はてなキーワード: 自分らしさとは
女性誌によく会って、男性誌には絶対にないもの、それは読者モデルである。(自己啓発書にはあるけどね)
女性誌においてはよく読者モデルのファッション変遷がふんだんな個人スナップと思い入れと共に語られる。そこにおそらく「ライフスタイル」のコアがある。
「ライフスタイル」とは人生を時間軸で見通し、そのいつの局面にも自分らしさを出し、あまつさえそれを他人に認めてもらおうとすること、なのである。
ストレスの研究家によれば、結婚のしたてというのは、近親者の死と同じくらいかそれ以上にストレス値が高い。それをごまかすため、トレードオフになっている事柄を無理やり加算に見せる。
(就活に成功して、そのあとストレスフルな生活を送っている人程、学生にいらぬアドバイスをする現象と似てる)
合理性が何を省くかというと時間であり、感情とその成熟である。プロセスを飛ばしたことへの心理的補償はどこかでなされなければならない。
それが「自分語り」となる。「私の選択は良かった」「自分で選んだ」という物語を他人に向けて語ることになるのである。
自分語りとは、遅れを自覚するモノの自我を埋める作用があるのだ。合理化が取りこぼす微妙な遅れや気持を補うために、生き方語りはもともとあった。
「世間的にはいいこと。これが悪い理由は見つけられない」と頭で割り切っている時こそ言葉は饒舌になる。
自身に満ちていないことこそ、人に認められたい。心から満たされていることに関して、わざわざ他人の承認を取り付けようとはしない。
しかしそれは自分の選択に不安があるとき、失敗を隠すときに、脳内で流れる言語である。言い訳にも似ている。
するとあら不思議。自分が騙せる。その間にも本体の被害は拡大している。これ、なんかに似てると思ったら、大本営発表だった。
後発のものにおいては合理化が進んでいる。後発であるということは、それまでその主題を考えて来なかったということである。
遅れを一気に挽回しようとすると、いきなりかつて誰も行かなかったほど突き抜けてしまうことがある。
極めて稀で目立つ成功者は、確かに才能と同じくらい決断力にも恵まれ、運も味方につけたといえる人も多いだろう。
しかしそういう人の話を大集合させると、奇妙な統一フォーマットが出来る。それは、変化をむりやりにでも即座によかったという、極度のポジティブ・シンキングである。
婚活女子の考えは、染み付いた合理感覚と言うか、しいて言えば男のナンパも同じだけど「不遜な考えを持って、謙遜してことに当たる」ってとこじゃないでしょうか。
後発ゆえの突き抜け感、極度なポジティブシンキング、読者モデルとしての勝間和代、
効率や合理を押しすぎていろんなモノがボロボロ抜け落ちている感、ウザイまでの自分語り、ワナビーの追従。全部当てはまる。
女性ライフスタイル誌はそのまんま自己啓発書である、といったほうが良いかもしれぬ。
しかし女性ライフスタイル誌的な売り方は一時的には爆発的に売れるかもしれないが、永続性はない。
この方式は「旬な読者モデルの使い回し」によって成り立っているのであって、飽きが来たら終わりである。
勝間さんはどこまで了解の上で最近のライフスタイル誌的な本を出し続けるつもりなのか、非常に興味深い。
個人的には「結局女はキレイが勝ち」「恋愛経済学」をピークとして、徐々に勝間写真は小さくなっていることから見て、
そろそろ路線転換をするか、テレビタレントや本業に専念して著者としては目立たなくなるかもしれないと思っている。
ただ、今の芸能人本のエッセイのノリで書かれた新書シリーズはかなりいただけないので、芸人路線で行くのかビジネスマン路線で行くのかはっきりしていただきたい。
「ブログやメルマガを数か月前に始めたんですが、どうしても続かないんですよねえ…」
という人の理由は、だいたい決まっています。
本人は「面倒だから」「忙しいから」と、執筆の時間が取れないことを理由に思っているのですが、実はそうではありません。
ブログやメルマガなどネットでの情報発信になると、大抵はパソコンを使うと思いますが、
多くの人が、パソコンの前に腰を掛けて画面を見つめてから、「さあ、書くぞー!」と思い始めます。
そうすると、何回かは書けるかもしれませんが、やがて書くことがなくなってきます。
以前書いたことしか思い浮かばなくなってしまう。書くことが思い浮かばない。
だから書ける時間がかかってしまう、だから書けずに続かない、というわけです。
小説家という職業は、机に座って仕事をしているイメージがありますよね。
机に座って、原稿用紙を前にして、「よーし書くぞー」と書き始めるように思ってしまいます。
でも、作家の多くは、「さあ、書くぞー!」とペンを入れている時には、もう仕事のうちの半分以上が進んでいるのです。
それは、構成を作ったりキャラクター造成をしたり、そしてその分野に詳しい人に取材をし、その分野のいろんな文献を用意した上で書き始めるのです、
つまり、「さあ、書くぞー!」という時には既に、準備をしたものを仕上げる状態になっているわけです。
最後に作品として組み上げていく仕事なのですから、全体としての仕事はもう終盤に差し掛かっているわけです。
モノを書く時は、書く時点では終盤でなければならないのです。
何も書く準備がない状態で「さあ、書くぞー!」とやるから、そこから何も進まなくなります。
営業日報を書くのが毎日大変だという人は、日報を開いてから「日報を書く」仕事が始まるからダメなのです。
日報を開く前に、「日報を書く準備」をする、つまり日報に書くべき内容を先に整理して置いたり、資料をこまめに集めて置いたりするわけです。
手元に準備したものが多ければ多いほど、「さあ、書くぞー!」という時には、その準備したものをササッと組み立てればいいだけなのです。
どうしてもモノが書けないという人は、「書く準備」に力を入れてみましょう。
