃貸派/持家派
・同期との出世争い
いつのまにか、昔ほど『結婚するなら処女!』みたいなことは考えなくなっていた。
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処女、もしくはそれに近しい人と結婚したいと奥底では思っている。
アクセサリー感覚あるいは気持ち良さ優先で相手をとっかえひっかえする人…
好きな人が何人もいた人(見る目が無い人)…
これらの人と付き合った場合、裏切りのトラウマが甦るのは間違いない。
しかし、そこでまた懸念材料が出てくる。
・その相手が、僕みたいな男を好きになってくれるか
一生涯を掛けて尽くそうと思う相手と結婚をする…と考えた場合、自然と貞操観念が強い相手を…
つまり、経験が少なく、浮気する可能性が少ない、真面目な相手を選ぶのだと思う。
誰だってお尻の軽い人は嫌でしょう?
問題は、知る術が無いことである!(テッテレー
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僕は、自分のことを純情だと思うが、はたから見たら確実にそうは見えないと思う。
セックスという手段を行使しようと簡単に目論む…
知らない内に、僕は『ヤリチン』思考になっていたようだった。
もうやめたいです。
貴重な青春時代を何に費やしてるんだって感じ。
ずっと引きこもってつくってつくって
でも今更もどる場所なんてない。
就活の成功した務め人になりたい。
企画とかしたい。
喜んでくれるファンはいる。
なまじ少し評価されるからどっちつかずになる。
才能が中途半端にあるせいでずるずると時間を勿体無いことにする。
才能がなければよかった。
異質でなければよかった。
踏み行ってから不安に思うこともなかった。
務め人になりたい。
どうせなってもまた違うことで悩み続ける。
もう死にたい。
いや死にたくない。
でも5年後六年後はどうだろう。
きっと友人は結婚してそこそこの家庭を築いて
あなたは気楽で楽しそうなどというのだろう。
冗談じゃない。
社会性が培われ人間らしくであり続けること何とありがたい事か。
今の時間が引きこもることに費やされていくのが嫌だよう。
社会に出るとまた面倒に思うのだろうか。
面倒でも忙しい日々。
こういうことを打ち込む時間もないようなテキパキと忙しい日々。
なりたいのか?
今の方が楽では?
楽かもしれないけど胸の内は晴れない。
外に出てもこのままだろうか。
アルバイトの時の不快に思った気持ちをちゃんと書いておけば良かった。
そうだ無理はするものではない。
変わろうと思って行動した結果はいつもろくな事にはならなかった。
だったらわずかばかりの才能を生かして満足する方向に持っていくしかないんだ。
だから今頑張るしかないんだ。
低調でしかない人間がちょっとほめられてお金が備わる技能がある
そのことに感謝するんだ。
そうかな。
投げ出したらつきものが落ちて
普通の人になれやしないかな。
普通の人ってなんだ。
評価がこわい。
評価なんてどこにでもある。
人の輪の中で商品開発だとかをできるだろうか。
普通の人でいられるかな。
やってもいないのでわからない。
どっちが楽しいかも。
やると時間が過ぎる。
ここにいる。
誰か職と恋人をください。
祖父は入院してから長くて、正直"死に待ち"みたいな状態ではあった。
ついに、という連絡を受けたのはのんきに隣県の駅前の百貨店で母の買い物に付き合っているときで、
母が電話を受けているのを横で聞いて、そうか、来てしまったんだな、と思った。
すぐに新快速に飛び乗ったが、電車の中でそれ以上何を急げるでもなく、母と「わかっていたことだけど」などと話した。
席は空いていたがなぜか座る気にもなれず、二人でしばし無言になった。夕焼けが燃えるように赤くて、みょうに胸がざわついた。
覚悟していても辛いものだろうか、と考えてみたが、正直に言って自分は祖父と疎遠で、まったく悲しみは沸いてこなかった。
孫の自分でさえ会話した記憶がないほど寡黙で表情のない人で、年に一度か二度会うだけだったから、あまり興味も愛着もなかったのだ。
