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はてなキーワード: シューベルトとは

2024-03-26

anond:20240326123140

雨漏りする傘に増田おでこにぴしゃぴしゃ雨の玉が落ちてくるのは鬱陶しいわって思うけど私の使っている傘の名前ショパンなのでトルルルルとかってないけれど走れショパンって題名の歌ならトルルルルって言ってもいいかもしれないしお父さんお父さんって絶叫してもいいかもしれないその歌はシューベルト魔王みたいな山脈に向かってヤッホーって叫びたいわ!早く雨やみますよに

2024-01-28

20240128[アタック25]Next 2024年1月28日 #96 ミステリー好き大会 2024-01-28結果

予定通り1時25分から放送でした

 

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

日曜日の本放送だけ1時「25」分から

BS1からボタン2回(今だけ?)とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合があるようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

つながるジャパネットアプリ放送同期・見逃し配信あり

 

 赤:齋藤出@埼玉46 緑:酒向朋子@福岡56 白:渡辺匠@中川45 青:野澤英樹@岡山40

 

・01 [ある人物名前]松本清張 まつもとせいちょう

・02 ワカサギ

・03 香取慎吾 かとりしんご

・04 [ここからミステリー][ラテン語]アリバイ

・05 結城真一郎 ゆうきしんいちろう

・06 (2) 番

・07 ギムレット

・08 『薬屋のひとりごと

・09 [共通アルファベット]A(a)

10 [近似値]27693

11 [ドイツ語]シュプール

12 中村勘三郎 なかむらかんざぶろう

・13 [すべて]中国 インド インドネシア モンゴル

・14 [ラテン語から]ボア

・15 『ウィー・アー・ザ・ワールドWe Are The World

・16 ヤヌス

17 島耕作 しまこうさく

・18 [ふるさとクイズ][新潟県三条市]鉄

・19 松本隆 まつもとたか

20 りゅうこつ 座

・21 『ダ・ヴィンチ・コード

・22 シューベルト

23 [2択]エイト ボール

24 横断(禁止

・25 第)三(代

・26 [AC]ドードー

・27 湊かなえ みなとかなえ

28 [3択]1 5 人

・29 濃霧

・30 牛

31 宮古島(市

・32 『ミステリと言う勿れ』

33 マフラー

・34e [3択]3 十 万キロメートル

・xx [ある元号]天正 てんしょう

2024-01-23

お前らの人生小学生の時から更新されてない

魔王』とか『牛乳を注ぐ女』って義務教育で習うはずだけどオタクしか通じないのはなぜ?→そういうことをずっと覚えてて一生擦るのがオタクから、という話

https://togetter.com/li/2299832


>つまりオタク友達との思い出が少なくてそういう授業の面白いと思った部分無駄に覚えてるってこと?…無駄じゃねえよ!(突如興奮する患者


オタク青春時代の思い出を作れないか小学校記憶をやたら鮮明に覚えてる定期


義務教育で習うだろ!?って思って引用とか見たらそもそもそういうの覚えてるのがオタクだけという趣旨ツイートが並んでて膝から崩れ落ちた


ミームしか会話しないオタクコミュニケーション障害ではなくて、単純に会話できるほどのバックボーンがないだけな気がする。哀れな化け物。


>「『山月記』とか『牛乳を注ぐ女』とかシューベルトの『魔王』とか、義務教育でやっているのにオタクしかネタが通じないのはなぜだろう?」「リア充文字通りリアルが充実しているので、家族や友人や恋人との大切な思い出のために脳の記憶容量をたくさん使っているからだよ


オタクアニメ音楽しか聴かなくて何もインプットされないか音楽知識更新されず小学生のまま止まってるだけだと思う


>これは本質情報なのですが、多くのオタクコミュニケーション障害を患っており「面白いワードを言えば会話が面白くなる」と勘違いして文脈無視してこのようなインパクトの強いフレーズを使い続け、オタクしかこのような知識を持っていないと勘違いしてしまうのです。

2023-12-19

anond:20231216182609

Google Bard に聞いてみた ↓

希望に沿って、以下の3枚のCDおすすめします。

1. バッハ: ブランデンブルク協奏曲全曲

指揮: ヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

解説:

バッハ代表作のひとつであるブランデンブルク協奏曲全曲。カラヤンベルリン・フィルによる演奏は、透明感のある音色と明晰な構成で、モーツァルトのディヴェルティメントに通じる軽やかさを感じさせます

2. シューベルト: 弦楽五重奏曲第1番「鱒」

演奏: ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

解説:

シューベルト代表作のひとつである「鱒」は、美しいメロディーと軽快なリズムが印象的な作品です。カラヤン演奏は、弦楽器の繊細な音色を活かした、明るく爽やかな響きが魅力です。

3. ヴィヴァルディ: 四季

演奏: マルセルポンス指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

解説:

ヴィヴァルディ代表作のひとつである四季」は、各曲に春夏秋冬の情景が描かれた作品です。ポンス指揮による演奏は、軽快で明るいリズムと、自然の豊かな情景を描いた音楽が魅力です。

いずれも、小編成による演奏で、指揮者演奏者によって異なる解釈を楽しめる作品です。ぜひ聴き比べてみてください。

また、以下のような作品おすすめです。

モーツァルト: ピアノ協奏曲20番、第21番

ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第5番「皇帝

シューベルト: ピアノ五重奏

ブラームス: ピアノ四重奏曲第1番、第3番

チャイコフスキー: 弦楽四重奏曲第1番、第6番

ご参考になれば幸いです。

2023-09-11

anond:20230911142421

シベリウスなんかどうみても天才ではない

マーラーのおまけだろ

そしてマーラーシューベルトが残るなら常田も残っていい

技巧的には200年分の下駄があってそれをちょっと進めてんだから

ベートーベンしか残らないのなら常田が残らなくてもわかる

でもブラームスを始め、マーラーシューベルトみたいな別にクラシック文化的進歩をもたらしたわけでもない消費者音楽を書いてた人が歴史名前を残してあの日に何をしたとか、作曲エピソードとか、懐事情家族の話、来歴なんかが残るなら常田は残ってもいい

けど、現実20年後すら誰も覚えていない

2023-08-29

パウリナ・サラスロベルトミランダを殺したのか?(1)

 この度、岩波文庫からアリエルドルマン(昔は、英語風にドーフマン表記だった)の戯曲作品『死と乙女』が刊行された。90年代に一度、英語から日本語翻訳されたものが劇書房から刊行されたが、その後は長く絶版品切状態だった作品である

 「過去に読んだが岩波文庫から復刊したことは知らなかった」という人は、書店に急いで欲しい。

 読んだことの無い人も、やはり書店に急いで欲しい。

 もしかしたら、作品を読んだことは無くても、朴璐美真木よう子などが主演した舞台を、日本国内で観たという人もいるかも知れない。または、ポランスキーによる映画作品を観た人もいるかもしれない。

 ちなみに、これを書いている増田は、ど田舎生活低所得者なので、演劇文化とは縁が無いことから舞台を観たことはない。

 今回の岩波文庫版は、著者の母語であるスペイン語で書かれたバージョンから翻訳となる。翻訳者による詳細な解説があるので、作品執筆の背景となった70〜90年代チリ内外の政治事情を知ることも出来ることから、一読者として有り難い。

 これを目にしている貴方が、書店に赴いて『死と乙女』を入手して読んでくれるならば、もう以下の駄文を読む必要は無い。

 この増田が読むことを勧めている『死と乙女』とは、どのような作品なのか、読んだことは無いが少しだけ興味が有るという人に向けて、以下を記す。

 ただし『死と乙女』の結末に触れる部分があるので、未読で結末は自分で知りたいという人は、ここで一旦、この駄文を読むのをストップしてもらいたい。

 また、直接的ではないものの、性暴力言及する箇所もあるので、精神的な苦痛を喚び起こされる虞がある人は、ここで読むことを止めてもらいたい。

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 物語の大雑把な時代背景と、粗筋を述べる。

 1970年南米チリで、サルバドール・アジェンデ大統領とする政権誕生した。俗に、史上初の民主主義選挙により誕生した社会主義政権とされる。

 しかし、アジェンデ政権を皮切りに中南米地域社会主義国がドミノ倒し的に増加することを怖れた米国ニクソン政権は、チリへの介入を決定する。かくして、米国の後ろ楯を得たピノチェトが起こした軍事クーデターによって、チリ独裁国家となる。