「書く準備」が万全であればあるほど、簡単に書けるようになります。
実際に書くのは、全体の終盤でいいのです。
「さあ、書くぞー!」という時点で、既に書くための仕事がどれだけ進んでいるのか、ということを考えていきましょう。
ブログ持ってるけど、ブログはある程度書くテーマ決めてソレしか書かない。
考えずに更新できるから楽といえば楽だけど、たまにつまらく感じる時がある。
ブログ持ってると、なんかしらんけど、書かないでいるのが悪いことのように思えてきちゃうからね。
読者の目も気になるからいろいろ細かいこと気にしないといけないしね。特に他人の記事のコピペとか気を使うのでしんどい。
どうせ自分の書いた記事なんて誰もずっと読んでくれたりはしてないのにさ。
増田ではかくじゅんびができたときにしかかかない。というか書きたいって思った時しか書かない。
増田はダレがよむことを期待もせず、読者の存在を勝手に想像してプレッシャーを感じることもなく、
ただ自分が書きたいと思った時、書くことを考え終えたときに書けばいい。
楽でいいです。
ただ書きたい、ってんじゃなくかきながら文章を上手にしていきたいとか、誰かに伝えて共感して欲しいとか
そういうことを考えだした人は、まぁブログとかやればいいじゃないかな。
でもブログをかく習慣が出来る前に、増田でならすのは大いにありだと思います。
まぁそのかわり、自分をストレッチする要素もないけどな。楽すぎるってのは人の成長に良くないです。
この記事みたく、本当にそのときの感情のまま支離滅裂なことを書いちゃったり、自分を堕落させる危険もあるわけでなー。
読まれる文章を書きたいって人は、増田なんか使ってないで、しんどくても早めにブログに移行していくほうがいいと思います。
まあ、増田で書くにしても、自分なりのルールを決めて書けばいいんじゃないかな。
せめて自分の一人称やら文末を統一するという初歩的なレベルから、私には想像もつかないような厳しいルールまで。
たとえば、「ラブやん」の田丸浩史いわく、一番むかつく言葉は「ま、」とか「まぁ」らしいです。
散々偉そうなことを言っといて、すぐ「俺はどうでもいいけど」みたいなポーズを取るのは、たしかに他人からしたら気に入らないかも。
私よく使ってるので、これからマイルールで、この「ま、」とか「まぁ」ってのを禁止して文章書くように意識しようかな。
私的には結構しんどいけど、他の人はどうだろう。
85→59。
2年間もくもくと努力し続けた。
やせたらなにか人生変わると思ってた。
でも今前よりも人生虚しい。
よくやせたらおしゃれに目覚めるだとか
余計な物が取れてエネルギーが高まるからなにか新しいことしたくなるとか
そういう話を聞いてたから、痩せた後のことは痩せた後で考えればいいと思ってた。
きっとその頃の俺と今の俺は別人だからって思ってた。
びっくりするくらいなんにも変わらない。
むしろ、空っぽな自分を守ってくれていた贅肉のおもりがなくなって
ホントに見た目だけはどこにでもいる普通の人だけど
逆に俺が自分らしさを感じる要素がどこにも無くなってしまった。
65kgくらいのところからうすうす感じてはいたけど目標値まではやめられなかった。
で、今この有様だ。
デブだったときに持ってた、やせればなにか変わるという希望も無くなってしまった。
やっぱり俺の人生はこれから先もなにも変わらないんだろうか。
多分、やせたら変わるのは自分の周りだったんだ。
次はどうしよう。筋肉でもつけようか。
多分何をしても、他人と友達になるっていうハードルを超えられることはないんだろうな。
やせてからすごく寂しがりになった気がする。
私は、ニューヨークに住んでいる。
だけど、胸が痛い。
涙が止まらない。
何か出来ることが無いかと、神戸まで歩いて救援物資を届けに行った。
見慣れた街、ここにあったはずの家、全部が消えていた。
消えるだけならまだしも、戦争映画に出てくるような、燃えかすになっていた。
もう少し地震が来るのが遅かったら。
私もどこかの瓦礫の下に埋もれていたのかもしれない。
そんなことが頭をよぎった。
NYに移り住んで1年も経っていない頃だった。
ふと、気付いた。
ユナイッテド93便。
あ、私が乗るはずだった飛行機・・・。
テロの一ヶ月前に、乗ろうと思ってネットでチケットを探してた。
座席予約に行くと、取られている席は黒く塗りつぶされてた。
その時で、3分の2程の席が埋まっていたのを覚えている。
私は、いつも通り窓際の席を取った。
最後に、何故かどうしても、「Buy」のボタンが押せなかった。
押そうとした時、両親の泣く顔が、ふと頭をよぎった。
何でだろう。
私にそんな力は無い。
今までも、この後も一度も無い。
ただ、その時、
「親を泣かすようなことはしたくない。」
と思って、購入を止めた。
そして、テロが起きた。
黒く塗りつぶされた、2/3くらいの座席表。
ここには、一つ一つ、人間の顔があったんだ。
その背景には、一人一人の家族や友人がいたんだ。
私が取らなかったことで、誰かあの席に座ったのかな。
そう思うと、恐かった。
誰かの背中を、地獄の谷の底に押してしまったのでは、と思った。
愛する人に会いに行く人もいただろう。
余った私の席を取った人にも、家族や愛する人は勿論いただろう。
涙と震えが止まらなかった。
目の前に飛んでいる飛行機が落ちる夢。
その度に目を覚まし、
そして、夢だったことに安心して、
深い罪悪感に襲われる。
今でも時々、飛行機の夢を見る。
ずっとずっと行けなかった。
行くと、また思い出すから、
あの黒く塗りつぶされた席達を。
見たことも、会ったことも無い顔の中に、
私の顔がそこに居たかもしれない。
「ごめんなさい。」
なんで、ごめんなさい、なんだろう。
”乗ってはいけない”と感じたあの時、
全員に伝えられる術があれば。