父に祖父と昔どんな話をしたか聞くと、「軍医として戦争にいったときの思い出話をよく嬉しそうにしていた。豪人相手に時そばをやったとか。戦争で青春時代なんてないようなものだったから、同年代の仲間と学生気分で、戦場では医者だからちやほやもされるし、楽しかったんだろう」とのことで、戦争が楽しい思い出なんて、最低の人だ、と思っていた。
そんなわけだから、病院に着いて父と母と三人で死に水はとれたが、父が涙ぐむ横で、自分は神妙ではあるものの冷静だった。
色々ことが済んで、病院を出ると、来た時には真っ赤だった空が、一瞬で星もない暗闇になっていたのを、覚えている。
基本的に何事も自分が悪いと考える癖ができてしまった。
というか、そう考えることで逆に自分を成長させようとしてる。
とりあえず自分が悪い、もしくは劣ってる→だったらそれを直せばいい、的な感じ。
このやり方が正しいのかどうか分からないんだけど成長はしてると思いたい。
同じことを中高大と10年間続けた経験がある立場から言うと、これはお勧めできない。効果がないというよりも、むしろ逆効果になってしまうからだ。
確かにそのような態度は謙虚に見える。しかし実はこれがさにあらず。これは単なる無責任なのだ。
理由を説明しよう。まず、「常に自分が悪い」と考えることは「常に他人が正しい」と考えることと同じであり、従ってあらゆる他人に判断を依存することになる。そしてその結果、自分でリスクを負って判断する責任から逃れ続けることとなり、自動的に他人におんぶにだっこという態度に無警戒に陥ってしまうのだ。これが実にまずい。当たり前のことだが、「常に他人が正しい」ということはあり得ず、「他人」を信じた結果ひどい目に遭うことだってあり得るわけだが、そうなったときに「安易に判断を他人任せにした自分の責任」という正しい反省ができなくなってしまうからだ。そればかりか、間違った判断をした他人を必要以上に逆恨みしてしまうことになる。
もはやこれは謙虚などというものではない。幼児に全面依存を許す親のような態度をあらゆる他人に要求するようなとんでもない尊大な態度ということになってしまうのだ。
具体的にはどういうものか。例としては厳しすぎるように思えるかも知れないが、オウムやアルカイダの信者がそういう態度の行き着く一番不幸な例だ。彼らの多くは実は自分に厳しく真面目な青年だった。自分を過信せず、世の中に自分をできるだけ適応させるように努めた。だが、世の中には実はかなり酷い面もあった。それを知ったとき、彼らは世の中を憎悪し、次の依存先を求めた。そして行き着いた先が、わかりやすい物語を提供してくれる「尊師」だったのだ。
そこまで行かないにしても、世の中を憎悪するばかりで何も生み出さない人間というのが世の中に結構いることははてなを見ていれば大勢いることはわかるだろう。ああなってはいけない。
俺の場合は、自分の中で恋愛をするまでに超えるべきハードルを設定してるから
それを超えない限り自分の中ではスタートラインにすら立てない。
こんなハードルすら超えられない人が誰かに愛されるわけがないと考える。
実際のところ、宅間守みたいな人間の屑中の屑でも女をとっかえひっかえしているわけで、その時点でこの考えが誤りであることは明らかだ。それに早く気付くべき。
真面目な話、「俺は宅間以下なのか」とまで自分を無意味に責め苛んだあげく、苦しみの他にはなにも得られない非モテははてなあたりを見ていれば大勢いることはわかるだろう。ああなってはいけない。
以上、貴重な青春時代を君みたいな態度を取り続けて浪費した挙句、魔法使いが目前となってしまった元はてな非モテネガティブブックマーカーが実体験をもとに、自分を反面教師として記す。俺の轍を踏まないように、
を心がけて欲しい。
大人になるということは、子供を卒業することだ。精神的に子供だというのはすべて、自分のせいであり、自己責任である。子供であるというのは、親や教師の許可がなければ自分の頭で考えられないということだ。こういう風な子供じみた態度が自分のせいだというのはなぜかというと、それはその態度が、頭が悪いからということではなくて、親や教師の許可を得ずに自分の頭で考えて動く度胸がないところから来ているからだ。だから、「自分で判断しろ」「自分の頭で考える度胸を持て」と私は言いたい。それが大人になるということだ。