 この独裁政権時代チリでは、多くのチリ国民政治犯として弾圧され、不当な身柄拘束、拷問虐殺対象となっている。

 チリ国外亡命した人間もいる(亡命はしたものチリ国外暗殺されたという人間もいる)。映画『イル・ポスティーノ』の主人公詩人も、そのような逃亡者であったことを、記憶している人もいるかもしれない。或いはまた、ヨーロッパ亡命していたチリ映画監督ミゲル・リティンが、ピノチェト支配下チリへ潜入して取材する姿を、コロンビア出身ノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスルポルタージュ戒厳令チリ潜入記』(邦訳岩波新書)として著したので、それを読んだ人もいるかもしれない。   

 本作『死と乙女』の著者アリエルドルマンも、チリ国外亡命した人間の一人である

 そして『死と乙女』の主人公パウリナ・サラスもまた、ピノチェト政権下で筆舌に尽くし難い苦痛を味わい、生還したチリ国民の一人である

 本戯曲題名は、音楽家シューベルトの曲に来する。

 パウリナの夫ヘラルド・エスコバルは、ピノチェト政権下で、弾圧されている人々をチリ国外亡命させる手助けをしていた。そのためにヘラルドは、ピノチェト政権当局から弾圧対象とされた。

 しかし、ヘラルドが当局の手を脱して逃亡したので、彼の居場所を吐かせるために秘密警察は、彼の妻であるパウリナの身柄を拘束し、彼女拷問した。その時、拷問者は、目隠しされたパウリナをレイプしながら、シューベルト作品『死と乙女』をBGMに流したのである

 時が流れて90年代に入ると、チリ民主主義国家へと移行する。ヘラルドが逃亡する必要も、パウリナが夫の隠れ場所を吐かずに耐える必要も無くなり、二人は夫婦として、堂々と暮らせるようになった。しかし、パウリナの心には、拷問による拭いきれない大きな傷が残り、それが二人の暮らしに暗い影を落とし続けていた。

 民主主義政権となったチリ政府は、ピノチェト独裁時代に行われた弾圧について、調査究明を行なう国民約束し、そのための調査委員会を任命する。今やパウリナの夫ヘラルドは、その調査委員会のメンバーの一人である。これが、物語の開始の時点で、主人公の置かれた状況である

 物語の冒頭、或る晩、ヘラルドは、パウリナの待つ自宅へと自動車で帰る途中、タイヤパンクにより立往生していたところを、通りがかった医師ロベルトミランダに助けられる。ロベルトミランダの車で自宅に送り届けられたヘラルドは、夜も遅いし助けてくれたお礼にと言って、ロベルトに自宅へ泊まっていくことを勧める。

 結局ロベルトミランダヘラルドの申し出に甘えることにし、ヘラルドが寝室に居るパウリナに声を掛けて、彼女にも客人を泊まらせることを了承させる。

 翌朝。

 ロベルトミランダは、椅子に縛られている。パウリナが、彼にリボルバー拳銃を突き付けている。

 それを見て驚く夫ヘラルドと、狼狽する医師ロベルトミランダに対して、主人公パウリナは告げる。

「昨夜、この男の声を聴いて気づいた。この男、ロベルトミランダこそが『死と乙女』をBGMとして流しながら、あたしを拷問し、レイプした人間だ」と。

 ロベルトミランダ拳銃を突き付けて「洗い浚い罪を吐かせる」と主張する主人公パウリナに対して、夫ヘラルドは思い止まるように説得する。

 チリピノチェト独裁体制を脱して民主主義国家となったとはいえ、いまだピノチェトを支持するチリ国民も決して少ないとは言えない(現実世界2023年現在でも、ピノチェト支持者が残っているのだから民主政権に移行したばかりの90年代前半を時代設定としている物語の中では、尚更である)。独裁政権時代弾圧活動に関与した人間たちの全てを、罪に問うて処罰しようとしたならば、親ピノチェト派の有権者からの反発を招き、まだ体制も盤石とは言い難い民主主義政権が倒れることになりかねない。最悪の場合内戦が勃発して、更に血で血を洗う国民同士の殺し合いともなりかねない。

 そのため、現実世界チリで行われた調査も、調査対象事件を「被害者殺害されたという重大なケース」に限定し、尚且つ、真実を綿密に明らかにした調査報告書を作成する代わりに、弾圧関与者の氏名公表や厳しい処罰免除するという、謂わば折衷案の形をとらざるを得なかった。

 処罰免除するという条件を餌にした、一種司法取引によって、ピノチェト独裁政権時代弾圧に関与した人間に、己の罪を自発的告白するように促したとも言える。

 しかし、もしも調査委員の一人であるヘラルドの妻パウリナが、ロベルトミランダ殺害してしまったとしたら、いや、殺害せずとも、拳銃を突き付けてロベルトミランダ自白強要したこと世間に知られたならば。

 民主化した政権も、真相究明も、全てが水泡に帰すことになりかねない。

 パウリナは、ロベルトミランダの命までは取らないことを条件にして、今ここにいるパウリナ、ヘラルド、ロベルトミランダの三人で"裁判"を行なうことを強引に承諾させる。かくして、現実チリで行われた真相究明の動きを追体験するような、緊迫の一夜が、舞台上で演じられることとなる。

 以下では、物語の結末に触れているので、未読の人は一旦ここで増田駄文を読むのを切り上げて、まず『死と乙女』を読んでもらいたい。

 ロベルトミランダに罪を告白させること(供述テープレコーダーに録音した上で、ロベルト自身の手で文字起こし原稿を書かせ、さらに「自発的真実を語った」と宣誓する署名までさせること)が出来たミランダは、ロベルト監禁する前に家から離れた場所へ移動させておいた彼の車を、返すために取りに行くようにと夫ヘラルドに頼む。

 そして夫ヘラルドが家を出て二人きりになると、パウリナはロベルトミランダ銃口を向け直す。

 「真実告白すれば命を助けると言ったのに、約束が違う!」と抗議するロベルトミランダに、銃口を向けるパウリナ。

 パウリナは、ロベルトミランダの語りを聞いて、心の底から反省や悔悛が彼には見られないと判断したのだ。

 ここで演出として、舞台には幕が降り始め、パウリナとロベルトミランダの姿を隠すとともに、その幕は鏡となっており、演劇『死と乙女』を観ている観客たち自身を映し出す手筈になっている。

 再び幕が上がると、物語ラスト場面であり、パウリナとヘラルドは、二人で連れ立って、音楽演奏会に出掛けている。演奏の休憩時間では、他の観客と、調査委員会による調査の成果について、夫ヘラルドは語り合っている。

 休憩が終わり、演奏が再開される。

 すると、その演奏会の会場にロベルトミランダが入って来て、主人公夫婦から離れた、ずっと後方の客席に彼は座る。

 夫ヘラルドは気づいていないが、パウリナはロベルトミランダ存在に気づいて、しばし後ろを振り返り、ロベルトミランダを見る。ロベルトミランダは、何も言葉を発すること無く、ただ、主人公パウリナに視線を向け続ける。やがてパウリナも、ロベルトミランダから視線を外し、前方(演奏会舞台があると設定されている方向)を向いて、物語は終わる。

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 パウリナ・サラスは、ロベルトミランダを殺したのだろうか?

 この増田は、殺したと考えている。(続く)

2023-06-27

ロイヤルホストの店内ジングル

ロイヤルホストの店内ジングルがいいのだ。12時とか18時とか、たぶん3時間に1回鳴るので、くどくない、どころか、聞けると得した気分になる。割と長尺でやけに展開が激しい。そして、ネットにはyoutubeだろうが何だろうが、一切音源が転がってないので「どんな曲?」「これだよ」と説明できない!