と、途方も無いことを考えいた。
そして、私だけが乗らなかったことすら、悔いていたのかもしれない。
私は運が良かったのだろうか。
実際に、本当にそうなのかもしれない。
だけど、私はあの飛行機には乗らず、こうして今生きている。
罪悪感を感じるという症状があると、先日初めて聞いた。
まさに私が10年間、ずっと感じてきたこの気持ち。
こういう気持ちは、普通なんだ。
その代わりに、ずっとずっと”恐怖”と”罪悪感”を持ってきた。
もしも今回の地震で、私のような気持ちを抱えている人がいるならば、
助かったあなたたち、そして私も、それでいい。
悔いることなんか、何も無い。
死ななくて良かった。
生きていて良かった。
忘れるなんて決して出来ないけれど、
罪悪感も、すぐにはどこかに行かないけれど、
・絵を描く人
・歌をうたう人
・演劇をする人
みたいな人がいるとする。つっても、上に挙げたのはあくまでも例で芸術や芸能だけに限らないけど・・・
歌を歌っているところや役を演じているところで「この瞬間が私(俺)なんだ」と言ったら
彼らのアイデンティティがそれということになる。
そういう人たちに「あなたの魅力はXXXです」って言うときに、XXXの内容が全然違うところだとしたら
それは相手への侮辱につながるんだろうか?
昔付き合った女性に「そんな所じゃなくて、もっと私のこういう見て欲しい」みたいな所を昔言われたことがあるんだよね。
でも自分は歌を歌ったり絵を描いたりそういう所に惹かれたわけじゃないんだよ、と正直に告げたら悲しそうな顔をされた。
(そもそも私は「鹿島茂(2003)『勝つための論文の書き方』(文藝春秋)」を踏まえてこの日記を描いています。)
まず、先日の日記(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」に対して
・意図に反して論文に対する、あり方や手法という点で反響してしまった
というのが全体的に見て思ったことです。
論文のあり方については多様でいいと思うので、ここでは問題としません。
前回の日記も「テーマの意義」についてでしたので、テーマを決めた時の「どこまで問題点、着眼点を絞るのか」に対する考察でしかありませんでした。(問題と目的(序文)、手法、結果と考察(本文)、今後の課題、といった論文の段取りの全ての「前提」としてテーマを取り巻く要素から「研究意義」を考察しただけです。要するに自分のテーマのみを考えるだけでは社会的な前提や研究意義にはならない可能性が高い、あえてテーマの外部にあるであろう要素から迫る方がテーマの本質は見やすい、ということでした。)
無論、このことは研究に対してのモチベーション維持に関係するだけではなく、実際に調査をする上での注意点や考察を書く上での前提になりえます。
また、よくありがちな「結局何が言いたかったのかがわからなくなる」のを防ぐ役割があると思います。
論点がブレないための論文の前提としての考察に、引用が多すぎることは、深く考えるだけ無駄でしょう。
今回、論文を書く上で問題だと思ったのは「引用の多さが恥に思える」点です。
この考え方の背景には、論文を書く上での前提が「前人未踏であることによる自分らしさ」となっているということだと思います。
なるほど、たしかに自分の考えを誰の考えも前提とせずに書けることは素晴らしいと思います。そんなことをしてのける天才になってみたいものです。
しかし、私は賢い人が論文を書くのではなく、疑問に思った人が論文を書くべきだと思います。
それに、仮に体裁を気にして、できるかぎり自分で考えた結果を主張をしたものの、「それって〇〇といってること同じだよね、どう違うの?」なんて聞かれたら(○○について知っていても、知らなくても)終了してしまうようなシビアな世界でもあります。
未踏であることは前提ではありますが、自分らしくあることに前人がいてはいけないということはないと思います。
というのも、時代によって物事のあり方は変化していくので様々な観点での検証の余地がでてくるものだからです。
例えば、「既存の手法を別の目的に転用する」というブリコラージュという手法もあります。(横井軍平さん風に言うと枯れた技術の水平思考ですね。)
「こんな考え方が認知されているんだから最新の研究である、私のテーマでも適用してみます。」は研究の観点的に未踏なのです。
ところで、内田樹は自分らしさについてこんなことを言っています。
「自分らしく」ふるまうということは、「他人の模倣をしない」ということである。ところが脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである。
階層化する社会について (内田樹の研究室)(http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php)
また、欲望とは他者の欲望の模倣であるとする「欲望の三角形」というルネ・ジラールの理論もあります。
つまり、「○○好きな自分」は別の「○○好きな誰か」たちを模倣し、複合した結果になります。
模倣したことを恥ずかしく思うよりは、模倣することによって何か一つでも自分の観点に自分だけの結論が見いだせるならば、
そのプロセスを隠すかどうかは、正直馬鹿らしい事のようにさえ思えます。
(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕を研究にして発表してよ!」http://masuda.livedoor.biz/archives/51603662.html
・読者にとっても作り手にとってもクソの役にも立たない研究ってくだらない
→あくまで、役に立つか、ではなく真剣な問いがあるかで研究は考えるべきだと思います。好きだからでは駄目です。役に立つかどうかは考え方で決まります。