出典はどっかのドイツ人だけれど、権威主義みたいになるのが嫌だから敢えて名前は伏せておくよ。もちろん、その「どっかのドイツ人」というのはどこにもいないんじゃないかとか、実はヒットラーなんじゃないかとか色々疑ってみてもいいんだよ。そうやって自分で考えることが「自分で考える」ということなんだから、信用していいかどうかも自分で考えてみてね。
心のなかではきっと彼女欲しいとかセックスしたいとかでも現実の女はクソまじビッチ死ねとか、まあある種こういった人種特有(といっていいのか分かりませんが)の鬱屈とした感情を抱えつつもいろいろ否定して生きてきた。
だからなのか、恋というものが解らなかった。本質として。
いやまあ話の中ではよく見るし切ないって感情も解ってたつもりだったけどね。体験してみると違うもんだ。
キモいけど自分かわいくてしょうがない傷つきたくないATフィールドばりの鉄壁を張り巡らしていた自分だったけど、それをぶちこわす奴がいた。
バイト先の後輩だった。
毎日メールするようになって、一日100通を超えたあたりかなあ。
毎日バイトの送り迎えするようになってからかなあ。
ふたりで雪合戦したときかなあ。
呑み行ったときかなあ。
俺がバイトやめるとき、泣いてくれたときかなあ。
俺にはちょっと分かんないけど、気づいたら好きになってたなあ。
最初はそうでもなかったけど、ほんと可愛く見えてしょうがないよね。話するのとか楽しくてしょうがないし。
いつでも会いたくなるってのもわかる。メールの返信が返ってこないと不安でしょうがない。
夜寝る前に必ず彼女のことを考えてたなあ。夢に出てこられると会うとき恥ずかしいよね。
でも、彼氏いたんだよね。まあ最初からなんだけど。知ってたけど。
彼氏いるっていう前提での友人だったけど、でもおかしいよね。
なんで彼氏いんのに毎日メール送ってくんのかな。おはようからおやすみまで。
なんで送ってけっていつも言うの。好きだといか気楽に言わないでよ。
だいたい夜中に電話って卑怯じゃない?寂しいとか、ただ声が聞きたかったとか。
そんなん、俺のこと好きなんじゃないの。気にかけてくれてるんじゃないの。
だからまあ、望みはあんのかなーって思ってた。
ばかだよね。そんなんあるはずないのに。
・・・友達はやっぱり友達だったみたい。
境界線ってどこにあんのかな。俺分かんないよ。
女友達にこの話したら、「ただ遊ばれてるだけだったんじゃない?キープ的な?」ことを言われた。
まあほんとそのとおりかもね。いや何もしてないけど。
でもその子、間違いなく自覚ないんだよなあ。まあ自覚ないからこそ厄介、って話なんだけど。
あーつらいなあ。しにたいなあ。
まあ前に比べると随分気持ちも落ち着いて楽になったんだけどね。
でもこれだけは言いたいんだけど、「恋」という感情を知れたことにはすごい感謝してる。
少し、人間に近づいた気がした。
http://anond.hatelabo.jp/20100713201921
中学生→高校生→大学生→社会人とどんどん性感が劣化していくじゃん。
勃起力も落ちるし回復力も落ちるし精液の量も減る。
童貞暦が長かった男は無言でセックスするってビッチが言ってたんだけど、
中学なんかで体験してる奴は、初体験のとき興奮の度合いも高いし性感も強いから、
セックスの最中に否応無しに声が出て、大人になってからも惰性で声出し続ける人が多いんだよな。
でも長いこと強グリップオナや床オナ続けて、性感が劣化し尽くした30歳童貞がやっと童貞捨てたところで、全く気持ちよくないし声も出ない。
感覚的大損。
だから男は早く童貞捨てることに必死になるんだと思うし、高齢で捨てた奴は「青春時代に捨てたかった」と固執する。
逆に女はセックスすればするほど性感が上がっていく。
処女は痛かったり異物感があるだけだけど、上手い男と結婚した人妻なんかは年々性感が強くなっていき、
失神寸前になったりしている。
女には「なんとしても若いうちに経験を積まないと得られるはずの性感を得られなくなる!」というあせりが無い。
逆にヘタクソと付き合ったり結婚したりすることこそ大損だから、変な男を避けイイ男を得ようと必死になる。