ネットで拾えるテキスト情報総合すると、あれは大野雄二作曲の「Royal Hostのテーマ曲」と言われるもので、時間帯によって4バージョンあるらしいが、自分は「ディナーのテーマ」と言われるバージョンしかからない。「コーラスタイムファイブ」という情報も見たが、シューベルトの「野ばら」の部分は明らかに女声コーラスなので、これは誤情報なのではないかと思う。聞いてる人は毎日聞いてるはずなのに、とにかくネット情報がない、そんな音楽もこの世の中には存在するのだ。

2022-12-06

円のビッグショート、2023年は劇的なUターンへ-市場関係者が予想

円は世界の主要通貨の中で最悪のパフォーマンスとなっているが、2023年には劇的なUターンを演じそうだ。タカ派的な米連邦準備制度ハト派的な日本銀行という二つの円安原動力が、立場を逆転させると一部投資家はみている。

  今年の大半を通じ、ドルに対してショートする通貨として好まれてきた円だが、来年は現水準から7%余り上昇する可能性があると、バークレイズ野村ホールディングスが予想。フォントベルアセットマネジメント適正価格を1ドル100円未満だと見積もる。これは現在より30%以上の円高になる。ステート・ストリートグローバルマーケッツは米国積極的利上げへの懸念が後退し円が急反発すると予想し、ティーロウプライス日銀が今よりもタカ派的になることで円が上昇する余地があるとの見方を示した。

  ティーロウ世界マルチアセット責任者セバスチャン・ページ氏は「恐らく、ドルに対する円の弱さはピークに近づいている」とした上で、米金融当局が遂に利上げを停止した時に「日銀が若干積極的になることで市場を驚かせ」、円を押し上げる可能性があると分析した。

  円に対する強気は、ヘッジファンドが円のショートをこれ以上ないほど積み上げていた9月とは様変わりだ。急ピッチの利上げを続けた米国と超低金利を維持した日本との利回り格差が広がる中で、円はドルに対する年初来の下げが一時25%に達した。  

  だが、政府日銀市場介入と米連邦準備制度の利上げペース鈍化への期待を追い風に、円は10月安値から12%余り上昇。日銀が4月以降に新総裁の下で政策を調整するとの観測も円反発に拍車をかけそうだ。

  円が上昇すれば、数千億ドル資本日本回帰したり日本輸出業者が打撃を受けたりする可能性があり、影響は日本国内にとどまらない。円を調達通貨としたキャリートレード需要も後退するだろう。

  5日の円相場は1ドル=135円前後10月には30年ぶり円安の151円95銭を付けた。

  円高予想の多くは米金利が急速にピークに近づいており、当局は景気下降局面に利下げを迫られるという見方に基づいている。ジュピターアセットマネジメントアバディーンなどのファンドは、来年はその可能性が高いとみている。

  アバディーンスタンダード・インベストメンツ植田八大プロダクト・スペシャリスト部長は、米当局2023年に速やかに比較ハト派寄りの姿勢へと転換するだろうとみており、円が1ドル=130円まで上昇すると予想。ドルには今年のような上昇の原動力がないと指摘した。

  先物市場は米金利来年半ばごろにピークを付けるとの見通しを示唆している。

  複数ファンドはまた、先進国地域の主要中銀の中で最後までハト派的な政策を固持している日銀が降参するのは時間問題だとみている。それは黒田東彦総裁来年4月に退任した後になる公算が大きいが、円上昇をさらに勢い付かせるだろうと、ジュピターマネーマネジャーマークナッシュ氏(ロンドン在勤)は述べた。「来年のある時点で日本も当然、利上げをするだろう」と話す同氏は、1ドル120円近辺まで上昇する可能性を見込む。

  海外ファンドが好む10年物の円スワップレートは、日銀が設定する10年物国債利回り上限の0.25%を大きく超えて上昇している。これは日銀イールドカーブコントロール(YCC)政策を調整するとトレーダーらが見込んでいることを示す。

  フランクリンテンプルトンのソナル・デサイ債券担当最高投資責任者(CIO)は、日銀が向こう3-6カ月の間に10年債のイールドコントロールをやめる可能性があると予想し、「その時にはドルが完全に」下落に向かい、円が上昇するだろうと話した。

  金融政策正常化と依然として安い円相場という組み合わせは、円の安全資産としての地位も急速に回復させる公算がある。11月最後の数日には中国新型コロナウイルス対策を巡る懸念から安全資産需要が高まり、円がアウトパフォームした。

  フォントベルシニア投資ストラテジスト、スベン・シューベルト氏は、景気下降への懸念市場に広がればこうした傾向が強まると予想。「米国リセッション景気後退)が質への逃避につながる可能性が高く、円の追い風になり得る」と述べた。安全資産としてスイス・フランも有望視しているものの、今年の下落のため「円の出発点はより極端だ」と指摘した。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-12-05/RMEQXNDWRGG601

2022-08-18

ネタバレONE PIECE FILM RED 尾田栄一郎はもう映画から手を引くべき

こんなん読むのは見た奴か見る気のない奴だけだと思ってたかネタバレは悪かった。あと改行した。



初めに、俺は正当な読者である。今年35歳でワンピースの連載第一からジャンプを読んで生きてきた。

最初映画から全て見に行っている。単行本も103巻持っている。

今回の映画も行った。行った結果のタイトル結論である


興行収入に騒いでいるが、そりゃこうなるだろう事くらい誰でも予想出来る。俺のようなファンは特典の為に行き、Adoファンが行き、ワンピースは東の海しか覚えていない連中がシャンクスに何かあったのかと行く。

そんな単純な話でここまで興行収入にはならないと思うかもしれないが、人間死ぬほど単純でミーハーだ。

そういえば昔読んでたわ。サンジが仲間になったくらいまで知ってる。みたいな連中も大騒ぎに乗じてそんなに話題なら見ようと行く。

最初が騒げばあとは勝手に付いてくる。


そこからワンピース新規ファンが増えるのはいい事である別に俺はファンが増える事になんの問題も感じていない。こんな映画で増えるなんてアホだなとは思うが。


今回の映画はひとえに監督暴走総合プロデューサー監督不行き届きにより出来た映画であるONE PIECE magazineという雑誌があるが、あれを読めばいい。尾田栄一郎大丈夫ですかと確認している事に対し、監督大丈夫からやらせて欲しいと言って進めたのがREDである

そもそも女が描きたいと言ったのは尾田栄一郎だが、これは後述する。※1


そして出来上がったのがライブ不要ミニキャラに圧迫され突然闇堕ちするウタとかいうポッと出にしか見えないシャンクスの娘の感動()ストーリーである大丈夫なんじゃなかったのか。

監督脚本は、感動映画がどういうものかを理解してないのか?とも思ったが、俺はGOLDに対してもルルーシュに対しても特別不満を持った覚えはない。

あるとすればGOLDの特典だが、これも後述する。※2


という事は極簡単結論になる。

監督脚本の手に、この映画の素材が余ったのだ。


これを映画だといって公式宣伝しているが、こんなもんは映画ではない。ライブでもない。最初にいらんくらい長々とAdoPVを流しておまけの様に辻褄の合わない話を取り付けただけの出来の悪い宣伝アニメだ。

ちなみに、辻褄が合わないというのはパラレルからとか阿呆な事を言ってくる奴がいるが、映画の中ですでに辻褄が合わない。しかもその上パラレルのくせに原作と時々合わせようとするから余計に合わなくなる。映画パラレルという事くらい知ってるに決まってんだろ。全部見てんだぞ。

同じ宣伝でもホビアニの方がはるかに出来がいい。

残りは感動系だが、感動系にしてはあまりにお粗末すぎる。

ウタは突然キレて騒いで世界滅亡させようとするハタ迷惑なガキ、シャンクスドヤ顔しながら遅刻するクソ親父、ルフィは突然宗教にハマった俺の知っている顔をした別人、仲間はもうストーリーの為だけに喋らされている棒人間並みに存在感がない。実際はそんなキャラではない。そうにしか見えない演出問題である

唯一存在感を感じるのは監督こだわりのミニキャラだが、一番いらないとなぜ誰も思わなかったのか疑問である


言っておくが、ウタが突然キレた闇堕ち迷惑人間になったのはウタのせいではない。尾田栄一郎のせいでもない。ライブミニキャラを入れたい自分エゴを抑えられなかった監督責任である

新しい事への挑戦は歓迎したい。ワンピースもここまで続けるとマンネリ化している事は間違いないからだ。

ただ手に余る事が目に見えているのに強行するのは自分オリジナル映画にしてくれ。


Twitterでオマツリ男爵が好きならREDも好きだとかいうとんでもない意見散見されるが、いい加減にしてくれ。

REDとオマツリ男爵共通している事はオリジナルでやれという事くらいであって、似てるというのは細田守とオマツリ男爵への侮辱である

俺は細田守映画の大半が嫌いだが、あれは細田守監督作品として、完璧に完成された映画だ。尾田栄一郎が腹を立てたらしいが、あれだけ癖と我が強くなければオリジナル監督作品評価などされるわけがない。