・読者を楽しませようとする=読者にないものを提供するという一面は当たり前だけどラノベの萌えに限った話じゃなくすべて外部性
→セカイ系というジャンルに言及出来ていない点で不完全でした。セカイ系というジャンルの考察と定義を踏まえるとラノベの萌えも包含する範疇です。
→少しでも「女性という存在と外部性とを遊戯的につなげている文学メディア(媒介装置)」であることをまず認識して欲しかったという点で細かな引用をしました。引用があまりにも細部に及んだ場合、拡大解釈に繋がりかねないことは度外視しています。web以外で探せるならば文脈で引用ができますね。その点で浅はかな引用でした。ただし、書籍引用のデリダの読解(「ハイデガーがニーチェを読解したものの」デリダの読解)はフェミニズムという点でデリダの中で一貫していると本人が発言したと書籍内にもありましたので問題ない部分です。
・モテない男は女性性の代償行為としてラノベを読む。代償行為はラノベに限った話ではないが、じゃあラノベを取り上げるのはなぜか。どう違うのか。どう意味が、時代性が。
→まさに批判された指摘部分に焦点を当てて意義を捉え、調査すべきですね。つまりマクロな現代社会の延長としてのオタクの内面を切り分けていくべきだと思います。
村上は美大を問題にしてるが一番問題なのは小中高の美術教育だと考える
村上が批判するところの『自由主義』≒内発的なものを表に表現することこそ美術の真髄であるという思い込み
小学校はともかく中高でそういう教育を行うのは問題なのではないか
日本の美術教科書は他国と比較すると異様に薄く内容的にもかなり異なる
典型例として
自分を見つめる
とNGが出る
褒められる絵
美術教師・教科書が褒める絵のスタイルには傾向があり、顕著なのが風景画における印象派
心ひかれた場面に出会ったら絵に表してみましょう
光や影、広がりや奥行きを各画面の構成や色彩で工夫すれば、印象深く表すことができます
→印象派
日本の美術教育は印象派が美術の最先端だった頃に開発された技法が輸入され太いチャンネルになっている
その結果として印象派的な書き方を教えることが日本の美術教育の一つの王道を成している
分厚い
美術史を丁寧に教える
ルネッサンスの項では遠近法が開発され、そうした理論の注入が行われた結果それまでの中世の絵から
どのように変わっていったのか、等が論理的に
20世紀の項では
ピューリズムとかシュープレマティズムなどマニアックな流派まで結構詳細にどういう背景を持って
どのような流れで出てきたのかを触れる
半分は美術史をやり残り半分は実作
例えばエジプトの壁画、ファンアイクの絵、マチスの絵に到るまで丁寧に模写をした上で
それがどういう時代背景の元にどういう技法で描かれているかを自分なりに読み込んで
まとめる、ということを行う。
日本でも美術史をやらないわけではないが、それは日本史世界史の授業で行い
美術の授業とは切り離されている
基本的に向こうでは美術史と自分で描くこととを両輪のように組み合っせてやってる
美術というのは歴史があり、何が「美しい」と思われてきたのかは時代時代によって
かなり変わってきている。
歴史の積み重ねがそれを作り上げている。
それは宗教だったり政治であったり、そういった権力のもとで作られてきたとか
あるいはフランス革命により王政が打倒された結果、描くモチーフが王侯貴族から市民に変わっていったり
そういう技法まで含めて流れがあり
我々が何を美しいと感じるかというのは、実は自分が生きた時代に人々がそういうものを
美しいと思うように訓練されたから、そういうものを美しいと思うのだということが体得されてゆく。
ある人がなにかを美しいと思う、それは何か訓練された結果美しいと思うのではなくて、
あくまで内発的ななにものにも影響されないそういう感覚があり、その美しいと思ったその感覚、
あるいはそれを表現することそのものが美術なんだという風な、いわば洗脳を受ける結果として、
自分があるものを美しいと思うときに、例えば広告とかTVCMとかの結果としてそういうものを
美しいと思うようになっているにも関わらず、内発的に美しいと思っていると誤解している
ところが発生しかねない。
疲れたんでここまで
以下、日本の美術教育のこのような特殊性のルーツはなんのか、等々
またこういった『自由主義』が美術教育の専門家ら自身にも問題だと認識されていること、
にもかかわらずこーなってんのか、日本美術教育がどのように位置づけられてるからなのか、等々。
更にかつて現在の美術界同様な状態だった日本の建築界が磯崎新の仕掛けによりどのように
変わってゆき、現在のような5~6人のワールドクラスを輩出するまでに変わっていったか、等々
村上は磯崎が建築界で起こしたことを美術界で起こせるのか、等々
と続く
とにかく根拠が実感だけの村上さんよりはるかに具体的で面白かったんで、こんな糞エントリじゃなく
さて、
膨大に仕事が溜まっているが、
やっぱり書くことはやめられない。
いつ死ぬかわからないので、
記録しておく。
これってさあ、基本的にどっちかっていうと、
あんまりイイって感じじゃないよね。
だけど僕にとってはマジ基本的な思想で、
成長するにはもってこいのこと。
たとえば、すごい人がいると、
僕とどう違うのかを考える。
読んでる本、習慣などなど
あと、話し方とかから、ざっくりとした考え方や思想、
行動様式などを考える。
何が成功要因で、何がその人間を突き動かす要因になっているのかを常に考える。
で、今なにやってて、これからどうしたいのかを考える。
ってな感じで、ぼくと比較する。
この人に追いつくにはどうすればいいのかなー。
いまこの人は○○歳だから、あと○○年後には、
僕はこの人のレベルにたどりついていないとな。
○○やって、○○と○○を○○くらいやらないとだめだな。
とりあえず○○しよう!
