どうあるべきという話を聞きすぎて、どうありたいかを忘れてしまう今日この頃です。
しかし誰かの意見を絶対なものであるかのように錯覚してしまうのは自分を見失う第一歩であるように思うのです。
何が悪いことであるのか、ということは、いい大人なのである程度わかっているはずなのです。
ところが、インターネットやテレビでは、平気で一線を越える輩を目撃します。
差別を正当化したり、特定の人の利益のために経済についての嘘を言ったり、誰かを頭が悪いと見下したり、バズるために誤解を生み出したりすることです。
そういう蛇たちの情報に影響されすぎて慣れてしまうと、自分が信じている善というものが混乱してしまいます。
私はインターネットが趣味なのですが、情報に触れることから遠ざかった方がいいのかもしれません。
コンピュータに触るのは仕事だけにする。コンピュータに触らずにできる趣味を作る。
コンピュータは汎用性があり、文書閲覧、ゲーム、動画・映画、コミュニケーション、小説、お絵描き・絵画の鑑賞、勉強、こういうものはコンピュータがあればできてしまいます。
しかし汎用的だからこそ、人につけ込む隙があり、搾取の道具にされています。
私はコンピュータを使ってこの文章を書いていますが、もしかすると誰とも共有せず、紙のノートに書くべきなのかもしれません。
社会からの目を意識すると、自分とは異なる何かが手を動かし始めるのです。
普段なら、趣味の検索をコンピュータを用いて行うところですが、それではダメなのです。
自分の頭で考えて、必要ならば本屋や図書館で本を探して、アナログに立ち返ってみること。
目的のための最短経路を一発で掘り当てるのは、もうつまらないのです。
ゆっくりと旅路を楽しんだり苦しむ余裕こそが重要です。コスパタイパを意識して映画を倍速再生するなんていうのは令和時代の病気です。
仕事では最適化やコスパが重要かもしれませんが、人生全体に対してそれを適用する必要はないのです。
そして「楽しみを最大化」なんていうのもまた令和の病気の一つでしょう。
ぼーっとする無意義な時間があってもいいし、楽しめないと思ったTVシリーズや本を最後まで見てもいいのです。
私は子供部屋おじさんなので、家の家事をもっと手伝うことができます。
風呂場の掃除と洗濯物の取り込みしかしていませんでしたが、自分が使った食器を洗うぐらいのことはできるでしょう。
家族と過ごす時間を増やすこともできますし、昼休みの時間に散歩に出かけることもできます。あるいは朝冷水シャワーを浴びてリフレッシュすることも。
「めんどくさい」などと言っているから、スパイスが足りなくなるのです。
あらゆることをコンピュータ上でやろうとするのも、最短経路を一発で掘り当てようとするのも、結局はめんどくさいという怠け病です。