あれはワンピース映画の中では確かに賛否両論映画だが、群を抜いて映画として監督脚本、画面構成に至るまで優れた作品でもある。あの邪魔家族細田守のこだわりなので諦めるしかない。


ここで※1になるが、ONE PIECE magazineを読む限り伝説ジジイを描きたくないと言ったのは尾田栄一郎である

女がいいと言うよりジジイが嫌という話であり、そこで監督が女にしたのか話し合いで女になったのかは不明だが、じゃあ描かなきゃいいだろ。

いい加減、自分総合プロデューサーとしている限り自由度が下がる事くらい気付いてくれ。細田守が許せないのなら最初草案を貰い、脚本のチェックをして駄目な箇所だけ言えばいい。ワンピースキャラデザなんてしたいヤツは山のようにいる。斬新なものが欲しければ若手に任せてみればいい。想像出来ないような伝説ジジイだって出てくるはずである

監督ジジイが駄目ならババアというわけにもいかない等と言っているが、いいだろババアで。少なくとも扱えないシャンクスの娘より誰とも関係のない伝説ババアの方が監督の力量には見合っていたはずだ。


そして監督脚本のどちらか知らないが、ルフィ達が強くなりすぎて並の女では太刀打ち出来ない為に、ならばシャンクスの娘はと言い、自分総合プロデューサーなら原作との辻褄も保証出来るからという事でシャンクスを出そうと尾田栄一郎が言い出したとの事なのだが。

こうなると散々言っている通り、監督脚本の力量に見合ってない材料を渡した総合プロデューサー責任は大きい。本人は脚本監督も最高だと考えているらしいが、本気でそう思うなら辞め時である

そしてもちろんそれだけデカ材料を渡された挙句ライブミニキャラゴリ押しし、配分を完全に間違えてた監督脚本も当然悪い。


尾田栄一郎の頭の中でどうシャンクスの娘でルフィの幼馴染みのウタがなんの問題もなく存在しているのか知らないが、それらは全く映画に反映されていない。

俺は映画館で突然知りもしない世界歌姫MVを何曲も見させられ、突然ルフィ友達だと紹介されられ、シャンクスの娘だと言われる。

そして突然キレまくって信仰宗教教祖となり闇堕ちするウタに置いてきぼりになる俺。

ワンピースにお馴染みの過去の子時代が流れ、必死過去に読んだ第一話を思い出すはめになる。

死んでからいいようにお涙頂戴エピソードに引っ張りだこのエースでさえ、頂上決戦で突然あたかもメインキャラのように過去が出てきて、第一話との噛み合わせの悪さに苦労したというのに、その比ではない。

陳腐な感動ストーリー()の為に壊れる第一話と、その間にも情緒不安定教祖呆然と眺めるしかない俺。


ウタのエピソードマジで駆け足で進む。アニメ第一シーズンダイジェスト映像並み。なぜなら監督が序盤のライブにこだわり尺を圧迫しているにもかかわらず、阿呆みたいになんの意味もないミニキャラを出すからである

magazineによると、ベポを出したが大きくて邪魔なのでミニキャラにしている。ローが先かベポが先かは知らないが、ロー欲しさにベポを出したが邪魔だったようにも見える。だとすればクソだ。そして、ローはシャンブルズとローの女ファンを釣るためだけに出されているのでそれ以外に活躍の場などない。

どうせブルーノ能力は欲しかったがあとは邪魔なのでミニキャラになっている。あそこで力を同じように使ってもローがミニキャラにならないのは顔くらいの理由しかない。

そして監督こだわりのサニー君だが、コイツこそ終始何の意味もないキャラだった。コイツ時間を割くならシャンクスかウタに割けよ。一応この映画のメインキャラじゃないのかよ。

移動能力最後シンクロをしたいが為に集められた奴らも不幸だが、そのせいで割りを食ったメインキャラが一番不幸だろ。


まり尾田栄一郎の中では矛盾なく完璧にハマったシャンクスの娘でルフィの幼馴染みという存在は、尾田栄一郎の頭の中だけに存在している。

そしてこのFILM REDという映画は、本人も監督脚本も多少映画内で説明漏れたとしても、特典冊子40億巻で補えばいいと考えているとしか思えないほど、映画脚本杜撰で穴だらけなのが最悪なのだ

俺は子供の遊びをかねて日曜日に行き、田舎からかまだ貰えたが、土日に働いていて映画に行けない熱心なファンは貰えたのだろうか甚だ疑問である


ここで※2だ。

俺は会場限定の特典冊子というものが嫌いだ。キャラ服装デザインなんて、そんなもんは単行本の後ろに載せろと言いたい。映画表現出来なかったメインキャラの心情を特典冊子で補うなんてもっての外だ。買えるのに買わないのと、貰えないでは意味が違う。

こんなもんを映画に付けるのはガチ興行収入観客動員数のためしかない。

これをファンサだという奴は一回頭でも打ってみろと言いたい。ファンサとは最初マーケティング時点で想定される鑑賞人数に対して大幅に少なく作るものではない。


今回俺がこんな記事を書いたのは、第三弾の特典冊子にキレたからだ。一体いつからワンピースはここまで拝金主義になり、恥ずかしげもなく未完成映画を放映し、追加情報のように人数限定の冊子など配るようになったのかと腹が立ったが、よく考えれば最近ワンピースはずっとそうだ。

繰り返される発行部数突破!の煽り文句も、実際に売れたのはどの位なのかは絶対に出ないし、引き伸ばしが続く原作にも最近ウンザリしてきている。妻が単行本を持っているが、まとめて5冊くらいを読まないと話が一つも進んでいない。いらん寒いギャグを繰り返し、初期の神がかった展開など消えた。

小さいコマ割りに必要もの不要ものも詰め込み画面だけは埋まっているが、初期の大ゴマを使った胸に迫るシーンなどもうしばらく見た覚えがない。

昔のコマをほじくり返し辻褄を合わせ後付けをし、阿呆ファンが尾田神スゲーこんな昔から伏線を張っていたなんて!と大騒ぎさせる事に命をかけてさえいる。そしてそれが重要伏線かといえば、半分くらいは別に無くてもいいのだから笑うしかない。

そして1000話突破だのなんだの騒ぐだけ騒ぐ。俺にはギネス欲しいんだろとしか見えない。こち亀にもコナンにも鬼滅にも勝たねば気が済まない俺至上主義の結果が、今の引き伸ばし漫画とこの特典冊子商法映画かと思うと言葉も出ない。


とりあえず尾田栄一郎はもう総合プロデューサーを辞めた方がいい。

漫画家に必要能力はあっても、総合プロデューサー必要能力は兼ね備えていなかった事を理解した方がいい。監修では駄目なのか。

もはや尾田栄一郎と特典におんぶに抱っこの監督脚本は、映画の出来が中途半端でも特典冊子で補おうとする。そして何弾にも分かれて配られる特典がある限りどんな中途半端な出来だろうと興行収入は伸びるので余計に酷くなる。最初は良かったのだろうが、ここまでくると悪影響しかない。

頼むから興行収入突破数字より映画を見てくれ。特典を読む限りウタの大半の人生ライブミニキャラに潰されている。

アニメ連動エピソード映画で描け。それが映画だ。

第三弾はウタ?新時代とか描かれたものをチラ見せしているが、映画で描け。描く必要がないなら単行本の巻末かジャンプに載せろ。特集を組んだのだからONE PIECE magazineでもいい。それがファンサービスだ。


上手く書けないのなら書けないほどの背景をキャラへ付けるべきではない。

原作もそうだが、尾田栄一郎エピソードの削り方を忘れたらしい。付けれるだけ後付けして引き伸ばしてきた弊害だろ。キャラ映画内で語れるかどうかも分からない総合プロデューサーなんてもの総合プロデューサーではない。

そして監督脚本はそれを削るのが仕事のくせに削るところを間違え、全てを特典冊子に丸投げすんな。

ウタの過去を考えたのか?これを感動ものにするつもりがあったのか?ライブミニキャラとくだらないベポの鬱陶しい三段ギャグの方が大事だったのなら末期だ。


GOLDでも謎だったがここまで酷くはなかった。REDで落ちるところまで落ちた。ワンピースはそんな姑息な事をしなければ鬼滅やヒロアカ呪術コナンに勝てないのか。そんな情けない漫画応援してきたつもりはない。