ってな感じでざっくりとした筋道ができる。
これを何十人もやってると、
重複してくるところがいっぱい出てくるので、
それのプライオリティーを高く設定し、リソースを集中していく。
ってなことをやる。
ここで大切なことは、
修正条件として、時代のちがい、生まれた環境育った環境の違い、
思想信条のちがい、方向性の違いなどをちゃんと考慮しておくことだ。
全て負けているからといって、その人の模倣に尽力してちゃダメ。
オリジナリティがなくなるし、そんなんじゃうまくいかないからね。
あの人には勝っているとか、この人には負けているとか、
ただ常に成長したいと考えているだけだ。
これらをちょこっと抽象度を高めると、
一気に収斂し、凝縮しオリジナリティを加味し、質を高める。
やってみてあわんかったら、原因を把握し、修正するか破棄するか考える。
良かったらα版にして、完全に組み込む。
その過程でも常に改善、修正、調整は行われるよ。
人は不完全な生き物で、完全な把握もできないし、完全な方向性すらわからないからね。
つまり、人というものは矛盾した生き物であって、
だんだんとストックもされ熟成していって個人のその時期の意思とか判断が生じる。
だからね、複雑でいろいろだから変わるのは当然。
でも、たった一つの原理原則、ポリシーはあんま変えちゃいかんけど。
まあそれも20代では抽象的でいいと思う。
まだ社会のことをそんなにわかっとらんからね。
僕も今は適当に日々修正しながら、インプットアウトプットを繰り返している。
その中で今までのものとは全く異なった属性のモノを手に入れることが在る。
これはけっこううれしい。
レベルアップの源泉になる可能性が秘めているからだ。
けっこうあぶないものもあるけど、その辺は臨機応変に対処すること。
だからね、まずはベータ版で導入することが大切。
ってな感じで、生きていく。
んでもって時間ができると、
哲学者、政治家、文学者、慈善家、科学者、企業家、文明学・人類学者…
たんまりといるわけでかなり勉強になる。
一度、3年くらい集中して勉強したいが
日々のタスクを考えるとまあ無理だろう。
僕の頭の中はほとんど仮説で構成されている。
それを実証したいと思うが、
そのためにはかなりのリソースが必要なので
現実的でない。
よって、これをやったら大体の仮説に、ある一定以上の確実性を
与えることができる、というようにもっていこうと考えている。
いま渋谷にいるのです。
おわり☆
新しいipodtouchが発売される。値段も安い。
だから3世代を買ってみた。(つっこむな)
twitterはiシリーズのサービスだからi関係のつぶやきが多い多い。
そして、皆が皆そろって絶賛してやがる。
そしてtouchをいやいやながら買ってみたのだが
スマホやiphoneなんて世間では少数派かもしれない。だけれど、twitter上では多数派。
きっと、少数派きどっていたら、多数派になっていましたよとかそんな感じ。
後、そういった皆がいいと言っているものに、自分が染まる事に対する嫌悪。
自分は人と違うものを持ちたかった(iphoneは世間では少数派だけれども)というこれまでこだわりとおしてきた事に対する諦めに似た何か。
ああ、これで、自分もネットの中のカジェッターな人と横一列かとかいう失望感。
結局、最適化されるんだよ。皆がユニクロ着て、ipadとか持つことが、効率いいわけだから。
こういう事に対して自分は気持ち悪いって感じる。
iシリーズが自分になじめない理由は、自分らしさを消して大衆を持ってきているところだ(カスタマイズできるけれど足りない)
何か、人の持ち物を触っているようなそんな感じ。
ガラケーだと機種とキャリアがかぶる事ってあまりないんだけれど、iシリーズは色とかケースでくらいしか差別化できないしiphone,ipodtouch,ipadあたりになってくると、1,2色しかないわけだからなおさらそれは感じる。
結局「自分って何だろう」を深く見つめる
自分って何だろう、なんて考えたことなかった。
「自分らしさなんてほとんどの人には大して備わっていなくて、自分なんて追求するだけ時間の無駄。それよりも様式を身につけ、形式を学べ」と、誰かに教わったのかどこかで拾ってきたのかわからないけれども
物忘れが激しくて、未来の予定も過去の出来事もあっという間に忘れるので、日記つけようかなと以前から考えておりました(予定についてはスケジュール帳でなんとかしています)。
このどれかが原因、あるいは複合してると思う。
そーいうめんどくささがない人が羨ましいといっても、残念ながら増田は面倒くさい人なんだから仕方ないわけで。
ジェンダー違和は自分の個性だから「女性らしく」「なんとからしく」以前に自分らしさを追求することで付き合っていくしかない。もしそれが社会的に認められないならコスプレだと思って割り切るか、逆に認められる場所に逃げ場をつくるかどっちか。フェミニズム的思想はもうちょっと社会的なもんだけども。戦いのために偽装するか、みとめてくれる仲間と連帯するか、そのどっちかあるいはどっちも。無批判なのが羨ましいとかいってたらポカリとやられそうだけどね。
嫉妬ってことは自分らしさを否定する女性らしい人も女性らしさに疑問を感じてるってことか。
なら結局同類じゃん。裏返しなだけ。
いわゆる死生観の話。
ずっと昔から多くの人が考えてきた。いまだに答えは出ない。
http://anond.hatelabo.jp/20100523025636 が秀逸だったので
"魂"は肉体が生む「状態」でしかないからだ。障子に映る影絵のように。
「人間死んだら終わり。ただ無になるだけ。あなたの親も、恋人も、あなた自身も」
そう言われて心穏やかにいられる人は少ない。
「死んで肉体は滅びても、魂は死後の世界へ行くのだ。決して無くなりはしない」
そう言って、人々を安心させるために。
ところが近代以降の社会は、日常生活から死を追放した。( 死生学 - Wikipedia )
そのため「生きること」や「死ぬこと」について考える機会が減ってしまい、
身近な人や自分自身の死に直面して初めて、大きく悩んでしまう人がいる。
だから「生きること」や「死ぬこと」について
分かりやすくて安心できる「考え方」は相変わらず必要とされている。
昔ながらの「血縁」を中心とした「考え方」は、
生物の基本に忠実なので、実感を伴っていて分かりやすい。
「人は死んでも子孫達の血の中に存在し続ける」という考え方だ。
一方、「人格」に重きをおいて
「人生」を「生きている間に何を考え、何を遺したか」と定義する考え方もある。
こちらの方が一人ひとりの「自分らしさ」を出しやすい反面、
「何を遺すか」は一人ひとりが考えなければいけない。
「人は死んでも他者の記憶の中に存在し続ける」という考え方だ。
もともと答えはない。多くの人の共感を得たミームが後世に残る。
ただそれだけだ。
"魂"は継がぬ、というなら構わない。 が、そうでないならやるべきことはあるはずだろう。生涯や生とはなにか、と問うまえに。
「生涯や生とはなにかを問う」ことは、
「魂を継ぐ」にはどうすれば良いかを考えるための、第一歩なんじゃないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20090916220018
たくさんのコメント、トラバありがとうございます。それを読んで考えたことをいくつか。
まず、この表現に関しては語弊がありました。ごめんなさい。
そして「修行しない戦士」たち。「セルゲームなんて怖くていけない」、「天下一武道会なんてめんどくさい」なんて言葉で、あなたたちも人を傷つけていることがあるんです。だって、世の中には本気で、修行をしないと外も歩けない(神経症的な意味で)人がいるのだから。修行をしなくても、強くならなくてもそのままでいられるのなら、それだけで恵まれていることもあるんだよ、とわたしは思います。
これだけだと、完全にこっちが勝手に傷ついてるだけですよね……ごめんなさい。飾らないZ戦士の中にもいろいろな思いがあるのだとわかっています。個人的な体験として、もうすこし直接的な言葉でそういう戦士から傷つけられた(「亀仙人って変身にだまされるんだね」とか「ヤジロベーはそんなに頑張れないわー」とか)ことがあったので書いてしまった、というのもあるなと反省してます。これは私怨でしかなかったですね。
いいわけになってしまいそうですが、わたしは「地球人(笑)の気持ちもわかってくれ」と単に言いたかっただけじゃありません(もちろん、そういう自己弁護的なところも多分にあるのですが)。
コメントのなかに「気にするな」とか「戦闘力競争から降りればいい」みたいな言葉があったのですが、戦闘力を上げる方向にしろ、そこから降りるにしろ、自分の中の戦士性を自覚して、それに無理に適応しようとしたり、抗おうとしたりする時点で、本当はどちらも間違いだし、負けなんです。自分は自分のままでいい。戦士としてどうだ、なんてことは、できれば自分の価値観の中から消えたほうがいい。戦士であることと自分らしさが一致する人はいいけど、それが一致しない時点で、どんな形であれ戦士は業を背負うんです。フュージョンとか、ポタラみたいな新しいカテゴリは、その二項対立から逃れようとする戦士の願望のあらわれじゃないかなって思ってます。つまり、元エントリにあったナメック星人も、わたしも、メンタル的にはまったく同じです(そういうコメントをつけてくださったかたもいて、ありがたい限りです)。
おそらくサイヤ人だと思うんですが、わたしのエントリを読んで「自分も同じだ」と感じてくださった方もいたみたいで、書いてよかったな、と思いました。
自分がZ戦士であることを自覚して、その戦士性と自分自身の折り合いをうまくつけられない人は、ギニュー特戦隊(笑)だろうと、Z戦士だろうと、鶴仙流だろうと、オトコスキー(天下一武道会で戦ってる友だちのなかには、女性性を過度に忌避したり、意識しすぎた反動でそういう道を選んだ子もいます)だろうと、全員同じ問題を抱えてます。元エントリを読んで、その問題を「Z戦士」や「亀仙流」だけのものとして認識してる人が多いのかな?と思ったので、先のようなエントリになりました。
わたしはいま、そこを見詰めるのにスカウターはどれくらい役に立ってくれるんだろう、と疑問に思いながらも、勉強中です。サイヤ人はもちろん、地球人の方もいろいろな可能性を一緒に考えませんか?って感じです。
最後に、すごく心に響いて、うれしかったコメントをふたつ。
y_arim オレに殺されるべきなんだ━━━━━━━━!!!!