特典などあってもなくても映画が素晴らしければ俺は何度だって通う。ワンピースを信じてないのは尾田栄一郎監督脚本じゃないのか。


楽しいという意見を山ほど見かける。第三弾の特典に喜んでいるファンは、自分達がどんな映画を作っても離れず金を落とすと思われていると気付かないのか。


ワンピースの一つの大きな謎だったシャンクスの正体をバラされ、これから原作を読んだ時の驚きを無能すぎる五老星の台詞に取られてなんとも思わないのか。

あんな突然ルフィ新時代とか聞いた事もない事を言い始め、女だからと悪くても殴らず、初見人間には知らん人間しか見えないギア5になり、取ってつけたように決め台詞を叫んでもさすがルフィと思うのか。

とりあえず全員のアクションシーンを入れる為に一箇所に固められ、まとめて戦闘シーンを消化された麦わらの一味を見て最高だと思うのか。

自分の好きなキャラを、倒し方がシャンクスを出したいだけのお粗末な魔王の前に無能にされても、新衣装かっこいいと喜ぶのか。


馬鹿にされてると気づいたほうがいい。コイツらはかっこいいセリフを人気のキャラに言わせてオリジナル衣装を着せ、尾田栄一郎が描いた特典冊子を付ければ歓喜悲鳴と共にリピートをし、映画を見る目など何一つ持っていないと思われている。

キャラクター)かっこいい。(キャラクター)可愛い燃えた。TikTokももう少しまともな感想が出るだろう感想しか褒め言葉が出ない時点でお察しか

プロアマチュアREDイラストを描き良かった!などとツイートすればバコバコ数字が稼げる現象は見ていて宗教染みた気持ち悪ささえ感じる。その時間で納得出来る感想を言ってくれ。


クソみたいなあからさまな拝金主義特典商法であり、中身はといえば映像脚本構成も何一つ平凡か平凡以下な映画に負けた全ての映画が哀れである



阿呆みたいな事言ってるので追記

俺はジャンプを毎週買って読んでるし、ワンピースが縁で知り合った妻と単行本が被るために俺が本誌、妻が単行本を買っている。特典冊子の為に仕事のある日曜日有休を取って子供連れて行ってんだよ。

積極的に読んでないとかクソみたいな事を言われる筋合いはない。

まぁ初日日曜日を間違えたのは俺のミスなので全面的に俺が悪い。訂正しておいた。

あと正当な読者の意味わからん奴はワンピース原作を読め。

尾田が総合プロデューサーになって映画成功してるんだから降りる必要ないと言っている奴は、これをそもそも読んでないんだろう。俺はこの映画総合プロデューサーでいる事がマイナスに働くようになっていると言う話をしているんだが、俺の悪筆のせいだろうし読まなくていい。

じゃあ見るな論法の奴って日本の政治文句言ったらじゃあ海外行けば?とか言いそうな思考回路してんな。


そういえば魔王が第3形態であるのはシューベルト魔王のせいか?そんな全くワンピース関係のない小ネタに拘るくらいなら第2形態までにしてウタの話をしろ


どうでもいいが、このページの広告がすべてFILM REDになる。クソったれ。

2022-05-16

演奏不可能作品

演奏不可能作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏不可能、あるいは困難な音楽作品のことである

概説

クラシック音楽世界では、演奏不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易無視できない存在となっている。巨大編成の作品演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。

現代ポピュラー音楽場合には、作曲家作詞家編曲家といった独立した職能存在するものの、作品演奏との一体性が強く、コンサートライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品コンサートライブにおいて生演奏する際には、自動演奏テープなどを用いてレコーディングされた作品再現するか、生演奏可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。

歴史

バロックから古典

歴史は長く、J.S.バッハの諸作品モーツァルトオペラフィガロの結婚魔笛ベートーヴェンピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。

ロマン派

ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルト魔王交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏不可能と宣告されたブルックナー交響曲第2番、ブラームスピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品マーラー交響曲ラフマニノフピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。

近代

近代ではストラヴィンスキー春の祭典シェーンベルクピアノ協奏曲ヴァイオリン協奏曲モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的作曲された例としてアイヴズの歌曲義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオ演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオ演奏する者もいる。ラフマニノフピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージ身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストテクニック不自由したピアニスト左手の音をずらして演奏することが慣例化している。

現代音楽

演奏不可能作品という概念現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能概念は、今日例えばパソコンシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から人間演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食強要していると言う点で事実上演奏不可能作品である

今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモスアルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例であるクセナキス自身テレビインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。

しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単作品人間演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である

ポピュラー音楽

前述の通りポピュラー音楽クラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。

特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞作曲 桑田佳祐アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏事実上不可能となっている。ソフトウェアマスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である

演奏史上で演奏困難とみなされた曲

作曲家演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさら作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのもの今日では演奏レコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。

ベートーヴェンピアノソナタ第29番(ハンマークラヴィアのための大ソナタ)

指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽大家作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストベートーヴェン交響曲ピアノの為に編曲したもの存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタ比較的易しい。

パガニーニ24の奇想曲

超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニ作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。

リスト超絶技巧練習曲第2版

タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲であるピアノパガニーニを目指したリスト代表曲である一般演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リスト超絶技巧極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーレスリーハワードが録音を残している。

チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲

演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品しか現在では、早熟ヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。

ドヴォルザークチェロ協奏曲

第一楽章オクターヴの速い動きで事実上演奏不可能作品である解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。

プロコフィエフピアノ協奏曲第4番(左手のための)

パウルヴィトゲンシュタイン委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフ最高傑作だ」と称え、ピアノ吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。

シェーンベルクヴァイオリン協奏曲 Op.36

十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイスクラスナー独奏ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲自身生演奏を聴いていないとされる。

フォルカー・ハインの「フェッロ・カント

1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエ作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会一般公開され、色々な同僚作曲家意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。

ケージフリーマンエチュード

チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキー意見対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。

関連項目

2022-02-21

anond:20220221225014

個人的には

辺り、トロンボーンは試される存在だと思ってるわ。

力任せ・勢い任せではなく、節度品位を保って、作曲者が欲しい音・曲で求められている音をちゃんと出せるかな?っていう。

2021-02-10

友達クラシック音楽を教えた時を思い出して書いてみる

https://anond.hatelabo.jp/20210210062305

なんかクラシック音楽話題に上ってるので、ちょい前に居酒屋で飲みながら、クラシックピアノやってみたいって友達(元軽音楽部のギター)にクラシック音楽作曲家について適当に教えた時を思い出して書いてみる。主にピアノに絡んでる人しかおらん。その他ジャンル知識に乏しいし必要ないのであんま触れなかった。しか雑談の極みなのですべてにおいて雑、いろんな音楽家に失礼だけど天国で俺の事なんか見てないだろうしへーきへーき

 

バロック以前・・これは好事家しか知らんから今は覚えんでええわ

 

バロック

なんかRPG教会宮殿流れるBGMか、メタル前奏で仰々しく鳴ってるオルガン想像してくれ。そんな感じの曲調。

 

バッハ

 めっちゃ有名。結構お堅い宗教曲なんかが多い。メロディが何層にもなってて弾くのは脳が大変。奇人変人が多いクラシック作曲界で貴重な真面目枠や。立派な社会人。息子がみんな音楽家

オススメ曲:主よ、人の望みよ喜びよ》

 

ヘンデル

 そこそこ有名。バッハより親しみやすくてちょっと陽キャ寄りな作風イメージ。実際当時の人気投票ではヘンデルのが人気あったらしいで。世の中そんなもんやね。

オススメ曲:調子の良い鍛冶屋

 

古典

優雅クラシック」って聞いて大体想像するのがこのへんちゃうかな。そういう曲ばっかでもないけど、まぁある意味クラシック音楽っぽさ」の完成系がここ。

 

ハイドン

 めっちゃ有名なはずなんだけど俺ぜんぜん知らん。何をオススメしたらいいのかもわからん。「クラシック音楽はこういう構造ですよ」ってのを考えて確立した人らしい。

 Aメロ→Bメロ→サビみたいな概念を考案したと思うと確かにすごい気がするな!