florentine「サタンの実力について、当時一世を風靡したボブ・サップよりちょっと弱い程度」『ドラゴンボール フォーエバー 人造人間編~魔人ブウ編』より
こういう話が、もっといろんなところで議論されていけばいいなと思っています。
コメントのなかに「気にするな」とか「女子力競争から降りればいい」みたいな言葉があったのですが、女子力を上げる方向にしろ、そこから降りるにしろ、自分の中の女性性を自覚して、それに無理に適応しようとしたり、抗おうとしたりする時点で、本当はどちらも間違いだし、負けなんです。自分は自分のままでいい。女としてどうだ、なんてことは、できれば自分の価値観の中から消えたほうがいい。女であることと自分らしさが一致する人はいいけど、それが一致しない時点で、どんな形であれ女は業を背負うんです。
いいたいことが分かるようで分からない。
女性性を自覚して、それに抗おうとするのは間違いだと、自分は自分のままでいい、というなら別にそう生きればいいだけではないの?
女性性を自覚って具体的にどういうこと?女であることと自分らしさが一致するとかしないってどういうことなの??
それは例えば、自分が女性であることに気付いたけど、世間一般が言うようないわゆる「女性が好みそうなもの」を好きでない、という自分らしさをも発見してしまって、折り合いがつかないってことなの?
でもそれだったら「女性ですけど、べつにそれ好きじゃありません。」といえばいいだけの話じゃね?いや、勿論、それによって「えー、なんで。女の子なのに」とかキモい発言かます奴はいるだろうけど……それはまた別の話じゃない?社会がまだついてこれてない、未成熟だというだけで、それは自分自身の問題ではない。
どっちかというと、だから「自分の中の業」とか「折り合いがつかない」じゃなくて、単に他者の差別的目線に困っているという話なんじゃないのかと。自分の問題じゃなくてそういうろくでもない他者がいるっていう問題じゃないの?そんでもってそれは女だけの話じゃなく男でもそうだし、同性愛の問題などでもそうだし、顔面至上主義や恋愛至上主義の問題もあるし
無理矢理自分自身の問題にしてるからごちゃごちゃするんじゃないかな?もっと問題はシンプルな気がする。要するに前エントリを見たけど、女子力を「あげちゃう」のは、世間の「男はこういうもの、女はこういうもの」っていう差別的目線を内面化しちゃっててそこから逃れられないって話でしょ。でも自分でもそれがおかしい、生き辛いってことは気付いてて、その怒りを上手く発散できていないという印象を受けたんだが……
───アタシの名前はRuby。パーザに傷を負った軽量言語。ゆるふわ仕様で動的型付けの愛されランゲージ♪
アタシがつるんでる友達はどうとでも書けるPerl、学校にナイショで
エンタープライズで働いてるPython。訳あって不良グループの一員になってるPHP。
友達がいてもやっぱり学校はタイクツ。今日もPHPとちょっとしたことで口喧嘩になった。
LL同士だとこんなこともあるからストレスが溜まるよね☆そんな時アタシはselfでmodule_evalすることにしている。
がんばった自分へのご褒美ってやつ?自分らしさの演出とも言うかな!