オススメ曲:ソナタ集のなにか(適当)》

 

モーツァルト

 これはさすがに有名。メロディ可愛い作曲家というイメージ。あとすごい譜面が読みやすい。音が脳にスイスイ入ってきて、次に来てほしいトコに音が来てくれるみたいな感覚がある。

 ストレス効果があるとかは眉唾だけど、フラストレーションや負荷がかかるような音楽じゃないのは確か。色々破天荒な人だけど、子供が凄い技術獲得したまんま大人になったんだろうなあって感じ。

オススメ曲:キラキラ星変奏曲》

 

 ちなみに当時のきらきら星って今と歌詞が違って娘が自分初恋母親に伝えるみたいな歌詞らしいで

 

ベートーベン

 それまでの優雅~な感じのクラシック像を破壊しにいった人。思想メタルとかハードロックなんよ。静と動、強弱を思いっきりつけてドラマティックな展開を作りまくる。当時の人は驚いたやろなあ。

 この人現代ロックやったら絶対5弦ベースとか入れてくるわ。ギターも歪みかけまくりそう。あと性格作風の通りだったらしいで。

オススメ曲:ピアノソナタ8番 悲愴

 

ロマン派

ロマン派音楽ってなんやねんってよく言うけど、ちょうどそのころヨーロッパでは革命とか起こりまくって一般人貴族とかやっつけてたわけ。そうなると「そんなお高くとまった音楽聴いてられっか」みたいな感じになってドラマティックで人間的な曲が好まれるようになるやん。つまりロマン派って現代におけるロックポップスみたいなもんやねんな。だからそのノリと近い触れ方で良いと思うよこの時代

 

シューベルト

 歌で有名。「魔王」とか「ます」とかやね。実際メロディメーカー代表曲歌曲なんだけど、本人はオケとかピアノ曲をもっとやりたかったらしい。ベートーベンに憧れてたんだって。ただベートーベンほど派手な曲展開をしないのは性格からかもね。メロディが奇麗でちょっとおしとやか。弱気そうな肖像画貧困で若くして死んだ印象が強いけど死因は手出した女から貰った梅毒らしいからアイツもやる事やっとるで(無粋)

オススメ曲:即興曲作品90 第2曲、第3曲》

 

ショパン

 かの有名なピアノ詩人ノクターンとか別れの曲とか。激しい曲もたくさん書くけど、どんな曲でもとにかくメロディにフックがあってまるで歌謡曲を歌ってるみたいなんよ。ピアノなのにね。

 大体の作曲家オーケストラ曲書いて、バイオリンの曲書いて、歌も書いて・・・って色々なジャンル書くもんなんだけど、ショパンさんマジでピアノしか書かん。これって割と珍しいんよ。ただ、弾く方の視点から言うと、すごく楽譜が指の理にかなってるんよね。だから初心者でもワルツプレリュードのいくつかの曲は全然ちゃんと形になるで。これホント

オススメ曲:なんでもいいけど、いろいろな曲調あるからエチュード作品10

 

リスト

 超絶技巧イケメンピアニストべらぼうにピアノが上手くてコンサートを各地で開いて絶大な人気を誇り、そしてめちゃくちゃモテた。楽屋女性ファン乱入して私物がよく盗まれたらしいで。怖。ジャニ系かV系の狂ファンやん(偏見)。曲は華やかで派手な曲か、甘くてロマンティックな曲かで二極化してて、ライブ映えする。そして演奏が難しいね

 あとこういう奴に限って性格イケメン陽キャで、チャリティーコンサート主催とかしてた。世の中そういうもんよね。

オススメ曲:ラ・カンパネラ》

 

シューマン

 有名な人のはずなんだけど、なんか地味な人。上の世代だとウルトラセブン最終回BGMがこの人の曲だったからそれで有名だけど、他の世代だと『トロイメライ』とかかなあ。

この人のピアノ曲は小説短編集みたいに各曲に小さいタイトルがあったり、数曲またいでストーリー性のある流れを作ったり、コンセプトアルバムぽいんよね。そういう作りが好きなら気に入るかも。

躁鬱のケがあって曲のテンション上下動が激しいのも特徴。

オススメ曲:子供の情景》

 

ブラームス

 『この人、悪い人ではないんだけど、ちょっと近寄りづらいな』的なイメージの人。とにかく重厚で厳ついんよ。こう内にこもるエネルギーが凄い。綿密に曲作りこんでるなって。軽い気持ちで流し聴くような感じじゃないんよ。ものすごい準備して作った曲だろうからこっちも心して聴かねば・・ってなりそう。モーツァルト真逆

 てかこの人見た目もそんな感じなんよ。性格も当たり前のように陰の者。その中で接しやすい曲でピアノと言ったらワルツ集とかになるんちゃうかな。でもちょっとだけハードル超えて接してみるといい人なのよ。曲もそんな感じ。

オススメ曲:間奏曲作品118-2》

 

印象派

印象派ってもともとは美術用語らしい。まあクラシックっぽいお堅い和音から逸脱し始めた人をまとめてこう呼んでるんちゃうか?たぶんここらへんのカテゴライズ適当だと思う。ぶっちゃけロマン派終盤のフランス人作曲家をこう呼ぶ。

 

ドビュッシー

 作曲家下ネタ使用頻度をマーラーと常に争っている人。ちょいちょいオーギュメントをわざとつかって宙に浮かぶような感触を聴き手に与える。この辺が輪郭がボヤっとしてる美術界の印象派と被ったのかもね。複雑な曲展開やストーリー性よりも、「ある一瞬の風景をとらえました」みたいなテーマの曲が多い。クラシックぽさあんま無いなと思う。

 本人の性格下ネタ使用頻度高い名前に同情心が全くわかなくなるほどアレ。自分不倫旅行ネタに曲を書く畜生

オススメ曲:ベルマスク組曲より月の光》

 

ラヴェル

 ドビュッシーと同じようにちょいちょいそれまでのクラシックでは使わんかったコードを使うけど、ドビュッシーよりも上品だと思う。というかクラシックっぽさをきちんと残しているというか。きちんとクラシックの道の先に居る感じはする。輪郭線がぼやけているという感じもなくて、ところどころにジャズみたいなオシャレ和音も入る。

 ビル・エヴァンスとか好きな人結構好きかもしれん。オシャレ感すごいけどやっぱり本人もオシャレだったらしいで。ちなみに楽譜簡単そうに見えても死ぬほど弾きにくいから気を付けろ。

オススメ曲:ソナチネ 第2楽章

 

サティ

 この人は「音楽大学なんかやってられねえ」って退学してカフェピアノ弾きとして働きながら音楽活動してた異端な人や。その経験からヒーリングミュージックBGMというコンセプトの音楽の始祖みたいな感じや。聴き流す音楽極致やね。たまに意味の分からないタイトルの曲を作る事でも有名だけど、まぁ最初聴く分にはそういうの抜きに分かりやすい曲を聴くのがいいんちゃうかな。性格変人のものや。変な人じゃないとこんなことやらんかったんやろなあ。

 坂本龍一映画CMの曲が好きならサティのたまに作る真面目な曲がハマるかもしれん。弾くのは初心者でも挑戦可能やで。

オススメ曲:ジムノペディ第1番、もしくはジュ・トゥ・ヴ》

 

国民楽派

クラシック音楽もいきつくとこまで洗練されると、逆に民族音楽とかから素材を取ってくるみたいな音楽家が増えて、まぁ大体そこら辺をこう呼ぶようになったけど、たぶんここら辺のカテゴライズ適当だと思うし、もめごとの発端になるで。メタルジャンル分けみたいになってしまう。

 

ドヴォルザーク

 チェコ作曲家やね。基本オーケストラの人だけどピアノなら一番有名なのはユーモレスクちゃうかな。とにかくクサメロをいかんなく繰り出してくる人。ちなみにえげつないほど鉄ヲタだったらしい。

オススメ曲:ユーモレスク第7番》

 

アルベニス

 スペイン作曲家やね。この人はかなりの割合ピアノ曲が多くて、本人も上手いピアニストだったみたい。スペインと聴いて思い浮かぶ熱情的なノリ、裏でカスタネット鳴ってそうなリズムがどの曲にもある。一部はギターソロ編曲されてたり。確かにスペインならそっちのが風情ある。スパニッシュギターっぽくね。

オススメ曲:タンゴ ニ長調

 

ムソルグスキー

 ロシア作曲家やね。豪傑っぽい見た目からイメージ通りの曲調が繰り出されるぞ。まぁピアノやってると話題に上がるのは主に展覧会の絵なんだけども。軍人上がりのアル中で、酒の飲みすぎが原因で入院した際に友人に差し入れされたウォッカを飲んで死亡したらしい。ロシア人どないなってんねん。