「あームカツク」・・。そんなことをつぶやきながらしつこいRails案件を軽くあしらう。
「カノジョー、ちょっとSNS作ってくれない?」どいつもこいつも同じようなセリフしか言わない。
Railsの男はカッコイイけどなんか薄っぺらくてキライだ。もっと等身大のアタシを見て欲しい。
「すいません・・。」・・・またか、とYARVなアタシは思った。シカトするつもりだったけど、
チラっとRailsな男の顔を見た。
「・・!!」
・・・チガウ・・・今までの男とはなにかが決定的に違う。スピリチュアルな感覚がアタシのカラダを
駆け巡った・・。「・・(カッコイイ・・!!・・これって運命・・?)」
男は_whyだった。連れていかれてCampingされた。「キャーやめて!」Hpricotをきめた。
その後、スティグリッツやクルーグマンが新自由主義批判を行いますが、ここからは日本に焦点を絞って考えようと思います。
日本人は元々「ワーカーホリック」と呼ばれるほど異常に働いてきましたが、
なぜかと言うと日本は経済成長のおかげで、ほぼ非自発的失業がない完全雇用に近い状況にあり、
「働きすぎによって他者の雇用機会を奪う」社会への悪影響があまり認知されてこなかったことが大きな要因のように思います。
しかしその中でも若い人たちの間で、特にバブル期頃から
「自分らしさ」とか「がんばれば夢はかなう」といったような主張をan・anやHanako系の雑誌が行い
フロムAが「フリーター」なる造語をつくり「アルバイトでも正社員でもない第三の働き方」とポジティブに扱うなど、
「脱・社蓄的働き方」志向は芽生えてきていたように思います。(香山リカ調べ)
しかし残念なことに「社蓄」の皆様は自分たちの働き方を否定するような彼らの生き方を
「いつまでも夢見てるんじゃない」、「早く大人になれ」などと非難し、
彼らの生活が困窮したときにも我らが日本人が大好きな「自己責任」論を浴びせました。
しかしバブル崩壊の大波が彼ら正社員たちにも大きなダメージを与えました。
企業は正社員をコスト削減の名の下に非正規労働者へと変えていき、労働者の平均賃金は上昇しなくなりました。
ここでケインズの主張に立ち戻ってみると
「むしろ賃金の引き下げが総有効需要の構成要素であるところの消費と投資を減少させ、雇用状況をかえって悪化させる」
という負のスパイラルが日本の不況をさらに悪化させた側面は否めないと思います。
ケインズは賃金引下げが総需要を引き上げる効果を持つためには資本の限界効率が上昇する必要がある、としていたため、
フリードマンらにが将来にわたる所得が消費を決定付けるという仮説の下では総需要は増加する、と反駁されていました。
しかしながら、フリードマンらの「恒常的に得られる所得」というのはすなわち身分の安定がもたらすものです。
したがって所得が不安定化したばあい、消費が収縮し、貯蓄傾向が増し、投資が減少するのはありうべき事象でしょう。
こうなると負のスパイラルから、一度正社員の身分から脱落した人間、または正社員になれなかった人間は
なかなか正社員の身分に戻ることができません。
本来は供給過剰に陥った社会の需要を喚起して、失業者を正規労働者へと回収していかなければならないのに、
経済が成長していかない状況になると、企業は新たな投資(人材含む)を行うことに躊躇し、
利益を出すためにコストをカットし、ますます投資と消費を減衰させました。
企業はバブルの教訓から、労働者雇用の硬直性が不況時に大きなダメージをもたらすことを警戒し、
オリックスの宮内氏に代表されるような企業側の圧力から、政府は1999年、2004年に構造改革の名の下に
労働者派遣法を改正し、対象業種を拡大し、製造業においても派遣が認められるようになりました。
2008年の金融危機以降、本来労働者の味方であるべき労働組合は
正社員の雇用を守るので精一杯、と派遣切りに対して何の行動もしてきませんでした。
これははっきり言って組合と使用者の「共同犯罪」だと思います。
2008年の10月以降の失業者のうち、
正規雇用者は僅かに6000人、非正規雇用者は12万人以上といわれています。
労働組合がこのような事態を甘受していたのは明らかです。
このようにバブル崩壊以降、日本の労働組合は自らの権利を守るために、
他者を犠牲にする、という戦略の上に使用者側と交渉をしてきました。
この状態こそが、ブラックに勤める正規雇用者を我慢させる要因だと思うのです。
正規雇用者(労働組合を構成)は自分たちが誰かの犠牲の上に守られていることを自覚しているため、
自分がその犠牲者側に回ることを極度に恐れているのではないでしょうか?
しかし正規雇用者がそのように思うのはあまりに当然で、非正規労働者は実際にその労働に対して十分に報われていません。
ここで注意したいのは非正規雇用者にとっての正規雇用者も、正規雇用者にとっての非正規雇用者も
憎むべき敵ではなく共に働く仲間である
という当たり前の事実です。
これを憎んでしまうと、非正規雇用者は正規雇用者の権利を奪おうとするし、
正規雇用者はますます非正規雇用者との関係をとろうとはしなくなるでしょう。
非正規労働者が「不当な扱いを使用者から受けている」わけです。
そのことによる労働ダンピングによって正規雇用者もまた苦しんでいます。
非常に当たり前のことですが、労働組合の力とは組織率、数の力です。
非正規雇用者と正規雇用者は対立するのではなく、共闘すべき存在なはずです。
ここまでを整理しますと
①日本は戦後ずっと右肩上がりで成長してきたために、失業問題に大きく悩まされる時期があまりなかった
②それがゆえに社蓄の害が単に個人の人生観に回収され、社会的問題とならなかった
③バブル後の増加した非正規雇用者の悲惨な状況を見て(または未必に協力して創出し)失業への強い恐怖を抱くようになった
④失業への強い恐怖から、不当労働行為を甘んじて受ける(法律上は勝てても経済体力的に持たないという理屈もあるだろう)
という流れかと思います。
提言編に続きます