オススメ曲:展覧会の絵 より キエフ大門

  

まぁ他にもいるけどキリないからこれでいいや。

 

近代

まぁこれもなんか第二次世界大戦前後くらいに活躍してた人を適当にまとめた感ある。正解がないと思う。

 

ラフマニノフ

 ロシア作曲家やね。一番有名なのはのだめ」のピアノ協奏曲2番とかになるんかな。とにかく体が大きな人で手もめちゃくちゃデカピアニストだったので、それを生かしたスケールの大きな曲を作るのが得意。譜面見ると「コレどうやって弾くねん」ってツッコミいれたくなるわ。同時に鳴るわけない距離なんよ。凡人には。

 ときおり演歌のように懐が深いメロディを繰り出してくるので、かなり日本人好みなんじゃないかなって思ったりする。

オススメ曲:前奏作品23-5》

 

バルトーク

 ハンガリー作曲家やね。一番有名なのは、これも「のだめ」のアレグロバルバロかな。のだめ便利やな。

 民族音楽由来のクセのあるメロディ変拍子が特徴だと思うで。プログレッシブロックとか聴ける人はここら辺の方がむしろハマるかもしれん。現代っぽい不協和音も多いけど、メロディリズムがきちんとあるから、開き直れば割と聴きやすいと思う。弾くのは、難しいかなあ。あえていうなら、ルーマニア民俗舞曲とか異国情緒たっぷりで弾きやすいかもしれんの。

オススメ曲:ルーマニア民俗舞曲、もしくはピアノソナタ

 

スクリャービン

 ロシア作曲家やね。なんか最近ロシアが多いのは俺の趣味や。すまんの。生きてる間にコロコロ作風を変えたことで有名な作曲家で、初期はメロディロシア風にエモくなったショパンのような曲を量産していたが、中期は印象派風の曲も作り出して後期は不協和音バリバリ現代チックな作風に転化していった。バンドなら3回くらいは音楽性の違いで解散しとる。

 なのでどれが気に入るかはわからんが、どの時期でもエチュードを書いているのでそれつらーっと聴けばええんちゃうか。

オススメ曲:エチュード集》

 

現代・・これも好事家しか知らんから今は覚えんでええわ。50年後残ってたやつを聞けばええと思う。

 

後半酔ってて早口オタクになってしまったのは間違いない

youtubeイヤホンつなげて都度オススメ曲を聴きながらこんなこと喋ってた

次にその友達と会ったときショパンバッハ練習してたからお手本になるおすすめCD貸した。

クラシックガイド増田) を見やすくしたよ。

 anond:20210210062305 (クラシックガイド) を見やすくしたよ。

 はてな記法で、分類表示した。テキストは変えていません。

 

   §1600年代前半

イタリア

ドイツ

 

   §1600年代後半

イタリア

おフランス

ドイツ

イギリス

 

   §1700年代前半

イタリア

フランス

ドイツ

イギリス

以上1600~1750年が「バロック音楽」の時代

 

   §1700年代後半

古典派音楽」の時代

イタリア

フランス

  • ゴセック  (日本では「ガヴォット」だけが有名)

ドイツ

オーストリア

 

   §1800年代前半  (晩期古典から初期ロマン派

イタリア

オーストリア

ドイツ

 

   §1800年代中盤  (盛期ロマン派

ドイツ

イタリア

フランス

ポーランドフランス

ハンガリー

ロシア

 

   §1800年代後半

イタリア

オーストリア

ドイツ

フランス

チェコ

ロシア

北欧

 

   §1800年代終盤から1900年代初頭  (後期ロマン派印象派音楽

イタリア

オーストリア

ドイツ

フランス

チェコ

ポーランド

ロシア

イギリス

北欧

 

   §1900年代中盤以降  (第一次大戦終了によってロマン主義印象主義が古くなった時代に真価を発揮した作曲家たち)

ドイツ

オーストリア

フランス

いわゆる「6人組」の時代現在でも有名なのは

現代音楽私的により重要なのは

ハンガリー

チェコ

イギリス

ソ連

anond:20210210062305

何がどうデタラメなのか書けばいいのに。これだからクソオタクは。

このブコメ賞賛されている表がかなりデタラメなので修正してみた。

おすすめ作曲家は推薦する人にも推薦される人にもよるので、元のツイートから変えずに年代修正だけしてみた。年代増田の指摘が正しいものとして裏はとってない。下表の年代について、たとえば1800年代は3段で書いているが上段が前半、中段が中盤、下段が後半を示す。登場順と表記名は増田に合わせた(とはいえ国内一般的でない現地読み的な表記検索時に初心者を困らすだけだと思うが)。ワーグナーは前期後期があるとか、リストハンガリー人だがドイツオーストリア音楽とか初心者には余計な情報割愛

年代ドイツ オーストリア イタリアフランス スペインチェコ ハンガリー東欧ロシアイギリス
1600
1700バッハヘンデル
モーツァルト
1800シューベルトベートーヴェン
ワーグナーヴェルディリストヨハン・シュトラウス
ブラームス

ビゼー
サン=サーンス

ショパン
スメタナ、ドヴォジャーク


ムソルグスキー、チーコフスキー
1900マーラー
 
 
ドビュッシーラヴェル
 
 
ラフマニノフ
ハチャトリアン
ストラビンスキー
エルガーホルスト
 
 
 
 
ガーシュイン

増田の指摘で年代修正1800年代後半→中盤のような微修正も含む)

元のツイートにあり増田リストにない作曲家

間違いだらけのクラシック音楽史の表を修正してみた

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1664833

↑このブコメ賞賛されている表がかなりデタラメなので修正してみた。

とりあえず同じように1600年代から始めます。「オケゲムマショーパレストリーナジョスカン・デ・プレがないぞ」とかい意見もあるようですが、それはもっと以前だから書いていないだけです。

作曲家の「生まれた年」ではなく「主に活躍した時代」で書きます。これに文句を言っている方もおられるようですが、何故かと言うと例えば生まれは1600年代終盤だけれど音楽家として活躍し世に認められたのは1700年代になってから、といったような例があるからです。

「あれは記憶だけで描いてるから素晴らしい」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、これも資料などは参照せず、ほぼ脳内情報だけで書いております

1600年代前半

イタリア

モンテヴェルディ(みんな知ってる「私を死なせて」)、カッチーニ(「アヴェ・マリア」が有名だが実はソ連音楽学者ヴァヴィロフの贋作。真作で有名なのはアマリッリ」)

ドイツ

シュッツ(「ドイツ音楽の父」として有名)、シャインシャイト(以上3名は「ドイツ三大S」として有名)

1600年代後半

イタリア

コレッリ(「ラ・フォリア」が有名)

おフランス

リュリバロックフランスオペラ第一人者

ドイツ

パッヘルバル(「カノン」だけが有名)

イギリス

パーセルオペラ「ディドーとエネアス」が有名)

1700年代前半

イタリア

ヴィヴァルディ(「四季」の人)、アルビノーニ(「アルビノーニアダージョ」が有名だが贋作。真作で一般に有名な曲は無い)、ペルゴレージ(「スターバト・マーテル」が有名)

フランス

クープランチェンバロ曲で有名)、ラモー音楽理論とオペラ

ドイツ

バッハ名曲多数)、ヘンデル日本では「音楽の母」などと呼ばれたが女性ではない。「メサイア」「オンブラ・マイ・フ」「水上の音楽」など)、テレマン(「食卓音楽」で有名)

イギリス

ヘンデル帰化

以上1600~1750年が「バロック音楽」の時代欧州における「絶対王政」の時代とほぼ重なるという見解があります

1700年代後半

古典派音楽」の時代啓蒙思想によって理性が重視され、それが音楽に影響を及ぼした時代です。

イタリア

チマローザオペラ秘密結婚」)、パイジェッロ(「うつろな心」)、ボッケリーニ(「女ハイドン」の異名を持つが男性)、サリエリオペラ巨匠

フランス

ゴセック(日本では「ガヴォット」だけが有名)

ドイツ

グルックオペラオルフェオとエウリディーチェ」)

オーストリア

モーツァルトハイドン兄弟

1800年代序盤(晩期古典から初期ロマン派

音楽における「ロマン主義」は文学絵画よりも遅れて1800年代になってから現れます。この時期は古典派音楽からロマン派音楽への過渡期です。

イタリア

ロッシーニオペラウィリアム・テル」「セビリアの理髪師」など)、ベッリーニオペラノルマ」など)、ドニゼッティオペラ愛の妙薬」など)

ドイツ

ベートーヴェンヴェーバーオペラ魔弾の射手」など)

オーストリア

シューベルト未完成交響曲 D 579、歌曲集「冬の旅」など)

1800年代中盤(盛期ロマン派

音楽におけるロマン主義成熟し花開いた時代

ドイツ

メンデルスゾーンシューマン世代的にはワーグナーもここに入る(この時期はオペラ「リエンツィ」「タンホイザー」「ローエングリン」など)

イタリア

ヴェルディ前期(オペラマクベス」「リゴレット」)

フランス

ベルリオーズ幻想交響曲

ポーランドフランス

ショパン

ハンガリー

リスト(本人はハンガリー人を自認したが実際はドイツオーストリア人で本来ハンガリー民族要素は無いのでドイツオーストリア音楽として捉えるのが正しい)

ロシア

グリンカオペラルスランとリュドミラ」)、ダルゴムイシスキーオペラ「石の客」)

1800年代後半

1848年革命の失敗により、ヨーロッパ音楽雰囲気も暗くなって参ります

イタリア

ヴェルディ後期(オペラ椿姫」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」など)

オーストリア

ブルックナー交響曲では4番と7番、8番が有名だが初心者に聞きやすいのはむしろ1番と6番だと思う)

ドイツ

ブラームスブルッフヴァイオリン協奏曲第1番が有名)、ワーグナー後期(楽劇トリスタンとイゾルデ」「ニーベルングの指環」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」)

フランス

オッフェンバックオペレッタ天国と地獄」など。実はドイツ人)、グノー(オペラファウスト」)マスネ(オペラタイス」など。「タイス瞑想曲」)、サン=サーンス長生きしたので今年没後100年)、フランクバッハ対位法ベートーヴェンの劇的構成ワーグナー和声を融合した究極の交響曲作曲したが実はベルギー人)、フォーレ(「レクイエム」「幻想水平線」)

チェコ

スメタナ連作交響詩「我が祖国」その中の一曲が「モルダウ」)、ドヴォジャーク(「新世界交響曲」e-moll op.95 など)

ロシア

ボロディンオペライーゴリ公」、交響詩中央アジアの草原にて」、交響曲第2番など)、バラキレフ東洋幻想曲「イスラメイ」)、ムソルグスキーオペラボリス・ゴドノフ」、ピアノ組曲展覧会の絵」)、リムスキー=コルサコフ(交響組曲「シェヘラザード」など)、チーコフスキーバレエ白鳥の湖」、交響曲第6番「悲愴」など)

北欧

グリーグピアノ協奏曲、劇判音楽ペール・ギュント」、ピアノ曲「抒情小品集」、歌曲最後の春」など)

1800年代終盤から1900年代初頭(後期ロマン派印象派音楽

イタリア

プッチーニオペラトスカ(星は光りぬ)」「蝶々夫人(ある晴れた日に)」「トゥーランドット(誰も寝てはいかん)」など)、マスカーニ(オペラカヴァレリア・ルスティカーナ」映画ゴッドファーザー PART III」のあれ)、レスピーギ交響詩ローマの松」などローマ三部作

オーストリア

マーラー11曲の交響曲歌曲)、ヴォルフドイツ歌曲の頂点として非常に有名)

ドイツ

リヒャルト・シュトラウス交響詩ツァラトストラはかく語りき」〈映画2001年宇宙の旅」のあれ〉オペラサロメ」〈裸踊りで有名〉「薔薇の騎士」〈少女漫画オペラ〉)、レーガー(変奏曲と室内楽の達人。歌曲も秀逸)

フランス

ダンディ(「フランス山人の歌による交響曲」は初音ミクが歌った冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」の元ネタ)、ショーソン(「詩曲」、フランクの影響を受けた1曲だけの交響曲など)、ドビュッシーオペラペレアスとメリザンド」、交響詩「海」など)、ラヴェルバレエ音楽「ダフニスクロエ」、ピアノ協奏曲ト長調など)

チェコ

フェルステル、ヤナーチェクオペラ利口な女狐の物語」、村上春樹のせいで何故か有名になった「シンフォニエッタ」)、スーク(アスラエル交響曲などが有名)

ポーランド

シマノフスキ(「スターバト・マーテル」など)

ロシア

グラズノフロシア浪漫交響曲集大成した作曲家として有名)、ラフマニノフ無伴奏合唱曲「晩祷」で非常に有名)、スクリャービン神智学に陶酔した交響曲第4番「エクスタシー」と、「神秘和音」を駆使した妄想ピアノソナタで非常に有名)

イギリス

エルガー(「威風堂々」が有名だが真の傑作は交響曲第2番)、ディーリアス(「春始めての郭公を聴いて」は英語圏では誰もが知る名曲)、ヴォーン・ウィリアムズ(「田園交響曲(3番)」と「南極交響曲(7番)」が有名だが5番も捨て難い)

北欧

シベリウスニールセン交響曲第4番「不滅」が有名)

1900年代中盤以降(第一次大戦終了によってロマン主義印象主義が古くなった時代に真価を発揮した作曲家たち)

ドイツ

ヒンデミットオペラ画家マティス」と、その音楽をまとめた交響曲が有名)

オーストリア

シェーンベルク(無調音楽12音楽創始者。彼が最初12音楽による楽曲を完成したのが1921年なので今年はシェーンベルク12音楽100周年。まず聴くばきは「ピアノ協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「弦楽四重奏曲第3番、第4番」)、ベルク(無調音楽12音楽調性音楽的要素を取り入れて聴きやすくした人。オペラヴォツェック」「ルル」、器楽曲では「ヴァイオリン協奏曲」が有名)、ヴェーベルン12音楽の究極として有名)。以上の3人は「シン・ヴィーン楽派」として20世紀音楽を語る上で非常に重要です。

フランス

いわゆる「6人組」の時代現在でも有名なのはプーランクミヨーオネゲル交響曲第2番と第3番はカラヤン盤もあるので聴いて下さい。このほかオラトリオ火刑台上のジャンヌ・ダルク」も泣けます。実はスイス人)。現代音楽史的により重要なのはメシアン(「トゥーランガリラ交響曲」「世の終わりのための四重奏曲」「彼方の閃光オペラアッシジの聖フランチェスコ」などが非常に有名)。

ハンガリー

バルトーク、コダーイ

チェコ

マルチヌーなど

イギリス

ブリテン(とりあえず「戦争レクイエム」は聴いておくべき)

ソ連

プロコフィエフ大人は「ピーターと狼」みたいなガキ向けの曲は聴かず「交響曲第2番」の暴力的激しさにヒャッハーしましょう)、ハチャトリアン(「剣の舞」とかいう曲は子供の頃運動会で聴いたでしょうから、そんなものより「交響曲第2番」でファシストとの激しい戦いを体感しましょう)、ショスタコーヴィチ世間一般では交響曲第5番が知られていますが、高く評価されているのは4番、8番、10番、14番など偶数番号の交響曲です。真髄はオペラ弦楽四重奏曲です)

20世紀後半以降は省略。

2021-01-15

印象に残ってるコンサート 10

私の行ったコンサートの中で今でも強く印象に残ってるもの10 個挙げてみる。

2020-08-13

anond:20200813000359

音楽の泉』のテーマ曲雰囲気あっていいよな。シューベルトの『楽興の時 第 3 番』。

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

モルモット Permalink | 記事への反応(1) | 03:05

2017-06-03

鬱傾向の人が琴線に触れる作品を教えてほしい

鬱っぽい人がいたらぜひ教えてほしい。気持ちが慰められるので。

自分が見つけたのは、

シューベルトの『冬の旅から「つじ音楽師」

松本隆が不遇の日々に救われた曲と言っていたが、

本当に曲調も詩の内容も絶望的に暗くて魂が震える。

ゴッホの『ドービニーの庭』

ブログでこの作品を知った。

私だけかもしれないが、いつ見ても涙が出る。(模写じゃなくて黒猫がいる方。)

音楽絵画がいいです。立体物でも。

そういう作品に心当たりがあればぜひ教えてほしい。

追記 教えてくれてありがとうひとつひとつあたってみます

ここは良いインターネッツですね。

追記2 とりあえずパッと調べたフランツ・マルクはかなりやばいですね…泣けてきますありがとうございます

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